本報告書は、日本の歴史上、最も劇的な転換期である戦国時代から江戸時代初期にかけて、九十九歳という長寿を全うした武将、平賀元相(ひらが もとすけ、天文16年(1547年) - 正保2年(1645年))の生涯を、その一族の歴史、同時代の政治的文脈、そして彼自身の精神的変遷の中に位置づけ、徹底的に解明することを目的とする 1 。ご依頼主が把握されている「毛利家臣、関ヶ原合戦後、主家の減封により知行が4分の1に減らされたため、隠居して上洛。のちに孫・就忠の住む萩に移った」という人物像は、彼の長大な生涯の最終局面を的確に捉えている [ユーザー提供情報]。本稿では、この骨子を出発点としながら、その背後に横たわる複雑な人間関係、政治的力学、そして個人の決断の重みを、現存する史料に基づき多角的に描き出す。
元相の生涯は、安芸国の一国人領主が、毛利氏という巨大な戦国大名の家臣団に組み込まれ、やがて豊臣政権という全国規模の統治体制の一翼を担い、最終的には徳川幕藩体制下の近世武士、すなわち長州藩士としてその家名を後世に伝えるという、武士のあり方が根底から変容する過程そのものを体現している。彼の九十九年の生涯は、単なる一個人の歴史に留まらず、日本の「中世」が終わりを告げ、「近世」が確立されるまでの、社会構造と価値観のダイナミックな変動を映し出す貴重な鏡である。本稿では、この視座を常に念頭に置き、元相の人生の各局面を分析していく。
安芸国に根を下ろした平賀氏の出自については、複数の系統が伝えられており、その解釈には慎重な検討を要する。
第一に、安芸平賀氏自身の家伝や系図の多くが採用する「藤原姓説」がある。この説によれば、一族は藤原北家の流れを汲み、太政大臣・藤原良房を遠祖と仰ぐとされる 3 。始祖とされる松葉資宗は尾張国松葉庄を領し、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の学問所番衆を務めた文人としての側面も持っていたと伝わる 3 。この一族が、後に出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市周辺)を領有したことから「平賀氏」を称するようになったとされる 3 。
一方で、歴史上には清和源氏義光流、すなわち源義家の弟・新羅三郎義光を祖とする「源姓平賀氏」も存在する 6 。この一族は信濃国佐久郡平賀郷を本拠とし、鎌倉時代には幕府の有力御家人として名を馳せた。時代は下るが、江戸時代後期の万葉調歌人・平賀元義もこの源姓を名乗っており、その存在感は大きい 7 。
これらの説を検討すると、戦国期に安芸国で活動した平賀氏については、史料的に藤原姓とするのが通説である 8 。源姓平賀氏との直接的な血縁関係は認められないものの、同名の有力氏族が存在した事実は、「平賀」という名字が持つ格式を考える上で重要な背景となる。本稿では、安芸平賀氏を藤原姓の系統として論を進める。
平賀氏が安芸の地に歴史を刻み始めるのは、鎌倉時代後期のことである。一族は出羽国から安芸国高屋保(現在の広島県東広島市高屋町一帯)の地頭職を得て移住し、この地を新たな本拠とした 4 。当初は「松葉氏」を名乗っていたが、やがて平賀氏に改称したと伝えられる 5 。
南北朝時代の動乱期には、足利尊氏に属して軍功を挙げ、所領を着実に拡大した 3 。室町時代に入ると、安芸国守護として赴任してきた山名氏の支配に激しく抵抗し、地域の国人衆と一揆を結成して対抗するなど、中央権力に屈しない独立領主としての気概を示した 5 。
こうした数々の戦いと交渉を通じて、平賀氏は高屋保を中核に、入野郷、造賀保、河内といった賀茂郡・豊田郡にまたがる広大な領域を支配下に収め、安芸国有数の国人領主へと成長を遂げたのである 5 。
平賀氏の勢力拡大と戦略思想の変遷は、彼らが本拠とした城郭の移り変わりに明確に見て取ることができる。それは、鎌倉期の在地領主の館から、戦国期の経済拠点、そして最終的には峻険な軍事要塞へと、時代の要請に応じてその姿を変えていった。この変遷は、平賀元相が相続することになる「家」が、いかにして戦国の荒波を乗り越えるための物理的・戦略的基盤を築き上げてきたかを示すものであり、元相の行動原理を理解する上での重要な前提となる。
城郭名 |
築城時期(伝) |
主な城主 |
立地と特徴 |
戦略的意義・目的 |
典拠 |
御薗宇城 |
弘安年間 (1278-87) |
初代~平賀弘保 |
低丘陵に築かれた館城 |
鎌倉・室町期の在地支配の拠点。平時の居住と有事の防御を兼ねる。 |
5 |
白山城 |
文亀3年 (1503) |
平賀弘保 |
交通の要衝を見下ろす丘城 |
経済(城下町「白市」の整備)と軍事の両面を重視。領地拡大への能動的対応。 |
5 |
頭崎城 |
大永3年 (1523) |
平賀弘保・興貞 |
比高約200m超の峻険な山城 |
大内・尼子の大規模な軍事衝突に対応するための本格的な防衛拠点。 |
5 |
この居城の変遷は、単なる拠点の移動ではない。それは、戦国時代における「戦争の質」そのものの変化を物語っている。国人同士の小競り合いが主であった時代から、大内・尼子のような大大名による国家総力戦に近い大規模な軍事行動が常態化する時代への移行を、平賀氏は城郭の機能を進化させることで対応しようとした。平賀元相が生まれた時には、一族はすでにこの「総力戦」を前提とした軍事体制の中に組み込まれており、この環境が彼の武将としての資質を形成したことは想像に難くない。
16世紀前半の安芸国は、西の周防を本拠地とする大内氏と、東の出雲に拠点を置く尼子氏という二大勢力が激しく衝突する最前線であった 8 。安芸の国人領主たちは、この巨大な権力の間で、大内方につくか、尼子方につくかという、一族の存亡をかけた厳しい選択を常に迫られていた。その選択はしばしば一族内に深刻な亀裂を生み、内紛の火種となった 8 。
平賀氏もまた、この時代の潮流と無縁ではいられなかった。当主であった平賀興貞(元相の祖父)と、その父で隠居の身であった平賀弘保(元相の曽祖父)との間で、深刻な対立が表面化する 8 。
この対立は、単なる親子の不和に留まらなかった。それは、一族の将来を左右する外交方針の路線対立であった。興貞は新興勢力である尼子氏に通じ、最新の堅城である頭崎城に拠った。一方、老練な弘保は旧来からの主筋である大内氏との関係を重視し、白山城に拠って興貞と対峙したのである 10 。両者の争いはエスカレートし、互いの城を攻撃しあうほどの武力衝突にまで発展した 10 。この内紛に、大内義隆は弘保を支援する形で介入し、援軍を派遣した 10 。結果として、興貞は隠居に追い込まれ、その子であり弘保の孫にあたる平賀隆宗が家督を継ぐことで、事態は一旦の収拾を見た 12 。
天文18年(1549年)、当主の平賀隆宗が備後神辺城攻めの陣中で病没したことにより、平賀氏の家督問題が再び燃え上がった 8 。曽祖父の弘保は、隆宗の弟である新九郎、すなわち後の平賀広相(元相の父)に家督を継がせることを強く望んだ 12 。
しかし、主君である大内義隆は、この正統な継承案を退けた。義隆は、自らの寵臣であった小早川氏庶流の亀寿丸(当時わずか10歳)を、亡き興貞の養子という形式をとり、平賀隆保と名乗らせて強引に家督を相続させたのである 10 。この隆保は、かつて大内氏に敵対して自害に追い込まれた小早川常平の子であり、平賀氏とは何ら血縁のない人物であった 10 。この血縁的正統性を完全に無視した人事は、平賀一族や家臣団の間に深刻な不満と屈辱感をもたらしたが、強大な大内氏の決定に表立って異を唱えることはできなかった 10 。
平賀氏の運命を劇的に転換させる事件が、天文20年(1551年)に起こる。大内義隆が、重臣・陶隆房(晴賢)の謀反によって自刃に追い込まれた「大寧寺の変」である 10 。
この政変を好機と見たのが、安芸の国人領主から戦国大名へと飛躍しつつあった毛利元就であった。元就は陶と協力関係を結ぶ一方で、義隆派残党の一掃を名目に、平賀隆保が籠る頭崎城への攻撃を開始した 10 。この時、隆保の擁立に強い不満を抱き続けていた曽祖父・弘保をはじめとする平賀家の家臣たちは、毛利軍に内通し、血の繋がりのない当主・隆保を見殺しにした 10 。四面楚歌となった隆保は頭崎城を脱出するも、逃亡の末に自害を遂げた 12 。
毛利元就・隆元父子は、この機を逃さず、弘保が本来望んでいた新九郎広相(元相の父)の家督相続を全面的に支援した 12 。これにより、広相は毛利氏への絶対的な感謝と忠誠を誓う起請文を提出し、ここに平賀氏は毛利氏の強力な与力、事実上の家臣団の一員となったのである 13 。この関係は、天文22年(1553年)に毛利隆元、小早川隆景、そして平賀広相の間で三者同盟が結ばれることで、さらに強固なものとなった 5 。
平賀氏の毛利氏への帰属は、封建的な忠誠心の発露というよりも、外圧によって生じた家中の危機を、毛利という新興勢力の力を借りて解決するという、極めて現実的かつ戦略的な「アライアンス」として始まった。この「始まりの記憶」は、後の平賀元相の行動原理、特に主家との距離感を考える上で、不可欠な鍵となる。
平賀元相は、天文16年(1547年)、平賀広相の嫡男として生を受けた 2 。幼名は小法師(こぼし)と伝わる 2 。彼の誕生は、父・広相が毛利氏の支援を得て家督を回復し、平賀氏が独立国人領主から毛利家臣団の一員へとその性格を大きく変容させた激動の最中であった。元相は、生まれながらにして毛利家の一員としての運命を背負っていたのである。
永禄10年(1567年)3月17日、父・広相が死去すると 8 、同年7月5日、当時21歳(数え年)の元相(当時はまだ幼名の小法師)は、毛利元就、当主の毛利輝元、そして叔父の小早川隆景という毛利家中枢三者の連署による安堵状を得て、正式に平賀家の家督を相続した 14 。
元服はおそらくこの直後に行われたと考えられ、その名「元相」の「元」の字は、主君・毛利輝元からの偏諱(へんき)を賜ったものであることは間違いない。これは、宍戸隆家が大内義隆から「隆」の字を授かったように 15 、主君への忠誠と従属を示す戦国武家社会における重要な儀礼であった。さらに、妻には毛利家の重臣である福原貞俊の娘を迎えており 2 、毛利家中枢との姻戚関係を築くことで、家臣団内での地位を一層強固なものとしていった。
家督を継いだ元相は、毛利氏が版図を拡大していく主要な合戦に一貫して従軍し、武将としての経験と名声を着実に積み重ねていった。
これらの軍功により、平賀氏の所領は毛利氏の最大版図期において1万8,000石にまで達した 3 。これは毛利家臣団の中でも屈指の大身であり、元相が輝元政権下で極めて重要な軍事力を担う存在であったことを明確に示している。
慶長元年(1596年)、平賀元相は従五位下・木工頭に叙任されるとともに、豊臣の姓を授けられた 3 。これは、毛利輝元の家臣、すなわち豊臣家から見れば「陪臣(ばいしん)」にあたる元相にとっては、極めて異例の厚遇であった。
この厚遇の背景には、豊臣秀吉の巧みな大名統制策があった。秀吉は、有力大名の力を削ぐため、その重臣に直接官位や姓を与えることで、大名の影響力を相対化し、自身への直接的な忠誠心を植え付けようとしたのである 21 。元相への豊臣姓下賜は、彼個人の武将としての能力と、平賀氏が動員可能な軍事力(天正19年の軍役帳によれば、鉄砲156丁を含む大部隊を編成可能であった 14 )を秀吉が高く評価した証であった。
しかし、この栄誉は元相にとって、毛利家との関係を複雑化させる「楔(くさび)」でもあった。主君である輝元を飛び越えて天下人から直接栄誉を受けることは、主従の秩序を揺るがしかねない。元相は、この栄誉を断ることはできない一方で、受けることで輝元や他の重臣から「豊臣に靡いた」と見なされるリスクを負うことになった。この出来事は、元相を毛利家臣団の中で特別な、しかし同時に孤立しかねない立場に置いた。彼の視座は、単なる毛利家の一家臣から、天下の情勢を直接肌で感じる立場へと引き上げられたのである。この経験が、関ヶ原後の彼の冷静な判断、すなわち主家への殉死や絶対的追従を選ばないという選択に繋がった可能性は否定できない。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。主君・毛利輝元は、家臣の安国寺恵瓊や石田三成らの画策により、西軍の総大将に推戴され、大坂城西の丸に入った 3 。平賀元相も毛利軍の一員として西軍に属し、戦いに臨んだ 27 。
毛利勢の主力部隊は、輝元の養子・毛利秀元を総大将とし、輝元の従弟にあたる吉川広家らを先鋒として、決戦の地・関ヶ原の南に位置する南宮山に布陣した 24 。しかし、9月15日の本戦当日、南宮山に陣取った1万5,000の毛利勢は、ついに山から一歩も動くことはなかった。これは、東軍の徳川家康と密かに内通していた吉川広家が、毛利家の安泰を条件に不戦を約束しており、「今、兵に弁当を食べさせている(宰相殿の腹ごしらえ)」などと理由をつけて、意図的に秀元らの進軍を妨害し続けたためであった 24 。
吉川広家の内通と、同じく西軍であった小早川秀秋の土壇場での裏切りにより、西軍は総崩れとなり、わずか一日で壊滅した。西軍総大将であった輝元は、広家が家康との間で取り付けたとされる「所領安堵」の約束を信じ、戦わずして大坂城を退去した 24 。
しかし、家康はこの約束を事実上反故にする。輝元が西軍の総大将として大坂城に入ったことや、輝元の名の下に四国や九州へも軍を派遣し、東軍方の城を攻撃していた事実などを咎め、毛利氏の所領を中国地方8か国112万石から、周防・長門の二国(実質的な石高は約37万石)へと大幅に削減する処分を下した 34 。これは、毛利家にとって建国以来の存亡の危機ともいえる事態であった。
主家の大減封は、家臣団にも過酷な運命を強いた。1万8,000石の大身であった平賀元相も例外ではなく、その知行を4分の1以下の4,000石余りにまで減らされた 3 。さらに深刻だったのは、領地の喪失である。安芸国高屋の地は毛利氏の旧領として没収され、新たに入部してきた福島正則の支配下となった 38 。これにより、平賀氏は鎌倉時代以来、約四百年にわたって一族の血と汗が染み込んだ本拠地を、完全に失うことになったのである 3 。
元相のような歴戦の武将にとって、関ヶ原での「不戦敗」は、単なる知行の喪失以上に、耐え難い屈辱であったに違いない。命を懸けて仕えてきた毛利家という組織が、家中の内紛と指導部の混乱によって、天下分け目の決戦で戦うことすらできずに敗北した。この事実は、彼の武将としての矜持を深く傷つけ、主家への忠誠心そのものを根底から揺るがすのに十分な出来事であった。彼のその後の「離脱」という決断は、この深い幻滅が引き起こした、ある意味で必然的な帰結であったのかもしれない。
関ヶ原の戦後、毛利家は新たな本拠地である萩への移封と、それに伴う大規模な家臣団の再編という困難な作業に着手した。旧領の安芸・備後などを新領主である福島正則らに引き渡す際には、年貢の徴収などを巡って混乱が生じた 17 。
平賀元相は、この混乱の最中、慶長5年(1600年)、毛利家を離れ、浪人の身となった。公式な理由としては「新領主への返租(年貢の引き渡し)ができず」とされているが 5 、大幅な減封と、前述した主家への深い失望が真の理由であったと推察される。これは、同じ毛利一門でありながら一万石を超える知行を維持して厚遇された宍戸氏 40 や、多くの庶流と共に萩へ移った熊谷氏 41 などとは対照的な、自ら選んだ厳しい道であった。
浪人となった元相は、多くの者がそうしたように武士としての再仕官を目指すのではなく、文化の中心地である京へ上り、隠棲生活に入った 1 。この時期、彼は武将としての名を捨て、「茂庵(もあん)」あるいは「宗安(そうあん)」と号したことが記録されている 2 。これらの号は単なる雅号ではなく、彼の新たな精神的境地を象徴するものであった。
「茂庵」という名は、京都・吉田山に現存する数寄屋造りの茶室群の名称としても知られており 42 、元相がこの名を用いたことは、彼が茶の湯の世界に深く傾倒していたことを強く示唆する。「宗」の字は禅宗の宗派や茶道の流派の系譜を示す際に用いられることが多く、「安」は心の平安を意味する。戦国時代、茶の湯は武将たちにとって、戦の合間の精神修養であり、自己の内面と向き合うための重要な文化的装置であった 43 。特に千利休が大成した「侘び茶」は、質素な中に美を見出す「侘び寂び」の精神性を重視し、禅の思想と深く結びついていた 46 。
元相の京都での生活は、武力(武)が全ての価値基準であった戦国の世から、内面的な精神性や文化(文)が重視される泰平の世(江戸時代)への、彼自身の価値観の転換を象徴している。江戸初期、大名の改易によって生じた大量の浪人は社会問題化していたが 49 、元相はその自由な立場を利用し、戦国武将としての過去と決別し、一人の文化人として新たな人生を歩み始めたのである。彼の三十年以上にわたる京都での生活は、単なる余生ではなかった。それは、戦国という「死の時代」を生き抜いた武将が、泰平の世という「生の時代」に自らを適応させるための、能動的で意識的な自己改革の期間であったと言えよう。
元相が京都で静かな生活を送る一方、彼の嫡男である平賀元忠は、一族の再興に向けて動いていた。元忠は一時期、紀伊国和歌山城主の浅野家に寄食していたが、やがて毛利家への帰参が許された 17 。
しかし、その処遇はかつての栄光とは程遠いものであった。与えられた知行はわずか300石 17 。これは、一度主家を離れたことに対する厳しさの表れであると同時に、大幅に財政が縮小した長州藩の苦しい台所事情を反映したものであった。それでも、この帰参によって平賀家は長州藩士として家名を存続させる道筋を確保し、明治維新まで続くこととなる 5 。
息子・元忠の帰参後も、元相はしばらく京都での生活を続けた 18 。彼の心境は、もはや武士社会の栄達にはなかったのかもしれない。
転機が訪れたのは、寛永13年(1636年)。孫の平賀就忠(なりただ)からの度重なる要請を受け、元相はついに長州藩の城下町・萩へ戻ることを決意する 18 。この時、元相は90歳。毛利家が最も輝いていた時代を知る「生きる伝説」であり、同時にその没落を機に一度は家を見限った人物でもある彼の帰還は、長州藩にとって大きな意味を持った。それは、彼自身が、過去の栄光(1万8,000石の国人領主)に固執するのではなく、未来(300石の長州藩士)を生きる子孫の道を公認し、祝福したことを意味する。彼の帰還は、一族の歴史に区切りをつけるための、最後の、そして最も重要な政治的決断であった。
萩に戻った元相は、それから9年後の正保2年(1645年)9月3日、99歳(数え年)でその長い生涯の幕を閉じた 2 。戦国の動乱を生き抜き、泰平の世の到来を見届けた末の、見事な大往生であった。
平賀元相の死後も、平賀家は長州藩の大組士(上級藩士)として家名を保ち、明治維新を迎えた 5 。幕末の動乱期には、一族から神機隊を組織して戊辰戦争で活躍した平賀国木(くぼく)のような人物も輩出している 51 。
平賀氏の歴史は、今もゆかりの地にその痕跡をとどめている。
かつての根拠地であった広島県東広島市には、現在も「平賀氏の遺跡」として、一族の墓所や、御薗宇城、白山城、頭崎城の城跡が広島県の史跡として保存されている 4 。特に頭崎城跡は、曲輪の遺構などが残り、戦国時代の山城の姿を今に伝えている 53 。
一方、元相が晩年を過ごした山口県萩市においては、元相自身の墓の所在は詳らかではないが、子孫の墓は海潮寺(かいちょうじ)にあると伝えられている 17 。この海潮寺には、奇しくも長州藩の藩校・明倫館の聖廟が移築されており、平賀家が仕えた長州藩の文教の歴史を今に伝えている 56 。
平賀元相の九十九年にわたる生涯は、独立した領主権を持つ安芸国人領主が、戦国大名・毛利氏の家臣となり、豊臣政権下で全国規模の動乱に参加し、関ヶ原の敗戦を経て一度は浪人となりながらも、最終的には近世大名・長州藩の家臣として家名を後世に伝えた、まさに「中世から近世へ」という時代の転換期そのものを凝縮した人生であった。
彼は、父祖伝来の複雑な政治的遺産を背負いながらも、武将として主家のために忠実に軍功を重ねた。しかし、主家の存亡に関わる危機に際しては、旧来の封建的な忠誠観にただ縛られることなく、自己の価値観と一族の存続を秤にかけた、極めて現実的な判断を下した。その選択は、戦国の「武」の価値観から、近世の「文」の価値観へと自らを適応させる、驚くべき柔軟性と精神的な強靭さを示している。
平賀元相は、歴史の教科書にその名を大きく刻む英雄ではないかもしれない。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、戦国から江戸初期という激動の時代を生きた無数の武士たちが、いかにして時代の変化に対応し、自らのアイデンティティを再構築し、そして家を存続させていったかという、より普遍的で深遠な歴史のダイナミズムを我々に教えてくれる。彼の九十九年の軌跡は、時代の大きな転換点を生きた一人の武士の、見事な生き様の記録として、後世に語り継がれるべき価値を持つと言えよう。
西暦(元号) |
元相の年齢(数え年) |
平賀元相の動向・出来事 |
主家(毛利氏)の動向 |
天下の主要な動向 |
典拠 |
1547年(天文16) |
1歳 |
平賀広相の嫡男として安芸国に誕生。幼名は小法師。 |
毛利元就、安芸・備後で勢力を拡大。 |
- |
2 |
1551年(天文20) |
5歳 |
|
毛利元就、大寧寺の変に乗じ、平賀隆保を討ち、父・広相の家督を支援。 |
陶晴賢、大寧寺の変で大内義隆を討つ。 |
12 |
1555年(弘治元) |
9歳 |
|
毛利元就、厳島の戦いで陶晴賢を破る。 |
- |
3 |
1567年(永禄10) |
21歳 |
父・広相の死去に伴い、家督を相続。毛利元就・輝元・小早川隆景から安堵状を得る。 |
毛利輝元、家督を継承(1563年)。 |
- |
8 |
1570年(元亀元) |
24歳 |
布部山の戦いに従軍し、尼子再興軍と戦う。 |
毛利輝元、尼子再興軍を撃破。 |
織田信長、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破る。 |
2 |
1571年(元亀2) |
25歳 |
|
毛利元就、死去。 |
- |
2 |
1582年(天正10) |
36歳 |
|
備中高松城の戦い。清水宗治が切腹。 |
本能寺の変。織田信長、死去。羽柴秀吉、山崎の戦いで明智光秀を討つ。 |
2 |
1585年(天正13) |
39歳 |
秀吉の四国攻めに従軍。伊予高尾城攻めで武功を挙げる。 |
毛利輝元、秀吉に臣従し、四国攻めに参加。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
14 |
1587年(天正15) |
41歳 |
秀吉の九州平定に従軍。豊後宇留津城攻めで武功を挙げ、黒田孝高に賞賛される。 |
毛利輝元、九州平定に参加。 |
豊臣秀吉、九州を平定。 |
14 |
1588年(天正16) |
42歳 |
主君・輝元の上洛に際し、草津の宿所へ挨拶に訪れる。 |
毛利輝元、上洛し聚楽第行幸に供奉。 |
豊臣秀吉、刀狩令を発布。 |
2 |
1596年(慶長元) |
50歳 |
従五位下・木工頭に叙任。豊臣姓を下賜される。 |
|
慶長伏見地震が発生。 |
18 |
1598年(慶長3) |
52歳 |
|
|
豊臣秀吉、死去。 |
2 |
1600年(慶長5) |
54歳 |
関ヶ原の戦いに西軍として参加。戦後、知行を1万8千石から4千石余に減らされる。毛利家を離れ、浪人となる。 |
毛利輝元、西軍総大将となるも敗北。防長二国に減封される。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が勝利。 |
2 |
1601年頃 |
55歳頃 |
京都へ上り、隠棲生活を始める。「茂庵」「宗安」と号す。 |
毛利輝元、萩城の築城を開始(1604年)。 |
徳川家康、江戸幕府を開く(1603年)。 |
1 |
時期不詳 |
- |
嫡男・元忠が毛利家に帰参し、300石を与えられる。 |
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17 |
1615年(元和元) |
69歳 |
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大坂夏の陣。豊臣家滅亡。 |
2 |
1625年(寛永2) |
79歳 |
|
毛利輝元、死去。 |
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2 |
1636年(寛永13) |
90歳 |
孫・就忠の要請を受け、京都から萩へ移り住む。 |
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19 |
1645年(正保2) |
99歳 |
9月3日、萩にて死去。 |
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2 |