最終更新日 2025-05-15

平手政秀

「平手政秀」の画像

平手政秀の研究:織田家黎明期を支えた重臣の実像

1. はじめに

平手政秀(ひらて まさひで、明応元年〈1492年〉~天文22年〈1553年〉)は、日本の戦国時代に活躍した武将である 1 。尾張国の戦国大名、織田信秀とその子・信長の二代にわたり重臣として仕え、尾張国春日井郡の志賀城主を務めた 1 。幼名は狛千代丸、初名は清秀と伝わる 1

本報告書は、現存する諸資料に基づき、平手政秀の生涯、織田家における役割、特に外交・財政面での功績、そして織田信長の傅役(もりやく)としての活動を詳細に検討する。さらに、その死因として知られる「諫死(かんし)」の真相については諸説が存在するため、それらの背景と妥当性を比較検討し、政秀の歴史的評価についても多角的な考察を加えることを目的とする。政秀の活動期間は、織田家が尾張の一勢力から飛躍し、天下統一へと向かう黎明期と重なる。彼の生涯と事績を丹念に追うことは、単に一個人の伝記的研究に留まらず、織田家勃興期の内部事情や対外戦略、さらには戦国時代における武将の多様な役割を理解する上で、極めて重要な意義を持つと言えよう。

2. 平手政秀の出自と織田家への仕官

生誕と家系

平手政秀は、延徳4年5月10日(1492年6月4日)に生誕したと記録されている 2 。出身地は尾張国春日井郡とされ 2 、平手氏は同国に根を張る一族であった。その正確なルーツについては、尾張国の豪族・荒尾宗顕の系統や賀茂氏の流れなど諸説があり、未だ判然としていないが 5 、戦国時代においては政秀のような有能な人物を輩出した。政秀の父は平手経英(経秀)であるとされている 2

平手氏の出自に関する情報が限定的であることは、戦国期における地方豪族の実態解明の困難さを示唆している。しかし、その一方で、政秀が織田家において重きをなした事実は、彼の卓越した能力や人格が、必ずしも名門の出自に依らずとも高く評価された可能性を示している。これは、戦国時代が実力主義の側面を色濃く持っていたことの証左とも言えるだろう。

織田信秀への仕官と初期の活動

平手政秀がいつ頃から織田信秀に仕えたか、その正確な時期は明らかではない。しかし、信秀の時代には既に重臣としての地位を確立しており、主に財政及び外交という国家運営の根幹に関わる任務を担当していた 1 。政秀は信秀よりも10歳以上年長であったという記録もあり 7 、このことから、信秀の父である織田信定の代から既に織田家に仕えていた可能性も研究者によって指摘されている 7

もし政秀が信秀の父の代から仕えていたとすれば、彼は織田家内部の事情や尾張国周辺の複雑な情勢に極めて精通していたと考えられる。その長年にわたる経験と知識の蓄積が、信秀政権下での重用に繋がり、外交や財政といった高度な専門性が要求される分野での活躍を可能にしたと推測される。二代、あるいは三代にわたる奉公は、家臣としての忠誠心の篤さと、織田家からの深い信頼関係を物語るものであろう。

3. 織田信秀の重臣としての活躍

外交・財政における役割

織田信秀の政権下において、平手政秀は外交交渉と財政運営という、極めて重要な役割を担っていた 1 。当時の織田家は、東に今川氏、北に斎藤氏といった強大な勢力に囲まれ、予断を許さない状況にあった 8 。このような中で、外交による安定確保や同盟締結、そして軍事行動を支えるための財政基盤の強化は、織田家の存続と発展にとって死活問題であった。

政秀の外交・財政における手腕は、単に実務能力に長けていたというだけでなく、信秀の尾張統一や勢力拡大戦略を具現化する上で不可欠なものであったと言える。彼の活動なくして、信秀の積極的な軍事行動や領国経営の安定は困難であった可能性が高い。これは、戦国大名家において、武勇だけでなく、政務や外交を担う文官的役割がいかに重要であったかを示す好例である。

朝廷との交渉

平手政秀の外交活動の中でも特筆すべきは、朝廷との交渉である。天文12年(1543年)5月、政秀は信秀の名代として上洛し、内裏の築地修理料として4000貫という多額の金銭を朝廷に献上した 1 。この献金は、当時財政的に困窮していた朝廷にとって大きな助けとなったと同時に、織田信秀の経済力と中央への影響力を内外に示すものであった。

戦国時代において、朝廷の権威は依然として無視できないものであり、官位や綸旨(りんじ)は戦国大名の権威付けや領国支配の正当性を補強するために利用された 8 。信秀が朝廷との結びつきを重視し、政秀をその任にあたらせたことは、自身の政治的地位を高め、対外的にも有利な立場を築こうとした高度な外交戦略の一環と考えられる。政秀がこの重要な任務を託された背景には、彼の交渉能力に加え、和歌や茶道に通じた文化人としての素養が、公家社会との折衝において有利に働くと期待されたためと推測される 1

文化人としての一面と山科言継との交流

平手政秀は、武人や行政官としての顔だけでなく、茶道や和歌などに通じた一流の文化人でもあった 1 。その教養の深さは、天文2年(1533年)に尾張国を訪れた公卿・山科言継(やましな ときつぐ)からも賞賛を受けるほどであった 1 。言継が記した日記『言継卿記』には、政秀が尾張滞在中の言継一行を手厚くもてなし、互いに贈答品を交換するなど、親密な交流があったことが記録されている 10 。例えば、天文2年8月18日の記述には、言継が政秀からの種々の馳走に対する礼として太刀を贈り、政秀からは返礼として銭200疋と葛袴(くずばかま)が贈られたとある 10

このような政秀と山科言継との交流は、単なる個人的な親交に留まるものではなかった。山科言継は朝廷の財政責任者であり、多くの戦国大名との間に人脈を持つ有力な公家であった 11 。政秀が言継と良好な関係を築いたことは、織田家と中央の公家社会とを結ぶ重要なパイプ役としての機能を果たし、朝廷との関係を円滑に進める上で大きな意味を持ったと考えられる。これは、後の織田信長による上洛や中央政権との深い関わりに繋がる、一つの伏線であったと見ることもできよう。また、この交流は、戦国時代の武将が武事だけでなく、文化的な素養も重視し、それを外交や政治の場で活かしていたことを示す好例と言える。政秀の多面的な能力(武人、行政官、文化人)は、彼が織田家にとって代替の難しい、稀有な存在であったことを裏付けている。

4. 織田信長の傅役として

信長誕生と傅役就任

天文3年(1534年)、織田信秀の嫡男として織田信長が誕生すると、平手政秀はその傅役(教育係)という大役を任じられた 1 。傅役は、単に若君の身の回りの世話をするだけでなく、その人格形成や将来の統治者としての資質を育むという、極めて重要な職責を担う。政秀は、林秀貞、青山与三右衛門、内藤勝介といった他の重臣たちと共に、幼少期の信長の養育にあたった 6 。中でも政秀は、林秀貞に次ぐ次席家老、すなわち「ニ長(におとな)」と称されるほどの高い地位にあり 6 、那古野城の台所も預かるなど 6 、信長の最も身近にあって、その成長を見守る立場にあった。

信秀が、自身の片腕とも言える重臣であり、外交・財政・文化の各方面に卓越した能力を持つ政秀を、信長の傅役に任命したという事実は、信長に対する期待の大きさと、彼に多角的な帝王学を授けようとした信秀の深慮遠謀の表れと考えられる。政秀の傅役就任は、後の信長の人間形成や政策思想に、少なからぬ影響を与えた可能性が高い。

信長の元服と初陣の後見

武家の後継者にとって、元服(げんぷく)と初陣(ういじん)は、一人前の武士として社会的に認知されるための極めて重要な通過儀礼であった。これらの儀式の成否は、その後の当人の評価を大きく左右する。平手政秀は、この重要な二つの節目において、信長の後見役という重責を果たした。

天文15年(1546年)、古渡城において執り行われた信長の元服の際には、政秀もその供として列席した 6 。そして翌天文16年(1547年)、信長が三河の吉良大浜城攻めで初陣を飾った際には、政秀がその後見役を務め、万事滞りなく済ませたと記録されている 2 。初陣は、戦場での指揮能力や武勇を試される場であり、後見役である政秀には大きな重圧があったと想像されるが、彼はその役割を立派に果たし、信長の武士としての門出を支えた。これらの事実は、政秀の指導力と、信長に対する深い責任感、そして織田家への忠誠心を示すものと言えよう。

斎藤道三との同盟締結における役割(濃姫との婚姻)

平手政秀の外交手腕が最も発揮された功績の一つが、美濃の戦国大名・斎藤道三との同盟締結である。天文17年(1548年)頃、長年にわたり織田家と敵対関係にあった道三との間に和睦を成立させ、その証として信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)との婚約を取りまとめるために奔走した 2

この政略結婚は、単なる縁組を超えた、高度な外交戦略であった。当時の織田家と斎藤家は、尾張と美濃の覇権を巡って激しく争っており、両者の和睦および婚姻の実現は決して容易なことではなかった。この同盟は、織田家にとっては北方の美濃方面からの脅威を取り除き、西方への勢力拡大に集中できるという大きな戦略的利点をもたらした。一方、斎藤道三にとっても、織田家の武力を背景に国内の反対勢力を抑えるという計算があったと考えられる。政秀がこの困難な交渉を成功裏に導いたことは、彼の卓越した交渉能力、複雑な利害関係を調整する高度な政治感覚、そして織田信秀・信長双方からの厚い信頼を得ていたことを雄弁に物語っている。この美濃斎藤氏との同盟は、後に信長が尾張統一を成し遂げ、さらには天下統一へと乗り出す上での、極めて重要な布石となったのであり、政秀の功績の中でも特筆すべきものと言えるだろう。

表1: 平手政秀 略年表

年月日(和暦・西暦)

出来事

関連する主な役割・役職

典拠

延徳4年5月10日(1492年6月4日)

生誕

2

天文2年(1533年)

山科言継、尾張に来訪。政秀、言継と交流し、賞賛される

織田信秀家臣

1

天文3年(1534年)

織田信長誕生。傅役(教育係)に就任

織田信長傅役、次席家老

1

天文12年5月(1543年5月)

織田信秀の名代として上洛。朝廷に内裏修理料4000貫を献上

織田信秀家臣

1

天文15年(1546年)

織田信長の元服に供として列席(於古渡城)

織田信長傅役

6

天文16年(1547年)

織田信長の初陣(三河吉良大浜城攻め)の後見役を務める

織田信長傅役

2

天文17年頃(1548年頃)

斎藤道三との和睦を成立させ、信長と濃姫の婚約を取りまとめる

織田信長傅役、外交担当

6

天文22年閏1月13日(1553年2月25日)

自刃(諫死)

1

5. 諫死の真相:諸説とその背景

諫死に至る経緯(天文22年/1553年)

織田信秀が天文21年(1552年)に没すると 20 、織田家は大きな転換期を迎えた。信秀という強力な指導者を失った尾張国内には不穏な空気が流れ、家督を継いだ若き信長の前途には多くの困難が待ち受けていた。そのような状況下の天文22年(1553年)閏1月13日、平手政秀は自らの命を絶った 1 。享年62歳であった 1 。自刃の場所については、自領の尾張国志賀村 6 、あるいは那古野城下など諸説がある。

信秀の死と政秀の死が、わずか1年ほどの間に相次いで起こったという事実は、政秀の死の背景を考察する上で極めて重要である。信秀の死後、織田家は信長の家督相続を巡る内部対立(特に弟・信行との確執)や 8 、今川氏をはじめとする外部勢力からの圧迫といった、深刻な危機に直面していた。この織田家が置かれた不安定で危機的な状況が、政秀の死と無関係であったとは考えにくい。

信長の奇行を諌めるための死という美談

平手政秀の死因として最も広く知られているのは、若き日の織田信長の奇抜な言動、いわゆる「大うつけ」としての評判を憂い、自身の死をもって主君の行いを諌めようとした、という説である 2 。この説は、主君への揺るぎない忠誠心と、傅役としての深い責任感の表れとして、後世に美談として語り継がれてきた。

この「美談」は、江戸時代以降の儒教的価値観や、物語としての劇的効果を求める傾向によって、ある程度強調された側面があるかもしれない。しかし、政秀が信長の将来、ひいては織田家の行く末を深く憂慮していたことは想像に難くない。一方で、信長の「うつけ」ぶりは、内外の敵を欺き、油断させるための計算された演技であったという説も存在する 7 。もしこの説が正しければ、政秀の死は、その信長の戦略を理解しつつも、その危うさを案じた結果であったのか、あるいはその戦略が引き起こした予期せぬ悲劇であったのか、解釈はさらに複雑になる。いずれにせよ、傅役としての責任感と主家への忠義が、政秀の行動の根底にあったことは疑いないであろう。

信秀の位牌への抹香事件との関連

政秀の諫死の直接的な引き金になったとされる具体的な事件として、織田信長が父・信秀の葬儀の際に、位牌に抹香を投げつけるという非礼な行動をとった「抹香事件」が挙げられる 8 。この逸話は、『政秀寺古記』などの記録に見られるもので、信長の型破りな性格を象徴する出来事として知られている。

当時の武家社会において、葬儀は故人を弔うだけでなく、家の秩序や結束を確認する重要な儀式であった。主君であり父である信秀の位牌に抹香を投げつけるという行為は、単なる奇行では済まされない、礼節を著しく欠いたものであり、先祖や父を敬うという当時の価値観を根底から揺るがすものであった。傅役として信長の教育に深く関わってきた政秀にとって、この事件は自らの教育の失敗を痛感させるとともに、信長の資質に対する深い絶望を感じさせるに十分な出来事であったかもしれない。この信長の行動が、織田家の将来に深刻な亀裂を生むと危惧し、守役としての責任を一身に背負って死を選んだ、という解釈も成り立つ。

政秀の息子五郎右衛門の馬を巡る信長との確執説

『信長公記』の首巻には、政秀の死に至る直接的な原因として、政秀の長男である五郎右衛門(平手久秀)が所有していた馬を巡る信長との確執が記されている 2 。それによると、信長が五郎右衛門の優れた馬を所望したところ、五郎右衛門は「武士にとって馬は不可欠なものであり、お許しいただきたい」とこれを拒否した。このことに信長が逆恨みし、政秀と信長の関係が悪化したことが、政秀自刃の原因であるとされている。

この逸話は、若き信長の執拗な性格や、家臣との些細な出来事が大きな確執に発展しうる戦国時代の主従関係の厳しさ、そしてその不条理さを示しているように見える。しかし、この説には注意すべき点がある。『信長公記』の著者である太田牛一は、後に柴田勝家の家臣となった人物である 27 。柴田勝家は、後述する織田家内部の権力闘争において、信長の弟・信行を支持する派閥の中心人物の一人であった。そのため、この馬を巡る逸話は、太田牛一が、主君であった勝家や信行派に不都合な、より深刻な政争といった理由を隠蔽するために、あえて個人的な確執を強調して記述したのではないか、という史料批判的な視点からの指摘もなされている 27 。この説の真偽については、慎重な検討が必要である。

織田家内部の権力闘争説(林秀貞、柴田勝家らとの対立)

平手政秀の死の背景として、近年有力視されているのが、当時の織田家内部における深刻な権力闘争である 2 。織田信秀の死後、家督を継いだ信長に対して、その弟である信行(信勝)を新たな当主として擁立しようとする動きが活発化した。この信行派の中心人物として、筆頭家老であった林秀貞・通具兄弟や、信行の後見人でもあった柴田勝家らの名が挙げられる 23

信長の傅役であり、信長を支持する立場にあったと考えられる政秀は、この信長派と信行派の激しい対立の渦中に巻き込まれ、その結果として自刃に追い込まれた、あるいは自ら死を選ばざるを得ない状況に陥ったとするのが、この権力闘争説の骨子である。ある説では、柴田勝家らが政秀の嫡男・久秀を誘って信行派に寝返らせ、そのことに絶望した政秀が、平手一族が信長を裏切ることを阻止するために自刃した、という具体的な筋書きも提示されている 27

この権力闘争説は、政秀の死を、単なる個人的な忠義や主君への諫言といった枠組みだけでなく、当時の織田家が抱えていた深刻な内部対立という、より大きな政治的文脈の中で捉えようとするものである。もしこの説が正しければ、政秀の死は信長派にとって大きな打撃であり、信行派による間接的な排除、あるいは政争に敗れた結果とも解釈できる。これは、戦国時代における家督相続争いの過酷さと、それに伴う家臣団の分裂の典型例として、政秀の死を位置づけることができるだろう。

表2: 平手政秀諫死の理由に関する諸説一覧

説の名称

概要

主な論拠・関連する逸話

支持する主な資料・研究例

疑問点・批判

信長諫言説(美談説)

信長の奇行・「うつけ」ぶりを諌めるため

若き信長の奇行、傅役としての責任感

『信長公記』(間接的に示唆)、後世の編纂物、多くの通説 4

美談としての側面、信長の奇行が計算されたものであった可能性 7

抹香事件原因説

信秀の葬儀での信長の非礼(抹香を位牌に投げる)が直接の原因

『政秀寺古記』、信長の礼節を欠いた行動 26

『政秀寺古記』 26

『政秀寺古記』の史料的性格、他の要因との複合可能性

親子確執・馬献上拒否説

政秀の子・五郎右衛門が信長の馬の要求を拒否し、信長が逆恨みしたため

『信長公記』首巻の記述 2

『信長公記』 2

太田牛一の立場(柴田勝家旧臣)による記述の偏向可能性、他の深刻な理由の隠蔽の可能性 27

織田家内部権力闘争説

信長の弟・信行を推す林秀貞・柴田勝家らとの対立に巻き込まれた、あるいは敗れたため

信秀死後の織田家の内紛、信長派と信行派の対立構造

『信長公記』(間接的に示唆)、諸研究 2

直接的な史料の不足、他の要因との切り分けの難しさ

責任自覚説

信長の奇行や織田家の混乱に対し、傅役としての責任を痛感したため

信長の「うつけ」の評判、信秀死後の家中の動揺

諸説の根底にある共通認識

死に至る直接的な引き金としては弱い可能性

6. 政秀の死が織田家および信長に与えた影響

信長の反応と政秀寺建立

平手政秀の突然の死は、織田信長に大きな衝撃を与えたと伝えられている。信長は政秀の死を深く悲しみ、その忠義と貢献に報いるため、またその菩提を弔うために、禅僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)和尚を開山として迎え、政秀寺(せいしゅうじ)を建立した 2 。この寺は当初、政秀の所領であった尾張国小木村に建てられたが、後に清洲、さらに名古屋城築城に伴う清洲越しによって現在の名古屋市中区に移転した。信長は政秀寺に寺領三百貫を寄進するなど、手厚くその冥福を祈ったとされている 6

信長が政秀寺を建立したという事実は、一般的に、信長が傅役であった政秀に対して深い敬意と哀悼の念を抱いていたことの証左と解釈される。しかし、一部の記録には、政秀の死後も信長の奇抜な行動がすぐには改まらなかったという記述も見られる 30 。このことから、諫死の効果が即座に現れたわけではなかった可能性や、信長の悲嘆と行動の変化には時間差があった可能性、あるいは寺の建立には、家中の動揺を鎮め、自身の立場を強化するといった政治的な配慮が含まれていた可能性も否定できない。とはいえ、後年の信長の言動の中には、政秀の死がその心に深く刻み込まれていたことを示唆するものもあり 30 、政秀の死が信長の人間形成に長期的な影響を与えたと考えることもできるだろう。

織田家家臣団の権力構造への影響

平手政秀のような、織田信秀の代からの重臣であり、信長の傅役という特別な立場にあった人物の死は、当時の織田家家臣団の権力バランスに少なからぬ変動をもたらしたと考えられる。特に、政秀の死の背景に信長派と信行派の対立があったとすれば、信長を支持する勢力にとっては大きな痛手であり、一方で信行派にとっては好機と捉えられた可能性もある 25

政秀は、信長にとって精神的な支柱であると同時に、信秀時代からの重臣として家中に大きな影響力を持つ人物であった。彼の不在は、若き信長が自身の権力基盤をより一層強固にする必要性を痛感させ、家臣団の再編成や新たな側近の登用を促した可能性がある 21 。林秀貞や柴田勝家といった他の重臣たちが、政秀の死後にその影響力を増したのか、あるいは信長がより直接的な支配体制を構築していく過程で、古参の重臣たちの力が相対的に低下していったのか、その具体的な様相についてはさらなる検討が必要である。しかし、政秀の死が、信長の権力確立の過程における一つの転換点となった可能性は十分に考えられる。

後世への影響(織田長益など)

平手政秀の血筋や影響は、彼の死後も途絶えることはなかった。政秀の娘・お清(清雲院)は、信長の弟であり、後に有楽斎(うらくさい)として茶人としても名を馳せる織田長益の正室となっている 2 。文化人としての素養も豊かであった政秀から、娘婿である長益が何らかの文化的な影響を受けた可能性も指摘されている 34

また、平手氏は江戸時代に入っても、大名家の家老職を務めるなどして家名を存続させている 5 。これは、政秀個人の功績や織田家との深い繋がりが、その後の平手家の存続と繁栄に寄与したことを示唆している。特に、政秀の文化人としての一面が、織田長益のような人物を通じて後世の武家社会における文化の継承に貢献したとすれば、その影響は武功や政治的業績とは異なる形で評価されるべきであろう。

7. 平手政秀の歴史的評価

同時代及び後世の評価

平手政秀は、その生前から高い評価を受けていた人物である。天文2年(1533年)に尾張を訪れた公卿・山科言継が、その才能や教養を賞賛した記録は、同時代の中央の文化人からも一目置かれる存在であったことを示している 1

死後、特に江戸時代以降になると、若き日の織田信長の奇行を諌めるために自らの命を捧げた「忠臣」としてのイメージが強く定着し、その評価は概ね肯定的なものとして語り継がれてきた 2 。しかし、本報告書で見てきたように、その諫死の理由を巡っては諸説が存在し、単純な忠義心だけでは説明できない複雑な背景があった可能性も指摘されている。これらの諸説は、政秀の評価に多面性を与えている。

「忠臣」というキーワードは、政秀を理解する上で重要ではあるが、それだけでは彼の全体像を捉えることはできない。外交官、財政家、教育者、そして文化人といった多様な顔を持ち、それぞれの分野で卓越した能力を発揮したことこそが、彼が織田家にとって不可欠な存在であった理由であり、歴史的評価の核となるべき点であろう。諫死の逸話は、彼の評価を劇的なものにしているが、そのドラマ性の陰に隠れがちな具体的な功績にも目を向ける必要がある。

文化人としての側面

平手政秀が茶道や和歌に通じた一流の文化人であったことは、山科言継の『言継卿記』などの同時代史料からも明らかである 1 。この豊かな文化的素養は、単に個人的な趣味や嗜好に留まるものではなかった。

戦国時代の武将にとって、武勇や政治的手腕だけでなく、和歌や茶の湯といった文化的教養もまた、重要な資質の一つであった。これらの文化は、外交交渉の場における潤滑油として、あるいは武将間のコミュニケーションを円滑にするためのツールとして機能することもあった。政秀の文化人としての一面は、彼が単なる武骨な武人や事務的な官僚ではなく、洗練された知性と感性を併せ持った人物であったことを示している。この素養が、公家とのデリケートな交渉を成功させ、また、織田信長のような型破りな個性の持ち主の傅役という困難な役割を、ある程度まで務め上げることができた背景の一つであったと考えられる。

8. 関連史跡

平手政秀という歴史上の人物の足跡を辿る上で、彼ゆかりの史跡は重要な手がかりを与えてくれる。主なものとしては、まず菩提寺である政秀寺が挙げられる。この寺は前述の通り、信長が政秀の死を悼んで建立したものであり、現在は名古屋市中区に位置している 2 。政秀の墓碑は、かつて政秀寺内にあったが、現在は名古屋市千種区の平和公園内にある政秀寺墓地に移されている 2 。また、政秀の首塚と伝えられるものが、名古屋市西区中小田井の東雲寺に存在する 2

政秀が生前、居城としていた尾張国春日井郡の志賀城の跡地は、現在の名古屋市北区平手町にある志賀公園付近と推定されている 2 。公園内には「平手政秀邸址」の碑や、政秀の忠誠を顕彰するために江戸時代に建てられた影徳碑などが残されており 36 、往時を偲ぶことができる。興味深いことに、この志賀公園一帯は、弥生時代の集落遺跡(揚り戸遺跡)も発見された場所であり、古くから人々が生活を営んでいた土地であったことが知られている 36

これらの史跡は、平手政秀という人物が確かに歴史上実在し、その地域社会に少なからぬ影響を与えたことの証である。特に政秀寺は、信長と政秀という二人の関係性を物語る上で欠かすことのできない重要な遺構と言えるだろう。また、邸宅跡や城跡とされる場所は、当時の尾張における平手氏の勢力範囲や、領主としての政秀の生活の一端を垣間見せてくれる。これらの史跡を訪れることは、歴史上の人物をより身近に感じ、その生涯や時代背景への理解を深める一助となるであろう。

9. 結論

平手政秀は、戦国時代の激動期にあって、尾張の戦国大名・織田信秀、そしてその子であり、後に天下統一を目前にする織田信長という二人の当主に仕え、外交、財政、教育といった多岐にわたる分野で織田家を支え続けた傑出した家臣であった。彼の活動は、織田家が尾張の一勢力から全国規模の権力へと飛躍する黎明期において、不可欠なものであったと言える。そして、その最期として伝えられる「諫死」は、多くの謎と後世への教訓を残している。

本報告書で考察してきたように、政秀の生涯と死は、戦国時代の武士の生き様、主従関係の複雑なあり方、そして歴史解釈の多面性を浮き彫りにする。彼の功績は、単に信長を諌めた忠臣という側面に留まらず、織田家の財政基盤の安定、対外的地位の向上、そして次代を担う信長の育成という、より具体的かつ実質的な貢献にあった。彼の死の真相が完全に解明されることは今後も難しいかもしれないが、その死が織田家の歴史、特に若き信長の意識やその後の行動に何らかの転換をもたらした可能性は高く、その影響を多角的に評価し続けることが、戦国時代史研究において依然として重要な課題である。平手政秀の生涯は、戦国時代における「宿老」あるいは「傅役」という存在の重要性と、その職責の困難さを示しており、主家の安定と発展、そして若き主君の育成という重責を担い、時には自らの命を賭してその役割を全うしようとした姿は、時代を超えて我々に多くの示唆を与えてくれる。彼の存在と活動は、織田信長の天下統一事業の黎明期を理解する上で、極めて重要な意味を持つと言えるであろう。

引用文献

  1. 平手政秀- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E5%B9%B3%E6%89%8B%E6%94%BF%E7%A7%80
  2. 平手政秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%89%8B%E6%94%BF%E7%A7%80
  3. 2月25日、今日は【平手政秀、忌日(1553)】[SHIRAHAMA KEY TERRACE HOTEL SEAMORE ホテルシーモア] - じゃらんnet https://www.jalan.net/yad348385/blog/entry0001715054.html
  4. 平手政秀- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E5%B9%B3%E6%89%8B%E6%94%BF%E7%A7%80
  5. 平手氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%89%8B%E6%B0%8F
  6. 織田信長公三十六功臣 | 建勲神社 https://kenkun-jinja.org/nmv36/
  7. 信長の基礎を作った父と傅役|千世(ちせ) - note https://note.com/chise2021/n/ndce9d6b1e042
  8. 織田信秀の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46495/
  9. 今川義元の一生 - 静岡市歴史博物館 https://scmh.jp/userfiles/files/%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%85%83_%E5%91%8A%E7%9F%A5%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7.pdf
  10. www.library-archives.pref.fukui.lg.jp https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614673.pdf
  11. 山科言継の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/198
  12. 2020新春、続々・平手政秀所縁の地(3/4):平和公園(3):政秀寺霊地碑、伊藤圭介顕彰碑 https://4travel.jp/travelogue/11602183
  13. 戦国期 ― 織豊政権期におけるマスキュリニティーの発現形態と その観念・影響 https://tachibana.repo.nii.ac.jp/record/341/files/joseirekishi_021_1-17.pdf
  14. 織田信長年表 | 武将愛 - SAMURAI HEART https://busho-heart.jp/nobunaga/history/
  15. 『織田信長と織田家の重臣・平手政秀、斎藤道三と濃姫』【偉人こぼれ噺第73回~絵で学ぶニッポンのこころ~】(YouTube限定/2023年5月30日~配信) https://www.youtube.com/watch?v=r2XfGVzg93U
  16. 平手政秀の肖像画、名言、年表、子孫を徹底紹介 - 戦国ガイド https://sengoku-g.net/men/view/190
  17. 父の死に「盛大な葬儀をしている場合か!」若き大うつけ織田信長の尾張統一物語 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85231/
  18. 安土桃山時代と江戸町人文化についての考察 https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/record/10387/files/kdoc_k_00037_01.pdf
  19. 環境史からみた信長の時代Ⅰ - 立命館大学 https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/645/645PDF/takahashi.pdf
  20. 织田信长- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
  21. 織田信長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
  22. 萱津の戦い/古戦場|ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-kosenjo/kayazu-kosenjo/
  23. 織田信行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%A1%8C
  24. 織田信行の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89079/
  25. 織田信長の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/26141/
  26. 政秀寺古記』を読む 第5話「平手政秀諌死せし事 - note https://note.com/senmi/n/nceb1fdb04643
  27. 誰が平手政秀を殺したのか? - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n5488fq/
  28. 【平手政秀】信長の教育係にして育ての親 命懸けで信長を更生させた?【織田信長の家臣】 https://www.youtube.com/watch?v=S4HCoGiSDRw
  29. 林秀貞 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%A7%80%E8%B2%9E
  30. 主君に物申す家臣たち。徳川家康・伊達政宗・織田信長を命がけでいさめた忠臣たちのエピソードを紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/86688/
  31. 利休前後の尾張 - 前田壽仙堂 https://jusendo.com/studyroom/owari_chanoyu01
  32. 九話 平手政秀は何故、死んだのか?(1) - 楽将伝(九情承太郎) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16817330669388950158/episodes/16818093074637847571
  33. 戦国時代に宇宙要塞でやって来ました。とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%A6%81%E5%A1%9E%E3%81%A7%E3%82%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E6%9D%A5%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  34. 織田有楽斎(織田長益)の歴史 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/37446/
  35. 『麒麟がくる』では描かれなかった、信長の教育係・平手政秀切腹のもう1つの説 https://www.gentosha.jp/article/16132/
  36. 志賀公園及び園内にある平手政秀宅跡等について | 「洋ちゃん」のひとりごと https://ameblo.jp/kakashiyo/entry-12339100675.html
  37. 2020新春、続・平手政秀所縁の地(3/5):志賀公園(1) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11599941