戦国時代の日本列島、とりわけ中国地方の覇権を巡り激しい攻防が繰り広げられた安芸国(現在の広島県西部)に、その名を刻んだ一人の武将がいた。平賀広相(ひらが ひろすけ)。彼の生涯は、一族内の骨肉の争い、理不尽な家督の簒奪、そして不屈の精神による奪還という、まさに戦国乱世の縮図ともいえる劇的なものであった。広相の物語を紐解くにあたり、まずは彼が背負った「平賀氏」という家の歴史と、彼が生まれた時代の安芸国が置かれた複雑な状況から筆を起こすこととしたい。
安芸平賀氏は、その出自を藤原北家良房の流れに汲むとされ、鎌倉時代に出羽国平鹿郡(現在の秋田県横手市周辺)から安芸国高屋保の地頭として赴任したことに始まると伝えられる 1 。彼らは幕府の権威を背景にこの地に根を下ろした「移住領主」であり、弘安年間(1278年~1288年)には最初の拠点となる御薗宇城を築いた 3 。この城は、鎌倉時代の典型的な城郭様式である「丘腹切込み式」で築かれており、有事の際の砦というよりは、平時の政務や居住を主眼に置いた館としての性格が強かった 3 。
室町時代を通じて、平賀氏は周辺の国人領主との連携や抗争を繰り返しながら着実に勢力を拡大し、安芸国でも有数の国人領主へと成長を遂げた 2 。この過程で、西国に強大な影響力を持つ周防国の大内氏との関係を深め、当主が大内氏の当主から名前の一字(偏諱)を拝領することが慣例となるなど、その支配体制下に組み込まれていった 2 。
しかし、戦国時代の幕が開けると、安芸国は西の大内氏と、出雲国から急速に南下してくる新興勢力・尼子氏という二大勢力が激突する最前線と化した 5 。平賀氏をはじめとする安芸の国人たちは、自らの存亡を賭けて両勢力の間で揺れ動き、時には利害を同じくする者同士で「国人一揆」と呼ばれる同盟を結び、共同で大勢力に対抗しようと試みた 5 。広相の祖父・平賀弘保も、この国人一揆の契約書に署名した一人であり、彼らが完全に大名に隷属する存在ではなく、自立性を保ちながら乱世を生き抜こうとしていたことが窺える 5 。
この軍事的緊張の高まりは、平賀氏の拠点城郭の変遷に如実に表れている。弘保の代になると、まず防備に優れた山城である白山城が築かれ、居城が移された 3 。この白山城は、比高約100メートルの山上に位置するだけでなく、城下には「白市」と呼ばれる市場町を計画的に整備し、領内の経済的基盤を強化する戦略的意図も見て取れる 3 。平賀氏が単なる武辺一辺倒の領主ではなく、領国経営にも長けた存在であったことを示唆している。
だが、戦国の争乱は白山城の防備すらも心許ないものとした。特に大永年間(1521年~1528年)、尼子氏の軍勢が怒涛の如く安芸に侵攻するようになると、弘保はさらなる決断を迫られる。大永3年(1523年)、彼は西条盆地の北東に聳える、比高200メートル以上を誇る峻険な山に、新たな拠点城郭「頭崎城」の築城を開始した 5 。この頭崎城は、安芸国では毛利氏の吉田郡山城に次ぐ規模を持ち、100を超える曲輪群が複雑に配置された、まさに戦国時代の本格的な巨大要塞であった 5 。平時の居館であった御薗宇城から、防衛と経済を両立させた白山城へ、そして防衛に特化した頭崎城へ。この城郭の進化は、平賀氏が直面した脅威が、もはや小競り合いのレベルではなく、国家の存亡をかけた総力戦へと質的に変化したことを雄弁に物語っている。平賀広相は、この巨大な山城が築かれ、一族が新たな時代を迎えようとする、まさにその渦中に生を受けたのである。
平賀氏が築いた壮大な頭崎城は、しかし、一族に安寧をもたらすどころか、深刻な内部対立の舞台となった。安芸国が直面した大内・尼子という二大勢力への態度の違いが、平賀氏の内部で祖父と父、そして父と子という、最も断ち切り難いはずの血縁関係に深い亀裂を生じさせたのである。この骨肉の争いこそが、若き日の平賀広相の運命を大きく左右し、後の家督簒奪劇の遠因となっていく。
対立の軸となったのは、広相の祖父・平賀弘保と、その嫡男である父・平賀興貞であった。祖父・弘保は、長年にわたる大内氏との関係を重視し、その支配体制の中で家の安泰を図ろうとする「親大内派」の重鎮であった 5 。彼はかつて大内義興の上洛に従軍し、船岡山の戦いで武功を挙げるなど、大内家への忠勤に励んだ実績を持つ、旧来の秩序を重んじる人物だった 8 。
一方、新たに築かれた頭崎城の城主を任された父・興貞は、旧来の主筋である大内氏よりも、破竹の勢いで南下してくる新興勢力・尼子氏に接近し、時流に乗ることで家の浮揚を図ろうとした 5 。この路線対立は、単なる意見の相違では済まなかった。興貞は頭崎城に拠って公然と尼子方につき、弘保ら親大内派と袂を分かったのである。これにより、平賀氏は一族内で敵味方に分かれ、天文5年(1536年)から4年間にわたり、文字通り血で血を洗う内戦状態に陥った 5 。祖父・弘保と、その孫である広相の兄・平賀隆宗、そして広相自身(当時の通称は新九郎)が、実の父であり子である興貞と干戈を交えるという、異常事態であった 6 。
この泥沼化した骨肉の争いに終止符を打ったのが、当時、大内氏傘下の一国人に過ぎなかった毛利元就の軍事介入であった。大内義隆の命を受けた元就は、天文9年(1540年)、頭崎城を攻撃してこれを攻略 8 。敗れた興貞は出家させられ、事実上、政治の表舞台から追放された。そして、平賀氏の家督は、興貞の嫡男でありながら、終始祖父・弘保と行動を共にし大内方として戦った隆宗が継承することになったのである 5 。
この一連の内紛において、若き広相(新九郎)が一貫して父ではなく祖父と兄の側に立ったという事実は、彼の人生を考える上で極めて重要である。彼は幼い頃から、一族が拠って立つべき正統な路線は「親大内」であるという価値観の中で育ち、それを裏切った父の行動を許容できなかったのであろう。
この平賀氏の内紛は、単なる一族内の権力争いではない。それは、旧来の権威である大内氏につくべきか、新興の尼子氏に未来を託すべきかという、当時の安芸国人領主すべてが抱えた「二者択一のジレンマ」の縮図であった。弘保が「安定」を、興貞が「好機」を選んだ結果が、この悲劇的な内戦だったのである。そして、この争いを調停した毛利元就は、単に大内氏の命令を遂行しただけではなかった。彼はこの介入を通じて平賀氏に恩を売り、その内部事情に深く関与することで、将来、安芸国を自らの手中に収めるための重要な布石を打っていた。十数年後、窮地に陥った広相を救い出すことになる元就との因縁は、この時に既に始まっていたのである。
以下の表は、この複雑な家督相続を巡る主要人物の関係性をまとめたものである。
人物名平賀 弘保平賀 興貞平賀 隆宗平賀 広相平賀 隆保大内 義隆毛利 元就平賀家での立場広相の祖父広相の父広相の兄主人公広相の養兄平賀氏の主君安芸の国人政治的立場親大内派親尼子派親大内派親大内派 → 毛利家臣大内義隆派大内家当主大内家臣 → 独立備考頭崎城を築城。興貞と対立し、広相の家督相続を望む。頭崎城主となるが尼子に通じ、弘保・隆宗・広相と内戦。内戦に勝利し家督を継ぐが、若くして陣没。兄の死後、正統な後継者と目されるも家督を奪われる。義隆の介入により平賀家の家督を継ぐ。平賀家の家督に介入し、寵臣の隆保を当主とする。平賀家の内紛に介入し、後に広相の後援者となる。
一族を二分した内戦を乗り越え、兄・隆宗のもとでようやく安定を取り戻したかに見えた平賀氏に、再び暗雲が立ち込める。兄のあまりにも早すぎる死が、平賀広相の運命を大きく暗転させたのである。主君であるはずの大内義隆による非情かつ理不尽な介入によって家督を奪われた広相は、長く苦しい雌伏の時を過ごすことを余儀なくされた。
家督を継いだ兄・平賀隆宗は、大内氏の忠実な武将として、尼子方に寝返った備後国の山名理興が籠る神辺城の攻略戦(神辺合戦)などに従軍し、各地を転戦した 12 。しかし、天文18年(1549年)7月3日、その神辺城攻撃の陣中において病に倒れ、帰らぬ人となった 8 。享年わずか26という若さであった 12 。
隆宗には子がなかったため、平賀氏の家督相続問題が再び勃発した。祖父・弘保は、一族の内紛を共に戦い抜き、血筋の上でも正統な後継者である隆宗の弟、新九郎(広相)に家督を継がせることを強く望んだ 5 。これは、一族の誰もが納得する、ごく自然な選択であった。
ところが、この当然の相続に、主君である大内義隆が待ったをかけた。義隆は、平賀氏の意向を完全に無視し、自身の個人的な寵愛を受けていた小早川氏の庶流出身の少年・亀寿丸を弘保の養子として強引に送り込み、「平賀隆保」と名乗らせて家督を継がせるという暴挙に出たのである 5 。この裁定は、平賀氏の家臣団や一族にとって、まさに青天の霹靂であった。祖父・弘保をはじめ、家督を継ぐはずだった広相も、この理不尽な決定に強い不満と憤りを抱いたが、西国に君臨する強大な主君・大内義隆の命令に表立って逆らうことはできず、断腸の思いでこれを受け入れるほかなかった 8 。
正統な後継者でありながら、突如として現れた外部の者に家督という自らの人生そのものを奪われた広相は、不遇の日々を送ることになる。この時期の彼の具体的な動向を伝える史料は乏しいが、祖父・弘保と共に、いつの日か奪われた家督を取り戻す機会を、虎視眈々と窺っていたことは想像に難くない。
この大内義隆による理不尽な介入は、単に平賀氏一族の悲劇にとどまらない。それは、義隆の治世後期における政治的な混乱と、彼が国人領主たちへの支配力を歪んだ形でしか行使できなくなっていた実態を浮き彫りにしている。武家の慣習や論理よりも、個人的な寵愛を優先する主君の姿は、平賀氏以外の多くの国人領主たちにも不信と不満を募らせたであろう。こうした歪みが積み重なった先に、重臣・陶晴賢による謀反、すなわち大寧寺の変という、大内氏そのものの崩壊が待ち受けていたのである。
そして、この「家督簒奪」という屈辱的な経験は、平賀広相という人間の精神を深く形成したに違いない。彼にとって、大内義隆は主君であると同時に、自らの人生を狂わせた憎むべき存在となった。その一方で、後にこの屈辱から自らを救い出し、本来あるべき地位へと引き上げてくれる毛利元就は、生涯をかけて忠誠を誓うべき大恩人となる。広相の人生のドラマ性は、この「失墜」と「復活」という強烈な光と影のコントラストの中にこそ、その核心があると言えよう。
天文20年(1551年)、中国地方の勢力図を根底から覆す大事件が勃発する。大内氏の重臣・陶隆房(後の晴賢)が、主君・大内義隆に対して謀反を起こした「大寧寺の変」である。この事件は、雌伏を余儀なくされていた平賀広相にとって、まさに千載一遇の好機をもたらすことになった。
陶晴賢の軍勢に追われた大内義隆は、長門国の大寧寺で自刃し、西国に長らく君臨した名門・大内氏は事実上崩壊した 8 。この主君の非業の死に際し、平賀氏の家督を継いでいた平賀隆保は、最後まで義隆に殉じようとする姿勢を見せたという 5 。彼は義隆の寵愛によって当主の座に就いた人物であり、その恩義に報いようとするのは、彼の立場からすれば当然の行動であった。
一方、安芸国の一国人に過ぎなかった毛利元就は、この権力の空白を稀代の好機と捉えた。当初は陶晴賢と協力関係を結びつつも、水面下で着々と安芸国内の地盤を固め、旧大内方の諸城の攻略を開始する 8 。そして天文23年(1554年)、元就は「防芸引分」を宣言して陶晴賢と完全に決別し、安芸国の完全統一、ひいては中国地方の覇権を賭けた壮大な戦いへと乗り出していく 19 。
この一連の動きは、平賀広相と祖父・弘保にとって、まさに待ち望んだ状況であった。第一に、大内義隆の死は、彼によって押し付けられた平賀隆保の権威の源泉が完全に消滅したことを意味した。第二に、毛利元就が陶晴賢(大内氏の実質的な後継勢力)と敵対し、安芸国内の「旧大内方」の掃討を開始したことは、広相たちが家督を奪還するための絶好の口実と、外部からの強力な軍事支援を得ることを意味したのである。
大寧寺の変は、単に広相個人の運命を変えただけではない。それは、安芸国の国人領主たちの上に長らく君臨してきた大内氏という巨大な「重し」を取り払い、地域のパワーバランスを完全にリセットする「地殻変動」であった。国人たちは、自らの意思で新たな時代の覇者を選ぶことを迫られた。毛利元就はこの機を逃さず、巧みな調略と迅速な軍事行動で国人たちを次々と自らの陣営に引き込んでいった。その中で、正統な後継者でありながら家を追われた広相の存在と、平賀氏の家督問題は、元就が安芸統一を進める上で、最も効果的に利用できる「駒」の一つとなったのである。
ここに、一人の武将の悲劇が浮かび上がる。平賀隆保である。彼は、自分を当主にしてくれた主君・義隆への恩義を最後まで貫こうとした 5 。その義理堅さは、武士として賞賛されるべきものかもしれない。しかし、その主君が滅び、力こそが全てを決定する戦国の世において、その忠節は自らの命取りとなった。対照的に、弘保と広相は、旧主への義理よりも「家」の存続と実利を優先し、新たな時代の覇者となりうる毛利元就と手を結ぶという、より現実的で冷徹な選択を下した。時代の変化に対応できなかった者の悲劇と、変化を好機として捉えた者のしたたかさが、ここに鮮やかな対比を描き出している。
大内氏の崩壊と毛利元就の台頭という時代の大きなうねりは、ついに平賀広相に運命の時をもたらした。長年の宿願であった家督の奪還は、毛利元就の強大な軍事力を背景に、かつて父が籠り、今や不当な当主が居座る本拠・頭崎城を舞台に繰り広げられることとなる。
毛利元就にとって、安芸国統一を成し遂げる上で、平賀氏が拠点とする巨大山城・頭崎城の存在は最大の障害の一つであった。これを攻略するため、元就は最も効果的な手段を選んだ。すなわち、城の内部事情を熟知し、正統な後継者である広相を擁する祖父・平賀弘保と密かに結託したのである 8 。
天文21年(1552年)、元就はついに頭崎城への攻撃を開始した 20 。城に籠る平賀隆保は、毛利の大軍を相手に奮戦したものの、その戦力差は歴然としており、当初から絶望的な籠城戦を強いられた。
この戦いの帰趨を決定づけたのは、軍事力以上に、養祖父である弘保の非情な決断であった。弘保は、毛利軍に包囲され危機に瀕した隆保に対し、一切の援軍を送らなかった。それどころか、毛利軍と連携し、隆保を完全に見殺しにしたのである 5 。これは単なる傍観ではない。隆保の権威を完全に否定し、城内の士気を内部から崩壊させる、積極的なサボタージュであった。
内外から見捨てられ、もはやこれまでと悟った隆保は、頭崎城を脱出。西条の槌山城に逃れて最後の抵抗を試みるが、追撃してきた毛利軍の前に衆寡敵せず、追い詰められた 8 。最期に、城兵たちの助命を毛利方に願い出て、それが受け入れられると、隆保は自刃して果てた 20 。『陰徳太平記』によれば、隆保は腹を十字に切り裂き、臓腑を掴んで投げ捨てた後、辞世の句を詠もうとしたが、家人に急かされ、自ら喉を突いて壮絶な最期を遂げたと伝えられる 21 。
隆保の死によって、平賀氏の家督を巡る長年の混乱は終結した。毛利元就の絶大な後援のもと、雌伏の時を耐え抜いた新九郎は元服して「平賀広相」と名乗り、ついに平賀氏の正統な当主として、頭崎城主の座に就いたのである 6 。
この頭崎城の攻防は、単に平賀広相個人の家督奪還劇にとどまるものではない。それは、毛利元就の「安芸統一」事業における象徴的な戦いであった。元就の目的は、第一に安芸国内における親大内・親陶勢力の最大拠点である頭崎城を無力化すること、第二に平賀氏という有力国人を完全に自らの支配下に置くことであった。広相の家督奪還という大義名分を掲げることは、これらの戦略目標を達成するための、極めて効果的な手段だったのである。広相と元就の関係は、単なる救済者と被救済者というものではなく、互いの利害が完全に一致した、戦略的パートナーシップであったと言えよう。
そして、この劇のもう一人の主役である祖父・弘保の冷徹な決断は、戦国武将のリアリズムを我々に突きつける。彼は一度は隆保を養子として受け入れた。しかし、大内義隆という後ろ盾が消え、隆保の存在が「家」の存続と繁栄にとって障害となると判断した瞬間、彼は一切の情を捨て、容赦なく切り捨てた。彼の目的は一貫して「自らの血を引く広相に家を継がせること」であり、その目的のためには、かつての主君の寵臣を見殺しにすることも厭わない。この老獪で非情なまでの現実主義こそが、弘保が乱世を生き抜き、孫に家督を継がせるという宿願を成就させた原動力だったのである。
苦難の末に家督を回復した平賀広相は、その恩義に報いるべく、毛利氏の忠実な家臣として新たな人生を歩み始める。彼の活躍は、毛利氏が中国地方の覇者へと飛躍する上で重要な役割を果たし、特に日本三大奇襲戦の一つに数えられる「厳島の戦い」において、その真価を発揮することとなった。
毛利元就と陶晴賢の対立が避けられないものとなる中、広相は情報戦において決定的な貢献を果たした。天文24年(1555年)の厳島の戦いに先立つ前哨戦の段階で、広相は陶晴賢側の使者を捕縛することに成功する。そして、晴賢が安芸国内の国人たちに対し、水面下で調略活動を仕掛けているという機密情報を掴み、直ちに元就に注進したのである 22 。この情報は、敵の内部工作を事前に察知し、元就が晴賢との決戦を決意し、さらには敵の大軍を狭い厳島におびき出すという、常識外れで大胆な作戦に踏み切る上で、極めて重要な判断材料の一つとなった。軍事力で劣る元就が勝利を収めた厳島の戦いは、謀略と情報戦の勝利であり、広相のこの働きは、戦いの帰趨を左右するほどの価値があったと言える。広相自身も、毛利方の一員として厳島の戦い本戦に参戦し、歴史的な勝利に貢献した 22 。
厳島の戦いで陶晴賢を滅ぼし、中国地方の覇権争いに大きく前進した毛利氏のもとで、広相は有力な国人領主として確固たる地位を築いていく。その後も、宿敵・尼子氏の居城である月山富田城攻めをはじめ、毛利氏が繰り広げる各地の合戦にその名を連ねた 22 。その功績は中央にも聞こえ、永禄3年(1560年)には、室町幕府第13代将軍・足利義輝から蔵人大夫(くろうどのたいふ)の官位を授けられている 6 。これは、広相が単なる毛利家の一武将ではなく、幕府からも認知されるほどの有力な領主であったことを示している。また、永禄9年(1566年)には、毛利元就・輝元父子から、新たに獲得した周防国の熊毛郡と玖珂郡に所領を与えられるなど、その信頼の厚さが窺える 6 。
しかし、広相は毛利氏の家臣となりながらも、完全にその自立性を失ったわけではなかった。そのことを示す象徴的な出来事が、永禄9年(1566年)に起こる。主君である元就が病に伏せると、広相は毛利家の屋台骨を支える吉川元春・小早川隆景の「毛利両川」と、個別に起請文(誓約書)を取り交わし、改めて毛利家への忠誠を誓っているのである 6 。これは、広相が毛利家中で「家臣」でありながらも、一方では対等に近い立場で盟約を結ぶことができる、独立性の高い「国人領主」としての性格を依然として保持していたことを物語っている。
毛利氏は、多くの国人領主をその支配下に組み込む形で勢力を拡大した、いわば国人領主の連合体としての性格が強い大名であった。そのため、譜代の家臣とは異なり、平賀氏のような有力国人に対しては、ある程度の自立性を認めざるを得なかったのである。広相の立場は、戦国大名の支配体制下における、完全な「家臣化」と旧来の「国人領主としての自立性」が併存する、過渡的な主従関係のあり方を示す興味深い事例と言えよう。彼は、自らを救った元就への絶対的な忠誠を誓いながらも、同時に「平賀家」という独立した組織の長としての誇りを失ってはいなかったのである。
数々の苦難を乗り越え、毛利家中に確固たる地位を築き、ついに一族に安寧をもたらした平賀広相。しかし、彼に与えられた時間はあまりにも短かった。その生涯は、まるで激動の時代を駆け抜ける疾風のように、唐突に終わりを告げる。
永禄10年(1567年)3月17日、平賀広相は死去した 6 。享年40 6 。その死因については、残念ながら史料に記録は残されていない。家督は、嫡男の平賀元相が滞りなく継承した 6 。
広相の死後、平賀氏は彼が築いた基盤の上に、さらなる発展を遂げる。息子・元相の代には、平賀氏の所領は最大で1万8,000石に達し、毛利家中の重臣として揺るぎない地位を確立した 24 。元相は、毛利氏の陪臣という立場でありながら、天下人である豊臣秀吉からもその器量を気に入られ、豊臣姓を賜るという栄誉に浴している 24 。
しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍の総大将であった毛利氏が敗れると、平賀氏の運命も再び大きく揺れ動く。毛利氏が防長二国(現在の山口県)に大減封されると、平賀氏もそれに従い、鎌倉時代から続いた安芸国の本拠地を離れ、長年の居城であった頭崎城もこの時に廃城となった 9 。
この減封と移封の混乱の中で、元相は一時毛利家を離れるという苦渋の決断を下すが、その子・元忠の代に300石の知行で毛利家への帰参が許された 2 。石高は大幅に減少したものの、平賀氏は長州藩士として家名を保ち、幕末まで存続することに成功したのである 27 。なお、一度は浪人した元相であったが、晩年には孫の勧めもあって萩に戻り、寛永13年(1636年)、99歳という当時としては驚異的な長寿を全うしたと伝えられている 24 。
平賀氏の血脈は、その後も途絶えることはなかった。長州藩士として幕末の動乱期を迎え、明治維新後も様々な分野で活躍する人物を輩出している。幕末に神機隊を率いた平賀国儀や、近代日本の海軍史に不滅の名を残す戦艦「大和」の基本設計に携わった天才造船技術者・平賀譲も、この安芸平賀氏の末裔とされている 2 。
平賀広相の生涯は、わずか40年で幕を閉じた。しかし、彼が命がけで取り戻した家督と、毛利家中に築き上げた信頼と地位は、息子・元相へと確かに引き継がれた。そしてその遺産は、関ヶ原の敗戦という毛利家、ひいては平賀家にとって最大の危機をも乗り越える力となった。彼が経験した苦難に満ちた半生は、結果として「平賀」という一つの家を、戦国から近世、そして近代へと繋ぐための、決定的かつ不可欠な礎となったのである。平賀広相という武将の真の価値は、その短い生涯の中だけでなく、彼が守り抜いた一族のその後の長い歴史の中にこそ、見出すべきなのかもしれない。現在、かつて彼らが拠点とした御薗宇城跡、白山城跡、頭崎城跡、そして一族の墓地は、「平賀氏の遺跡」として広島県の史跡に指定され、乱世を生き抜いた一族の物語を静かに後世に伝えている 3 。