戦国時代の奥州にその名を轟かせた会津の蘆名氏。その最盛期から、伊達政宗の台頭によって滅亡へと向かう激動の歴史の渦中に、平田舜範という一人の重臣が存在した。彼は、主家の危機を救った忠臣としてその名が記録される一方で、その生涯を深く掘り下げると、複数の名と不可解な行動が浮かび上がり、その実像は複雑な謎に包まれている 1 。
史料を紐解くと、平田舜範という人物は、驚くほど多様な呼称で現れる。まず、彼の諱(いみな)として最も知られるのが「舜範(きよのり)」である 1 。しかし、ほぼ同時代を記した文献には「常範(つねのり)」 1 や「氏範(うじのり)」 2 といった名も見られる。さらに、出家後の号とみられる「不休(ふきゅう)」 2 、そして隠居後の斎号とされる「是亦斎(ぜやくさい)」 1 という名も伝わっている。これらは果たして同一人物を指すのか、それとも一族内の複数の人物が混同されているのか。この名前の混乱こそが、平田舜範という武将の実像に迫る上での最大の鍵であり、同時に最大の障壁となっている。
この情報の錯綜は、単なる記録の不備や後世の混同によって生じたものではない。むしろ、それは蘆名家が滅亡へと向かう末期の家臣団の深刻な動揺と分裂、そしてその中で平田氏自身が置かれた極めて複雑な政治的立場を反映した結果と見るべきである。特に、蘆名家への忠功を示す文脈で現れる「舜範」という名と、敵方である伊達政宗への内通を示唆する史料に登場する「氏範」「不休」という名は、彼の公的な顔と私的な顔、すなわち忠臣としての立場と一族の存続を図る当主としての策略との間に、意図的な使い分けがあった可能性を示唆している。
本報告書は、これらの断片的な史料を統合し、多角的に分析することを通じて、「平田舜範は、主家滅亡の過程でいかなる役割を果たしたのか」、そして「彼は一貫した忠臣であったのか、それとも一族存続のためには変節も辞さない冷徹な現実主義者だったのか」という中心的な問いを、史料に基づいて徹底的に解明することを目的とする。
平田舜範の行動原理を理解するためには、まず彼が属した平田一族の出自と、蘆名家におけるその地位を明らかにする必要がある。平田氏は、蘆名家の中でも特に由緒ある家系として重きをなしていた。
その起源については、複数の伝承が残されている。会津の古事を記した『会津旧事雑考』などの史料によれば、建武2年(1335年)に起こった中先代の乱において、北条時行軍と戦った蘆名盛宗・盛員親子が討死する際、最後まで主君を護り、その馬前で忠死した「平太」という名の武者がいたとされる。その比類なき忠功を賞され、子孫が平田姓を名乗ることを許されたという 5 。この伝承は、平田氏がその始まりから蘆名家への忠義によって成り立っている家系であることを強く印象付ける。
一方で、より具体的な系譜として、清和源氏を称し、至徳元年(1384年)に蘆名直盛が鎌倉から会津へ下向した際に随行した大隅守光範を祖とする説もある 6 。この光範が、喜多方市にあった鏡ヶ城を築き、平田氏の拠点としたと伝えられている 6 。いずれの説を採るにせよ、平田氏が南北朝時代から室町時代にかけての早い段階で蘆名氏に仕え、譜代の重臣として確固たる地位を築いていたことは疑いようがない。
戦国時代に入ると、平田氏は富田氏、佐瀬氏、松本氏と並び、「蘆名四天の宿老」と称される家中の最高幹部の一角を占めるに至る 1 。その知行は五千石に及び 8 、これは蘆名家中でも最高位クラスの待遇であった。ただし、蘆名家の家臣団の頂点には、越後国境の要衝・津川城主であり、三万八千石という破格の所領を有した金上盛備が重臣筆頭として存在していた 9 。この事実から、四天宿老は家中の実務と軍事の中核を担う集団であり、平田氏もその一員として、藩屏の重責を担っていたことがわかる。
一族の勢力基盤は、本拠地である鏡ヶ城(源太屋敷)に加え、彼らが篤く庇護した喜多方稲荷神社にも見ることができる。明応年間(1492年~1501年)には、地頭であった平田石見守が同社に田地を寄進した記録が残っており、一族が地域社会に深く根を下ろしていたことを物語っている 8 。また、一族の家紋は「丸の内に三つ矢筈」であり、これは後に上杉家に仕えた分家の記録である『米府鹿子』にも描かれている 6 。この家紋は、蘆名家滅亡後も続く一族の歴史の連続性を示す、重要な象徴と言えよう。
平田舜範が歴史の表舞台で「忠臣」として評価される根拠は、彼の具体的な武功、特に主家の危機を救った「大槻政通の乱」の鎮定にある。彼の活動を追うことで、蘆名家最盛期を支えた宿老の実像が浮かび上がってくる。
舜範は、同じく蘆名四天宿老であった平田輔範の子として生まれた 1 。父・輔範もまた、蘆名家の重鎮であり、天文9年(1540年)に黒川城下で焼失した諏訪神社が再建された際には、その棟札に名を連ねるほどの有力者であった 8 。舜範には、後に別家を立てて慶徳氏を名乗る範重(善五郎)や、数奇な運命を辿り上杉景勝の寵臣となる清野長範(助次郎)といった兄弟がおり、彼らの異なる生涯は、戦国末期の武家の多様な生き様を象徴している 8 。
舜範の諱である「舜」の字は、蘆名家第15代当主・蘆名盛舜から与えられた偏諱である可能性が極めて高い 8 。偏諱とは、主君が自身の諱の一字を功績のあった家臣に与えるもので、これを受けることは武士にとって最大級の栄誉であった 10 。この事実は、若き日の舜範が主君・盛舜からその才能と忠誠を高く評価され、将来を嘱望される存在であったことを示す動かぬ証拠である。
彼のキャリアにおける最大の武功は、天正6年(1578年)に発生した「大槻政通の乱」の鎮定である。この事件は、当時の奥州の政治情勢と密接に連動していた。
天正6年3月、越後の「龍」上杉謙信が急死した。絶対的な当主を失った上杉家では、謙信の甥である景勝と、北条家からの養子である景虎との間で、家督を巡る壮絶な内乱「御館の乱」が勃発する 12 。蘆名家当主・盛氏は、北条氏との同盟関係から景虎を支援し、越後へ出兵した 12 。これにより、会津周辺の軍事バランスは極度に不安定化し、領内の国人衆に動揺が走った。
この政治的混乱を好機と捉えたのが、大槻城主の大槻政通(太郎左衛門)であった。彼は、かつて蘆名氏によって所領を削られた恨みを抱いており、娘婿である西方鴫ヶ城主・山内重勝と共謀し、上杉氏に内応する形で蘆名氏に反旗を翻したのである 1 。この謀叛は、蘆名氏の支配体制の根幹を揺るがしかねない重大な危機であった。
事態を重く見た蘆名盛氏は、直ちに鎮圧軍を編成。平田舜範は、この討伐軍の中核として出陣した。史料によっては、同じく四天宿老の富田氏実の副将として参陣したとも 8 、佐瀬常教らと共に主力を率いたとも記されている 16 。いずれにせよ、蘆名家が宿老クラスの重臣を総動員したという事実そのものが、この乱の鎮圧が喫緊の課題であったことを物語っている。舜範らの奮戦により反乱軍は速やかに鎮圧され、首謀者である大槻政通と山内重勝は討ち取られた 1 。
この戦功により、平田舜範の名は、主家の危機を救った忠臣として確固たるものとなった。しかし、この勝利は、より大きな構造的問題の始まりを隠蔽するものでもあった。大槻政通の乱は、上杉謙信の死という、蘆名氏の力では制御不可能な外部環境の激変が引き金となって発生した。外部からの衝撃が、容易に内部の不満分子を蜂起させ、家中の統制を揺るがすという構造的な脆弱性が露呈したのである。舜範の忠功は、この崩れゆく秩序を一時的に支える役割を果たしたが、蘆名家が緩やかな衰退の坂道を下り始めるのを、根本的に押しとどめることはできなかった。
大槻政通の乱を鎮定し、忠臣としての評価を確立した平田舜範であったが、彼を取り巻く状況は、主君・蘆名氏の衰退と共に急速に変化していく。当主の相次ぐ死と家督を巡る内紛は、舜範、そして平田一族を重大な岐路へと立たせることになった。
天正8年(1580年)、蘆名家の最盛期を築き上げた英主・盛氏がこの世を去る 12 。そのわずか4年後の天正12年(1584年)、後を継いだ養子の蘆名盛隆(二階堂氏出身)が、黒川城内で近習の大庭三左衛門によって暗殺されるという衝撃的な事件が発生する 18 。さらに、盛隆の遺児である亀若丸も3歳で夭逝し 18 、会津の巨城は再び主を失った。
この深刻な後継者問題に直面し、蘆名家臣団は二つに分裂する。一つは、急速に勢力を拡大する伊達政宗の弟・小次郎を新たな当主に迎え、伊達家との連携で家名を保とうとする「伊達派」。もう一つは、常陸の佐竹義重の子・義広を迎え、反伊達連合を形成することで独立を維持しようとする「佐竹派」である。家中の宿老たちは、それぞれの思惑からいずれかの派閥に与し、激しい主導権争いを繰り広げた 12 。
この家中の混乱期に、平田氏が伊達政宗と密かに接触していたことを示唆する、極めて重要な史料が存在する。それは、伊達家の公式記録である『伊達治家記録』や、それを基にしたとみられる文献の記述である 2 。
天正13年(1585年)2月7日付の書状では、「平田左京亮氏範」が政宗に対し、家督問題に関する偽りの報告をしたことを詫び、今後の身の振り方について相談を持ちかけている 2 。さらに、蘆名家滅亡の引き金となる摺上原の戦いの直前には、同じく伊達派であった富田氏実と共に「平田不休(氏範)同名周防(舜範)」が政宗に内応を申し出て、決戦の際には黒川城に火を放って呼応することを約束したと記されている 2 。
ここに、本報告書の中心的な謎である「複数の呼称」の問題が浮上する。忠臣として知られた「舜範」と、伊達家に内通した「氏範」「不休」は、果たして同一人物なのであろうか。複数の史料を突き合わせることで、その答えはほぼ確実に見えてくる。
第一に、官職名の一致である。舜範は「左京亮」「周防守」を名乗っていたことが確認されている 1 。一方、政宗に密書を送った「氏範」もまた「左京亮」を名乗っている 2 。戦国時代の武家社会において、官職名は個人のアイデンティティと密接に結びついており、宿老クラスの人物の官職が偶然一致することは考えにくい。これは、両者が同一人物である可能性を強く示唆する。
第二に、号の分析である。「不休」は禅宗の道号、「是亦斎」は隠居後の斎号と考えられる 22 。これらは、政治の表舞台から一歩引いた立場を示すために用いられることがあり、公的な活動とは別の、水面下での交渉を行う際に都合の良い名義であった可能性がある。
そして最も決定的なのが、「平田不休(氏範)同名周防(舜範)」という記述そのものである 2 。これは、「不休と号し、また氏範とも名乗る、平田周防守舜範」と解釈するのが最も自然である。すなわち、平田舜範は、蘆名家への忠臣(舜範)という表の顔を維持しつつ、一族存続のための裏の交渉では「氏範」や「不休」といった名を使い分ける、二重の顔を持つ策略家であったと結論付けるのが妥当であろう。以下の表は、その複雑な関係を整理したものである。
呼称/官職 |
読み |
種類 |
主な出典史料 |
登場する文脈 |
平田舜範 |
ひらた きよのり |
諱 |
『新編会津風土記』 1 など |
蘆名家臣、大槻政通の乱鎮定 |
平田常範 |
ひらた つねのり |
諱 |
Wikipedia 1 など |
舜範と同一人物または別人といわれる |
平田氏範 |
ひらた うじのり |
諱 |
『伊達治家記録』 2 |
伊達政宗への内通 |
平田不休 |
ひらた ふきゅう |
道号 |
『政宗記』 2 |
伊達政宗への内応申し出 |
是亦斎 |
ぜやくさい |
斎号 |
『会津旧事雑考』 1 など |
舜範の号として記録 |
左京亮 |
さきょうのすけ |
官職 |
Wikipedia 1 , 『伊達治家記録』 2 |
舜範、氏範の官職として記録 |
周防守 |
すおうのかみ |
官職 |
Wikipedia 1 , 『政宗記』 2 |
舜範の官職として記録 |
この表が示すように、平田舜範は、主家の内紛という未曾有の危機に際し、複数のアイデンティティを巧みに使い分け、自らと一族の生き残りを賭けた危険な交渉に臨んでいたのである。
蘆名家中の後継者争いは、重臣筆頭であった金上盛備らの主導により、佐竹義重の子・義広を新当主として迎えることで一応の決着を見た 20 。しかし、この決定は伊達派の宿老たちの強い反発を招き、家中の亀裂を決定的なものとした。平田氏や富田氏といった、かつて伊達小次郎を推した重臣たちの心は、もはや新たな主君・義広にはなく、蘆名家の結束は内部から崩壊していたのである。
天正17年(1589年)6月5日、南奥州の覇権を狙う伊達政宗は、2万3千と号する大軍を率いて会津盆地へと侵攻した。これに対し、蘆名義広は1万6千の兵を動員してこれを迎え撃ち、磐梯山麓の摺上原で両軍は雌雄を決することとなった 25 。
この蘆名家の命運を賭した決戦において、平田氏の動向は極めて不可解である。摺上原の戦いに参陣した蘆名方の主要な武将を列挙した複数の史料の中に、「平田」の名が一切見当たらないのである 25 。四天宿老という家中の最高幹部が、この存亡を賭けた一戦に参加していないという事実は、異常事態と言うほかない。
この戦場における平田氏の「不在」は、偶然や記録漏れとは到底考えられない。それは、前章で確認した伊達政宗への内通の約束と結びつけることで、初めてその意味を理解することができる。政宗に「城中に火を放つ」という内応を約束していた平田舜範は 2 、意図的にこの決戦への参加を放棄し、政宗の勝利を待っていたと考えるのが最も論理的な説明である。彼の不在は、消極的な不参加ではなく、積極的な敵への加担行為であった可能性が極めて高い。
この内通は、平田舜範個人の判断だったのか、それとも一族の総意だったのか。興味深いことに、舜範の弟である慶徳範重は、この戦役において伊達軍の侵攻に対し奮戦したという記録が残っている 28 。これは一見、兄は伊達方に内通し、弟は蘆名方として戦うという、一族内の分裂と対立を示唆しているように見える。しかし、戦国時代の武家の生存戦略には、一族を二つに分け、敵味方双方に属させることで、どちらが勝利しても家名を存続させるという「両属」と呼ばれる冷徹な手法が存在した。弟・範重の奮戦を隠れ蓑に、当主である兄・舜範が伊達方と通じることで、平田一族全体の安全保障を図ったという、高度な政治的判断であった可能性も十分に考慮すべきであろう。
摺上原の戦いは、蘆名軍の一部が奮戦したものの、重臣・猪苗代盛国の寝返りをはじめとする家中の不統一が響き、伊達軍の圧倒的な勝利に終わった。当主・義広は命からがら実家の佐竹氏のもとへ逃亡し、ここに400年続いた会津の名門・蘆名氏は、事実上滅亡した 27 。平田舜範の戦場放棄という行動は、この歴史的結末を決定づけ、その到来を早める一因となったことは間違いない。彼の「不在」は、単なる一個人の裏切りではなく、後継者選定の失敗に端を発する蘆名家臣団の構造的な崩壊が、最も劇的な形で現れた象徴的な出来事であった。
蘆名家の滅亡後、平田一族は、当主・舜範が下したであろう冷徹な判断の結果として、新たな時代を生き抜くための多様な道を歩むことになった。その軌跡は、戦国末期から近世へと移行する時代における、武士の多様な生き様を鮮やかに映し出している。
史料によれば、蘆名家が滅亡した後、平田常範(舜範と同一人物か)は、会津の新領主となった蒲生氏郷ではなく、越後の上杉景勝に仕えたとされる 3 。その後、慶長6年(1601年)に関ヶ原の戦いの余波で上杉家が会津120万石から米沢30万石へと減封されると、一族の運命はさらに分岐する。舜範(この文脈では鮮範とも記される)の長男・内匠は武士の身分を捨てて帰農の道を選び、次男の範吉が上杉家に従って米沢へ移り、米沢藩士として家名を存続させた 5 。この米沢藩士・平田家は、藩の地誌である『米府鹿子』にその名と「丸の内に三つ矢筈」の家紋が記録されており、幕末まで続いたことが確認できる 6 。
一方で、舜範の弟たちは、兄とは全く異なる、しかし同様に劇的な人生を歩んだ。特に末弟・助次郎の生涯は特筆に値する。彼は若き日に蘆名家から上杉家へ人質として送られたが、その類稀なる美貌と才智が主君・上杉景勝の目に留まり、異例ともいえる深い寵愛を受けることになった 8 。助次郎は景勝の命により信濃の名族・清野氏の家名を継ぎ、「清野長範」と改名 30 。上杉家が会津に移封された際には、伊南城代として一万一千石という破格の知行を与えられ、米沢移封後も藩の執政・直江兼続と緊密に連携して藩政の中枢で活躍した 8 。景勝の長範への信頼と寵愛は終生変わることがなく、臨終の際には「来世で再び会うため、自分と同じ導師に魂を導かせよ」と遺言したという逸話まで残っている 8 。滅びゆく家の出身者が、新たな主君との極めて個人的な信頼関係によって再生を遂げるという、戦国乱世ならではの劇的な立身出世の典型例である。
もう一人の弟、次男の善五郎もまた、異なる形で家名を繋いだ。彼は主命により慶徳家を継いで「慶徳範重」と名乗り、対伊達戦線で武功を挙げた 8 。彼の家系は、皮肉にも兄が内通した伊達家に後に仕えることとなり、準一門として一万石という厚遇を受けた 8 。
このように、平田一族は、当主・舜範の現実的な選択、範重の武勇、そして長範の個人的資質という、それぞれ異なる戦略によって、主家の滅亡という激震を乗り越え、その血脈を複数の形で後世に伝えることに成功したのである。
人物名 |
読み |
続柄 |
主な事績 |
最終的な動向 |
平田輔範 |
ひらた すけのり |
舜範らの父 |
蘆名四天宿老。天文期に活躍。 |
- |
平田舜範 |
ひらた きよのり |
輔範の長男 |
蘆名四天宿老。大槻政通の乱を鎮定。後に伊達政宗に内通。 |
蘆名家滅亡後、上杉家に仕えた説あり。 |
慶徳範重 |
けいとく のりしげ |
輔範の次男 |
慶徳家を継ぐ。対伊達戦で奮戦。 |
子孫は伊達家に仕え、一万石の厚遇を受ける。 |
清野長範 |
きよの ながのり |
輔範の三男 |
上杉家の人質から景勝の寵臣へ。清野家を継ぎ、米沢藩で重臣となる。 |
上杉家家臣として大成し、藩政の中枢で活躍。 |
本報告書で検証してきたように、平田舜範は、単に「忠臣」あるいは「裏切り者」という二元論的なレッテルで語れる単純な人物ではない。彼は、主家である蘆名氏が隆盛を誇った時代には、その中核として忠誠を尽くし(大槻政通の乱鎮定)、一方で主家が衰亡の淵に立ち、内部抗争で分裂した際には、一族の存続という武家にとっての至上命題を優先し、敵方との内通も辞さない冷徹な現実主義者(伊達政宗への内通)へとその姿を変えた。彼はまさに、戦国乱世という時代の激動が生み出した典型的な武将であった。
彼の行動は、個人の倫理観や道徳を超え、中世的な主従関係における「忠義」という価値観が絶対ではなくなり、近世的な「家」の存続と繁栄が最優先される時代への移行期を体現している。弟・清野長範が上杉家で大成し、もう一人の弟・慶徳範重の子孫が伊達家で厚遇されたという事実は、舜範が当主として下したであろう現実的かつ多角的な判断が、結果として平田一族の血脈を様々な形で後世に伝えることに成功した何よりの証左と言える。
平田舜範の生涯は、一個の組織が衰退期に直面した時、その指導的立場にある人間が、旧来の価値観(主家への絶対的忠誠)と、未来への責務(一族の存続)との間でいかに苦悩し、そして決断を下すかという、時代を超えた普遍的な問いを我々に投げかけている。彼の複雑な実像を、断片的な史料から丹念に再構築していく作業は、戦国時代という時代の本質と、そこに生きた人々のリアルな姿を、より深く理解することに繋がるのである。