最終更新日 2025-08-04

平清盛

平清盛は武士として初の太政大臣となり、日宋貿易を推進し貨幣経済を導入。しかし、後白河法皇との対立や福原遷都の失敗で孤立。源氏の挙兵の中、病死。旧時代の破壊者であり新時代の創造主でもあった。

平清盛―旧時代の破壊者か、新時代の創造主か

序章:清盛像の二面性―『平家物語』の悪役と、再評価される革新者

平清盛(1118年 - 1181年)は、日本の歴史上、これほどまでに毀誉褒貶の激しい人物も稀であろう。その名は、軍記物語の最高傑作『平家物語』を通じて、永く「驕れる者」の代名詞として日本人の心に刻み込まれてきた。物語の冒頭、「驕れる者も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」という無常観を体現する存在として、中国の反逆者である趙高や安禄山らと並び称され、その生涯は権勢をほしいままにした末の必然的な滅びの物語として語られる 1 。朝廷に弓を引く「朝敵」、そして東大寺や興福寺を焼き払った「仏敵」という二重の烙印は、彼の人物像を絶対的な悪役として固定化する上で決定的な役割を果たした 2 。この物語において、平家一門の滅亡という悲劇の根源は清盛一人の悪行に帰せられ、他の多くの登場人物が同情的に描かれることで、彼の「悪」は一層際立っている 4

しかし、近年、この伝統的な清盛像に異を唱え、その実像を多角的に再評価しようとする動きが活発化している 5 。その視線の先にあるのは、旧来の価値観を打ち破り、新たな時代を切り拓こうとした革新者としての姿である。彼の功績は、日宋貿易を大胆に推進し、貨幣経済を日本社会に根付かせた経済的側面 3 、そして現在の神戸港の礎となる大輪田泊を修築した壮大な構想力に見て取れる。政治的には、武士として初めて国家権力の中枢を掌握し、日本史上初の武家政権を樹立した 6 。その先見性は、後の織田信長や坂本龍馬にも比肩すると評され、「早すぎた改革者」という評価すら存在する 3

本報告書は、この「傲慢な独裁者」と「革新的な改革者」という二つの極端な評価の狭間に埋もれた、平清盛という人間の多角的で深層的な実像に迫ることを目的とする。彼の出自の謎から権力の頂点、そして栄華の果ての落日まで、その生涯の軌跡を丹念に追うことで、彼がなぜこれほどまでに矛盾をはらんだ評価を受けるに至ったのか、その歴史的背景と本質を解き明かしていく。清盛は単なる伝統の破壊者であったのか、それとも新時代の創造主であったのか。この問いこそが、彼の生涯を貫く中心的な主題となるであろう。

第一部:権力への階梯

第一章:出自の謎と異例の立身

平清盛の生涯は、その始まりから謎に包まれている。公式には、伊勢平氏の棟梁であった平忠盛の嫡男として、元永元年(1118年)に生を受けた 7 。しかし、彼の輝かしい経歴には、常に一つの噂が影のように付きまとっていた。それは、彼の真の父親が、絶大な権勢を誇った白河法皇であるという「御落胤説」である 7

この説は、鎌倉時代に成立した『平家物語』や、胡宮神社所蔵の『仏舎利相承系図』といった複数の史料に見られる 7 。その内容は、白河法皇が寵愛した女官・祇園女御(あるいはその妹)が法皇の子を身ごもったまま、忠臣であった平忠盛に下賜され、その後に生まれたのが清盛であった、というものである 7 。この説の真偽を直接証明する術はない。しかし、重要なのは、なぜこのような説が生まれ、当時の社会で広く語られたのかという点である。その根拠は、清盛の青年期における、武士としてはあまりにも異例な昇進の速さに求められる 13

貴族中心の厳格な身分社会であった当時、清盛の立身出世はまさに破格であった 14 。彼は12歳で元服すると、武士の子弟が通常任じられる三等官の「尉」ではなく、いきなり二等官の「佐」(従五位下左兵衛佐)という高位を授けられた 14 。これは、元服の時点ですでに他の武士とは一線を画す待遇であったことを示している。その後も父・忠盛の海賊討伐などの功績に乗じ、清盛自身も昇進を重ね 14 、20代という若さで安芸守や肥後守といった国の長官を歴任し、後の平氏の権力基盤となる瀬戸内海の制海権掌握への足がかりを築いた 10

この前代未聞の出世こそが、人々に「王家の血を引いているからに違いない」という憶測を抱かせ、御落胤説に説得力を持たせる土壌となったのである 13 。当時の貴族社会の価値観では、一介の武士の子がこれほどの速さで公卿への階梯を駆け上るという現実は、到底理解しがたい異常事態であった。人々は彼の成功を説明するために、「高貴な血筋」という、ある種の超自然的な理由を必要とした。この説の存在自体が、清盛の台頭が当時の社会秩序に与えた衝撃の大きさを物語る証左と言える。

一方で、この出自の曖昧さは、清盛自身の自己認識と行動原理にも複雑な影響を及ぼしたと考えられる。この噂は彼に神秘的な権威を与え、自らを特別な存在と規定する根拠となったかもしれない。しかし同時に、「忠盛の子ではない」という囁きは、平氏一門の棟梁としての自らの正統性を常に脅かす危険性を孕んでいた。この内なる葛藤こそが、彼を「血筋」という曖昧なものではなく、目に見える「実力」と「実績」によって一門の価値を証明し、旧来の権威を超越しようとする強烈な野心へと駆り立てた一因ではないだろうか。彼の生涯をかけた平氏の栄華の追求は、自らの出自の不確かさを乗り越え、実力でその存在を世に知らしめようとする、執念にも似た意志の表れであったと解釈することも可能であろう。


表1:平清盛の官歴変遷

清盛の昇進がいかに「異例」であったかを、以下の官歴変遷が具体的に示している。特に40代以降、公卿となってからの昇進速度は、藤原摂関家の子弟に匹敵、あるいは凌駕するものであり、彼の権力がいかに急速に拡大したかを物語っている。

年齢

和暦(西暦)

官位・官職

典拠

12歳

保延2年(1136年)

従五位下・左兵衛佐

14

20歳

保延6年(1140年)

肥後守

10

29歳

久安3年(1147年)

安芸守

10

39歳

保元元年(1156年)

播磨守・大宰大弐

10

42歳

永暦元年(1160年)

正三位・参議(公卿となる)

15

44歳

応保元年(1161年)

権中納言

10

48歳

仁安元年(1166年)

権大納言

10

49歳

仁安元年(1166年)

内大臣

10

50歳

仁安2年(1167年)

従一位・太政大臣

14


第二章:武家の棟梁への道―保元・平治の乱

平清盛が武士の頂点へと駆け上る決定的な転機となったのが、平安末期の都を揺るがした二つの大乱、保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)である。これらの動乱を通じて、彼は単なる武勇に優れた武将から、政治の力学を巧みに操る戦略家へと変貌を遂げ、武家の棟梁としての地位を不動のものとした。

保元の乱―新時代の戦術家として

保元の乱は、皇位継承を巡る崇徳上皇と、その弟である後白河天皇との対立が武力衝突へと発展した事件である 7 。清盛は、源義朝らと共に後白河天皇方として参戦し、勝利に大きく貢献した。この戦いの勝敗を分けたのは、旧来の戦の作法を覆す、極めて合理的な戦術の採用であった。義朝が提案し、天皇方の参謀であった信西が採用した「夜討ち」という奇襲攻撃である 18 。後白河方の軍勢は夜陰に乗じて崇徳上皇方の拠点である白河北殿を急襲し、火を放って大混乱に陥れた 20 。これは、名誉や作法よりも結果を重視する、新しい武士の時代の到来を象徴する戦術であった。

乱後の処置もまた、時代の転換を告げるものであった。敵方についた叔父の平忠正とその一族に対し、清盛は朝廷の命令に従い、自らの手で処刑するという非情な決断を下す 10 。これは、私的な血縁の情よりも、武家の棟梁としての公的な秩序と自らの政治的立場を優先する冷徹な判断であり、彼が旧来の価値観から脱却しつつあったことを示している。

平治の乱―政治的謀略家として

保元の乱からわずか3年後、後白河上皇の側近であった信西と、それに反発する藤原信頼・源義朝との対立が激化し、平治の乱が勃発する 6 。清盛が熊野詣で京を留守にした隙を突き、義朝らはクーデターを決行、信西を討ち取り、後白河上皇と二条天皇を内裏に幽閉した 16

紀伊国でこの変事を知った清盛は、一時は動揺し九州への西走すら考えたが、現地の武士の支援を受けて京へ帰還する 16 。ここから、彼の真骨頂である政略家としての一面が発揮される。京に戻った清盛は、まず敵将・藤原信頼に恭順の意を示す名簿を提出し、完全に油断させた 16 。その水面下で、内大臣・藤原公教らと連携し、二条天皇を女官姿に変装させて内裏から脱出させ、自らの本拠地である六波羅の邸宅に迎えるという大胆不敵な策謀を成功させたのである 24

天皇という絶対的な権威をその手に確保した瞬間、形勢は劇的に逆転した。清盛は「官軍」となり、義朝らは一夜にして朝廷に反逆する「賊軍」へと転落した 24 。大義名分を得た清盛のもとには、それまで日和見をしていた公卿や武士たちが続々と馳せ参じ、義朝らはあえなく敗走、滅亡した。この乱の結果、ライバルであった有力な源氏の武将たちは一掃され、清盛は朝廷が依存する唯一無二の軍事・警察権力をその手に掌握し、後の武家政権樹立への盤石な基礎を築き上げたのである 10

保元の乱が戦場における「戦術」の勝利であったとすれば、平治の乱は政治の舞台における「戦略」の勝利であった。清盛は、武力そのものよりも、武力を行使するための「正当性(大義名分)」を確保することこそが勝利の鍵であることを完璧に理解していた。彼は、武力で朝廷を打倒するのではなく、武力で朝廷を「掌握」し、その権威を「利用」するという、後の武家政権の本質を予見させる統治の形式を、ここに完成させた。この行動こそが、日本における約700年にわたる武家支配の原型を創り出したと言っても過言ではない。

第二部:栄華と革新

第三章:権力の頂点―平氏政権の確立と後白河法皇との共生

平治の乱を制し、武士の第一人者となった平清盛は、前人未到の権力の頂点へと昇り詰めていく。彼が築いた「平氏政権」は、武力と朝廷の権威を巧みに融合させた、日本の歴史上類を見ない特異な性格を持つものであった。その権力基盤の核心には、当代随一の策謀家である後白河法皇との、複雑かつ危うい共生関係が存在した。

平治の乱後、後白河上皇(後の法皇)の信任を得た清盛の昇進は、とどまるところを知らなかった。乱の翌年には武士として初めて公卿の仲間入り(参議就任)を果たし 15 、仁安2年(1167年)には、ついに人臣の最高位である従一位・太政大臣に就任した 14 。太政大臣は「天皇の師範、四海の儀形」とされ、藤原氏の全盛期ですら限られた者しか就けなかった最高職である 31 。一門からは公卿が16人、殿上人が30数名も輩出され、全国の約半分にあたる30余国を知行国として支配下に置いた 17 。平時忠が「平家に非ずんば人に非ず」と豪語したと伝えられるように、平氏一門は未曾有の栄華を極めたのである 17

この絶大な権力は、しかし、清盛一人の力で成し得たものではなかった。その背後には、院政を敷き、朝廷の実権を握る後白河法皇との戦略的な協調関係があった 29 。後白河は、自らの政治的ライバルであった二条天皇親政派に対抗するため、清盛の軍事力を積極的に利用し、登用したのである 15 。この両者の利害の一致が、平氏政権の土台となった。

この危ういバランスで成り立つ共生関係を、より強固なものにしたのが、一人の女性の存在であった。清盛の継室・平時子の妹である平滋子(しげこ/じし)である 10 。類い稀な美貌と聡明さで後白河上皇の寵愛を一身に受けた滋子は、やがて後の高倉天皇となる憲仁親王を産む 35 。これにより、清盛は後白河と義兄弟の間柄となり、院政の中枢へと強力なパイプを築くことに成功した 10 。天皇の母(国母)となった滋子は「建春門院」の院号を授かり、政治の表舞台でも大きな影響力を行使した 36 。彼女の存在こそが、野心家の清盛と策謀家の後白河という、水と油のような二人の権力者の利害を繋ぎ止める、最大の鎹(かすがい)となったのである。

さらに清盛は、藤原摂関家がかつて用いた外戚政策を踏襲し、自らの娘・徳子を高倉天皇に入内させる 15 。治承2年(1178年)、徳子が後の安徳天皇となる言仁親王を出産したことで、清盛は天皇の外祖父という、揺るぎない地位を手に入れたかに見えた 38

このように、平氏政権は、純粋な武家政権というよりも、旧来の貴族社会のシステムを内部から乗っ取る形で成立した、「貴族化した武家政権」というハイブリッドな性格を持っていた 39 。清盛は既存の秩序を破壊するのではなく、その中で頂点に立つことを目指したのである。しかし、その権力基盤は、法制度といった強固なものではなく、後白河法皇との個人的な関係、とりわけ建春門院という一人の女性の存在に大きく依存していた 37 。それは、盤石な岩盤の上に築かれた城ではなく、人間関係という名の薄氷の上に立つ、極めて脆弱な楼閣であった。この構造的脆弱性こそが、後の急激な没落を運命づける、最大の要因となるのである。

第四章:経済革命家としての一面

平清盛の人物像を語る上で、武人や政治家としての一面以上に革新的であったのが、経済革命家としての側面である。彼は、日本の経済構造そのものを、内向きの荘園制を基盤とした物々交換経済から、東アジアのダイナミズムに連なる国際的な交易を基盤とした貨幣経済へと、大きく転換させようとした。その構想の壮大さは、同時代において比類なきものであった。

清盛の経済政策の根幹をなしたのが、日宋貿易の推進と独占である。父・忠盛の時代から続く宋との貿易を 3 、清盛は国家的な事業へと飛躍的に拡大させた。まず、自らの軍事力を背景に、長年の懸案であった瀬戸内海の海賊を掃討し、航路の安全を確立。これにより宋の商人からの信認を勝ち取った 3 。さらに彼は、貿易の拠点を、朝廷の管理下にある九州の博多から、自らの勢力圏である摂津国の大輪田泊(現在の神戸港)へと移すことを目指した 6 。その拠点である福原の別邸に後白河法皇を招き、宋の使節団と直接引き合わせるなど、朝廷の権威をも巧みに利用して、貿易の利権を平氏一門が独占する体制を築き上げたのである 6

この壮大な構想を実現するため、清盛は私財を惜しみなく投じて、大輪田泊の大規模な修築工事に着手した 3 。中でも特筆すべきは、港を風波から守るための巨大な人工島「経ヶ島」の築造である 44 。当時の土木技術の限界に挑むこの難工事は、人柱を立てる代わりに、石の一つ一つに一切経を書き写して海に沈めたという伝説を生んだ 47 。この伝説は、事業の困難さと、それを成し遂げようとする清盛の執念を物語っている。

日宋貿易が日本社会にもたらした最も大きな変化は、宋銭の大量流入による貨幣経済への転換であった 3 。皇朝十二銭の発行停止以来、日本では米や絹を価値の基準とする現物経済が主流であったが 51 、携帯性・分割性に優れた宋銭の流通は、商業活動を劇的に活性化させた 52 。これにより、遠隔地間の取引が容易になり、都市部を中心に市場経済が発展。それは単に富の蓄積を可能にしただけでなく、「蓄財」という新たな概念を生み出し、日本全体の経済構造を根底から揺るがす大変革の引き金となったのである 3

清盛の経済政策は、単なる一族の富の追求に留まるものではなかった。それは、武力(軍事)と富(経済)を権力の両輪とする、新しい国家統治のビジョンそのものであった。日宋貿易で得た莫大な財力は、平氏の政治的・軍事的影響力を支える源泉となった。彼は、経済力が政治力を規定することを、本能的に理解していた最初の武士であったと言える。彼の政権は、日本の歴史上初めて、国際貿易をその基盤に据えた政権だったのである。その視線は、京都の内向きな貴族社会ではなく、常に東アジアの広大な海へと向けられていた。


表2:日宋貿易における主要な輸入品・輸出品

清盛が主導した日宋貿易は、単なる経済活動に留まらず、文化や技術、思想の交流でもあった。以下の品目は、当時の日本と大陸が、互いに何を求め、何を交換していたかを具体的に示している。

区分

主要品目

典拠

輸入品

宋銭、陶磁器(青磁・白磁)、絹織物、書籍・経典、香料、薬品、絵画

50

輸出品

金、銀、銅、硫黄、水銀、木材、真珠、工芸品(刀剣、漆器、扇など)

50


第五章:信仰と文化―厳島神社の守護神として

権力と富を追い求めた冷徹なリアリストというイメージが強い平清盛だが、その内面には篤い信仰心が存在した。特に、安芸国(現在の広島県西部)の厳島神社への傾倒は、彼の生涯を理解する上で欠かせない要素である。彼の信仰は、個人的な信心と、極めて現実的な政治・経済的計算が分かちがたく結びついた、清盛独自の信仰の形を示している。

清盛と厳島神社の運命的な出会いは、彼が父・忠盛の死後に平氏の棟梁となり、安芸守に任じられたことに始まる 7 。『平家物語』には、彼が高野山で見た夢の中で、「厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるだろう」という僧のお告げを受け、以来、神社を篤く信仰するようになったという逸話が記されている 12

このお告げを信じた清盛は、莫大な私財を投じ、仁安3年(1168年)頃、現在我々が目にする壮麗な海上社殿の基本となる形を造営した 10 。社殿が海上に建てられたのは、宮島全体が神の宿る御神体とされていたため、神聖な土地を削ったり傷つけたりすることを避けるという、深い信仰心の発露であった 55 。その建築様式は、潮の満ち引きまで緻密に計算された、平安時代の寝殿造の粋を集めたものであり、彼の高い美意識と財力を示している 55 。さらに長寛2年(1164年)には、一門の永続的な繁栄を祈願し、金銀や水晶で豪華絢爛に装飾された経巻「平家納経」を奉納した 3 。これは、平氏の栄華と、武士でありながら高度な文化的素養を兼ね備えていたことを今に伝える、日本美術史上の至宝である。

清盛の厳島神社への信仰は、単なる精神的なものに留まらなかった。それは、彼の現実的な事業と密接に結びついていた。日宋貿易の推進と瀬戸内海の制海権掌握を目指す彼にとって、航海の神を祀る厳島神社は、事業の安全と成功を祈願する上で不可欠な精神的支柱であった 3 。彼は厳島神社を平家一門の氏神として格上げし、その威光を高めることで、自らの権勢を宗教的にも正当化しようとした。後白河法皇をわざわざ福原から安芸まで招いて参詣させたのも 34 、神社の権威を朝廷に認めさせ、瀬戸内海一帯における平氏の支配を精神的な面からも盤石にするという、高度な政治的計算があった 58

ここに、清盛の独自性が見て取れる。彼は、自らが「海の民」としての側面を持つ伊勢平氏の末裔であることを強く意識し、陸の貴族(藤原氏)や東国の武士(源氏)とは異なる、「海」を支配する者としての平氏のアイデンティティを、厳島神社への信仰を通じて確立しようとしたのである 3 。紺碧の海に浮かぶ朱塗りの社殿は、まさに「海の王」たる平氏の権威を、誰もが目に見える形で示した壮大なモニュメントであった。彼の信仰は、夢のお告げという神秘主義と、航路の安全確保という現実主義が融合した、極めてプラグマティックなものであったと言えよう。

第三部:落日と遺産

第六章:栄華の翳り―権力者たちの亀裂

栄華を極めた平氏政権であったが、その権力基盤は盤石ではなかった。清盛と後白河法皇との間に築かれた危うい共生関係は、両者を繋ぎ止めていた一本の糸が切れることで、急速に崩壊へと向かう。権力の頂点にあった清盛は、自らが生み出した亀裂によって孤立を深め、独裁者へと変貌していく。その過程は、平氏滅亡への序曲であった。

転機となったのは、安元2年(1176年)の建春門院滋子の死であった 34 。後白河法皇の寵愛を受け、清盛との重要な鎹(かすがい)であった彼女の死は、両者の間にあった蜜月関係を終わらせ、剥き出しの権力闘争の時代へと突入させた 34

対立が最初に表面化したのが、翌治承元年(1177年)の「鹿ヶ谷の陰謀」である 7 。後白河法皇の近臣である藤原成親や西光らが、平氏の専横に不満を抱き、京都東山の鹿ヶ谷にある僧・俊寛の山荘で平氏打倒の密議を企てた 60 。この陰謀の背後には、平氏の力を削ごうとする後白河法皇自身の意図があったとされている 29 。密告によって計画は露見し、激怒した清盛は関係者を一網打尽にした。首謀者と見なされた西光は処刑され、成親らは流罪に処されるなど、苛烈な報復が行われた 7 。この事件により、両者の溝はもはや修復不可能なものとなった 15

そして治承3年(1179年)、両者の対立は決定的な破局を迎える。鹿ヶ谷事件後も、後白河法皇は平氏の意に反する人事を行うなど抵抗を続けた 15 。特に、清盛の嫡男・重盛や娘・盛子の死後、彼らが所有していた知行国や荘園を没収するという挙に出たことは、平氏に対する明確な経済的挑戦であった 34

度重なる挑発に、清盛の怒りはついに沸点に達した。同年11月、清盛は摂津国福原から数千の兵を率いて京へ進軍し、軍事クーデターを断行する 29 。彼は関白・松殿基房をはじめとする反平氏派の公卿39名を一挙に解官・追放し、その空席に自らの一門や与党を据えた 65 。そして、院政の中心人物であった後白河法皇自身を、京南方の鳥羽殿に幽閉し、その政治的権力を完全に剥奪したのである 15 。これを「治承三年の政変」と呼ぶ。

このクーデターにより、平氏の知行国は日本の約半分にあたる32カ国に倍増し、名実ともに清盛の独裁政権が完成した 29 。しかし、この権力の絶頂に見えた瞬間こそが、実は平氏の命運を決定的に縮めるものであった。それまで利用してきた朝廷の権威を、自らの武力で踏みにじるという行為は、貴族社会全体を敵に回しただけでなく 29 、全国の武士や寺社勢力に「平氏こそが国の秩序を乱す者である」という強烈な印象を与えた 65 。清盛は、自らの手で、平氏を打倒するための「大義名分」を敵に与えてしまったのである。この政変によって生まれた権力の真空と広範な反発こそが、翌年、反乱の火の手が燎原の火のごとく全国に広がるための、完璧な土壌を準備した。栄華の頂点は、没落への転落点に他ならなかった。

第七章:源氏の蜂起と最期

治承三年の政変という強硬手段は、平清盛に絶対的な権力をもたらしたと同時に、彼を全国的な反発の渦の中心に置いた。その鬱積した不満に火をつけたのが、治承4年(1180年)に発せられた以仁王の令旨であった。これを合図に、平氏打倒の兵が全国で蜂起し、日本は6年にも及ぶ内乱、すなわち源平合戦の時代へと突入する。栄華を極めた権力者は、その最晩年、自らが夢見た理想と、冷徹な現実との乖離の中で、悲壮な最期を迎えることとなる。

後白河法皇の第三皇子でありながら、平氏の支援する高倉天皇の陰で不遇をかこっていた以仁王は、源氏の長老・源頼政と結び、平氏追討を命じる令旨を全国の源氏と大寺社に発した 7 。治承三年の政変で平氏への反感を強めていた武士たちにとって、これは挙兵の絶好の大義名分となった 67 。以仁王と頼政自身の挙兵は、宇治川の戦いで平氏の大軍に敗れ、鎮圧される 38 。しかし、一度放たれた火種は、伊豆で雌伏していた源頼朝、信濃で兵を挙げた木曾義仲らによって受け継がれ、瞬く間に全国規模の反乱へと燃え広がった 15

この国難の渦中にあって、清盛は常人には理解しがたい行動に出る。同年6月、突如として都を京都から自らの拠点である福原へ移すという「福原遷都」を強行したのである 15 。その狙いは、旧来の貴族や寺社勢力の影響力が根強い京都から政治の中枢を物理的に切り離し、日宋貿易を基盤とする新たな国際交易都市を建設することにあった 45 。しかし、内裏すら未完成で、貴族たちの邸宅も準備されていない中での遷都は、彼らの激しい反発を招いた 70 。さらに、東国での源氏の反乱が激化し、平氏の追討軍が富士川の戦いで戦わずして敗走するに至り、軍事的脅威が目前に迫った 29 。この壮大にして無謀な計画は、わずか半年で頓挫し、清盛は京都への還都を余儀なくされた。彼の威信は、この失敗によって大きく地に堕ちた 15

追い詰められた清盛の行動は、さらに過激化する。反平氏勢力の拠点の一つとなっていた奈良の興福寺と東大寺に対し、息子の平重衡を大将とする討伐軍を派遣。治承4年12月、戦火の中で両寺の主要な伽藍は灰燼に帰した(南都焼き討ち) 7 。日本の仏教の中心であり、国の総国分寺である東大寺、そして藤原氏の氏寺である興福寺を焼いたこの暴挙は、清盛に決定的な「仏敵」の烙印を押し、貴族から民衆に至るまで、あらゆる階層の人々の心を平氏から離反させた 3

もはや、彼の周りには敵しかいなかった。反乱軍の鎮圧に心身をすり減らす中、治承5年(1181年)閏2月、清盛は突如として原因不明の熱病に倒れる 73 。その症状は激烈を極め、『平家物語』は、あまりの高熱に、彼が浸かった水風呂の水がたちまち沸騰したと描写している 74 。現代の医学では、マラリア、猩紅熱(溶連菌感染症)、あるいは髄膜炎といった重篤な感染症であったと推測されているが、いずれにせよ、彼の強靭な心身を蝕むほどの病であった 74

死の床で、清盛は「我が死後、寺を建てたり経を読んだりする供養は一切無用である。ただ、頼朝の首を刎ね、我が墓の前に供えよ。それこそが何よりの供養である」と遺言したと伝えられる 73 。その凄まじい執念の言葉は、彼の生涯が、新しい秩序の創造という理想から、宿敵の打倒という個人的な怨念へと収斂してしまった悲劇を物語っている。彼は、自らがこじ開けた武士の時代の扉の先にある、新しい国家の姿を完成させることなく、旧時代の怨念と共に燃え尽きたのである。

終章:平清盛の歴史的意義―伝統の破壊者か、新時代の創造主か

平清盛の生涯を振り返る時、我々は『平家物語』が作り上げた「悪逆無道」の独裁者という一面的な像を越えて、その複雑で多面的な実像に目を向けなければならない。彼は、平安貴族の時代の「終わり」と、武士の時代の「始まり」を、その一身に体現した、まさに歴史の転換点に立った人物であった。

『平家物語』が描く清盛像は、平家滅亡の全責任を彼一人に負わせることで、他の多くの平家一門の人物への同情を誘い、物語としての悲劇性を高めるという、高度な文学的作為に基づいている 4 。しかし、その記述は必ずしも史実と一致するわけではない。例えば、有名な「殿下乗合事件」の報復の首謀者は、同時代の公家の日記『愚管抄』などによれば、清盛ではなく息子の重盛であった可能性が高いと指摘されており、物語が善悪の役割を意図的に入れ替えていることが窺える 15

また、冷酷非情な権力者というイメージとは裏腹に、彼には驚くほど人間的な側面もあった。平治の乱後、宿敵・源義朝の嫡男である頼朝を、継母・池禅尼の助命嘆願に心を動かされて処刑せず、伊豆への流罪に留めたことはその最たる例である 6 。この一時の情けが、結果的に平家を滅ぼす最大の要因を生み出したことは、歴史の皮肉としか言いようがない。大輪田泊の工事で人柱という非人道的な慣習を禁じたという伝説 49 や、待望の孫(後の安徳天皇)が生まれた際に、ただうろたえるばかりであったという姿 1 も、彼の人間味を伝えている。

歴史的な役割として、清盛が日本初の武家政権の創始者であったことは間違いない。彼が築いた平氏政権は、旧来の朝廷の権威に大きく依存する過渡的なものではあったが 39 、荘園や公領に地頭を設置するなど、後の鎌倉幕府が完成させる御家人制度の萌芽となる統治システムを導入していた 79 。何よりも、武士が貴族に代わって国家の政治権力を掌握できるという事実を、初めて歴史上で証明して見せた点において、彼の功績は計り知れない。

そして、彼の最も偉大な側面は、「早すぎた改革者」としての一面であろう 3 。日宋貿易の振興、宋銭の導入による貨幣経済への転換、そして国際港湾都市の建設という壮大な構想は、いずれも当時の封建的な社会の枠組みを大きく超え、数百年後の織田信長や近世の経済発展を先取りするものであった 3 。彼は、土地に縛られた荘園制という「陸の論理」から、海を越えた交易ネットワークという「海の論理」へと、日本の社会経済のパラダイムそのものを転換させようとしたのである。

しかし、彼のビジョンはあまりにも時代に先行しすぎていた。その革新性が高ければ高いほど、旧来の秩序(朝廷、貴族社会、寺社勢力)との摩擦は激しくなり、彼の行動は必然的に「破壊的」なものとならざるを得なかった。彼の悲劇は、創造のための破壊が、社会全体の合意形成を待たずに、あまりにも急進的に進められた点にある。

結論として、平清盛は「破壊者」であり、同時に「創造主」でもあった。その二つの側面は矛盾するものではなく、表裏一体であった。彼は、自らが破壊した旧時代の瓦礫と、自らが夢見た新時代の礎石の狭間で、その激動の生涯を終えた。彼の政権は短命に終わったが、彼が武力でこじ開けた「武士が政権を担う」という時代の扉は、二度と閉ざされることはなかった。後に鎌倉幕府を樹立する源頼朝は、清盛が残した成功(武力による権力掌握)と失敗(旧勢力との全面対決の回避)の両方から学び、より洗練された形で武家政権を完成させた。その意味において、平清盛は、自らの意図とは関わりなく、鎌倉という次の時代の、最大の「産婆役」を果たしたと言える。彼の存在なくして、日本の歴史がこれほどダイナミックに転換することはなかったであろう。

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