最終更新日 2025-06-17

川崎祐長

「川崎祐長」の画像

戦国時代における日向伊東氏の重臣 川崎祐長の生涯と歴史的役割

はじめに:川崎祐長という人物

本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、日向伊東氏に仕えた武将、川崎祐長(かわさき すけなが)の生涯を詳細かつ徹底的に調査し、その人物像と歴史的役割を明らかにすることを目的とする。伊東氏の興隆から衰退、そして再興に至る激動の時代において、川崎祐長がいかに主家を支え、その命運に深く関わったかを、現存する史料に基づき多角的に考察する。

「川崎」と「河崎」の表記について

本人物の氏名には「川崎祐長」と「河崎祐長」の二つの表記が存在する。例えば、川崎祐長に関する主要な情報源の一つである「河崎私記」では「河崎」の表記が用いられている一方で、現代の歴史記述や一部の資料では「川崎」と記されることも多い 1 。これらは同一人物を指す表記の揺れであり、当時の記録や写本における漢字の慣用、あるいは地域的な表記の違いが反映されている可能性がある。本報告書では、一般的に広く用いられる「川崎祐長」を主として使用するが、史料からの引用や特定の文脈においては、原表記である「河崎」を用いることで、歴史的記述の厳密性を保つ。

日向伊東氏における川崎祐長の位置づけと重要性

川崎祐長は、日向伊東氏の主要な家臣団の一員としてその名を連ねる 3 。特に、伊東氏の政治運営においては「主軸」と評されるほどの重鎮であり、その政治手腕は伊東氏の家臣団の中でも際立っていたことが窺える 4 。伊東氏が北の大友氏、南の島津氏という強大な勢力に挟まれながらも、日向国において一定の勢力を維持し、時には領域を拡大できた背景には、川崎祐長のような有能な家臣の存在が不可欠であったと考えられる。彼の存在は、主家の存続と再興に極めて重要な影響を与えた。

川崎祐長の生い立ちと初期の活動

生没年に関する考察

川崎祐長の生年については、現在のところ明確な史料から確認することはできない。これは、戦国時代の家臣クラスの人物に関する詳細な個人記録が限られていることの一般的な傾向と一致する。しかし、没年については元和元年(1615年)とされており、これにより彼が戦国時代から江戸時代初期にかけての激動期を生きた武将であったことが判明する 1 。生年が不明であることは、彼の初期の活動や若年期の詳細を追う上での史料的限界を示すものの、没年が明確であることから、彼の最晩年の活動や伊東氏の再興期における役割に焦点を当てた考察が可能となる。

伊東氏家臣としての登場

川崎祐長がいつ頃から伊東氏に仕え始めたかについては、提供された資料からは明確な記述は見当たらない。しかし、永禄11年(1568年)には既に目井城主を務めていることから、この頃には既に伊東氏の重臣として、重要な役割を担う立場にあったことが推測される 5 。その地位から、彼が伊東氏に長年仕え、その能力を認められていたことが示唆される。

「河崎私記」に見る家系と背景

川崎氏の家譜である「河崎私記」は、川崎駿河守祐長(川崎祐長)から書き起こされたものであり、元禄8年(1695年)に川崎宮内祐栄によって編纂されたとされる 2 。この史料は、祐長が川崎氏の「中興」、すなわち家を再興し、その地位を大きく向上させた人物として位置づけられていることを明確に示している。

「河崎私記」はまた、川崎祐長が伊東祐兵(いとう すけはる)の夫人(松寿院)の生母である福園殿の弟にあたるという、伊東宗家との間に深い血縁関係があったことを示している 2 。この血縁関係は、川崎祐長が単なる有能な家臣に留まらず、伊東氏内部で極めて信頼され、重要な地位を占めていた背景を説明するものである。戦国時代において、大名家と重臣の結びつきは、単なる主従関係だけでなく、婚姻や血縁によって強化されることが多く、川崎祐長のケースもその典型例と言える。彼の「中興」という評価は、伊東氏の苦境を支え、再興に貢献した彼の功績が、そのまま自身の家格向上に繋がった結果として捉えることができる。

以下に、川崎氏と伊東氏宗家との関係性を整理した系譜を示す。

伊東氏主要家臣団における川崎氏の系譜(祐長と権助を中心に)

人物名

続柄・関係性

備考

川崎祐長(駿河守)

-

川崎氏の中興の祖、「河崎私記」に記される 2

伊東祐兵夫人(松寿院)の生母(福園殿)の弟

伊東宗家との血縁関係 2

川崎権助祐為

川崎祐長の嫡子

伊東義賢の室(妻)の兄 6

伊東平右衛門祐氏

川崎祐長の長男(伊東氏へ養子)

後に徳川幕府旗本家となる 8

川崎大学

川崎祐長の弟(家督継承者)

権助とは別の弟が家督を相続 8

川崎宮内祐栄

川崎氏の一族

元禄8年(1695年)に「河崎私記」を編纂 2

この系譜は、川崎祐長が伊東氏の重臣としてだけでなく、宗家と血縁で結ばれた存在であったことを明確に示している。このような深い関係性が、彼が伊東氏の政治的支柱となり、苦難の時期にも主君を支え続けた忠節の根源となったと考えられる。

伊東氏の重臣としての活躍

目井城主としての役割と戦略的重要性

永禄11年(1568年)、伊東氏が島津氏から飫肥城を奪取した後、川崎駿河守(祐長)が目井城主となり、伊東氏四十八城の一つに数えられた 5 。目井城は、日向国の目井津の南方にそびえる山に築かれた山城であり、飫肥城の支城として、その防衛線の一部を担う重要な拠点であった 5 。この城は、築城年代は天文年間(1532年〜1555年)に島津忠広によって築かれたとされ、その後も島津氏と伊東氏の間で度々争奪戦が繰り広げられた経緯がある 5 。目井城の守備を祐長が任されたことは、彼が伊東氏から軍事的にも高く評価されていた証左である。

伊東義祐の豊後退去と苦難の時代における忠節

天正5年(1577年)、伊東氏と大友氏の連合軍が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いの後、伊東義祐は日向国を追われ、豊後国へ退去した 9 。この極めて困難な時期において、川崎祐長は目井城主という立場でありながら、外ノ浦から乗船して主君に追随し、豊後へ赴いた 7 。これは、主家が最大の危機に瀕した際に、自らの所領を捨ててまで主君に付き従った、彼の並々ならぬ忠節を示す行動である。

その後、義祐らが豊後を脱し、道後や姫路といった各地を流浪する間も、川崎祐長とその子である権助(祐為)は常に主君を支え続けた 4 。この流浪の期間は、伊東氏にとって最も貧窮し、苦しい時期であったが、川崎父子の献身的な支えが、主家の存続に大きく貢献した。

主君を支えた逸話の検証(酒や織物に関する記述)

ユーザーから提供された情報には、川崎祐長が「貧窮を助けるために酒や織物を作り売った」という逸話が記されていた。調査の結果、川崎父子が流浪中に「濁酒(どぶろく)を作って一行の貧窮を救った」という具体的な記述が確認された 7 。この逸話は、川崎祐長の忠節が単なる軍事的な貢献に留まらず、主君の生活基盤を支えるという、極めて個人的かつ献身的なレベルにまで及んでいたことを示すものである。これは、彼が「糟糠の妻に匹敵」と評されるほどの忠義者であったという評価を裏付けるものである 4 。一方で、「織物」に関する直接的な記述は、今回の調査資料からは確認できなかった。このことは、伝承の一部が史料的裏付けを欠く可能性、あるいは今回の調査資料には含まれていない別の史料に記述がある可能性を示唆している。戦国時代の家臣の忠節は、戦場での働きだけでなく、主君の窮状をいかに支えるかという側面も重要であり、この逸話は、川崎祐長が単なる武将ではなく、実務能力や生活の知恵も兼ね備えた人物であったことを物語る。

主家復帰後の清武城主就任

天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐で島津氏が降伏した後、伊東祐兵は旧領の一部である曾井・清武を与えられ、大名として復帰を果たした。この主家復帰の際、川崎祐長は清武城主となった 7 。これは、祐長が伊東氏再興における功労者として、再び重要な地位に就き、その功績が認められたことを示している。

酒谷城と子・川崎権助(祐為)の城主就任

伊東祐兵には翌年には飫肥も与えられ、その支配体制が確立されていった。この時期、酒谷城には川崎権助(祐為)が、後に山田宗昌(匡徳)と共に城主を務めた 12 。酒谷城もまた、文明年間(1469年〜1487年)に島津氏によって築かれ、伊東氏と島津氏の間で度々争奪された戦略的に重要な山城であった 13 。権助もまた、父祐長と共に伊東氏の再興に貢献し、その功績によって重要な城の城主を任されたことがわかる 7

晩年と川崎氏のその後

文禄・慶長の役における役割

文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が始まった際、川崎祐長は既に高齢であったため、日向に留まり、留守を預かる役割を担った。代わりに、子の権助(祐為)が朝鮮に渡り、軍役を務めた 1 。これは、祐長が第一線での軍事行動からは退き、後方支援や内政に専念していたことを示唆する。

稲津重政による讒言と一時出奔、そして帰参

伊東氏が飫肥藩主として安定した支配を確立した後も、家臣団内部での権力闘争や対立は存在した。飫肥藩内で稲津重政が強い影響力を持つようになると、川崎祐長は讒言(ざんげん)によって一時的に日向国を出奔したとされる 1 。しかし、その後、彼は再び伊東氏に帰参したと伝えられている 1 。この出来事は、祐長が晩年においても家臣団の内部政治に巻き込まれることがあったものの、最終的にはその忠節と功績が認められ、再び伊東氏に受け入れられたことを示唆している。

子・川崎権助(祐為)の生涯と伊東義賢・祐勝毒殺疑惑

川崎祐長の嫡子である川崎権助祐為は、文禄2年(1593年)6月14日に朝鮮半島で死去した。享年30歳であった 6 。彼の死から約1ヶ月後、伊東義祐の嫡子である伊東義賢(享年27歳)とその弟・祐勝(享年24歳)もまた、朝鮮半島からの帰国途中に病死したとされる 6

『日向纂記』によれば、これら三人の死は「同じ病」とされているものの、伊東義賢・祐勝の毒殺説が存在し、その実行役として川崎権助が選ばれたという衝撃的な記述がある 6 。この説では、義賢を擁立しようとする動きが藩内にあったため、伊東祐兵の重臣らが藩内の安定のために兄弟の毒殺を謀り、義賢の室(妻)が権助の妹であったという親密な関係から、権助がその大役を担わされたとされる。さらに、『日向纂記』は、権助が兄弟より約1ヶ月早く死んだのは、彼自身の毒が濃く、兄弟の毒は薄くしたためではないかと推測している 6 。この事件の顛末は「深く秘められ公言することはできなかった」とされており、伊東氏が自らの権力基盤を維持するために、不都合な真実を隠蔽しようとした意図を示唆している 6

川崎権助が伊東氏の重臣の子として、また伊東義賢の義弟として、主君の貧窮を救い、戦場でも活躍した忠臣であったにもかかわらず 7 、藩内の権力闘争の犠牲となり、毒殺という暗殺に関与させられた挙句、自らも命を落としたという疑惑は、戦国時代の「忠節」の概念が持つ多面性と残酷さを浮き彫りにする。この事件は、伊東氏が再興期においても、内部に深い亀裂と権力闘争を抱えていたことを示唆するものであり、川崎氏の忠節の物語に暗い影を落とす側面である。

川崎祐長の死去(元和元年)

川崎祐長は元和元年(1615年)に死去した 1 。この年は、豊臣氏が滅亡し、徳川氏による天下統一が確立された大坂夏の陣の年であり、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けをまさに見届けた生涯であったことを意味する。彼の死は、伊東氏が近世大名として確立していく過渡期に位置づけられる。

子孫の系譜と飫肥藩における川崎氏の役割

川崎祐長の長男は、伊東平右衛門祐氏の養子となり、伊東氏を継いだ 8 。これにより、川崎氏の血筋が伊東氏の傍流として存続したことがわかる。川崎氏の家督は、権助とは別の弟である「大学」が相続したとされる 8

「河崎私記」によれば、川崎祐長が築いた基盤は、江戸時代を通じて川崎氏の繁栄と伊東氏への貢献に繋がった。歴代の川崎家当主は、飫肥藩において家老や清武地頭などの要職を勤め、伊東氏を支え続けたことが記されている 2 。これは、川崎祐長が戦国時代に示した忠節と政治手腕が、子孫の代にわたって伊東氏の藩政を支える重要な役割を果たす礎を築いたことを物語る。

川崎祐長の人物像と歴史的評価

伊東氏における政治的影響力と「知将」としての側面

川崎祐長は、伊東氏の「政治面の主軸」として、その能力値は政治74、戦闘34、教養61、魅力58と評価されており、特に政治能力に優れていたことが示されている 4 。彼は「知将」の天性も持ち合わせていたとされ、これは彼が単なる武勇だけでなく、内政や外交においても重要な役割を担っていたことを意味する。伊東氏が強大な隣国に囲まれながらも存続できたのは、祐長のような優れた政治手腕を持つ家臣の存在が大きかったと評価できる。

忠節と苦難を乗り越えた生涯の再評価

川崎祐長の生涯は、日向伊東氏の興亡と深く結びついていた。特に、伊東義祐が日向を追われ豊後へ退去するという最大の苦境において、彼は主君に付き従い、流浪の苦難を共に乗り越えた。濁酒を造って主君の貧窮を救うという逸話は、その忠節が単なる主君への服従ではなく、困難な状況下での献身的な行動によって示されたことを明確にしている 7 。この献身的な忠義は「糟糠の妻に匹敵」と評されるほどであった 4 。伊東氏の再興後も清武城主として重用され、その晩年まで伊東氏を支え続けた彼の功績は疑いようがない。

しかしながら、彼の忠節の物語には、息子の権助が関与したとされる伊東宗家内の毒殺疑惑という暗い影も存在する。この疑惑は、戦国時代の武将の生涯が、単純な「忠臣」や「悪人」といった二元的な評価では捉えきれない、複雑な倫理的・政治的状況の中にあったことを示唆する。川崎祐長の歴史的評価は、彼の個人的な功績と、家系全体が関与した可能性のある事件の両方を考慮に入れることで、より多角的かつ深く理解されるべきである。

まとめ

川崎祐長は、日向伊東氏の重臣として、その興亡を支えた稀有な人物であった。伊東義祐の豊後退去という最大の苦境において、主君に付き従い、物質的な支援まで行ったその忠節は特筆に値する 4 。伊東氏再興後は清武城主を務め、その政治手腕と忠義によって川崎氏を「中興」させた 2 。晩年には稲津重政による讒言によって一時出奔を経験し、また子の権助が関与したとされる伊東宗家内の毒殺疑惑という暗部も抱えていた 1 。しかし、最終的には元和元年(1615年)に天寿を全うし、戦国時代の終焉を見届けた 1 。彼の生涯は、伊東氏の歴史に深く刻まれ、その後の飫肥藩における川崎氏の繁栄の礎を築いた。

以下に、川崎祐長の生涯における主要な出来事を時系列で示す。

川崎祐長関連年表

年代

出来事

関連資料

永禄11年(1568年)

伊東氏が飫肥城を奪取後、目井城主となる

5

天正5年(1577年)

伊東義祐の豊後退去に追随し、日向を出奔

4

(時期不明)

流浪中に濁酒を製造し、主君一行の貧窮を救う

7

天正15年(1587年)

伊東祐兵の飫肥復帰後、清武城主となる

7

天正15年(1587年)以降

子・権助が酒谷城主、曽井城主となる

7

文禄・慶長の役(1592年〜)

高齢のため日向に留守居、子・権助が朝鮮出征

1

文禄2年(1593年)6月14日

子・権助祐為、朝鮮半島で死去(毒殺疑惑あり)

6

(時期不明)

稲津重政の讒言により一時出奔、後に帰参

1

元和元年(1615年)

死去

1

今後の研究課題と史料的展望

川崎祐長の生涯をより深く解明するためには、いくつかの研究課題が残されている。「織物」に関する逸話の史料的裏付けの確認は、彼の多面的な能力を評価する上で重要である。また、伊東義賢・祐勝毒殺疑惑については、『日向纂記』以外の史料によるさらなる詳細な検証が求められる。

加えて、「河崎私記」以外の川崎氏や伊東氏に関する未公開史料、特に伊東氏の流浪期や飫肥藩成立期の詳細な記録が発見されれば、川崎祐長の果たした役割や彼の人物像について、新たな知見が得られる可能性は高い。これらの史料発掘と多角的な分析が、今後の研究において期待される。

引用文献

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  2. 初代飫肥藩主伊東祐兵の夫人(松寿院)について - 宮崎県立図書館 https://www.lib.pref.miyazaki.lg.jp/ct/other000000400/4.pdf
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  9. F049 伊東祐堯 - 系図コネクション https://www.his-trip.info/keizu/F049.html
  10. 伊東義祐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%BE%A9%E7%A5%90
  11. 伊東祐兵とは? わかりやすく解説 - 戦国武将 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E7%A5%90%E5%85%B5
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  13. 日向 酒谷城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/hyuuga/sakatani-jyo/
  14. 壱岐の日向様(伊東義賢墓) - 宮崎みんなのポータルサイト miten(ミテン) https://www.miten.jp/miten//modules/popnupblog/index.php?param=24-201310