戦国時代、日本の西半分にその権勢を轟かせた一大勢力が存在した。周防国山口を本拠地とする大内氏である。16世紀中盤、31代当主・大内義隆の治世下で、その力は頂点に達していた。勘合貿易を掌握し、明や朝鮮との外交を通じて莫大な富を蓄積、その財力を背景に山口には京都から多くの公家や文化人が集い、「西の京」と称されるほどの文化的隆盛を誇った 1 。しかし、その華やかな繁栄の陰では、巨大な組織を蝕む深刻な亀裂が静かに進行していた。
大内氏の栄華は、強力な軍事力によって支えられていた。しかし、長年にわたる出雲の尼子氏との覇権争いは、大内軍に大きな疲弊をもたらしていた。特に天文11年(1542年)の月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)での惨敗は、義隆の心を折り、彼を軍事から遠ざけ、文治主義へと傾倒させる決定的な契機となった。この変化は、大内家臣団の内部に、相良武任に代表される文治派と、陶晴賢(当時は隆房)を筆頭とする武断派との深刻な対立を生み出す。
本報告書で詳述する弘中隆兼(ひろなか たかかね)は、まさにこの激動の時代、大内氏の権勢が頂点から崩壊へと向かう渦中に身を置いた武将である。彼は単なる一地方の将ではなく、尼子氏との最前線である安芸国の支配を担う守護代として、大内氏の東方戦略の中核を担った。智勇兼備と謳われた彼の能力は、大内氏の安泰のために遺憾なく発揮されたが、その忠誠心は、やがて主家の内乱という巨大な奔流に飲み込まれていく。本稿では、弘中隆兼の生涯を丹念に追い、彼の出自からその壮絶な最期に至るまでを徹底的に分析し、彼が体現した戦国武将の忠義と悲劇の実像に迫るものである。
弘中隆兼の行動原理と、彼が背負った重責を理解するためには、まず彼が属した「弘中氏」という一族の歴史と、大内家中におけるその地位を把握する必要がある。
弘中氏は、清和源氏の流れを汲むとされ、壇ノ浦の戦いの後から周防国玖珂郡岩国(現在の山口県岩国市)を代々本拠としてきた名門であった 2 。この由緒ある出自は、大内家中で彼らが重用される大きな要因の一つであったと考えられる。室町時代より大内氏の中枢を支える一族となり、奉行職や軍事職といった要職を歴任してきた 3 。また、隆兼の代まで長らく岩国の白崎八幡宮の大宮司を兼ねていたとされ、地域における精神的な支柱でもあった 3 。
隆兼の父は、大内義興の代から評定衆を務めた重臣・弘中興勝(おきかつ、興兼とも)である 3 。興勝もまた、安芸東西条の代官を務めた戦上手な驍将であり、特に安芸の国人であった毛利元就とは、共に碁を打ち、狩りをするなど、友人と言ってもよいほどの深い信頼関係を築いていた 7 。隆兼が後年、元就やその息子たちと当初良好な関係を築けたのは、この父の代からの繋がりが大きく影響していたことは想像に難くない。
史料における隆兼の初出は、大永6年(1526年)の安芸国草津城攻めに「弘中小太郎」の名で登場するもので、この頃に元服を迎えた青年であったと推測される 8 。彼の諱(いみな)は、正式には「隆包(たかかね)」であったとされるが、一般には「隆兼」の表記で広く知られている 2 。これは、父・興勝の別名である「興兼」から一字を取った通称として定着した可能性が指摘されている 3 。
生年については諸説あり、大永元年(1521年)とする説 9 がある一方で、天文9年(1540年)以前の業績については、同じく三河守を名乗った父・興勝のものと混同されやすいとの指摘もあり、その前半生は必ずしも明確ではない 5 。
隆兼には、亦右衛門、忠左衛門といった弟たちがいた 12 。中でも特筆すべきは、四男の方明(かたあき)である。彼は当初、僧籍に入り三蔵主と名乗っていたが、厳島の戦いで隆兼父子をはじめとする一族の主力が戦死し、弘中氏が断絶の危機に瀕した際、還俗して家名を継いだ 4 。後に彼は毛利氏に仕え、「就慰(なりやす)」と名を改め、弘中氏の血脈を後世に伝えたのである 12 。
弘中氏が単なる一介の家臣ではなく、源氏という権威ある血筋を持ち、代々大内氏の要職を担ってきた名門であったという事実は、隆兼の行動原理を解き明かす鍵となる。彼は常に「弘中家の当主」として、個人的な武勇や感情以上に、大内領国全体の安寧に対する強い責任感を抱いていたと考えられる。後に詳述する大寧寺の変において、主君殺しという大逆に一度は反対しながらも、最終的に陶晴賢に従ったのは、分裂した大内家を実力者である陶の下で再統一することが、混乱を収拾し、家と領国を守るための最善の策であるという、極めて政治的な判断を下した結果であったと推察される。その決断は、個人的な忠義と、家門の存続、そして領国全体の安定という、より大きな責務との間で葛藤した末のものであった。
「智勇兼備」という弘中隆兼への評価は、単なる賛辞ではない。それは、大内氏の東方戦略の最前線であった安芸・備後両国における、彼の具体的な軍事・統治両面での目覚ましい活躍によって裏付けられている。
表1:弘中隆兼 関連年表
西暦(和暦) |
隆兼の年齢(推定) |
出来事 |
関連人物・場所 |
備考(役職や特記事項) |
1521年(大永元年) |
0歳 |
誕生(一説による) 9 |
周防国岩国 |
父は弘中興勝 |
1526年(大永6年) |
5歳 |
草津城攻めに「弘中小太郎」として初出 8 |
安芸国草津 |
|
1529年(享禄2年) |
8歳 |
毛利元就らと共に松尾城を攻略 5 |
安芸国松尾城 |
安芸東西条の代官に任じられる |
1541年(天文10年) |
20歳 |
吉田郡山城の戦いの後、安芸守護代に任命される 5 |
安芸国 |
大内義隆が安芸守護に就任 |
1542年(天文11年) |
21歳 |
第一次月山富田城の戦いに従軍、敗走 5 |
出雲国月山富田城 |
敗戦後、安芸・備後の国人衆の離反防止に努める |
1543年(天文12年) |
22歳 |
槌山城の城主となる 5 |
安芸国槌山城 |
安芸・備後経略の拠点とする |
1543年- |
22歳- |
神辺合戦に毛利軍と共に参加 5 |
備後国神辺城 |
尼子方の山名理興と戦う |
1551年(天文20年) |
30歳 |
大寧寺の変。陶晴賢の謀反に反対するも、変後は従う 2 |
周防国山口、大寧寺 |
主君・大内義隆が自害。大内義長が新当主となる |
1555年(天文24年) |
34歳 |
3月、陶晴賢の命で江良房栄を誅殺 16 |
周防国岩国・琥珀院 |
|
1555年(弘治元年) |
34歳 |
9月、厳島への渡海作戦に反対するも、容れられず 15 |
安芸国厳島 |
|
1555年(弘治元年) |
34歳 |
10月1日、厳島の戦い。毛利軍の奇襲で陶軍敗走 19 |
安芸国厳島 |
殿軍として奮戦 |
1555年(弘治元年) |
34歳 |
10月3日、駒ヶ林にて自害 18 |
安芸国厳島・駒ヶ林 |
嫡男・隆助(隆守)と共に戦死 |
隆兼は若くしてその軍才を認められ、本拠地である岩国に加え、大内氏と尼子氏の勢力が激しく衝突する最前線、安芸国の分郡(東西条)の代官に任じられた 5 。享禄2年(1529年)には、当時まだ大内氏麾下の一国人に過ぎなかった毛利元就らと共に、尼子方の高橋弘厚が守る松尾城を攻略するなど、着実に武功を重ねていく 5 。
その後、尼子方の頭崎城攻略に手間取ったことで一時的に代官職を杉隆宣に代えられたものの、彼の能力が大内家中で高く評価されていたことは揺るがなかった 5 。天文10年(1541年)、尼子氏による毛利氏の吉田郡山城への大攻勢を大内・毛利連合軍が撃退すると(吉田郡山城の戦い)、大内義隆は幕府から正式に安芸守護に任じられる。これに伴い、隆兼はその実行部隊の長とも言うべき安芸守護代という重職に任命された 5 。これは、彼が名実ともに大内氏の安芸国支配における責任者となったことを意味する。
守護代となった隆兼は、天文12年(1543年)、その拠点として槌山城(つちやまじょう)の城主となった 5 。広島県東広島市に位置するこの城は、西条盆地を一望し、交通の要衝を抑える標高約490メートルの急峻な山に築かれた大規模な山城であった 10 。隆兼はこの堅城を拠点として、安芸国だけでなく、さらに東の備後国への経略も担当した 5 。
彼の任務は困難を極めた。天文11年(1542年)の月山富田城攻めで大内軍が壊滅的な敗北を喫すると、安芸・備後の国人衆は大きく動揺し、尼子方への寝返りが続出する危機に瀕した 5 。隆兼は、こうした国人たちの離反を防ぐために奔走し、翌年から数年にわたって、毛利軍などと共に備後国における尼子方の最重要拠点・神辺城をめぐる攻防戦(神辺合戦)を粘り強く続けた 5 。天文17年(1548年)には、義隆の命を受けて神辺城周辺で大規模な稲薙(青田刈り)を行い、兵糧攻めによって敵の戦力を削ぐなど、長期戦を着実に遂行した 5 。
隆兼の経歴は、山口の中央政庁ではなく、常に紛争の最前線である安芸・備後にあった。この経験こそが、彼の人物像を形成した決定的な要因と言える。彼は、国人衆の裏切りや寝返り、兵站の維持の困難さといった、戦場の生々しい現実を肌で知っていた。この「現場感覚」があったからこそ、彼は毛利元就という、当時はまだ一国人に過ぎなかったが、恐るべき智謀を持つ人物の実力を、誰よりも早く、そして正確に評価できたのである 5 。中央で文化に傾倒する主君・義隆や、勇猛さのみで戦況を判断しがちな陶晴賢とは対照的な、隆兼の現実主義的で冷静な思考は、この安芸・備後という「るつぼ」の中で培われたものであった。そしてこの経験は、後に厳島の戦いにおいて、陶晴賢の楽観的な渡海作戦の危険性を即座に見抜く、卓越した戦略眼の源泉となるのである 18 。
弘中隆兼の生涯を語る上で、毛利元就との関係は避けて通れない。二人の関係は、大内家の運命、そして中国地方の勢力図を塗り替える厳島の戦いへと繋がる、複雑な変遷を辿った。当初は固い絆で結ばれた盟友であった彼らが、なぜ死闘を繰り広げる宿敵となったのか。その軌跡を追うことは、隆兼の悲劇を理解する上で不可欠である。
表2:弘中隆兼 関係人物一覧
人物名 |
隆兼との関係 |
関係性の概要と変遷 |
象徴的な出来事 |
大内義隆 |
主君 |
若き日は重用されるも、義隆の文治傾倒により失望。大寧寺の変で運命が分かたれる。 |
月山富田城の戦い、大寧寺の変 |
陶晴賢 |
主君(義長擁立後)/同僚 |
晴賢の武勇に感服し、大寧寺の変後は従う。しかし、厳島合戦では作戦を巡り対立。 |
大寧寺の変、江良房栄謀殺、厳島合戦 |
毛利元就 |
盟友 → 敵将 |
尼子氏との戦いでは長年の戦友。大寧寺の変と毛利氏の独立により敵対関係となる。 |
吉田郡山城の戦い、月山富田城の戦い、厳島の戦い |
吉川元春 |
盟友(義兄弟説あり) → 敵将 |
元就の次男。隆兼とは特に親しい間柄だったが、厳島の戦いで直接対決する。 |
山口での交流、厳島の戦いでの直接対決 |
毛利隆元 |
盟友 |
元就の嫡男。山口での人質時代に親交を深める。 |
山口での人質時代 |
江良房栄 |
同僚 |
隆兼と並び称された勇将。元就の謀略により、隆兼自身の手で誅殺させられる。 |
江良房栄謀殺事件 |
弘中興勝 |
父 |
大内氏の重臣。元就と親交があり、隆兼と元就の関係の礎を築いた。 |
安芸東西条代官としての活動 |
弘中方明(就慰) |
弟 |
隆兼の死後、還俗して毛利氏に仕え、弘中家の家名を再興した。 |
弘中氏の家名再興 |
隆兼と元就は、尼子氏という共通の脅威に対し、長年にわたって共闘してきた「戦友」であった 8 。特に、大内氏の安芸・備後経略において、守護代である隆兼と、現地の有力国人である元就は、緊密に連携する必要があった。天文11年(1542年)の月山富田城遠征の際には、二人が意見を合わせて主君・義隆に献策するほど、その間には深い信頼関係が築かれていた 5 。隆兼の父・興勝が元就と親しかったことも、この良好な関係の基盤となっていた 7 。
この固い絆は、彼らの子供たちの世代にも及んでいた。元就の嫡男・毛利隆元が人質として山口に滞在した3年間、隆兼は彼と親交を深めた 5 。特に親しかったのが、元就の次男・吉川元春であった。一部の記述では、隆兼、陶晴賢、そして元春の三者は義兄弟の契りを結んでいたとさえ言われている 7 。この個人的な繋がりは、彼らの関係が単なる政治的・軍事的な協力関係に留まらない、人間的なものであったことを示している。
両者の関係に決定的な亀裂を生じさせたのは、天文20年(1551年)の大寧寺の変と、その後の毛利氏の独立(天文23年、防芸引分)である。隆兼が結果として陶晴賢に従ったことで、大内家からの独立を目指す元就とは、必然的に敵対関係へと転じた 8 。
対立は急速に深まっていった。陶晴賢が、毛利氏が備後攻略で得た戦果を一方的に没収するなど、強硬な態度に出たことが、両者の関係を抜き差しならないものにした 7 。隆兼は、元就の恐るべき力量を誰よりも熟知していたからこそ、その急速な勢力拡大に強い警戒感を抱いていた 7 。かつての盟友は、今や大内(陶)体制にとって最大の脅威となったのである。
この関係性の変化は、単なる「敵・味方」という言葉では割り切れない、深い人間的な葛藤を内包していた。隆兼と元就、そして元春の間には、個人的な尊敬と友情が確かに存在した。しかし、大寧寺の変という政治的激変は、彼らをそれぞれの組織(大内・陶連合と毛利家)の利益を代表する立場へと押しやり、個人の感情を乗り越えた対立を強いた。隆兼の悲劇の本質は、この「公」の論理が「私」の親密な関係を無慈悲に破壊していく過程そのものにある。厳島の戦いで、彼が最後まで奮戦し、特に旧知の間柄であった吉川元春の軍と激しく刃を交えたのは 24 、単なる軍事行動ではない。それは、かつての友であり、義兄弟とまで言われた相手に対する、武士としての意地と、袂を分かたざるを得なかった運命への決着をつけようとする、極めて個人的な感情の発露であった可能性が高い。この公私の相克こそが、弘中隆兼という人物の物語に、抗いがたい人間的な深みと悲劇性を与えているのである。
天文20年(1551年)9月1日、大内氏の歴史、そして弘中隆兼の運命を永遠に変える事件が勃発する。重臣・陶晴賢(当時は隆房)が主君・大内義隆に対して起こした謀反、すなわち大寧寺の変である。この事件における隆兼の行動は、一見すると矛盾に満ちている。「謀反に反対しながら、結果的に従う」という彼の選択の裏には、忠誠と現実の間で揺れ動く、一人の武将の深い苦悩があった。
月山富田城での大敗以降、大内義隆は政治と軍事への関心を急速に失い、相良武任ら文治派の側近を重用するようになった 15 。これにより、陶晴賢をはじめとする武断派の重臣たちは、大内家の中枢から遠ざけられ、その不満は日増しに高まっていた 27 。
複数の史料が一致して示すところによれば、隆兼はこの陶晴賢の謀反計画に対し、明確に反対の立場を取ったとされる 2 。これは、主君を弑逆するという行為そのものが、弘中家という名門に生まれ、伝統的な武士としての倫理観を叩き込まれてきた彼にとって、到底容認できるものではなかったからであろう。
しかし、謀反が現実のものとなり、義隆が長門の大寧寺で自害に追い込まれると、隆兼は一転して晴賢に従い、晴賢が擁立した大友宗麟の弟・大内義長を新たな当主として仕える道を選ぶ 2 。この苦渋の決断の背景には、二つの大きな要因があったと考えられる。
第一に、 主君・義隆への深い失望 である。隆兼自身も、安芸・備後の最前線で命を懸けて戦う武将として、義隆の文治偏重と現実離れした政治姿勢には強い不満と失望を抱いていた 29 。国境で将兵が血を流しているにもかかわらず、山口で文化活動に耽る主君の姿は、彼の忠誠心を少しずつ蝕んでいた。
第二に、 陶晴賢への個人的な信奉 である。「西国無双の剛将」と謳われた晴賢の武勇とカリスマ性に対し、隆兼は深い感服の念を抱いていた 29 。彼は、もはや指導力を失った義隆に代わり、傾きかけた大内家を立て直せる唯一の人物は晴賢であると考えた可能性が高い。危機的状況において清々しいほどの決断力を見せる晴賢の姿は、隆兼の心を捉えたのである 29 。
変の後、隆兼は毛利をはじめとする安芸の国人衆を新体制側に取りまとめるという、重要な役割を担った 29 。これは、彼がもはや過去を振り返ることなく、大内家の再建という未来のために、積極的に協力したことを示している。
隆兼のこの一連の行動は、「裏切り」という単純な言葉で断罪できるものではない。彼の忠誠の対象が、「大内義隆という個人」から「大内家という組織、そしてその領国」へと移行したと解釈すべきである。彼にとって、もはや義隆の統治は、大内家そのものを危うくする存在でしかなかった。謀反という手段は容認できないまでも、義隆が世を去った以上、大内家の存続と領国の安寧のためには、新たな実力者である晴賢を支えることが、最も合理的かつ責任ある選択だったのである。この決断は、主君個人への人格的な忠誠から、藩(お家)全体の安泰を最優先する近世的な忠誠観への過渡期に見られる、価値観の変質を象徴している。弘中隆兼の苦衷は、旧来の価値観と新しい時代の論理との間で引き裂かれた、誠実な武将の苦悩そのものであった。
大寧寺の変を経て陶晴賢体制の一翼を担うことになった弘中隆兼であったが、彼の前にはさらなる悲劇が待ち受けていた。天文24年(1555年)3月、同僚の勇将・江良房栄(えら ふさひで)を自らの手で誅殺するという、彼の生涯に暗い影を落とす事件である。この一件は、陶体制の脆弱性を露呈させると共に、隆兼を後戻りのできない破滅の道へと追い込んでいった。
江良房栄は、隆兼と並び称される陶軍の柱石であり、特に安芸国の事情に精通し、毛利元就の力量を深く理解している数少ない武将の一人であった 11 。毛利氏との対決が避けられない状況下で、房栄は慎重論を唱えていたとされる 30 。
天文24年3月16日、安芸への出兵から岩国に帰陣した房栄は、隆兼によって琥珀院にて誅殺された 17 。これは、陶晴賢の直接の命令によるものであった 16 。
この事件の背後には、毛利元就の巧妙な「反間苦肉の計」があったとする説が広く知られている 17 。元就は、房栄が毛利方に内通しているという偽の情報を、房栄の筆跡を完璧に真似た偽の書状などを用いて巧みに流布させた 30 。主君を裏切った経験から、家臣に対しても強い猜疑心を抱いていた晴賢は、この謀略に嵌り、自らの右腕とも言うべき房栄の粛清を決断したとされる 32 。
近年、この謀略説の根拠とされる書状の解釈を巡り、房栄の内通は事実ではなく、事件は陶家中の内部対立に起因するもので、元就の謀略は後世の創作であるという異論も提示されている 30 。しかし、軍記物語である『陰徳太平記』などが謀略の存在を具体的に記述していることから、元就の何らかの関与があった可能性は依然として高いと考えられる。
晴賢から房栄誅殺という非情な命令を受けた隆兼は、大きな葛藤に苛まれた。彼は房栄の無実を信じ、一度は「房栄はそのような野心を抱く人物ではない」と晴賢を諫めたとされる 4 。しかし、晴賢はこれを聞き入れず、「ならばお主も房栄に与するのか」とまで言い放ったという 4 。もはや、命令を拒否することは、自らが裏切り者として断罪されることを意味した。自らの潔白を証明するため、そして陶体制から離脱する道がもはやないことを悟った隆兼は、やむなくこの汚れ役を引き受けた 4 。
『大内氏実録』などに伝えられる逸話によれば、隆兼は房栄を琥珀院に招き、不意打ちをするのではなく、嫡男の中務(隆守)に命じて、まず誅殺の理由を告げてから事に及ばせたという 4 。これは、無実の同僚を手にかけねばならないという、耐え難い状況下における、彼の武士としての最後の矜持の表れであったのかもしれない。
この事件は、陶軍にとって致命的な損失であった。戦略的には、元就を知る有能な将を失った影響は計り知れない 17 。しかし、それ以上に深刻だったのは、組織内部に与えた打撃である。主君が猜疑心から自らの重臣を粛清するという事態は、家臣団の結束に致命的な亀裂を生じさせ、組織の士気を著しく低下させた。弘中隆兼にとって、無実の同僚を殺害させられたことは、計り知れない精神的苦痛となったはずである。江良房栄の流した血は、陶晴賢の体制が内部から自壊していく過程を象徴するものであり、隆兼はその悲劇的なプロセスに、最も汚れた形で加担させられた加害者であり、同時に被害者でもあった。
江良房栄の謀殺からわずか半年後、弘中隆兼の生涯は、その終着点である厳島の戦いへと向かう。この戦いにおける彼の行動は、彼の卓越した戦略眼と、敗北を予期しながらも主君への忠義を貫き通した、壮絶な武士の生き様を鮮やかに映し出している。
弘治元年(1555年)9月、毛利氏との決戦を前に、陶晴賢は全軍を安芸国厳島に渡海させ、毛利方が築いた宮尾城を包囲殲滅するという作戦を決定した。この軍議の席で、隆兼はただ一人、この作戦に強く反対した 4 。
彼は、安芸の地理と毛利元就の戦術を知り尽くす将として、この作戦に潜む致命的な欠陥を即座に見抜いていた。狭隘な島に2万という大軍を投入すれば、身動きが取れなくなる。それは、敵の奇襲に対して極めて脆弱な状況を作り出すことを意味した。隆兼は、元就の真の狙いが、宮尾城を囮にして陶の大軍を島に誘き寄せ、背後から奇襲をかけて殲滅することにあると喝破し、危険な渡海ではなく、陸路を着実に進むべきだと主張した 18 。しかし、圧倒的な兵力差から勝利を確信していた晴賢は、この的確かつ冷静な進言を「臆病者の戯言」として退けてしまった 4 。
隆兼の危惧は、最悪の形で現実のものとなる。10月1日未明、嵐の海を渡ってきた毛利元就の本隊が、博奕尾(ばくちお)の急峻な山道を越えて陶軍本陣を奇襲。同時に、小早川隆景の別動隊と村上水軍が海上から攻撃を開始すると、油断しきっていた陶軍は大混乱に陥り、一瞬にして総崩れとなった 19 。
この絶望的な状況下で、隆兼は冷静さを失わなかった。彼は嫡男の隆助(隆守とも)と共に手勢を率いて駆けつけ、崩壊する自軍の中で奮戦する 19 。彼の目的は、もはや戦線の立て直しや勝利ではなかった。総大将である陶晴賢を、何としてもこの死地から無事に脱出させること。ただその一点にあった 10 。彼は、厳島神社の南方に位置する滝小路付近で、晴賢を追撃する吉川元春の精鋭部隊の前に立ちはだかり、壮絶な防戦を繰り広げてその進撃を一時的に食い止めた 19 。
しかし、大勢はすでに決していた。晴賢が島の西、大江浦で自害したとの報が届いた後も、隆兼の戦いは終わらなかった。彼は残った兵、約100名とも300名ともいわれる手勢を率いて、弥山の険しい峰の一つ、駒ヶ林(現在の絵馬ヶ岳)にある龍ヶ馬場(りゅうがばば)と呼ばれる岩場に立てこもり、最後の抵抗を試みた 18 。
元就は、隆兼の勇将ぶりをかねてより知っており、その抵抗を恐れて包囲網を厳重に固め、執拗な攻撃を命じた 34 。隆兼らは、数で圧倒的に優勢な毛利軍の猛攻に対し、3日間にわたって激しく抗戦した 18 。しかし、兵糧も尽き、将兵は疲弊しきっていた。弘治元年10月3日、ついに力尽きた隆兼は、嫡男・隆助と共に自害して果てた 10 。一説によれば、享年34歳であった 10 。
厳島での隆兼の行動は、一貫して「敗北を予期した者の行動」として読み解くことができる。軍議での反対は、彼がこの戦の結末を正確に予測していたことを示している。彼が妻や子に残したとされる遺言めいた手紙は 18 、死を覚悟して戦に臨んでいた何よりの証拠である。彼の最後の奮戦は、勝利を信じてのものではなく、自らの進言を退けた主君に対する責務と、武士としての意地を完遂するための、いわば「殉死」であった。彼は、自らの知略が通じなかった時点で、戦の勝敗ではなく、自らの死に様を選んだのである。この壮絶な最期は、彼の生涯を貫く「忠義」と「悲劇性」を、最も鮮やかに象徴している。
なお、陶晴賢の辞世として知られる「 なにを惜しみ なにを恨まん もとよりも このありさまの 定まれる身に 」という句が、一部で弘中隆兼のものとして紹介されることがあるが 18 、これは誤りである。複数の信頼性の高い資料が、この句を晴賢のものとしており 36 、その心境は、主君を討ち天下に覇を唱えようとして敗れた晴賢には合致するが、敗北を予見しつつも主君に従った隆兼の心境とは趣を異にする。
弘中隆兼の生涯は、厳島の露と消えた。しかし、彼が駆け抜けた34年の人生は、戦国という時代の複雑さと、そこに生きた武将の矜持を現代に伝えている。
弘中隆兼は、紛れもなく「智勇兼備の将」であった 5 。安芸・備後での統治に見られる行政手腕、尼子氏との長きにわたる戦いで示した粘り強い武勇、そして厳島の戦いで見せた的確な戦略眼は、彼が「智」と「勇」を高いレベルで兼ね備えていたことを証明している。
しかし、彼の悲劇は、その優れた能力を持ちながらも、自らが仕える組織の構造的欠陥を正すことができず、最終的にその組織と運命を共にした点にある。主君・大内義隆の現実逃避、そして新たな主君・陶晴賢の猜疑心と短慮。隆兼は、これらの主君の欠点を的確に認識し、時には諫言さえしたが、時代の大きな奔流を押しとどめることはできなかった。彼は、毛利元就のような時代の変革者ではなく、滅びゆく旧体制に最後まで忠誠を尽くした、誠実な守護者であった。その誠実さゆえに、彼は破滅の道を歩まざるを得なかったのである。
隆兼と嫡男・隆助の死により、弘中氏の嫡流は断絶した 4 。しかし、その血脈は絶えなかった。僧籍にあった弟の方明(就慰)が還俗し、皮肉にも仇敵であった毛利氏に仕えることで家名を再興したのである 4 。これは、家の存続を第一とする戦国時代の複雑な様相を示す、興味深い事例である。
弘中隆兼という武将が生きた証は、今も我々の前にその姿をとどめている。彼の旧領である山口県岩国市通津の専徳寺には、その墓所が現存し、静かにその生涯を伝えている 5 。墓石には「元岩国城主 弘中三河守源隆包朝臣墓」と刻まれ、彼が源氏の血を引く名門の出であったことを示している 41 。また、彼が安芸国支配の拠点とした広島県東広島市の槌山城跡は、今も大規模な郭や石垣の遺構を残しており、彼がこの地で振るった権勢の大きさを物語っている 10 。これらの史跡は、西国の歴史の大きな転換点に立ち会い、忠義に生きて散った一人の武将が確かに存在したことを、雄弁に語りかけている。