最終更新日 2025-08-05

平将門

平将門は平安中期の武将。関東で反乱を起こし「新皇」と称したが、藤原秀郷・平貞盛に討たれた。怨霊として恐れられ、後に神田明神に祀られた悲劇の英雄。
平将門

平将門―坂東の風雲児、その実像と千年の神話

序章:反逆者か、英雄か―平将門像の再構築

平将門という人物は、日本史上、最も両極端な評価に晒されてきた存在の一人である。通説では、平安時代中期に関東で反乱を起こし、自らを「新皇」と称して朝廷に反旗を翻した大逆賊として知られる 1 。しかしその一方で、特に彼が駆け抜けた関東の地では、圧政に苦しむ民衆を救おうとした英雄、そして死してなお郷土を守る強力な守護神として、千年以上にわたり深い信仰と畏敬の念を集めてきた 2

本報告書は、この「朝廷への反逆者」という一面的な評価から平将門を解き放ち、彼が生きた10世紀という時代の社会構造、桓武平氏という一族が抱えた宿命、そして中央と地方の深刻な乖離といった多層的な文脈の中に、その生涯を位置づけ直すことを目的とする。将門の評価は、朝廷の権威を絶対とする時代には「逆賊」と断罪され、東国に武家政権が誕生した江戸時代には「先駆者」として尊ばれ、近代国家形成期には再び「朝敵」として排斥され、そして戦後には「民衆の英雄」として復権するなど、時代精神を映す鏡のように揺れ動いてきた 5

この評価の振幅は何に起因するのか。彼の行動を突き動かした真の動機は何だったのか。現存する唯一の同時代史料である『将門記』の記述を丹念に読み解きながら、一族内の私闘がなぜ国家への反乱へと発展したのか、その軌跡を追い、伝説と神話の奥に隠された人間・平将門の実像に迫る。

第一章:桓武平氏の坂東進出と将門の出自

1.1 桓武天皇の血脈と坂東平氏の黎明

平将門の出自は、第50代桓武天皇の五世孫という、まぎれもない貴種に遡る 8 。彼の祖父である高望王は、宇多天皇の治世下、寛平元年(889年)に「平」の姓を賜って臣籍に下り、平高望と名乗った 11 。昌泰元年(898年)、高望は上総介に任じられるが、当時の国司が任国に赴かない遥任が常態化していた中で、彼は一族を率いて任地である坂東(関東地方)へと下向した 10 。これは単なる地方官としての赴任ではなく、当時、騒乱が多発していた東国の治安を回復させるという、朝廷からの軍事的な期待を担ったものであったと考えられている 10

高望は任期を終えても京には戻らず、その子らである国香(長男)、良兼(次男)、そして将門の父である良将(三男、良持とも 9 )らと共に坂東に土着した 8 。彼らは未開の地を開墾し、在地豪族との間に姻戚関係を結ぶことで、武力を背景とした強固な勢力基盤を築き上げていった。これが後に「坂東平氏」と呼ばれる武士団の源流となる 12 。将門の父・良将は下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市周辺)を拠点とし 9 、母として県犬養春枝の娘を迎えた 9 。この婚姻は、京から下向した貴種と在地の有力豪族との結合という典型的なパターンであり、将門が京の文化と坂東の荒々しい気風の両方を身につけて育つ背景となった 9

1.2 平安中期の坂東社会―中央と地方の乖離

将門が生きた10世紀の日本は、律令制という国家の統治システムが根底から崩壊し始めた時代であった。中央では藤原氏が摂政・関白の地位を独占して権勢を極める一方、地方の政治は荒廃の一途をたどっていた 9

特に坂東では、中央から派遣されてくる国司による暴政が常態化していた 14 。彼らは任国の統治よりも私腹を肥やすことを優先し、民衆に重税を課し、時にはその権力を背景に民家を襲って食料や財産を略奪することさえあった 16 。このような状況下で、在地の領主たちは自らの土地と一族を守るために武装を始め、やがて「坂東武者」と呼ばれる、勇猛で独立心旺盛な武士団を形成していく 17 。京の華やかな王朝文化とは隔絶された坂東は、力こそが正義となるフロンティアであり、武士という新たな階級が生まれる格好の土壌だったのである 19

坂東の民衆は、国司による搾取に加え、国家的な事業の負担にも喘いでいた。九州北部の防衛にあたる「防人」としての徴兵や、東北地方で朝廷に恭順しない蝦夷の征討、さらには蝦夷との戦いの後に東北地方へ強制的に移住させられる政策など、その負担は過酷を極めた 16 。これらは農家の貴重な労働力を奪い、生産力の低下を招いた。加えて、天慶元年(937年)の富士山噴火に代表される天災が追い打ちをかけ、深刻な凶作と飢饉が坂東一帯を襲い、社会不安は極度に高まっていた 16

1.3 将門の青年期―京での挫折と帰郷

このような時代背景の中、将門は15、16歳の頃に一族の期待を背負って上洛し、時の最高権力者であった摂政関白・藤原忠平に仕えた 9 。地方豪族の子弟が京の有力貴族に仕えることは、中央での官位を得て箔をつけ、地元での優位性を確保するための常套手段であった 9 。将門は京の治安維持を担う検非違使の職を望んだが、その願いは叶えられなかった。彼の武勇は認められ、天皇を警護する滝口の武士には任じられたものの、それは低い官職に過ぎなかった 9 。賄賂が横行し、家柄が全てを決定する貴族社会の厚い壁を、坂東武者の腕一本で打ち破ることはできなかったのである。

京での立身出世に望みを絶たれた矢先、父・良将が坂東で客死したとの報が届く。将門は官途を諦め、失意のうちに故郷へと帰ることになった 9 。しかし、彼を待ち受けていたのは、父が遺したはずの所領が伯父たちによって横領されているという、さらに過酷な現実であった。

この一連の経緯は、将門の乱が単なる個人的な野心や遺産争いに起因するものではないことを示唆している。むしろそれは、朝廷の権威を背景に東国鎮撫という公的な使命を帯びて下向したはずの平氏一族が、朝廷自身の統治機能不全(国司の暴政)によって生じた地方の矛盾に直面し、その矛盾を解決する新たな秩序の担い手として、在地化した第二世代である将門が登場するという、歴史の必然的なプロセスであった。将門の京での挫折は、彼自身が中央と地方の価値観の断絶を身をもって体験したことを意味する。もはや京の秩序では自己実現できないと悟った彼が、坂東という新たな舞台で自らの価値を証明しようと試みるのは、自然な帰結であったと言えるだろう。

第二章:一族内抗争の激化―私闘から公戦へ

2.1 父の遺領と「女論」―争乱の火種

坂東へ帰郷した将門を待っていたのは、父・良将の所領が伯父である平国香(陸奥大掾)、平良兼(上総介)、平良正(下野介)らによって事実上分割・横領されているという状況であった 9 。当時の武士社会では相続制度が未分化であり、一族の長が所領全体を管理する慣行があったため、このような「争族」は頻繁に発生していた。

この遺領争いに火を注いだのが、『将門記』が乱の発端として記す「女論(めろん)」である 23 。これは単なる女性を巡る痴情のもつれではなく、婚姻を通じた同盟形成という、当時の武士社会における極めて政治的な権力闘争であった 14 。その解釈には諸説あるが、一つは、将門が伯父・良兼の娘を強引に妻として自領に迎えた(娶り婚)ことで、良兼の激しい恨みを買ったとする説である 23 。また、もう一つの説として、姻戚関係にあった源護の三人の娘たちが、それぞれ国香、良兼、良正の妻となっており、将門がこの伯父たちの同盟関係を快く思わず、これに対抗しようとした、あるいは割り込もうとしたことが対立を深めたとする見方もある 9 。いずれにせよ、「女論」は、将門と伯父たちとの間にあった潜在的な対立を、武力衝突へと発展させる引き金となった。

2.2 伯父・国香の死と坂東を揺るがす戦い

承平5年(935年)、ついに将門は源護とその子ら、そして彼らに加担した伯父・平国香と野本(現在の茨城県筑西市)で衝突する 9 。この戦いで将門は勝利を収めるが、その結果、国香は命を落とした。これにより、一族内の私闘はもはや後戻りのできない血で血を洗う抗争へとエスカレートした。国香の嫡男である平貞盛は、父の仇を討つことを誓い、これ以降、将門の生涯にわたる宿敵として対峙することになる 9

将門は、貞盛と、そしてもう一人の伯父・良兼の連合軍と、坂東各地で熾烈な戦いを繰り広げた。将門はしばしば寡兵ながらも巧みな戦術で連戦連勝を重ね、坂東随一の武将としての名声を不動のものとしていく 9 。しかしその過程で、官営の牧場であり自らの重要拠点でもあった常羽御厩を焼かれるなど、戦いは一進一退の様相を呈した。戦いの最中には、将門の妻子が良兼軍に捕らえられるという悲劇も起きている。妻子は後に救出されたものの、この事件は抗争の非情さと苛烈さを物語っている 27

2.3 国府襲撃―朝廷への明確な反旗

一族との抗争で圧倒的な武威を示した将門のもとには、やがて国司の圧政や横暴に苦しむ在地豪族たちが、助けを求めて集まるようになった 14 。天慶2年(939年)、武蔵国の新任権守・興世王と、在地の郡司・武蔵武芝との間で起きた紛争を将門が調停した一件は、彼がもはや単なる一豪族ではなく、国衙の権威に代わって地域の紛争を解決する実力者として機能し始めていたことを示している 9

そして、運命の転換点が訪れる。同年11月、租税の未納を巡って常陸国司と対立した藤原玄明(はるあき)という人物が、将門に庇護を求めてきたのである 9 。常陸国司は玄明の身柄引き渡しを要求したが、将門はこれを拒否。遂に将門軍と国府軍との間で戦闘が勃発した。将門はわずか1000の兵で3000の国府軍を打ち破り、常陸国府を占領。国司を追放し、国家統治の象徴である国印と、公文書や正倉の鍵(印鎰)を奪取した 9

この印鎰の奪取は、もはや一族内の私闘では済まされない、国家そのものへの明確な反逆行為であった 14 。将門に付き従っていた興世王は、「一カ国を掠め取っても、坂東八カ国すべてを盗んでも、反逆の罪は同じです。それならばいっそ、関東全域を制圧して様子を見るべきです」と進言した 9 。この言葉に促され、将門は坂東全域の制圧へと、破滅的な道へ突き進むことになる。

この過程は、公的な秩序(国衙)が機能不全に陥り、非公式な秩序(将門の武力による調停)がそれに取って代わっていく時代の転換を象徴している。将門は、坂東の論理、すなわち力と、弱きを助け強きを挫くという「義」に従って行動した。しかし、その行動は京の朝廷が定める公の論理とは決定的に衝突した。彼は自覚的に反逆者になったというよりは、地域の期待に応え続けた結果、国家への反逆者へと追い込まれていったのである。

第三章:「新皇」の誕生と坂東独立国家の夢

3.1 坂東八カ国の制圧と新皇即位

常陸国府を占領した将門の行動は、堰を切った奔流のようであった。天慶2年(939年)12月、彼は立て続けに下野国、上野国の国府を襲撃し、国司たちを京へ追い返した 9 。その武威の前に、坂東八カ国(常陸、下野、上野、武蔵、相模、安房、上総、下総)の国司たちは次々と逃亡し、関東一円はわずか2ヶ月足らずで将門の支配下に置かれた 9

上野国府において、将門の運命を決定づける象徴的な出来事が起こる。一人の巫女が神がかりとなり、「我は八幡大菩薩の使いなり。朕の位を将門に授ける」という神託を下したのである 12 。この神託を受け、将門は自らを「新皇(しんのう)」と称することを決意する 1 。これは、京の朱雀天皇と対等な、東国における新たな皇帝の誕生を宣言するに等しい行為であった 29

彼が「天皇」ではなく「新皇」という称号を選んだ点には、深い意味が込められている。「皇」は自らが桓武天皇の血を引く皇統に連なる者であることを示し、「新」は新たな王朝の始まりを意味する。これは単なる権力欲からの謀反ではなく、自らの貴種性を正統性の根拠として、京の朝廷から独立した新たな国家を東国に創始しようとする、明確なイデオロギーを伴った革命の試みであった 2

3.2 新政権の構築―独自の官位任命と政策

「新皇」となった将門は、本拠地である下総国岩井(現在の茨城県坂東市)に政庁を置き、これを新たな都と定めた 28 。そして、朝廷の儀式を模倣し、追放した国司の後任を任命する「除目(じもく)」を執り行った。任命されたのは、彼の弟たちや、興世王のような側近、そして旧国衙の役人などであった 9

役職

任命者

将門との関係

典拠

下野守

平将頼

9

上野守

多治経明

常羽御厩別当(官営牧場管理者)

9

常陸介

藤原玄茂

常陸掾(旧国衙の役人)

9

上総介

興世王

武蔵権守(側近)

12

安房守

文屋好立

家臣

12

下総守

平将為

12

相模守

平将文

12

伊豆守

平将武

12

この人選は、将門の新政権が、血族と軍事的な盟友という狭い範囲に支えられた、極めて個人的な支配体制であったことを示している。広範な在地豪族層を組織的に組み込んだ盤石な政権というよりは、将門個人のカリスマと武力に依存した、脆弱な構造であったと言わざるを得ない。

一方で、将門は単なる破壊者ではなく、新たな国造りを目指す建設者としての一面も持っていたとされる。伝承によれば、彼は坂東の経済的自立を目指し、軍馬の育成に不可欠な馬牧の経営や、当時最先端の技術であった製鉄による農具や武具の生産を奨励し、荒地の開拓を推進したという 31

3.3 民衆の支持と独立国家の理念

将門が驚くべき速さで関東を制圧できた最大の要因は、国司の暴政に苦しむ民衆や在地豪族からの広範な支持があったことである 2 。彼は、重税を課し搾取する国司を武力で追い払い、公平な統治を行う「世直し」の英雄として、坂東の民から熱狂的に迎えられた 29

彼の行動の根底には、京の朝廷による収奪のシステムから坂東を解放し、武士による、武士のための、そして坂東の民のための独立した政治体制を樹立しようとする、明確な理念があった 5 。この壮大な構想は、約250年の時を経て源頼朝が鎌倉幕府を樹立する、その先駆けであったと高く評価されている 5

しかし、この革新的な試みは深刻な矛盾も内包していた。将門は朝廷の権威を真っ向から否定しながら、国司を任命するなど、その統治システムは朝廷のそれを模倣するに留まった 12 。これは、彼が「京の天皇に取って代わる」ことは構想できても、「朝廷とは全く異なる新しい統治のあり方」を創造するには至らなかった、その限界を示している。彼の理想は、あくまで「坂東の天皇」の樹立であり、統治構造そのものの変革ではなかった。この理念と現実の乖離、そして権力基盤の脆弱性が、後の急速な崩壊を招くことになる。

第四章:天慶の乱の終焉―英雄の悲劇的末路

4.1 朝廷の追討令と藤原秀郷・平貞盛の台頭

将門の「新皇」僭称という前代未聞の事態は、京の朝廷を震撼させた 9 。朝廷は直ちに老貴族・藤原忠文を征東大将軍に任命し、追討軍を編成するが、坂東までの道のりは遠く、その到着は決戦に間に合わなかった 9

中央の軍事力が迅速に対応できないことを見越した朝廷は、極めて巧みな策を講じる。「将門を討ち取った者には、身分を問わず貴族の位を与える」という破格の恩賞を布告したのである 9 。これは、将門に与するか、朝廷側につくかで日和見を決め込んでいた坂東の武士たちの心を強く揺さぶった。

この機を逃さなかったのが、父・国香を殺された平貞盛であった 34 。彼は復讐の念に燃え、下野国(現在の栃木県)に強大な勢力を持ち、地域の治安維持を担う押領使であった藤原秀郷に共闘を申し入れた 9 。秀郷は、もともと将門と同類の在地豪族であり、当初は乱を静観していたが、朝廷からの恩賞と、将門を倒した後の関東における覇権を天秤にかけ、ついに将門討伐を決意する。ここに、将門を滅ぼすための、坂東武士による強力な在地連合軍が結成された 35

4.2 決戦―風向きが変えた運命

天慶3年(940年)2月14日、両軍は下総国猿島郡北山(現在の茨城県坂東市)で対峙した 35 。決戦の日は、奇しくも将門が討ち死にする日となった。将門軍の主力は半農半兵であり、農繁期を迎えていたため多くが田畑に戻ってしまっていた。そのため、将門の手元に残った兵は1000人、一説にはわずか400人であったという 9 。対する秀郷・貞盛連合軍は4000人(一説には3200人)もの兵力を集めており、戦力差は歴然であった 35

合戦は午後3時頃に始まった 9 。その時、戦場には強い北風が吹いていた。風上に陣取った将門軍は、追い風に乗せて矢を放ち、連合軍を圧倒する。その勢いのまま全軍で突撃を敢行し、兵力で優る連合軍を総崩れ寸前まで追い詰めた 35

しかし、将門の勝利が目前に迫ったその時、戦場の神は彼に味方しなかった。突如として風向きが北風から南風へと変わり、今度は将門軍が逆風を受けることになったのである 35 。形勢は一瞬にして逆転した。風を背に受けた連合軍は勢いを盛り返し、猛反撃を開始した。

4.3 将門の死と一族のその後

逆風の中で自ら先頭に立って奮戦する将門であったが、乱戦の中、どこからか飛来した一本の流れ矢がその額を深く貫いた 8 。坂東の風雲児は、その場で壮絶な討死を遂げた。『古事談』などの後世の記録では、貞盛が放った矢が将門を射落とし、秀郷がその首を取ったと伝えられている 9 。「新皇」を名乗ってから、わずか2ヶ月余りのあまりにもあっけない最期であった 36

将門の死後、彼の弟たちや子らをはじめとする一族郎党は、追討軍によってことごとく捜し出され、殺害されたとされる 10 。将門の首は京へと送られ、都大路の七条河原で晒し首となり、天下に朝廷の権威が示された 8

しかし、将門の血脈は完全に絶えたわけではない、とする伝承も後世に数多く生まれる。娘の如春尼が下総の千葉氏の、息子の将国が陸奥の相馬氏の祖となったという系図が、それぞれの家に伝えられているのである 10 。これらの伝承は、後世の千葉氏や相馬氏が、自らの在地支配の正統性を強化するために、坂東の英雄である将門を家系の祖として取り込んだ創作である可能性も指摘されている 10 。だが、そうだとしても、将門に対する人々の思慕と尊崇の念が、何世紀にもわたって坂東の地に根強く生き続けたことの何よりの証左と言えるだろう。

この乱の結末は、極めて逆説的な歴史の真実を浮かび上がらせた。朝廷への反乱であったにもかかわらず、それを鎮圧したのは朝廷が派遣した正規軍ではなく、将門と同じ坂東の在地武士であった 9 。この事実は、もはや武士の力を借りなければ地方の反乱すら鎮圧できないという朝廷の権威の失墜と、武士という新たな階級の台頭を決定的に示した。将門は敗れた。しかし、彼の乱そのものが、武士こそが次代の日本を担う階級であることを、皮肉にも証明したのである。

第五章:死してなお生きる者―怨霊から守護神へ

5.1 日本三大怨霊―首塚伝説と御霊信仰

平将門の物語は、その死をもって終わらなかった。むしろ、彼の死後にこそ、日本史上類を見ない強力な伝説が生まれることになる。京の七条河原で晒された将門の首は、数ヶ月経っても生前の姿を保ち、夜な夜な「我が胴体よ、何処にある。首を繋いでもう一戦せん」と叫び続けたという 8 。そしてある夜、首は白光を放って故郷の坂東を目指して空高く飛び去り、途中で力尽きて地上に落下した 8 。その落下地の一つとされるのが、現在の東京・大手町一丁目に存在する「将門塚(首塚)」である 38

将門の非業の死の後、関東では天変地異や疫病が頻発し、人々はこれを将門の怨霊による祟りだと恐れおののいた 28 。こうして将門は、菅原道真、崇徳上皇と並ぶ「日本三大怨霊」の一人として数えられるようになる 4 。この鎮めることのできない強大な怨霊の力を、破壊的な「祟り」から守護的な「ご利益」へと転換しようとする日本古来の信仰、すなわち「御霊信仰」の対象となったのである 2

この信仰は関東一円に広がり、首だけでなく、胴体を祀ったとされる「胴塚」が、将門終焉の地に近い茨城県坂東市の延命院をはじめ、各地に存在する 46 。さらには、手や足、鎧兜などを葬ったとする塚の伝説も生まれ 39 、将門の身体が分かち祀られたという信仰が形成されていった。

5.2 神田明神への奉祀―鎮魂と神格化の過程

鎌倉時代に入り、首塚周辺が荒廃して再び祟りが噂されるようになると、時宗の遊行僧であった真教上人がこれを手厚く供養し、将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈してその荒ぶる御霊を鎮めた 26 。そして延慶2年(1309年)、将門の御霊は、当時首塚の近くにあった神田明神に合祀されることとなった 28 。これにより、将門は怨霊から正式な神へとその姿を変えたのである。

将門の神格は、江戸時代に入るとさらに大きく変貌を遂げる。徳川家康が江戸に幕府を開くと、神田明神は江戸城の表鬼門を守護する「江戸総鎮守」として極めて重要な位置を占めることとなり、幕府から篤い崇敬を受けた 50 。かつて朝廷に弓引いた反逆者は、今や幕府と江戸の民衆を守る「除災厄除の神」「明神様」として、広く親しまれる存在となったのである 5

5.3 関東各地に根付く将門伝説

将門の記憶は、首塚や神田明神だけでなく、関東一円に広がる無数の伝承地の中に今も息づいている。

伝承地名

所在地

伝承の概要

典拠

将門塚(首塚)

東京都千代田区

京から飛来した首が落ちた場所。数々の祟り伝説の中心地。

38

神田明神

東京都千代田区

将門を祭神(三之宮)として祀る。江戸総鎮守。

28

国王神社

茨城県坂東市

将門の終焉の地に三女・如蔵尼が創建したと伝わる。将門自身を祀る。

10

延命院(胴塚)

茨城県坂東市

将門の胴体を密かに葬ったとされる塚がある。

46

海禅寺(七騎塚)

茨城県守谷市

将門と七人の影武者を祀る供養塔がある。

46

桔梗塚

茨城県取手市

将門を裏切ったとされる愛妾・桔梗の前の伝説にまつわる塚。

48

鈴塚

茨城県守谷市

藤原純友と連携を誓い、大鈴を埋めたという伝説の地。

53

中でも興味深いのが、将門には6人の影武者がおり、本物と合わせて「七人将門」と呼ばれたという伝説である 10 。これは将門の超人的な強さや神出鬼没ぶりを象徴する物語であり、彼が篤く信奉したとされる妙見信仰(北斗七星)との関連も指摘されている 55

将門の神格化のプロセスは、日本古来の信仰形態である御霊信仰の典型例である。社会が抱える天災や疫病といった目に見えない不安を、特定の個人の「無念の死」に起因する「怨霊」の祟りとして具体化する。そして、その恐怖の対象を丁重に祀り上げることで、共同体の安寧を図る。この一連のプロセスは、社会の不安を管理し、破壊的なエネルギーを守護の力へと転換する、巧みな社会的・宗教的メカニズムであった。徳川幕府が将門を江戸の守護神として利用したのは、この転換された強大な霊力を、自らの政権の安定のために活用しようとする、高度な政治的判断だったのである。

第六章:歴史的評価の変遷と文化的継承

6.1 逆賊から英雄へ―時代と共に変わる将門観

平将門の評価は、歴史の「事実」そのものよりも、後世の人々がその「記憶」をいかに解釈し、自らの時代の文脈に合わせて利用してきたかという「記憶の政治学」の様相を呈している。

朝廷の正統性を絶対視する立場からは、将門は天皇に弓を引いた許されざる「逆賊」であった 6 。この見方は、尊王論を国学の柱とした江戸時代の『大日本史』(水戸学)によって学術的に体系化され、天皇親政を掲げた明治政府へと引き継がれた 5 。その結果、明治7年(1874年)、将門は江戸の総鎮守として篤く祀られてきた神田明神の主祭神の座から、境内摂社へと一時的に遷されるという弾圧を受けた 5

その一方で、東国に幕府を開いた徳川氏にとって、将門は「東国独立の先駆者」であり、尊重すべき存在であった 5 。江戸の庶民にとっても、将門は中央の権威に屈しない反骨精神の象徴として絶大な人気を誇り、その物語は歌舞伎や浮世絵の好個の題材として繰り返し描かれた 5

第二次世界大戦後、皇国史観が否定されると、将門の評価は再び大きく転換する。彼は中央の圧政に苦しむ民衆のために立ち上がった「悲劇の英雄」「民衆の解放者」として再評価されるようになった 4 。そして昭和59年(1984年)、将門の御霊は神田明神の本殿に再び奉祀され、完全な復権を果たした。この出来事は、将門観の現代的な転換を象徴するものであった 28

6.2 武士の世の先駆者としての歴史的意義

将門の乱は、日本の歴史における画期的な出来事であった。第一に、この反乱が、朝廷の正規軍ではなく、同じ在地武士である平貞盛と藤原秀郷によって鎮圧されたという事実である 14 。これは、武士階級の軍事力が国家の運命を左右する時代になったことを、天下に知らしめた。

第二に、将門が試みた坂東独立国家の構想は、失敗に終わったとはいえ、京の貴族政権とは異なる、武士を主体とした新たな政権の可能性を初めて具体的に示した点である 5 。その志は坂東武者に深く刻まれ、約250年後の源頼朝による鎌倉幕府の樹立へと繋がる、遠い先駆けとなったと評価されている 5

6.3 文学、演劇、映像における将門像の創造

将門の伝説が千年もの長きにわたり語り継がれてきた背景には、文化的な創造の力があった。乱の終結直後に書かれたとされる軍記物語『将門記』は、その全ての源泉である。作者は不明だが 60 、漢文と和文の要素を交えた力強い文体で 62 、合戦の様子をリアルに描くと同時に、将門を単なる悪役ではなく、運命に翻弄される悲劇的な人物としても描き出しており、その文学的深みが後世の想像力を掻き立てた 2

江戸時代になると、山東京伝の読本『善知烏安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』などに代表されるように、将門やその遺児とされる滝夜叉姫が蝦蟇の妖術を使うといった奇想天外な物語が創作され、歌舞伎や浮世絵の世界で大流行した 55 。これにより、将門は超人的でオカルト的なイメージを強くまとうようになる。

そして、現代における将門のイメージを決定づけたのが、昭和51年(1976年)に放送されたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』である。海音寺潮五郎の原作に基づき、将門(演:加藤剛)を「腐敗した貴族社会の不正に抗い、民衆のために戦った、正義感の強い素朴な坂東武者」として描いたこの作品は、将門を国民的な「悲劇のヒーロー」として人々の記憶に定着させた 58

結論:平将門が現代に問いかけるもの

平将門の生涯は、単なる一地方豪族の反乱物語に留まらない。それは、中央と地方、公的な権威と私的な実力、律令という旧秩序と武士という新興勢力といった、日本史の大きな転換点における普遍的なテーマを内包している。彼が掲げた坂東独立の夢は、武士の時代の到来を告げる黎明の光であった。

彼が敗れ去った後も、その記憶は消えることなく、強大な怨霊として恐れられ、やがては江戸の守護神として祀られ、時代ごとに異なる貌の英雄として語り継がれてきた。この千年にわたる伝説の変遷は、恐怖を管理し、それを崇敬へと転化させる日本人の精神性や、時代時代の社会が求める英雄像の変化そのものを映し出している。

今日、私たちが知る「平将門」とは、10世紀に生きた歴史上の人物そのものであると同時に、後世の人々によって絶えず構築され、再生産され続けてきた、重層的な文化的アイコンなのである。彼の行動は、現代に生きる我々に対しても、正義とは何か、国家とは何か、そして歴史はいかに語り継がれるのかという、根源的な問いを投げかけ続けている。その悲劇性と神話性は、これからも人々を惹きつけてやまないだろう。

引用文献

  1. 【中学歴史】「武士の登場 平将門と藤原純友」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-2850/lessons-2858/
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  50. 神田明神とは https://www.kandamyoujin.or.jp/profile/
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