本報告書は、戦国時代に島津氏の有力な分家である薩州島津家を率いた六代当主、島津義虎(しまづ よしとら)の生涯を、宗家との関係性、武将としての功績、領主としての実像、そして一門における複雑な立場から多角的に解明することを目的とする。彼の生涯を追うことは、戦国大名島津氏の権力構造と九州統一への道のりを、単一的な視点ではなく、より複眼的に理解する上で極めて重要である。
島津氏の分家「薩州家」は、室町時代の享徳二年(1453年)、島津宗家九代当主・忠国の弟である用久が、薩摩国北部の要衝である出水、阿久根、野田、高尾野を領して創始されたことに始まる 1 。その本拠地である出水は、肥後国との国境に位置し、軍事的・政治的に極めて重要な拠点であった 1 。このため薩州家は、単なる分家という立場に留まらず、国境防衛と対外勢力との緩衝地帯という役割を担う、半ば独立した領主としての性格を帯びていた 1 。この地理的・政治的特殊性は、後の宗家との関係に複雑な影響を及ぼすことになる。
島津義虎は、まさにこの薩州家が宗家と激しく対立した時代の後に家督を継ぎ、政略結婚を通じて両家の和解を象徴する存在となった人物である 7 。彼の生涯は、島津氏が長年の内紛を収束させ、三州統一から九州制覇へと外部へ勢力を拡大していく、まさに歴史の転換点に位置している。したがって、彼の個人的な物語は、島津氏の統一事業という大きな歴史的文脈と分かち難く結びついている。
島津義虎の生涯を丹念に追跡することは、戦国大名家における「内なる敵」をいかにして統制し、時には「内なる味方」へと転換させていくかという、権力統合のプロセスそのものを解き明かすことに繋がる。彼の存在なくして、島津氏の急速な勢力拡大は、より困難な道のりを辿ったであろう。本報告書では、その実像に迫る。
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
出典 |
1536年 |
天文5年 |
5月1日、薩州家五代当主・島津実久の嫡男として誕生。幼名は初千代。 |
9 |
1539年 |
天文8年 |
父・実久が紫原の合戦などで宗家の島津貴久に敗北。 |
10 |
1552年頃 |
天文21年頃 |
宗家当主・島津義久の長女・於平と婚姻。 |
7 |
1553年 |
天文22年 |
父・実久が死去し、薩州家六代当主となる。 |
13 |
1563年 |
永禄6年 |
上洛し、将軍・足利義輝に拝謁。「義」の字を賜る。 |
9 |
1565年 |
永禄8年 |
叔父・島津忠兼に命じ長島を攻略。同年、その忠兼を謀殺する。 |
9 |
1567年 |
永禄10年 |
肥後相良氏に備え、羽月城を守備する。 |
9 |
1574年 |
天正2年 |
島津家久より謀叛の「雑説」を流される。 |
15 |
1577年 |
天正5年 |
出水の愛宕神社に「三十六歌仙絵扁額」を奉納。 |
16 |
1581年 |
天正9年 |
相良氏が籠る水俣城攻めに大将の一人として従軍。 |
3 |
1584年 |
天正12年 |
龍造寺氏との沖田畷の戦いに従軍し、軍功を挙げる。 |
9 |
1585年 |
天正13年 |
7月25日、死去。享年50。 |
9 |
1593年 |
文禄2年 |
子・忠辰が文禄の役での軍令違反により改易され、薩州家は断絶。 |
2 |
島津義虎の生涯を理解するためには、まず彼の父・島津実久(さねひさ)の時代に遡り、薩州家と宗家との間に存在した深刻な対立の歴史を把握する必要がある。この対立こそが、義虎のその後の立場と行動を規定する原点となったからである。
当時、島津氏の宗家(奥州家)を継いだ十四代当主・島津勝久は、その権力基盤が脆弱であった。そこに目をつけたのが、薩摩国出水を本拠とする分家・薩州家の五代当主、島津実久であった 13 。実久の姉は勝久の正室であり、その縁故を背景に実久は宗家の家督継承に野心を見せ、勝久に圧力をかけた 13 。この実久の圧迫に耐えかねた勝久は、対抗策として別の有力分家である相州家の島津貴久(たかひさ)を養子に迎え、家督を譲るという挙に出た 13 。
この結果、島津氏は実久を擁立する勢力と、貴久とその父・忠良(ただよし)を支持する勢力に二分され、十数年にわたる内乱状態へと突入した 11 。この抗争は、単なる分家の反乱ではなく、島津氏の正統な後継者の座を巡る、血で血を洗う内戦であった。
この抗争の結末については、複数の見解が存在する。伝統的な史観では、天文八年(1539年)の加世田の戦いや市来の戦い、紫原の合戦などで忠良・貴久父子が決定的な勝利を収め、敗れた実久は本拠地である出水に退き、隠棲を余儀なくされたとされる 10 。しかし、近年の研究では、この見方に修正が加えられている。実久は天文四年(1535年)から六年(1537年)にかけて、反勝久派の重臣たちに擁立される形で、一時的に宗家当主・守護職として島津氏の領国を掌握していた時期が存在したことが指摘されている 13 。さらに、紫原の合戦で敗れた後も、実久が死去するまで忠良・貴久父子に明確に帰順したことを示す記録はなく、最後まで宗家の当主として対立し続けたとする説が有力視されつつある 13 。
この事実は、薩州家の権威と実力が、宗家に匹敵するほど強大であったことを物語っている。そして何よりも重要なのは、父・実久が「宗家の簒奪者」、あるいは「最後まで抵抗した反逆者」であったという事実である。この重い歴史的背景が、その跡を継いだ義虎の立場に、生涯にわたって複雑な影を落とすことになったのである。
父・実久が宗家と激しい対立を繰り広げる中、島津義虎は天文五年(1536年)5月1日に、その嫡男として生を受けた 9 。幼名を初千代という。注目すべきは、彼が室町幕府の将軍家から直接偏諱を賜っている点である。まず十二代将軍・足利義晴から一字を賜り「晴久(はるひさ)」と名乗り、その後、十三代将軍・足利義輝から重ねて「義」の字を拝領し、「義俊(よしとし)」(または義利)と改名している 9 。これは、宗家とは独立した形で中央の権威と結びつき、自家の正当性を主張しようとする薩州家の外交戦略の表れであり、宗家への強い対抗意識と独立志向がうかがえる。
しかし、天文二十二年(1553年)に父・実久が死去し、義虎が家督を継ぐと、薩州家の対宗家政策は大きな転換点を迎える。義虎は父とは対照的に、島津貴久・義久父子が率いる宗家への恭順の姿勢を明確に示したのである 9 。
この歴史的な和解を決定的なものにしたのが、宗家十六代当主・島津義久の長女・於平(おひら)との婚姻であった 7 。この縁組は、単なる結婚以上の、極めて高度な政治的意味合いを持っていた。義久にとって、この婚姻は長年の内紛の元凶であった最大最強の分家・薩州家を、一門の中核に組み込むための巧みな政略であった。一方、義虎にとっては、この婚姻によって「反逆者の息子」という汚名から「宗家当主の婿」という輝かしい地位へと立場を転換させ、薩州家の存続を確固たるものにするための最善の策であった。こうして、両家の長きにわたる対立は、血縁という最も強固な絆によって終止符が打たれたのである。
この関係性の変化は、以下の図に集約される。かつて覇権を争った両家が、義虎の代の融和を経て、最終的には薩州家の血が宗家の本流に合流し、江戸時代の薩摩藩を支える存在となっていくという劇的な歴史の変遷が見て取れる。
世代 |
宗家(奥州家・相州家) |
関係性 |
薩州島津家 |
父の代 |
島津貴久(十五代当主) |
家督を巡る全面対決 |
島津実久(五代当主) |
義虎の代 |
島津義久(十六代当主) |
↓ |
↓ |
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娘・於平 |
婚姻による和解・臣従 |
島津義虎 (六代当主) |
子の代 |
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↓ |
↓ |
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島津忠辰(七代当主) |
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└(文禄の役で改易・断絶) |
孫の代 |
島津家久(忠恒)(初代藩主) |
↓ |
↓ |
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側室・慶安夫人 (光久生母) |
血脈の合流 |
島津忠清(義虎三男) |
曾孫の代 |
島津光久(二代藩主) |
← |
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宗家との和解を果たした島津義虎は、島津氏の九州統一事業において、一人の武将として、また出水を治める領主として、重要な役割を担っていく。彼の活動は軍事面に留まらず、領国経営や文化活動など多岐にわたった。
島津義虎の軍歴は、その本拠地である出水の地理的条件を反映し、主に肥後・肥前方面に集中している。彼は島津宗家にとって、まさに「北の守りの要」であった。
永禄十年(1567年)より、義虎は肥後の戦国大名・相良氏との最前線である羽月城の守備を担った 8 。これは、彼が対肥後方面における軍事責任者として、宗家から全幅の信頼を置かれていたことを示している。天正九年(1581年)、島津軍が相良氏の拠点である水俣城に大軍を差し向けた際には、義虎も大将の一人として出陣した 3 。諸記録によれば、この戦いで島津軍の先鋒を務め、相良義陽を降伏に追い込む上で重要な役割を果たしたとされている。
さらに、島津氏の九州制覇において画期的な勝利となった天正十二年(1584年)の沖田畷の戦いにおいても、義虎は従軍し軍功を挙げたと記録されている 9 。この戦いは、肥前の龍造寺隆信率いる数万の大軍を、島津家久が率いるわずか数千の兵で破り、隆信を討ち取ったことで知られる。
しかし、この戦いにおける義虎の具体的な役割については、史料に乏しい。『北肥戦記』などの軍記物や、信頼性の高い『上井覚兼日記』などの記録においても、この戦いの主役はあくまで総大将の島津家久であり、その巧みな戦術や個々の武将の活躍が詳述される一方で、義虎の部隊がどのように布陣し、どのような働きをしたかについての詳細な記述は見当たらない 25 。
このことから、義虎の役割は、派手な突撃や奇襲といったものではなく、より堅実なものであったと推測される。一門の重鎮として、また肥後方面の地理に明るい将として、本拠地の出水衆を中心とする部隊を率いて家久の指揮下で参陣し、戦線の維持や側面支援といった重要な任務を担っていた可能性が高い。彼の軍功は、総大将である家久の功績に包括される形で記録されたと考えられる。彼の軍事活動は、島津氏の九州統一戦略において、北方の防衛と攻略を担うという、極めて重要な戦略的配置にあったことの証左である。
島津義虎は、武将としての顔だけでなく、出水3万石余りを治める領主として、独自の領国経営や文化活動を展開した多面的な人物であった。
彼の所領は、本拠地の出水に加え、高城、水引、山野などに及び、その禄高は3万1905石に達した 9 。これは島津一門の中でも屈指の石高であり、彼の政治的な地位の高さを示している。注目すべきは、彼が宗家の意向とは別に、独自の領土拡大政策を行っていた点である。永禄八年(1565年)、義虎は叔父の島津忠兼に命じ、当時肥後国に属していた天草の長島・獅子島を攻略させ、これを薩州家の領有とした 9 。これは、彼が宗家に従属しつつも、独立した領主としての意識を強く持っていたことを示唆している。
その独立性は、外交や交易の面でも発揮された。永禄十年(1567年)、義虎は出水の感応寺の住職・茂林和尚を文船使者として琉球王国に派遣している。その帰路には、琉球の中山王からソテツが贈られたという記録が残っている 1 。出水は古くから南島交易の窓口の一つであった可能性があり 28 、義虎が琉球と直接的な交流を持っていたことは、薩州家が宗家の公式ルートとは別に、独自の交易ネットワークを維持し、経済的基盤を強化していたことを物語る。
さらに、義虎は文化的なパトロンとしての一面も持っていた。天正五年(1577年)、彼は出水の愛宕神社に「三十六歌仙絵扁額」を奉納している 16 。この扁額は、和歌の書を当時薩摩に滞在していた関白・近衛前久が揮毫し、絵は中央の狩野派の絵師が手掛けたとされる、極めて文化的水準の高い芸術作品である 3 。この奉納は、義虎が単なる武辺者ではなく、京都の最高級の文化を理解し、それを享受するだけの財力と人脈(特に近衛前久との個人的な繋がり)を持っていた、洗練された文化人であったことを証明している。また、こうした文化事業は、領主としての権威を高め、領内の人心を掌握する上でも重要な意味を持っていた。
このように、島津義虎は宗家への「忠実な武将」という側面と、独立した領主として「独自の領国経営を行う大名」という二つの顔を併せ持っていた。この二面性こそが、彼の生涯を特徴づけるものであり、時に宗家との間に緊張関係を生む根源ともなったのである。
宗家との和解を果たし、その九州統一事業に貢献した義虎であったが、島津一門における彼の立場は常に安泰なものではなかった。かつての敵対関係の記憶は根深く、特に宗家の兄弟たちとの間には、複雑な権力力学と緊張関係が存在した。
宗家への恭順を示した後も、義虎が常に謀叛の疑いの目に晒されていたことを示す生々しい記録が、島津家老中・上井覚兼(うわいかくけん)の日記『上井覚兼日記』に残されている。
天正二年(1574年)、覚兼の日記には、義虎に「雑説」、すなわち謀叛の噂が立っていることが記されている 15 。この噂に動揺した薩州家は、弁明のために鹿児島へ使者を派遣した。使者の口から語られたのは、この噂が島津宗家の当主・義久の弟である島津家久から流されたものであるという驚くべき内容であった。家久が義虎に対し、「早く(家久の本拠である)串木野に来て申し開きをせよ。さもなくば身の破滅だ」と脅迫したというのである 15 。
この事件の背景には、義虎と東郷氏との領地争いがあったとされ、家久が東郷氏に加担する形で義虎を牽制しようとしたと見られている 15 。家久自身は噂を流したことを否定しているが、宗家当主の義久は、弟の謀略である可能性を承知の上で、この「雑説」を巧みに利用した節がある。研究者の間では、義久がこの機に乗じて、依然として大きな力を持つ薩州家を牽制し、宗家の権威を改めて知らしめようとしたのではないかと指摘されている 15 。
この「雑説」事件は、婚姻によって一応の和解が成立した後も、宗家(特に野心的な家久)と薩州家の間に、いかに根深い緊張関係が続いていたかを示す貴重な史料である。義久(政治・外交)、義弘(軍事)、そして家久(謀略・実戦)という兄弟間の役割分担の中で、かつての最大のライバルであった義虎は、特に家久にとって功名を立てる上での警戒すべき対象であり、その力を削ぐための格好の標的とされたのである。義虎は、宗家に従いながらも、常にその一挙手一投足に神経を尖らせ、弁明に奔走しなければならない、極めて不安定な立場に置かれていたことがわかる。
宗家からの絶え間ない圧力に晒される一方で、義虎は自らの領内においては、冷徹な権力者としての一面を見せている。その象徴が、叔父である島津忠兼(ただかね、近久とも)の謀殺事件である。
永禄八年(1565年)、義虎は、讒言を信じ、叔父であり野田城主として勢力を持っていた忠兼を出水城に呼び出し、謀殺した 14 。皮肉なことに、忠兼は謀殺される直前、義虎の命令を受けて長島・獅子島を攻略し、大きな軍功を立てたばかりであった 14 。
後世の編纂物である『三国名勝図会』には、この事件に関する凄惨な逸話が記されている。それによれば、義虎に殺害されそうになった忠兼は自害し、その際に自らの腸を掴んで近くの山茶花の枝に投げつけ、その無念を晴らそうとしたという。その後、忠兼の祟りによって領内に疫病や飢饉が流行したため、義虎は自らの非を認めて忠兼の霊を祀る神社を建立したと伝えられている 32 。
この事件の表向きの理由は「讒言」とされているが、その具体的な内容は不明である。しかし、忠兼が野田城主として独自の勢力を持ち 27 、さらに長島攻略という大きな軍功を立てたことが、逆に義虎の警戒心を煽った可能性は高い。宗家との関係で常に圧力を感じていた義虎が、自らの足元を固めるため、少しでも脅威となりうる身内を排除したという、戦国武将らしい非情な政治的決断であったと解釈できる。
この叔父謀殺事件は、宗家との関係性という「外的圧力」が、薩州家という「内部社会」に歪みを生じさせた結果と見ることもできる。義虎は、宗家からの圧力に対処すると同時に、自家の分裂を防ぎ、宗家に対して一枚岩の体制を示すという、二重の課題を抱えていた。そのプレッシャーが、このような内部の悲劇を引き起こす一因となったのかもしれない。
宗家との緊張関係を乗り越え、島津氏の武将として数々の戦功を立てた島津義虎であったが、彼の死後、苦心の末に存続させた薩州家は、予期せぬ形で悲劇的な終焉を迎えることになる。
天正十三年(1585年)7月25日、島津義虎は50年の生涯を閉じた 9 。その墓所は、薩州家の菩提寺であった出水の龍光寺跡に、歴代当主と共に現存している 2 。
義虎の生涯は、父の代からの宗家との深刻な対立を、自らの婚姻と忠誠によって融和へと導き、島津氏の九州統一戦において北方の守りとして不可欠な役割を果たしたものであった。その一方で、一門内の複雑な力学の中で苦心し、時には非情な決断も下す、多面的で苦悩に満ちたものであったと言える。
彼の死後、薩州家の家督は子の島津忠辰(ただとき)が継いだ 9 。史料によっては、忠辰の生母は宗家から嫁いだ正室・於平ではなく、側室(入来院氏の娘)であったとされており、この出自が宗家との関係において微妙な影響を与えた可能性も否定できない 9 。
父・義虎が苦心して築き上げた宗家との協調関係は、息子・忠辰の代にあっけなく崩壊する。文禄二年(1593年)に始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)において、忠辰は島津一門の運命を揺るがす行動に出た。
彼は、宗家の島津義弘の指揮下に入ることを良しとせず、秀吉に対して直接、別陣での出陣を許可するよう直訴したのである 17 。この背景には、宗家と同格であるという薩州家としての強い自負心と、秀吉という新たな中央権力の実態に対する認識の甘さがあったと考えられる 12 。当然ながらこの要求は却下され、忠辰はやむなく義弘と共に玄界灘を渡ったものの、病と称して朝鮮への上陸を拒否した。この一連の軍令違反は秀吉の逆鱗に触れ、薩州家は改易、すなわち領地没収という最も厳しい処分を下された 17 。忠辰自身は肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられた後、朝鮮の加徳島の陣中にて28歳の若さで病死し、ここに七代続いた薩州島津家は事実上断絶した 12 。
しかし、薩州島津家の物語はここで終わりではなかった。義虎の血脈は、実に意外な形で宗家の歴史に深く刻み込まれることになる。
改易後、義虎の妻であった於平と、忠辰の兄弟姉妹らは、小西行長、関ヶ原の戦いの後は加藤清正に預けられるという流転の身の上となったが、最終的には於平の父である島津義久の粘り強い交渉によって薩摩への帰国を果たした 12 。そして、義虎の三男・忠清の娘(後の慶安夫人)が、薩摩藩初代藩主となる島津家久(忠恒)の側室となり、二代藩主・島津光久を生んだのである 23 。
これは、歴史の皮肉であり、また究極の和解とも言える結末であった。薩州家という政治的・軍事的な組織体は秀吉によって解体されたが、その「血」は、かつてのライバルであった島津宗家そのものに取り込まれ、江戸時代を通じて薩摩藩を治める新たな統治体の中で生き続けた。義虎がその生涯をかけて目指した宗家との融和は、彼の死後、孫の世代において、最も劇的な形で結実したのである。
島津義虎は、島津義久や義弘といった著名な武将たちの影に隠れ、これまで十分に光が当てられてきたとは言い難い。しかし、本報告書で詳述したように、彼の生涯を多角的に分析することで、その歴史的重要性が浮かび上がってくる。
第一に、軍事的貢献の再評価である。彼は単なる一武将ではなく、島津氏の九州統一戦略において、肥後・肥前方面の防衛と攻略を担う「北の要」として、不可欠な戦略的役割を果たした。彼の存在がなければ、島津氏の北進はより多くの困難に直面したであろう。
第二に、政治的役割の再評価である。彼は、父の代から続く宗家との深刻な内部対立を、自らの婚姻と恭順によって収束させ、島津氏が内紛から外征へとそのエネルギーを転換させる上で、決定的な役割を担った。彼の生涯は、戦国大名家が内部統合を達成していくプロセスの一つの成功例として評価できる。
第三に、文化的側面の再評価である。琉球との独自の交流や、近衛前久らを巻き込んだ「三十六歌仙絵扁額」の奉納は、彼が地方の武辺者というイメージに留まらず、中央の高度な文化や海外との交易にも通じた、複合的な視野を持つ領主であったことを示している。
総じて、島津義虎は、宗家との相克と融和という時代の奔流の中で、武将、領主、そして一門の重鎮として、複雑で多面的な役割を生き抜いた人物である。薩州家そのものは彼の死後、息子・忠辰の代に悲劇的な終焉を迎えるが、彼の血脈が薩摩藩主家へと受け継がれたという事実は、彼の生涯が島津氏の長大な歴史に与えた影響の大きさを何よりも雄弁に物語っている。島津義虎は、島津氏が戦国大名として飛躍する時代の「影の功労者」として、今こそ再評価されるべきである。