本報告は、戦国時代に毛利氏の重臣として活躍した武将、市川経好(いちかわ つねよし)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。経好は、毛利氏による防長経略後の山口統治において中心的な役割を担い、またその妻である市川局(いちかわのつぼね)の武勇伝も特筆されるべき事柄である。本報告を通じて、毛利氏の勢力拡大と支配体制の一端を明らかにしたい。
市川経好に関する研究は、主に『萩藩閥閲録』 1 、『陰徳太平記』 3 、『毛利家文書』 5 といった史料群に基づいて進められてきた。『萩藩閥閲録』は萩藩(長州藩)が編纂した家臣の系譜や事績集であり、比較的信頼性の高い情報を含む一方、藩の公式記録としての性格も考慮する必要がある。『陰徳太平記』は江戸時代に成立した軍記物語であり、毛利氏の活躍を華々しく描いているが、史実との照合には慎重な史料批判が求められる。『毛利家文書』のような一次史料は、当時の状況を直接的に伝える貴重な情報源である。近年では、1970年代後半に松浦義則氏や加藤益幹氏らが、市川経好を首班とする山口奉行に着目した研究を発表し、毛利氏の防長両国支配における経好の重要性を指摘している 7。これらの研究は、経好個人の事績解明にとどまらず、戦国大名による占領地統治の実態や、戦国時代における女性の役割(市川局の事例など 8 )といった、より広範な歴史的テーマへの貢献も期待される。特に『陰徳太平記』の記述については、一次史料との比較検討を通じて、その史料的価値と限界を見極め、後世の経好像がどのように形成されたかを探る視点が重要となる。
市川経好は、吉川氏(きっかわし)の一門としてその生涯を始めた 10 。吉川氏は藤原南家工藤流を称する一族であり、経好はその庶流である市川氏の血を引くとされる 11 。当初は吉川経好と名乗っていたことが史料から確認できる 10 。
毛利元就に臣従した後、安芸国市川邑(現在の広島市安佐北区)を領地として与えられ、これを機に市川姓を名乗るようになったと伝えられている 2 。この改姓と市川邑への移住は、天文19年(1550年)に毛利氏の主導で行われた井上氏誅伐の後、当時の吉川氏当主であった吉川興経(きっかわ おきつね)が毛利氏によって隠居させられ、毛利元春(元就の次男)が吉川家を継承するという大きな出来事と関連している 13 。経好のこの行動は、毛利氏による安芸国人領主の再編という大きな戦略に沿ったものであり、吉川庶流としての立場を維持しつつも、毛利氏への直接的な臣従関係をより明確にする意図があったと考えられる。これは、後の山口奉行抜擢への布石となった可能性も否定できない。一部史料には「平城経好」と名乗った時期もあると記されているが 10 、その具体的な時期や背景については判然としない。
市川経好の生没年に関しては、いくつかの説が存在する。没年については、天正12年(1584年)10月29日とする説が複数の史料で一致しており 2 、本報告ではこれを有力説として採用する。一方で、慶長5年(1600年)10月1日没とする異説も存在する 16。享年については、天正12年没の場合、65歳 10 または64歳 2 とされ、これに基づくと出生年は永正16年(1519年)または永正17年(1520年)頃と推定される。慶長5年没説の場合、天文8年(1539年)生まれとされるが 16、この年代は他の有力説と大きな隔たりがある。16に見られる「一任斎」「正慶」「瑶甫恵瓊」といった別名や法名は、他の市川経好に関する記述では確認できず、同姓同名の別人、あるいは史料の編纂過程での混同や誤記の可能性も考えられる。
市川経好 生没年に関する諸説比較表
史料 |
生年 |
没年 |
享年 |
備考 |
天文8年 (1539) |
慶長5年 (1600) 10月1日 |
62歳 |
竹若丸、辰王丸、一任斎、正慶、瑶甫恵瓊 |
|
不詳 |
天正12年 (1584) |
不詳 |
|
|
10 |
(逆算:1520年頃) |
天正12年 (1584) 10月29日 |
65歳 |
|
2 |
(逆算:1521年頃) |
天正12年 (1584) 10月29日 |
64歳 |
|
10 |
(逆算:1520年頃) |
天正12年 (1584) 10月29日 |
65歳 |
|
市川経好が毛利元就に臣従し、その家中で頭角を現していく過程は、彼の武将としてのキャリアの重要な転換点であった。毛利氏の勢力拡大に貢献し 6 、特に天文19年(1550年)の井上氏誅伐とそれに続く吉川興経の隠居、そして経好自身の市川村への移住は、毛利氏との結びつきを一層強固なものにしたと考えられる 13 。この時期、経好は毛利氏の軍事行動にも積極的に参加しており、天文21年(1552年)7月には備後国志川滝山城への攻撃に加わっていることが記録されている 13 。ゲーム『信長の野望 将星録』のリプレイにおいて、弘治元年(1555年、ゲーム内では1551年開始)時点で毛利元就の家臣(足軽頭)として登場し、弘治3年(1557年、ゲーム内では1553年)5月に侍大将に昇格する描写があるが 18、これはフィクションでありながらも、当時の経好が毛利家中で一定の地位を占めていたという一般的な認識を反映している可能性を示唆している。
経好の主要な戦歴としては、まず天文24年(1555年)から弘治3年(1557年)にかけて行われた毛利元就による大内氏領周防・長門への侵攻作戦、いわゆる防長経略への関与が挙げられる 19 。この経略は毛利氏の中国地方における覇権確立の重要な一歩であり、経好もこの戦いに従軍し、その後の山口統治に深く関わっていくことになる 17。
月山富田城の戦いについては、第一次(大内義隆主導、毛利元就も参加)と第二次(毛利元就主導)の二度にわたる大規模な合戦が知られているが 20 、市川経好がこれらの戦いに具体的にどのように関与したかを示す直接的な記述は、提供された資料の中では見当たらない。しかし、毛利氏の主要な家臣の一人として、何らかの形でこれらの重要な軍事作戦に関与していた可能性は十分に考えられる。
さらに、九州方面での戦い、特に永禄12年(1569年)に大友氏との間で行われた立花山城をめぐる攻防戦には、経好が参加していたことが記録されている 1 。この九州への出陣は、経好が毛利氏の主要な軍事行動に動員される有力な武将であったことを示すと同時に、彼が本拠地である周防山口の高嶺城を留守にしていたという事実が、後述する大内輝弘の乱における妻・市川局の活躍の直接的な背景となった。この「不在」は、戦国武将の活動が、本人のみならずその家族や家臣団全体に影響を及ぼし、予期せぬ形で歴史の展開を左右する可能性を示している。
経好の初期の活動において、吉川氏との関係性がどのように変化したのかは注目すべき点である。元々吉川氏の一門であった経好にとって 10 、吉川興経の隠居と毛利元春の吉川家入嗣 13 は、彼の立場に大きな変化をもたらしたはずである。市川への移住 13 は、物理的な距離だけでなく、吉川宗家からの一定の自立と、毛利本家への直接的な結びつきの強化を意味したのではないかと考えられる。この時期の経好の動向は、毛利氏による国人領主再編策の中で、彼が自身の立場をどのように確保し、毛利家中での地位を築いていったかを示す重要な指標となる。
弘治3年(1557年)、毛利元就による防長経略が終結すると、市川経好はその卓越した行政手腕を認められ、山口奉行に任命され、旧大内氏の拠点であった高嶺城を預けられることとなった 2 。山口は西国における政治・経済・文化の要衝であり、大内氏滅亡後のこの地を安定的に統治することは、毛利氏にとって防長両国の支配を確立する上で極めて重要であった。毛利元就は、高嶺城を守備していた市川経好に対し、例えば魚介類を扱う市場である魚物小路(うおものこうじ)の管理を任せるなど、現地の具体的な統治を委ねていたことが史料からうかがえる 6 。
市川経好を首班とする山口奉行の設置は、単なる地方官の配置に留まらず、旧大内勢力の影響力を払拭し、毛利氏による直接支配体制を浸透させるための戦略的拠点掌握という強い意図があったと考えられる。経好の行政手腕に対する元就の厚い信頼 2 は、この困難な任務を遂行できる人物としての評価に基づいていたと言えよう。山口奉行は、毛利氏の防長両国支配において中核的な役割を担い 7、この点については松浦義則氏や加藤益幹氏による専門的な研究も存在する 7 。毛利氏の奉行制度は、元就の意思決定や政務執行を支える重要な機構であり 23 、毛利隆元直属の五奉行制度なども存在したことが知られているが 24 、市川経好が率いた山口奉行も、これら毛利氏の支配機構の一翼を担い、旧大内領の安定化と毛利化の推進に尽力した。
高嶺城(現在の山口市鴻ノ峰に位置する 26 )は、大内氏最後の当主である大内義長が毛利軍の進攻に備えて弘治3年(1557年)に築城した山城であり 26、毛利氏にとっても周防支配の重要な拠点であった。経好はこの高嶺城に入り、山口奉行としての職務を遂行した 2 。
その功績を称えられ、永禄10年(1567年)7月19日には、毛利輝元より「伊豆守(いずのかみ)」の受領名を与えられた 2 。戦国時代において受領名は、実際の官職としての意味合い以上に、大名が家臣に与える栄誉や格付けとしての性格が強かった。経好への「伊豆守」授与は、彼の山口統治における功績が毛利宗家によって高く評価された証であり、毛利家中で確固たる地位を築いていたことを示す。この受領名は彼の指揮権や発言力にも影響を与えた可能性があり、実際に山口県文書館所蔵の文書には「市川伊豆守(経好)」宛のものが現存しており 28 、この呼称が彼の公的な立場を示すものとして機能していたことを裏付けている。
永禄12年(1569年)、市川経好が北九州の立花山城をめぐる戦いで大友軍と対陣している隙を突いて、豊後国の大友宗麟の支援を受けた大内輝弘(おおうち てるひろ、大内義隆の従兄弟ともされる人物)が周防国に上陸し、山口に侵攻するという事件が勃発した(大内輝弘の乱) 1 。この時、経好の居城である高嶺城は守りが手薄な状態であった 1 。大内輝弘軍は数において毛利方を圧倒し、山口の町奉行であった井上就貞(いのうえ なりさだ)を討ち取るなど、当初は優勢に戦いを進めた 31 。
経好不在の高嶺城には、妻の市川局(いちかわのつぼね)と僅かな家臣、そして守備兵(一説によれば、大内輝弘軍6,000に対し、城兵はわずか300名であったともいう 2 )しか残されていなかった 2 。この絶体絶命の状況下で、市川局は驚くべき勇気と統率力を発揮する。自ら甲冑を身にまとい、薙刀を振るって城兵の先頭に立ち、女中たちもまた甲冑を帯びて戦ったと伝えられている 1 。市川局は単に勇猛であっただけでなく、「下知を加える」 1 と史料に記されているように、的確な指示を下し、混乱する城兵を巧みに指揮した。その結果、10日余りにも及ぶ大内輝弘軍の猛攻に耐え抜き、毛利本隊の援軍が到着するまで見事に城を守り抜いたのである 1 。
この市川局の目覚ましい武功は高く評価され、天正5年(1577年)閏7月6日には、毛利輝元より「比類なし」との言葉が記された感状が与えられた 1 。この事実は、萩藩の公式記録である『萩藩閥閲録』にも明確に記されており 1 、彼女の勇名は後世に語り継がれることとなった。市川局の活躍は、戦国時代における女性の合戦参加の稀有な事例としても注目され、当時の武家の女性が平時には家政を取り仕切るだけでなく、有事には防衛の指揮を執ることもあり得たという、武家社会における女性の役割の多様性を示す好例と言える。
大内輝弘の乱は、毛利氏による防長支配がまだ盤石ではなかったことを露呈させた事件であった。旧大内勢力の残党や、それに与する外部勢力(大友氏)による抵抗が依然として存在したのである。もし高嶺城が陥落していれば、山口という戦略的要衝を失い、毛利氏の支配体制は深刻な打撃を受けていた可能性が高い。市川局による高嶺城死守は、この危機を未然に防ぎ、毛利氏の防長支配の安定化に大きく貢献したと言えるだろう。この事件は、毛利氏にとって、防長支配における在地勢力の掌握と国境防衛の重要性を改めて認識させる契機となったかもしれない。
市川経好の生涯において、家族の存在は大きな影響を与えた。特に妻・市川局の武勲と、長男・元教の悲劇は特筆すべき出来事である。
妻・市川局は、石見国の国人領主吉川氏の一族である吉川(市川)経好の妻であり、その出自については、石七郎兵衛尉経守の娘とする説と、宮荘下野守基友の娘とする説があるが、確定には至っていない 1 。彼女の人物像は、前章で詳述した高嶺城防衛戦で見せたように、勇猛果敢で統率力に優れた女性であったことがうかがえる 1 。市川局は天正13年(1585年)3月6日に死去したと記録されている 1 。
経好にとって最大の試練の一つは、長男・市川元教(もとのり)の謀反であった。天正6年(1578年)3月6日、元教が豊後国の大友義鎮(宗麟)に内応し、毛利氏に対する反乱を企てていることが発覚した。これを察知した父・経好は、苦渋の決断の末、雑賀隆利(さいか たかとし)や内藤元輔(ないとう もとすけ)らに密命を下し、元教を討ち取らせた 2 。元教が毛利氏を裏切り、敵対関係にあった大友氏に通じた具体的な理由は、史料には明確に記されておらず、今日に至るまで謎に包まれている 12 。当時、毛利氏と大友氏は激しく対立しており 32 、大友氏からの誘いがあった可能性は十分に考えられるが、元教個人の動機、特に父母が大友氏と戦っていたにもかかわらず、なぜその誘いに乗ったのかは大きな疑問点として残る 12 。この事件により、経好は毛利氏への絶対的な忠誠を改めて示す形となった。元教の死後、次男の元好(もとよし)が嫡男となった 10 。元教は謡曲「采女(うねめ)の山郭公(やまほととぎす)」の小鼓(こつづみ)を得意としていたため、彼の死後、山口では「采女」を謡うことを控えたという逸話も伝えられている 12 。
兄・元教の死後、嫡男となった市川元好は 10 、父・経好が天正12年(1584年)に死去すると、家督と山口奉行職を引き継いだ 11 。元好は、天正14年(1586年)から始まる豊臣秀吉による九州平定にも毛利輝元の命を受けて出陣しており 11 、市川家が引き続き毛利氏の信頼を得ていたことを示している。これは、経好による元教謀反事件の適切な処理と、元好自身の能力によるものであったと考えられる。
市川経好には、元教、元好の他に、隆久(たかひさ)、伊予守(いよのかみ)と名乗る男子、そして今田土佐守(いまだ とさのかみ)に嫁いだ女子がいたことが記録されている 11 。
経好自身の最期は、前述の通り天正12年(1584年)10月29日であり、享年は65(あるいは64)であった 2 。長男の謀反という個人的な悲劇を乗り越え、毛利氏への忠誠を貫いた彼の生涯は、戦国時代の武家社会における「家」の存続と主君への忠誠という価値観の厳しさ、そしてその狭間で個人が直面する過酷な運命を象徴していると言えるだろう。
市川経好の人物像は、断片的な史料から多角的に読み解くことができる。まず、彼の最も顕著な能力は、卓越した行政手腕であった。山口奉行としての実績 2 は、彼が複雑な占領地統治をこなせるだけの優れた行政能力を持っていたことを示しており、毛利元就からの信頼も厚かったと伝えられている 2 。毛利氏が旧大内領という広大かつ複雑な地域を統治する上で、軍事力だけでなく、こうした行政能力を持つ人材がいかに不可欠であったかを、経好の存在は物語っている。
同時に、経好は武将としての能力も有していた。防長経略 17 や九州方面での立花山城の戦い 1 など、毛利氏の主要な軍事行動に参加しており、単なる文官ではなかったことがわかる。
そして、彼の人物を語る上で欠かせないのが、毛利氏への強固な忠誠心である。長男・元教の謀反という、一族の存亡に関わる危機に際して、毛利氏への忠誠を優先し、実子を討つという非情な決断を下したことは 2 、その揺るぎない忠節を象徴している。この個人的な悲劇を乗り越え、職務を全うした精神力も、彼の人物像を形成する重要な要素と言えるだろう。
一方で、吉川興経との関係を示唆する史料も存在する。天文19年(1550年)、毛利氏によって興経が隠居させられ、経好が市川へ移り住んだことに関連して、興経が経好に宛てたとされる書状には、経好の行動に対する興経の疑念や不安が記されている 13 。この書状の真偽や解釈にはさらなる検討が必要であるが、当時の複雑な人間関係や政治状況の一端をうかがわせる。
後世の文献、特に江戸時代に成立した軍記物語である『陰徳太平記』は、毛利氏の中国制覇を中心に西国の武家の興亡を描いたものであり 3 、市川経好や妻・市川局の活躍も記述されている可能性が高い。例えば、大内輝弘の乱 3 やその他の合戦 20 の記述の中に、経好の動向が含まれていると考えられる。『陰徳太平記』は、市川経好や市川局のような人物の事績を後世に伝える上で大きな役割を果たしたと言えるだろう。特に市川局の勇名は、この種の物語を通じて広く一般に知られるようになった側面が大きいと考えられる。しかし、軍記物語の特性として、史実を忠実に記録するというよりは、教訓的な要素や英雄譚としての脚色が加えられる傾向があるため 3 、その記述を鵜呑みにすることはできない。現代の歴史研究においては、『陰徳太平記』の記述を一次史料と比較検討し、その史料的価値と限界を見極めることで、物語として語り継がれたイメージと、史実としての実像との間にどのような関係があるのかを明らかにすることが求められる。
現代における市川経好の研究は、1970年代後半に松浦義則氏や加藤益幹氏が、彼を首班とする山口奉行に着目した研究を発表したことに始まる 7。これらの研究は、毛利氏の防長両国支配における経好の重要性を明らかにし、国立国会図書館デジタルコレクションなどでその論文を確認することができる 21 。その後も、山口奉行の役割を相対的に捉えようとする試みなど、個別的な研究成果が積み重ねられてきた 7。近年の研究動向としては、山口奉行の成立から展開過程を改めて検討し、毛利氏の防長両国支配の歴史的展開をより深く明らかにしようとする動きが見られる 7。
市川経好の生涯は、吉川氏の一門から身を起こし、毛利氏の重臣へと転身を遂げ、主に防長経略後の山口統治において卓越した行政手腕を発揮した、戦国時代の有能な武将の一典型であったと言える。彼の事績は、単に一個人の立身出世物語に留まらず、毛利氏による中国地方統一という大きな歴史的文脈の中で捉える必要がある。
経好は、武将としての側面と、優れた行政官僚としての側面を併せ持っていた。毛利元就・輝元父子からの信頼は厚く、周防・長門という旧大内領の統治という困難な任務を長期間にわたり任されたことは、その能力の高さを如実に物語っている。彼の存在は、戦国大名が広大な領国を統治し、維持していくためには、軍事力だけでなく、高度な政治的判断力と実務能力を備えた人材がいかに不可欠であったかを示す実例と言えるだろう。
また、彼の家族、特に妻・市川局の目覚ましい武勲は、戦国時代における女性の多様な役割や、武家の「家」の防衛意識を考察する上で貴重な示唆を与える。一方で、長男・元教の謀反と、それに対する経好の苦渋の決断は、戦国時代の武家社会における忠誠と家の存続という価値観の厳しさ、そしてその狭間で個人が直面する過酷な運命を浮き彫りにしている。
市川経好の活動は、毛利氏による中国地方の支配体制確立における重要な一翼を担ったものであり、彼の成功と悲劇は、戦国時代の方面統治の困難さと、それに従事した武将の責任の重さを我々に伝えている。
今後の研究においては、市川元教の謀反の具体的な動機や、経好が「平城経好」と名乗ったとされる時期や理由など、未だ解明されていない点について、新たな史料の発見や研究の進展が期待される。これらの課題の解明は、市川経好という一人の武将の理解を深めるだけでなく、戦国時代の社会や権力構造に関する我々の認識をより豊かなものにするであろう。
年代 |
市川経好の年齢(推定) |
主要な出来事 |
関連史料例 |
備考 |
永正16/17年頃 (1519/1520頃) |
0歳 |
出生(天正12年没、享年65/64説に基づく) |
2 |
天文8年(1539)生説もあり 16 |
天文19年 (1550) |
30/31歳頃 |
井上氏誅伐、吉川興経隠居。経好、市川邑へ移住し市川姓を名乗るか |
2 |
|
天文21年 (1552) |
32/33歳頃 |
7月、備後国志川滝山城攻撃に参加 |
13 |
|
弘治元年 (1555) |
35/36歳頃 |
毛利元就による防長経略開始 |
19 |
経好も従軍か |
弘治3年 (1557) |
37/38歳頃 |
防長経略終結。山口奉行に就任し、高嶺城主となる |
2 |
|
永禄10年 (1567) |
47/48歳頃 |
7月19日、毛利輝元より「伊豆守」の受領名を与えられる |
10 |
|
永禄12年 (1569) |
49/50歳頃 |
大内輝弘の乱。経好、立花山城の戦いで不在。妻・市川局が高嶺城を防衛 |
1 |
|
天正5年 (1577) |
57/58歳頃 |
閏7月6日、市川局が大内輝弘の乱での功績により毛利輝元から感状を受ける |
1 |
|
天正6年 (1578) |
58/59歳頃 |
3月6日、長男・市川元教が謀反。経好の命により討伐される |
10 |
|
天正12年 (1584) |
64/65歳 |
10月29日、死去。次男・市川元好が家督と山口奉行職を継承 |
10 |
慶長5年(1600)没説もあり 16 |
天正13年 (1585) |
― |
3月6日、妻・市川局死去 |
1 |
|
氏名 |
市川経好との続柄・関係 |
主要な関わりや事績 |
関連史料例 |
毛利元就 |
主君 |
経好を臣従させ、山口奉行に任命するなど重用した。 |
2 |
毛利輝元 |
主君 |
経好に「伊豆守」の受領名を与え、市川局に感状を与えた。 |
1 |
吉川元春 |
(元主筋) |
毛利元就の次男。吉川氏を継承。経好は元々吉川氏一門。 |
13 |
市川局 |
妻 |
大内輝弘の乱において、夫不在の高嶺城を勇猛果敢に指揮し守り抜いた。 |
1 |
市川元教 |
長男 |
天正6年、大友氏に内応し謀反を企てるも、父・経好の命により討伐された。 |
10 |
市川元好 |
次男 |
兄・元教の死後嫡男となり、父・経好の死後に家督と山口奉行職を継承。九州平定にも参加。 |
11 |
大内輝弘 |
敵対者 |
永禄12年、大友氏の支援を受け周防に侵攻し山口を攻撃(大内輝弘の乱)。市川局が守る高嶺城を攻めるも失敗。 |
1 |
大友宗麟 |
敵対勢力(元教内通先) |
豊後国の戦国大名。大内輝弘を支援し、市川元教の内応先となった。 |
10 |
井上就貞 |
(毛利方)山口町奉行 |
大内輝弘の乱の際、山口町奉行として防戦するも討死。 |
31 |
雑賀隆利 |
家臣(または同僚) |
市川経好の命を受け、内藤元輔と共に市川元教を討伐。 |
10 |
内藤元輔 |
家臣(または同僚) |
市川経好の命を受け、雑賀隆利と共に市川元教を討伐。 |
10 |