戦国時代の九州を席巻した島津氏。その輝かしい歴史の陰には、数多の家臣たちの忠誠と犠牲があった。中でも、川上久朗(かわかみ ひさあき)は、彗星の如く現れ、若くして散った悲劇の俊英として、ひときわ異彩を放つ存在である。
彼の生涯は、わずか三十二年余りであったが、その内容は驚くほど濃密である。諸史料において「知勇兼備」と評され 1 、その才能は主君・島津義久をして、弱冠十七、八歳で家老職に抜擢させ、さらには守護代という領国の実質的な統治者の地位にまで推挙させるほどであった 3 。この異例の抜擢は、彼の非凡さを示すと同時に、当時の島津家の政権構想における彼の重要性を物語っている。
さらに、島津家中興の祖と仰がれる島津忠良(日新斎)が、島津家の未来を託すに足る四人の重臣として、その名を自身の祈りの場である「看経所」の柱に刻んだ一人にも数えられている 4 。これは、彼が単なる有能な武将というだけでなく、島津家の将来を担うべき人物として、家中の最高権威からも認められていたことの証左に他ならない。
しかし、その輝かしい未来は、大口城を巡る戦いにおいて、突如として断たれる。主君の弟・島津義弘の窮地を救うべく、身を挺して奮戦し、その戦傷がもとで夭折したのである 6 。彼の壮絶な死は、島津武士の忠義の鑑として語り継がれると共に、後の「鬼島津」の猛将・義弘の精神的成長に決定的な影響を与えたとも考えられている 8 。
本報告書は、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、この若き俊英、川上久朗の生涯を徹底的に調査し、その人物像、功績、そして島津家の歴史の中で果たした役割を多角的に解明することを目的とする。
【表1:川上久朗 略年表】
西暦(和暦) |
年齢(数え年) |
主な出来事 |
関連人物 |
1536年(天文5年)または1537年(天文6年) |
1歳 |
川上忠克の次男として誕生 1 。 |
川上忠克 |
1553年(天文22年) |
17歳または18歳 |
主君・島津義久より家老職に抜擢され、谷山の地頭に任命される 4 。 |
島津義久、島津貴久 |
1554年(天文23年)頃 |
18歳または19歳 |
義久より守護代に推挙されるが、重臣の反対により実現せず 3 。 |
島津義久 |
1555年(弘治元年) |
19歳または20歳 |
蒲生氏攻略戦に従軍し、武功を挙げる 6 。 |
島津貴久 |
時期不詳(天文22年以降) |
- |
近衛稙家より、島津貴久・義久の任官斡旋に関する書状を受け取る 12 。 |
近衛稙家 |
1561年(永禄4年) |
25歳または26歳 |
肝付兼続との廻城合戦で奮戦する 6 。 |
島津貴久、肝付兼続 |
時期不詳(永禄9年以降) |
- |
島津忠良(日新斎)により、島津家に不可欠な四人の一人として「看経所」に名を記される 4 。 |
島津忠良(日新斎) |
1568年(永禄11年)1月20日 |
32歳または33歳 |
大口城攻めの一環である堂ヶ崎の戦いで、島津義弘の窮地を救うべく奮戦し、十三ヶ所の深手を負う 6 。 |
島津義弘、菱刈氏、相良氏 |
1568年(永禄11年)2月3日 |
32歳または33歳 |
鹿児島へ帰還後、戦傷がもとで死去。戒名は随岳良順居士。墓所は鹿児島市の福昌寺 6 。 |
- |
川上久朗の人物像を理解する上で、彼が属した川上氏の出自と家格を把握することは不可欠である。薩摩の川上氏は、島津宗家5代当主・島津貞久の庶長子である川上頼久を始祖とする、島津一門の中でも由緒ある武家であった 13 。この出自は、川上氏が単なる被官ではなく、島津宗家と血縁を共有する高い家格を有していたことを意味し、久朗のキャリア形成における重要な基盤となった。
久朗が属したのは、この川上氏の嫡流から分かれた庶流の一派である。具体的には、川上氏5代当主・兼久の三男であった忠塞(ただふさ)を祖とする家系であった 14 。この忠塞流は、久朗のみならず、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取る大功を挙げた川上忠堅や、関ヶ原の退き口で奮戦した「小返しの五本鑓」に数えられる川上忠兄・久智・久林など、島津家の歴史に名を刻む数多の猛将を輩出している 13 。この事実は、忠塞流川上氏が、一族を挙げて島津家の武力の中核を担う、精強な戦闘集団であったことを示唆している。久朗は、このような武門の誉れ高い一族に生を受けたのである。
久朗の生涯を語る上で、父・川上忠克(ただかつ)の経歴は極めて重要な意味を持つ。忠克は当初、島津宗家と薩摩の覇権を争っていた分家、薩州島津家の当主・島津実久に仕えていた。その背景には、忠克の次女が実久の継室として嫁いでいたという政治的な婚姻関係があった 13 。
しかし、天文8年(1539年)、島津実久が宗家の島津貴久との抗争に敗れて没落すると、忠克の立場は一変する。彼は貴久に降伏し、その処分として一時は甑島(こしきじま)へ流刑に処されるという厳しい時期を過ごした。だが、その3年後には罪を赦され、最終的には島津家の「家老」という要職にまで復帰を遂げるという、劇的な経歴の持ち主であった 13 。
この父・忠克の複雑な経歴こそが、息子・久朗の異例の抜擢を理解する鍵となる。島津貴久・義久親子にとって、旧敵対勢力から帰順した有力一族の、しかも才能溢れる若者である久朗を破格の待遇で登用することは、単なる能力評価に留まらない、高度な政治的意図を含んだ戦略であった。これは、いまだ島津氏に服従しない他の国人領主たちに対し、「一度は敵対した者であっても、忠誠を誓えば過去を問わず、その才能に応じて重用される」という強力な政治的メッセージを発信するものであった。つまり、久朗の存在そのものが、武力だけでなく巧みな懐柔策によって領国支配を盤石にしようとする、島津家の新しい統治体制の象徴として機能していたのである。
天文22年(1553年)、川上久朗はわずか17歳(一説に数えで18歳)にして、主君・島津義久によって家老職に抜擢され、同時に谷山(現在の鹿児島市谷山地区)の地頭に任命された 4 。
元服(成人)して間もない若者が、国政の中枢を担う家老という重職に就くことは、当時の武家社会の常識からすればまさに前代未聞のことであった 17 。この破格の待遇は、久朗の傑出した才能を物語ると同時に、若き主君・義久が彼に寄せていた絶大な信頼と期待の大きさを示している。この主君からの寵愛ぶりは、二人の間に衆道(男色)の関係があったのではないかと周囲が噂するほどであったという逸話も残されており 4 、彼らの個人的な関係の深さが、公的な人事にも色濃く反映されていた可能性を窺わせる。
家老職への任命に続き、義久はさらに久朗を薩摩国の「守護代」に推挙しようとした 3 。守護代とは、名目上の統治者である守護に代わって、領国の行政権と軍事権を実質的に掌握する、極めて重要な役職である 19 。もし実現していれば、18歳の久朗は薩摩国における最高実力者の一人となるはずであった。
この「幻の守護代」人事は、単に久朗個人への評価を示すだけでなく、当時の島津家の権力構造そのものを浮き彫りにする。そこには、旧来の家格や年功序列といった慣習にとらわれず、自身が信頼する若き才能を政権の中核に据え、より迅速で柔軟な統治機構を構築しようとする若き当主・義久の強い意志が見て取れる。久朗は、その新しい政権構想の要となるべき、理想的な人材だったのである。
しかし、この前代未聞の人事案は、さすがに譜代の重臣たちの強い反対に遭い、実現には至らなかった 4 。この反対は、単なる若者への嫉妬というよりも、長年の功績や家格といった秩序を根底から揺るがしかねない急進的な改革への、合理的な抵抗であったと考えられる。この一件は、久朗の評価を何ら貶めるものではなく、むしろ彼が義久の政権構想においていかに中心的な存在であったかを逆説的に証明している。同時に、若き義久に理想だけでは家臣団を統率できないという統治の現実を教え、久朗の立場を家中において「当主の寵臣」として、良くも悪くも特別なものとして際立たせる結果となった。
守護代就任は叶わなかったものの、久朗は島津家の最高意思決定機関の一員である「老中」として、その短い生涯を終えるまで領国統治の実務を担い続けた 6 。そして、彼の「知」の側面を最も雄弁に物語るのが、中央政界との繋がりである。
薩摩藩の編纂史料である『旧記雑録後編』には、天文22年(1553年)3月13日付で、時の関白太政大臣・近衛稙家(このえ たねいえ)から、久朗(川上左近将監)に宛てられた書状が収められている 12 。その内容は、稙家が島津貴久の「修理大夫」任官と、その子・義久(当時は又三郎忠良)の官途拝領を取り計らったことを通知するものであった。
この書状が持つ意味は極めて大きい。戦国大名が自らの支配の正当性を内外に示すため、朝廷から授与される官位は重要な政治的ツールであった 19 。このような家の威信に関わる重要案件の報告が、当主本人ではなく、家臣である久朗に直接宛てられているという事実は、彼がこの任官交渉における島津家側の実務責任者、すなわち朝廷との外交交渉の窓口であったことを強く示唆している。当時まだ20歳にも満たない若者が、島津家の将来を左右するほどの高度な外交任務を任されていたのである。これは、彼が単なる武勇の士ではなく、義久からその政治能力と知性を深く信頼された、真の「知勇兼備」の将であったことの決定的な証拠と言えるだろう。彼の官位である「左近将監」も、こうした朝廷との緊密な関係の中で得られたものと推察される 6 。
川上久朗の評価を決定づけるもう一つの重要な逸話が、島津家中興の祖・島津忠良(日新斎)との関わりである。当代随一の教育者としても知られた忠良は、加世田に隠居した後、今後の島津家の安泰と発展を願い、特に重要と見込んだ四人の家臣の名を、自身の祈りの場である「看経所」の柱に記したと伝えられている 4 。
「看経所」とは、忠良が経典を黙読(看経)し、仏前に祈りを捧げるための神聖な空間であった 4 。その柱に名を刻むという行為は、単なる表彰を超え、忠良が仏の加護と共に島津家の未来を託した、極めて重い象徴的行為であった。
この栄誉に浴したのは、川上久朗のほか、「鬼武蔵」の異名で恐れられた猛将・新納忠元、そして長年島津氏と大隅の覇権を争った有力国人から帰順した肝付兼盛らであった 4 。この人選には、忠良の深い洞察と、後継者たちへの政治的遺言とも言うべき意図が込められていた。
すなわち、この四人の選定は、島津家が将来にわたって繁栄するために必要不可欠な家臣の「類型」を示したものであったと考えられる。新納忠元が、誰もが認める武功者として組織の根幹たる「武」を象徴するならば、肝付兼盛は、かつての敵対勢力をも包容し、組織を拡大していく「統合」の重要性を象徴していた。
その中で川上久朗が象徴したのは、若き「知」と「未来への投資」であった。忠良は、旧来の年功序列や家格に固執せず、若くとも傑出した才能を持つ者を見出し、大胆に登用する「革新性」と「未来志向」の重要性を、久朗の選定を通じて孫の義久をはじめとする後継者たちに無言の内に示そうとしたのである。「看経所」の四人は、忠良が描いた理想の国家(島津家)を支える四本の柱であり、久朗はその中でも特に、島津家の未来を担う知性として、極めて高く評価されていたことがわかる。
若くして家老や老中として政務に携わった久朗であったが、その本分は戦場にあった。彼は「知」の側面だけでなく、「勇」においても卓越した武将であり、島津氏による薩摩・大隅・日向の三州統一戦において、常に第一線で活躍した。
史料には、弘治元年(1555年)の蒲生氏攻略戦や、永禄4年(1561年)の大隅の有力国人・肝付兼続との廻城合戦などで、久朗が「奮戦している」と記録されている 6 。これらの戦いは、島津氏が薩摩から大隅へと勢力を拡大していく上で極めて重要な戦役であり、その重要な局面で常に久朗が最前線にいたという事実は、彼の武将としての能力と、主君からの信頼の厚さを物語っている。
個々の戦いにおける具体的な活躍の詳細は、残念ながら現存する史料からは詳らかにできない。しかし、彼が太刀、長刀、鎌槍といった多様な武器を自在に使いこなした剛の者であったという評価 6 と合わせ考えれば、彼が戦場においてオールラウンドな武人として、その才能を遺憾なく発揮していたことは想像に難くない。彼の存在は、島津軍の攻撃力と柔軟性を高める上で、欠かせないものであっただろう。
永禄年間、三州統一の総仕上げに入った島津氏の前に、大きな壁として立ちはだかったのが、薩摩国北部に強固な地盤を築く菱刈氏と、それを支援する肥後国(熊本県)の大名・相良氏であった 7 。その拠点となった大口城は、薩摩・大隅・肥後の三国が接する国境地帯に位置する、極めて重要な戦略拠点であった。この城を巡る攻防は、島津氏の覇業を左右する激戦となった。
永禄11年(1568年)1月、この大口城攻めの一環として、後に「鬼島津」と恐れられる猛将・島津義弘が、三百余りという寡兵を率いて、四、五千と号する菱刈・相良連合軍に攻撃を仕掛けるという事件が起こった。後に「堂ヶ崎の戦い」と呼ばれるこの戦闘は、義弘の血気にはやる判断が招いた、惨憺たる敗北であった 7 。
『薩藩旧記雑録』などの史料によれば、この無謀な突撃に際し、知勇兼備の将である久朗は義弘を諫めたが、聞き入れられなかったという 6 。戦いが始まると、兵力で圧倒的に劣る島津軍はたちまち劣勢に陥り、総崩れとなって義弘自身も討死寸前の窮地に立たされた。
この絶体絶命の状況で、久朗は殿(しんがり)となって義弘を救うために獅子奮迅の働きを見せる。文字通り自らの身を盾とし、「一命を投げ出して闘い」 7 、全身に「七ヶ所」 27 、あるいは「十三ヶ所」 6 もの深手を負いながらも、敵の猛追を食い止め、主君の退路を確保したのである。その壮絶な戦いぶりは、島津武士の忠義の鑑として、後世に語り継がれることとなった。
満身創痍となりながらも主君を救った久朗は、鹿児島へ帰還した。しかし、その傷はあまりにも深く、同年2月3日、ついに息を引き取った。享年32(または数えで33歳) 6 。島津家の未来を担うと嘱望された俊英の、あまりにも早すぎる死であった。
川上久朗の死は、島津義弘の武将としての生涯において、最も重大な転換点の一つとなった。自らの未熟で血気にはやる判断が、深く信頼し、将来を嘱望された有能な家臣の犠牲を招いたという痛烈な事実は、義弘に単なる個人的な武勇(勇)と、将として慎むべき無謀な突撃(無謀)との違いを、骨身に染みて教えたであろう。この悲劇的な経験こそが、後の「鬼島津」と称される彼の卓越した用兵思想の根底に、計算された大胆さと、部下の命を預かる将としての重い責任感を植え付けたと考えられる。ゲーム作品などで伝えられる「無謀は捨てても、勇は捨てるな」という言葉は、まさにこの経験から得られた教訓そのものとして、彼の変化を象徴している 8 。
兄である主君・義久が、久朗の死の報に動揺せず、敗戦の全責任は自分にあると述べ、弟・義弘を労ったという逸話も 9 、義弘に大将たる者の器量とは何かを深く考えさせる契機となったに違いない。川上久朗の死は、義弘が個人的な武勇に頼る一人の若武者から、大局を見据えて兵を動かす知勇兼備の「大将」へと脱皮する上で、不可欠な触媒の役割を果たしたのである。
川上久朗の死後、その嫡子である川上久辰(ひさたつ)は、父の功績に報いる形で島津家から手厚く遇された。久辰は父の跡を継いで谷山の地頭となり、主君・島津義久の側近会議のメンバーである寄合衆を務め、文禄・慶長の役にも従軍するなど、重臣として活躍した 29 。
久朗の家系は、江戸時代に入ってもその家名を保ち続けた。「式部家」と称された久朗の家は、237石を知行する寄合衆の家格として、代々家老などの要職を歴任したという記録が残っている 14 。明治元年に作成された武鑑(大名や旗本の職員録)にも「川上式部」の名が見えることから 30 、その家格と家名が幕末まで途絶えることなく続いていたことがわかる。久朗の忠節と功績は、一族の誉れとして後世まで永く記憶されていたのである。
川上久朗の墓所は、島津家代々の菩提寺であった鹿児島市の玉龍山福昌寺にあるとされている 6 。福昌寺は、応永元年(1394年)に建立されて以来、南九州における最大級の寺院として栄えたが、明治時代初期の激しい廃仏毀釈によって建物は破壊され、廃寺となった 31 。
しかし、その広大な墓地は「鹿児島島津家墓所」として現在も大切に保存されており、令和2年(2020年)には国の史跡に指定されている 32 。この歴史的な地には、島津家の歴代当主やその家族、そして多くの重臣たちが眠っている。久朗個人の墓石が今なお現存するかは、現存する史料からは断定できないものの、彼が忠誠を誓った主君や同僚たちと共に、この地に眠っていることは確かである。
川上久朗の生涯は、戦国の世の厳しさと儚さを凝縮したものであった。わずか32年の生涯であったが、彼が島津家の歴史に与えた影響は計り知れない。
彼の異例の抜擢は、家格や旧怨にとらわれず才能を重視する島津家の革新的な人材登用策を象徴していた。彼の知勇兼備の働きは、政務と軍事の両面から島津氏の三州統一に大きく貢献した。そして、その壮絶な死は、島津武士の忠義の鑑として後世に語り継がれると共に、名将・島津義弘を精神的に大きく成長させるための、かけがえのない礎となった。
川上久朗。その存在は、短いながらも鮮烈な光を放ち、島津家の歴史に消えることのない確かな遺産を残したのである。