最終更新日 2025-07-10

平岡直房

伊予の遺臣、関ヶ原に散った夢と長州での後半生 ― 平岡直房の生涯に関する総合的考察

序章:時代の奔流に生きた一人の武将

日本の歴史が、戦国の乱世から徳川による治世へと大きく舵を切る、まさにその転換期。数多の武士たちが、滅びゆく主家への忠義と、一族存続という現実的な要請との間で、過酷な選択を迫られた。本報告書でその生涯を詳らかにする平岡直房(ひらおか なおふさ)もまた、そうした時代の奔流に翻弄され、そして自らの意志でその流れに棹差した一人である。

伊予の名門・河野氏の家臣として生まれ、青年期に主家の滅亡を経験。その後、天下分け目の関ヶ原の戦いに際し、旧主家再興という壮大な夢を掲げて蜂起するも、時代の趨勢には抗えず敗北。しかし彼の物語は、そこで終わらなかった。敗軍の将として敵地を逃れ、新たな主君・毛利氏のもとで後半生を送り、家名を明治の代まで繋いだのである。

彼の生涯は、単なる一地方武将の個人史に留まらない。そこには、伊予河野氏の落日、豊臣政権から徳川幕藩体制への移行という権力構造の変転、関ヶ原の戦いが地方に及ぼした深刻な影響、そして敗戦大名が家臣団をいかに再編し、新たな秩序に適応していったかという、より大きな歴史の力学が凝縮されている。本報告書は、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、平岡直房の決断の背景にあった歴史的文脈を解き明かすことを試みる。彼の生き様を通して、戦国という時代の終焉を、より深く、立体的に理解することを目指すものである。

第一部:伊予の名門・河野家臣としての平岡氏

1. 一族の出自と荏原城主・平岡房実

平岡直房の行動原理を理解するためには、まず彼が属した平岡一族の歴史と、その父・房実の存在を深く掘り下げる必要がある。直房の旧主家への忠誠心は、父の代から続く、一族の存亡を賭した貢献の歴史に深く根差していた。

平岡氏の正確な出自は詳らかではないが、伊予国の国人として15世紀後半から浮穴郡(現在の愛媛県松山市南部から東温市、砥部町周辺)を中心に勢力を伸張させた一族であったことが示唆されている 1 。その苗字の由来は、伊予市大平地区に現存する「平岡集落」に求められる可能性が高い。この地は伊予郡の平野部を見下ろす戦略的要地にあり、土豪が自らの支配地の名を苗字とする当時の傾向と合致する 3

平岡氏が早くから中央にも認識されるほどの勢力であったことは、室町幕府管領・細川政元が発給した書状からも窺える。15世紀後半のものと推察される文書には、平岡氏が浮穴郡の荏原・久万山に対する「競望」、すなわち領有権の主張を強めたため、政元が伊予守護の河野氏に対し、これを退けるよう命じた記録が残されている 3 。このことは、平岡氏が河野氏の支配体制にとって、時に協調し、時に緊張関係となる有力な在地勢力であったことを物語っている。

この一族から、直房の父である平岡房実(ふさざね、1513-1572年)が登場する。房実は、伊予荏原城(現在の松山市恵原町)を本拠とし、戦国末期の動乱の中で衰退しつつあった主家・河野氏を支えた、まさに柱石とも言うべき智勇兼備の武将であった 1 。彼は河野家の奉行人を務め、家中の統制に尽力する一方、主家に反旗を翻した岩伽羅城主・和田通興の反乱に際しては、巧みな計略を用いて少数の兵で敵を打ち破るなど、軍事面でも卓越した手腕を発揮した 1 。さらに、娘を久万大除城主の大野利直や、伊予灘の制海権を握る村上水軍の村上景親に嫁がせるなど、巧みな婚姻政策を通じて周辺勢力との連携を強化し、大友氏や一条氏といった外部勢力の侵攻から河野家を守るために奔走した 1

平岡直房は、この偉大な父・房実の子として、兄の通資(みちすけ)、通倚(みちより)らと共に荏原城で生を受けた 1 。彼の没年と享年から逆算すると、その生年は1570年(元亀元年)頃と推定される 5 。直房が受け継いだのは、単なる家督や所領ではなかった。それは、父・房実が生涯をかけて築き上げた「河野家を守護する」という、平岡一族の使命そのものであった。後に彼が起こす主家再興の挙兵は、この父の遺志を継ぐ行為であり、個人的な感情を超えた一族の責務の遂行と解釈することができる。

2. 落日の主家 ― 豊臣秀吉の四国平定

直房が青年期を迎えた頃、伊予を取り巻く情勢は激変の時を迎えていた。土佐国を統一した長宗我部元親が四国制覇の野望を燃やし、その矛先を伊予へと向けたのである 6 。長年にわたる一族内の家督争いなどで弱体化していた河野氏は、この長宗我部氏の猛攻に抗しきれず、存亡の危機に瀕していた。

この四国の混乱に終止符を打ったのが、天下統一を目前にした豊臣秀吉であった。天正13年(1585年)、秀吉は毛利氏に四国への出兵を命じ、毛利輝元の叔父である小早川隆景を総大将とする大軍を伊予に派遣した 8 。隆景軍は今治に上陸すると、長宗我部方に与していた金子元宅ら伊予東部の諸将を圧倒的な軍事力で次々と打ち破り、破竹の勢いで河野氏の本拠地・湯築城(現在の松山市道後)へと進軍した 8

主君・河野通直は、城に籠もり抗戦の構えを見せたものの、大軍を前にしては勝ち目がないことを悟る。隆景からの降伏勧告を受け入れ、ついに湯築城を開城した 6 。これにより、源平合戦の時代から伊予に君臨した名門・河野氏は、大名としての長い歴史に幕を下ろしたのである。

伊予一国は、戦功により小早川隆景に与えられた。主君を失った河野通直は、隆景の庇護のもと安芸国竹原(現在の広島県竹原市)へと移送されたが、再興の夢も虚しく、天正15年(1587年)に失意のうちに病没した 6 。この時、直房の兄である平岡通倚をはじめ、多くの家臣が主君に従って故郷伊予を去ったと記録されている 8 。15歳前後であった直房もまた、この主家滅亡という抗い難い現実を目の当たりにし、武士としてのキャリアの始まりを失意とともに迎えることとなったのである。

第二部:慶長の伊予動乱 ― 河野家再興を賭けた一揆

1. 関ヶ原の戦いと伊予の権力空白

河野氏の滅亡から15年後、平岡直房に生涯一度の好機が訪れる。それは、豊臣秀吉の死後に顕在化した、徳川家康と石田三成の対立が引き起こした、天下分け目の関ヶ原の戦いであった。

河野氏の旧領は、小早川氏、福島正則らの支配を経て、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの時点では、加藤嘉明が伊予正木(松前)城主として10万石を領有していた 10 。嘉明は、豊臣秀吉子飼いの武将として知られ、特に「賤ケ岳の七本槍」の一人に数えられるほどの猛将であった 10 。彼は文禄・慶長の役では水軍を率いて活躍したが、秀吉の死後は武断派の筆頭として石田三成ら文治派と対立し、早くから徳川家康に接近していた 10

そして慶長5年、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こすと、嘉明もこれに従って東軍に与し、その主力を率いて関東へと出陣した 10 。この決断が、彼の領国である伊予に、一時的ながら深刻な権力の空白を生み出すことになった。新領主の主力部隊が国元を離れたこの状況は、旧主の支配を懐かしみ、新領主の統治に不満を抱く河野家の遺臣たちにとって、またとない蜂起の機会と映ったのである。

2. 毛利の侵攻と旧臣の決起

この伊予の権力空白を、戦略的に利用しようとしたのが西軍の総大将・毛利輝元であった。輝元は、関ヶ原での本戦に備える一方で、この戦乱に乗じて四国や九州方面へ勢力を拡大し、旧領の回復を狙っていた 13 。その戦略の一環として、伊予の制圧を計画。村上水軍の末裔である村上元吉や、一族の宍戸景好らを将とする部隊を伊予へと派遣した 14

この毛利軍の動きに、河野家の旧臣として雌伏の時を過ごしていた平岡直房が呼応した。当時の史料には、この一揆を扇動した人物として「平岡善兵衛」の名が記されているが 15 、平岡房実の子に「善兵衛直房」という人物がいたとする記録があり 16 、両者は同一人物、すなわち直房の通称が善兵衛であったと見て間違いない。

直房は、毛利方に対して「能島・村上一族が攻め寄せれば、伊予国内で必ずや気脈を通じる者が多く現れるだろう」と働きかけ、その侵攻を積極的に誘引した 15 。そして毛利軍の派遣が現実のものとなると、自らも数百人の農民らを組織し、かつての一族の拠点であった荏原城の跡に立てこもって蜂起したのである 15

この一連の動きは、単なる旧臣による郷愁に基づいた散発的な反乱ではなかった。それは、関ヶ原の戦いという全国規模の動乱における、西軍総大将・毛利輝元の軍事戦略に明確に組み込まれた、組織的な軍事行動であった。直房は、毛利軍の侵攻という外部からの力と、伊予国内の旧臣たちの不満という内部の力を結びつける、重要な結節点の役割を果たした。彼は、主家再興という悲願を、西軍の勝利という大局的な見通しの上に賭けた、戦略的な行動者だったのである。

3. 三津浜夜襲と鎮圧

毛利・河野連合軍の侵攻に対し、松前城で留守を預かっていた加藤家の家老・佃十成(つくだ じゅうせい)は、冷静かつ果断な対応を見せた。彼は、隣国の藤堂高虎からの援軍の申し出を、「主君不在の城を預かる身として、他家の助けを借りるのは末代までの恥」として敢えて断り、自軍の力のみでこの難局を乗り切ることを決意する 14

毛利軍が興居島を経て三津浜(現在の松山市三津)に上陸すると、十成は巧みな謀略を巡らせた。領民を内通者に見せかけて毛利軍に接近させ、「加藤家の留守兵は老病者ばかりで、兵糧も乏しい」という偽りの情報を流して敵を油断させた 15 。この策に嵌った毛利軍の将兵が、三津の陣屋で勝利を確信して酒宴を開いているところを、夜陰に乗じて急襲する計画であった。

慶長5年(1600年)9月18日の夜、佃十成率いる加藤軍の少数精鋭が、三津浜の毛利軍本陣に夜襲を敢行した。この戦いは「三津浜夜襲」として知られる。不意を突かれた毛利軍は大混乱に陥り、奮戦も虚しく、総大将の村上元吉や重臣の曽根景房らが次々と討ち取られ、軍は壊滅的な打撃を受けた 14

三津浜で敗れた毛利軍の残兵は、平岡直房が籠る荏原城や、近くの久米の如来院へと逃げ込み、再起を図ろうとした 15 。しかし、佃十成の追撃は厳しく、翌19日には如来院への総攻撃が開始された。直房方は、地元の猟師らを動員した鉄砲隊などで必死の抵抗を試みたが、加藤方の猛将・黒田九郎兵衛らの猛攻の前に防ぎきることはできず、ついに一揆勢は鎮圧された 15

奇しくも、この伊予での攻防が繰り広げられていた頃、遠く美濃国では関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わっていた(9月15日)。この報が伊予にもたらされると、毛利軍は完全に戦意を喪失し、伊予から撤退。平岡直房が賭けた主家再興の夢は、蜂起からわずか数日にして、儚くも散ったのである 17

第三部:長州藩士としての後半生

1. 毛利家への仕官

伊予での再興運動に敗れた平岡直房であったが、その命運は尽きていなかった。彼は加藤軍の追及を逃れ、海路で毛利氏の領国である安芸か周防へと帰還したとみられる 5 。そして、関ヶ原の戦いが終結した後、意外な処遇を受けることになる。

西軍の総大将として敗戦の責を負った毛利輝元は、徳川家康によって安芸・備後など8か国120万石の広大な領地を没収され、周防・長門2か国、およそ30万石への大減封という厳しい処分を受けた 18 。この急激な所領の縮小は、毛利家に深刻な財政危機をもたらし、膨大な数の家臣を整理(リストラ)せざるを得ない状況に追い込んだ。多くの家臣が禄を減らされ、あるいは毛利家を去ることを余儀なくされたのである 21

このような極度の財政難と家臣団再編の混乱の最中にありながら、輝元は平岡直房を家臣として召し抱えるという決断を下した。直房には500石の知行と、新しい本拠地である萩の屋敷が与えられた 5

これは、単なる温情による措置と見るべきではない。自家の家臣ですら養いきれない状況で、他家の旧臣であり、かつ失敗に終わった作戦の協力者を新たに召し抱えるという行為は、一見すると不合理である。しかし、ここには敗戦大名としての毛利氏の、家中の結束を維持するための高度な政治的判断が窺える。輝元は、減封後の動揺する家臣団をまとめ上げるために、「忠義」という価値を改めて示す必要があった。直房が見せた旧主への揺るぎない忠誠心は、新しい毛利家が求める理想の家臣像と合致した。また、自らが主導した作戦に協力した者を見捨てることは、毛利家の武門としての信義にもとる。直房を保護し、相応の待遇を与えることで、輝元は内外に毛利家の「義理」と「信義」を示し、低下した求心力を回復しようとしたのではないか。直房の仕官は、そうした毛利家の再建策の一環として行われた、象徴的な出来事だったのである。

2. 静かなる晩年と子孫

こうして長州藩士となった平岡直房は、かつての夢を胸に秘め、新たな主君のもとで静かな後半生を送ることになる。史料によれば、彼は後に藩の中心地である萩を離れ、大島郡和佐村(現在の山口県周防大島町)に隠居したと伝えられている 5 。そして慶安元年(1648年)3月20日、79歳で波乱に満ちたその生涯を閉じた 5 。主家が滅び、再興の夢に破れてから、実に半世紀近い歳月を生き抜いたことになる。

彼の死後、家督は嫡子である平岡就房(なりふさ)が継いだ。「就」の一字は、当時の毛利家当主・毛利秀就から賜った偏諱(へんき)と考えられ、平岡家が名実ともに長州藩士として完全に組み込まれたことを示している。興味深いことに、就房の代に一時的に姓を「岡」と改めたが、後に再び「平岡」に戻している 5 。これは、新藩主への配慮か、あるいは伊予での過去と一線を画す意図があったのかもしれない。

平岡家の血脈は、その後も途絶えることはなかった。子孫は長州藩士として代々毛利家に仕え、明治維新を迎えるに至った 5 。長州藩が享保年間に編纂した公式な家臣の系譜書である『萩藩閥閲録』にも、平岡家の記録は確かに残されている 23 。幕末期には、同族からか、第二次長州征討や戊辰戦争で干城隊参謀として活躍し、明治政府の官僚となった平岡通義のような人物も輩出しており 25 、一族が時代の変遷を乗り越えて存続したことがわかる。

平岡直房の生涯は、慶長5年(1600年)を境に、前半生の「夢を追う忠臣」と、後半生の「現実を生きる生存者」という二つの異なる貌を持つ。これは、主家再興に命を賭して悲劇的な最期を遂げた山中幸盛のような英雄譚とは対照的である 26 。直房の物語は、より現実的で、数多の名もなき武士たちが辿ったであろう「敗者の生存戦略」の一つの典型を示している。彼は「忠義」の象徴として戦った後、一族を「存続」させるという、武士にとって同じく重要であったもう一つの責務を見事に果たした。彼の転身は、戦国の世が終わり、新たな秩序の中で家名を後世に残すこともまた、武士の重要な生き方として認められていく時代の過渡期を象徴している。

終章:平岡直房の歴史的評価

平岡直房の生涯を総括するにあたり、彼の歴史的評価を多角的に考察する必要がある。彼は旧主への忠義に殉じようとした「最後の伊予武士」であったのか。それとも、時代の趨勢を読み違えた「夢想家」だったのか。あるいは、激動の時代を乗り越え、家名を後世に伝えた「現実的な生存者」だったのか。その答えは、一つではない。

彼の再興運動を、同じく主家再興に生涯を捧げた尼子氏の遺臣・山中幸盛(鹿介)と比較すると、その性格の違いが鮮明になる 26 。幸盛は、織田信長という中央の強大な権力を後ろ盾とし、十数年にわたって執拗に再興運動を繰り返した 28 。対して直房の挙兵は、関ヶ原の戦いという一瞬の権力空白と、毛利氏という地域大名の戦略に乗じた、一度きりの賭けであった。これは、両者が置かれた状況の差であり、後ろ盾の規模の差が、そのまま再興運動の持続性の差となって表れたと言えよう。

しかし、結果として家名を後世に残したのは平岡直房であった。彼は、夢破れた後に新たな主君のもとで現実を受け入れ、一族存続の道を選んだ。この選択は、絶対的な忠義を貫いて死ぬことだけが武士の道ではないという、戦国から江戸へと移行する時代の価値観の変化を体現している。

結論として、平岡直房はこれら三つの側面をすべて内包した、複雑で奥行きのある人物として評価されるべきである。彼は、父・房実から受け継いだ「忠義」を胸に、旧主家再興という壮大な夢を追いかけた。その夢が破れた後は、一族の長として家名を存続させるという「現実」と向き合い、新たな秩序の中で生き抜く道を選んだ。彼の生涯は、成功者や悲劇の英雄の物語の陰に埋もれがちな、数多の敗れた武士たちがいかにして時代の転換期を生き抜いたかを示す、貴重な歴史の証言なのである。平岡直房という一人の武将の生涯を通して、我々は戦国の終焉と近世の幕開けという、日本史の大きなうねりをより深く理解することができる。


添付資料

表1:平岡直房 関連年表

西暦(和暦)

出来事

関連人物・勢力

史料根拠

1513年 (永正10年)

平岡房実、生まれる。

平岡房実

1

1570年頃 (元亀元年頃)

平岡直房、生まれる(推定)。

平岡直房

5

1572年 (元亀3年)

平岡房実、死去。

平岡房実

1

1585年 (天正13年)

豊臣秀吉の四国平定。河野通直が降伏し、大名としての河野氏が滅亡する。

河野氏, 豊臣秀吉, 小早川隆景

8

1595年 (文禄4年)

加藤嘉明、伊予正木(松前)6万石の領主となる。

加藤嘉明

10

1600年 (慶長5年)

関ヶ原の戦い

・9月: 加藤嘉明、主力を率いて関ヶ原へ出陣。

・9月: 毛利勢が伊予に侵攻、平岡直房が呼応して蜂起。

・9月18日: 三津浜夜襲で毛利・河野連合軍が加藤軍に敗北。

・9月19日以降: 佃十成により一揆勢が鎮圧される。

加藤嘉明, 毛利輝元, 平岡直房, 佃十成

14

1600年 (慶長5年)

関ヶ原戦後、毛利氏が防長二国に減封される。平岡直房、毛利家に仕官する。

毛利輝元, 平岡直房

5

1648年 (慶安元年)

平岡直房、79歳で死去。

平岡直房

5

引用文献

  1. 平岡房実 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%88%BF%E5%AE%9F
  2. 平岡房實- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%88%BF%E5%AF%A6
  3. 戦国大名(平岡氏)の城跡 - FC2 https://kutani.web.fc2.com/ebara-castle.files/ebara-castle.htm
  4. 三 河野氏の衰退 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7847
  5. 伊予平岡氏の興亡|ねこ先生の郷土史 - note https://note.com/kidszemi/n/ne2e11de41389
  6. 武家家伝_河野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kono_k.html
  7. 伊予に覇を唱えた河野氏の本城として君臨した湯築城【愛媛県松山市】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/27101
  8. データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7859
  9. 河野氏滅亡と周辺の武将たち - 東温市立図書館 https://www.toon-lib.jp/H24kounosi.pdf
  10. 加藤嘉明(カトウヨシアキ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%98%89%E6%98%8E-15718
  11. 【ホームメイト】伊予松山城(重要文化財7城) https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/231/
  12. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
  13. 小早川の裏切り、毛利輝元の本心…本当の関ヶ原合戦はまったく違っていたんだっ! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/32499/
  14. 三津浜夜襲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B4%A5%E6%B5%9C%E5%A4%9C%E8%A5%B2
  15. 三 関ヶ原の戦い - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報 ... https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/64/view/8036
  16. 平岡房実とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E6%88%BF%E5%AE%9F
  17. 河野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
  18. 戦いと友好③ - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/umi14.pdf
  19. 河野通軌 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E9%80%9A%E8%BB%8C
  20. 西軍総大将の毛利輝元は関ヶ原合戦で何を考えていたのか? 敗戦よる失意のスタートとなった長州藩での功績とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/231
  21. 毛利輝元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83
  22. 平岡直房 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki https://souzou2016.wiki.fc2.com/m/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E7%9B%B4%E6%88%BF
  23. 萩藩諸家系譜 http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/11960.htm
  24. 閥閲録 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A5%E9%96%B2%E9%8C%B2
  25. 平岡通義 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A1%E9%80%9A%E7%BE%A9
  26. 滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」【その4】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/123154
  27. 山中鹿介 「七難八苦を与えたまえ」 | MANA-Biz - コクヨファニチャー https://www.kokuyo-furniture.co.jp/solution/mana-biz/2016/10/post-148.php
  28. 滅亡した主家再興に生涯を捧げ”山陰の麒麟児”と呼ばれた武将「山中幸盛」の伝説【その3】 https://mag.japaaan.com/archives/123073