戦国時代の陸奥国、伊達氏の歴史を語る上で、天文11年(1542年)から17年(1548年)にかけて続いた内乱「天文の乱」は、その後の権力構造を決定づけた一大分水嶺であった 1 。この乱は、伊達氏14代当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗の父子間の対立を軸に、南奥羽の諸大名を二分する大乱へと発展した。本報告書が主題とする懸田俊宗(かけだ としむね)は、この動乱の渦中にあって、稙宗方の中心人物として最後まで戦い抜き、そして乱の終結後に悲劇的な最期を遂げた武将である。
従来、懸田俊宗は「伊達家の謀叛人」という側面で語られることが多かった。しかし、彼の生涯を丹念に追うことは、単に一個人の伝記をなぞるに留まらない。それは、伊達氏が国人領主の連合体から、より中央集権的な戦国大名へと変貌を遂げる過程で生じた軋轢と、その中で翻弄された在地領主の実像を浮き彫りにする作業である。俊宗の行動原理は、岳父・稙宗への「忠義」であったのか、あるいは独立領主としての「利害」であったのか。そして、彼が選んだ謀叛という道は、なぜ避けられなかったのか。
本報告書は、懸田俊宗を、伊達氏の権力構造の変質に抗い、そして散った独立性の高い国人領主という視点から再評価することを目的とする。彼の出自から天文の乱における動向、そして滅亡に至る過程を、史料の比較検討や伝承の分析を交えながら多角的に検証する。これにより、天文の乱の本質と、その後の伊達氏の権力基盤確立の過程を、より深く理解することを目指すものである 2 。
懸田俊宗の行動原理を理解するためには、まず彼が属した「懸田氏」そのものの歴史的背景を把握する必要がある。懸田氏は、単なる伊達氏の譜代家臣ではなく、古くからの由緒を持つ独立した家系であった。
その起源は、源義家の後裔と称する高松近江守定隆に遡るとされる 3 。伝承によれば、定隆は南北朝時代の建武2年(1335年)、南朝方の鎮守府大将軍・北畠顕家の命を受け、信夫郡の高松城から伊達郡の懸田(現在の福島県伊達市霊山町掛田)に移り、茶臼山に懸田城を築いて懸田氏を称したという 4 。この時期、懸田城は南朝方の重要拠点であった霊山城の支城として機能し 3 、伊達氏7代当主・伊達行朝も懸田氏を同盟者として配し、北朝方と対峙した 6 。この事実は、懸田氏が当初から伊達氏と対等に近い同盟関係を結んでいたことを示唆している。
懸田氏が史料上で明確に確認されるのは、応永7年(1400年)のことであり、15世紀には南奥州において確固たる勢力を築いていた 3 。戦国時代に入り、天文年間初期には伊達氏の支配下にありながらも、その勢力は宮城県南部の名取郡や山形県東部の北条庄にまで及び、独立した領主権を保持する「大名」と形容されるほどの成長を遂げていた 9 。
この歴史的背景こそが、懸田氏の「独立性」の源泉であった。伊達氏とは異なる家系の出自、そして南北朝時代以来の同盟者としての歴史は、一族に強い自負心を育んだ。伊達氏の勢力拡大の過程でその支配体系に組み込まれながらも、彼らは自らを独立した領主と見なす意識を強く持ち続けていたと考えられる。後年の懸田俊宗が見せる頑ななまでの「反骨」は、彼個人の性格のみならず、この一族のアイデンティティに深く根差していたのである。
16世紀前半、伊達氏14代当主・伊達稙宗は、積極的な婚姻政策によってその勢力を飛躍的に拡大させた。相馬顕胤、芦名盛氏、二階堂照行、田村隆顕といった周辺の有力大名に次々と娘を嫁がせ、南奥羽一帯に巨大な姻戚ネットワークを築き上げたのである 12 。
懸田俊宗もまた、この稙宗の政略の内にいた。彼は稙宗の娘を継室(後室)として迎え、伊達一門に連なることとなった 2 。生年は不詳だが永正11年(1514年)生まれとする説もあり 17 、通称を三郎、中務大輔の官位を称したとされる 17 。この婚姻により、俊宗は単なる伊達氏傘下の国人領主から、当主・稙宗と極めて密接な関係を持つ、伊達一門の重要人物へとその地位を高めた。この岳父との強い絆こそが、来るべき天文の乱において、彼の運命を決定づけることになる。
天文11年(1542年)、伊達家を揺るがす内乱が勃発する。当主・稙宗が、三男・実元(さねもと、当時の名は時宗丸)を越後守護・上杉定実の養子に送り込もうとした計画に、嫡男・晴宗が伊達家の重臣たちと共に猛反発したのである 19 。晴宗は実力行使に出、父・稙宗を居城の桑折西山城に幽閉するという挙に出た 12 。
この未曾有の事態に際し、懸田俊宗は迷わず岳父・稙宗の側に立った。彼は同じく稙宗の娘婿である相馬顕胤らと連携を取り 12 、稙宗の近臣・小梁川宗朝らの手引きによって西山城を脱出した稙宗を、自らの居城・懸田城へと迎え入れた 17 。これにより、懸田城は天文の乱初期における稙宗方の拠点となり、俊宗は稙宗派の最有力武将として、晴宗方と対峙する矢面に立つこととなったのである 2 。
乱が始まると、晴宗方はただちに稙宗方の本拠地となった懸田城へ攻撃を仕掛けた。しかし、俊宗はこれをよく防ぎ、城を堅守した 3 。守勢に留まらず、天文13年(1544年)頃には相馬顕胤らと共に伊具郡、伊達郡、信夫郡などへ積極的に侵攻し、反撃を展開している 17 。
当時の戦況の激しさは、伊達晴宗が残した書状からも窺える。天文15年(1546年)の書状には、田村氏や塩松氏の軍勢が「懸田を救い助く」ために晴宗方を攻撃しており、晴宗が苦境に立たされている様子が記されている 24 。これは、懸田城が単なる籠城拠点ではなく、稙宗方の軍事行動の中核をなす戦略上極めて重要な地であったことを物語っている。
俊宗の行動は、単なる封建的な主従関係に基づくものとは言い切れない。彼の忠誠は「伊達家」という組織全体よりも、岳父である「伊達稙宗」という個人に強く向けられていた。稙宗の権力拡大政策は、娘婿である俊宗自身の勢力伸長にも直結する。彼の行動は、この個人的な忠義と政治的・経済的な利害が一致した結果と見るべきであろう。この稙宗個人との強固な結びつきこそが、6年にも及ぶ大乱を戦い抜く原動力となると同時に、後の悲劇的な結末を準備することにもなったのである。
6年間にわたって南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱は、天文17年(1548年)、13代将軍・足利義輝の仲裁によってついに終結の日を迎える 8 。当初は劣勢であった晴宗方が、蘆名氏の寝返りなどによって戦局を逆転させ、和睦は晴宗優位の形で成立した 19 。父・稙宗は隠居を余儀なくされ、晴宗が伊達家15代当主の座に就いた 2 。
しかし、この和睦は懸田俊宗にとって到底受け入れがたいものであった。講和の条件として、稙宗方の拠点であった俊宗の居城・懸田城は、晴宗の本拠地であった桑折西山城と共に「破却」することが命じられたのである 2 。さらに、懸田氏の所領は没収され 2 、その一部は乱の最中に晴宗方へ寝返って功のあった元懸田家臣・中島伊勢守に与えられた 2 。
城の破却と領地の没収は、独立領主としての誇りを持つ俊宗にとって、一族の存在そのものを否定されるに等しい屈辱であった。この過酷な処置への強い不満が、彼を最後の抵抗へと駆り立てる。乱の終結から5年後の天文22年(1553年)、俊宗は息子の義宗と共に、伊達晴宗に対してついに反旗を翻した 4 。彼は中島伊勢の所領となった旧懸田領へ侵攻し、晴宗自らが討伐に出陣する事態へと発展した 2 。
勝ち目の薄い戦と知りながらも、国人領主としての意地を懸けて蜂起した俊宗であったが、その行く末を決定づけたのは、信頼していたはずの家臣による裏切りであった。俊宗の挙兵に対し、かつての家臣であった中島伊勢(宗忠)、そして桜田右兵衛・玄蕃の父子が晴宗方に与し、旧主である俊宗に刃を向けたのである 2 。
この裏切りは、戦国時代の過渡期における主従関係の複雑な構造を象徴している。中島・桜田両氏にとって、俊宗は直接の主君であったが、そのさらに上位には伊達氏という巨大な権力が存在した。滅亡が必至の主君に殉じるか、新たな支配者である晴宗に従って家名を保つか。彼らは、より大きな権力構造の中で、自らの家を存続させるための合理的な選択をしたのである。
内部からの崩壊により、俊宗・義宗父子はあえなく敗北。捕らえられて斬首され、ここに南北朝時代から続いた国人領主・懸田氏は、歴史の舞台からその姿を消した 2 。
この懸田氏討伐は、晴宗にとって天文の乱の最後の総仕上げであった。乱の最大の抵抗勢力であった懸田氏を滅ぼしたことで、晴宗の政権はやっと安定し、その権力基盤は盤石なものとなった 2 。皮肉にも、岳父・稙宗に最も忠実であった俊宗の死が、その息子・晴宗の支配体制を確立させるための最後の礎となったのである。
懸田俊宗の生涯を追う上で、一つの興味深い論点が存在する。それは、彼と息子・義宗の親子関係について、参照する史料によって記述が逆転している点である。
仙台藩の公式記録である『世臣系譜』の黒木氏に関する条項では、「懸田俊宗の子が義宗」と記されており、これが現在、最も広く受け入れられている説である 20 。しかし、天文の乱で俊宗と共に稙宗方として戦った相馬氏に伝わる軍記物『奥相茶話記』では、驚くべきことに「義宗が父で、俊宗が子」として語られているのである 20 。
この食い違いは、それぞれの史料が編纂された立場や意図を考察することで、その背景を推察することができる。『奥相茶話記』には、天文10年(1541年)の稙宗救出の際、懸田義宗の提案で「義宗の娘」を相馬盛胤の正室に迎えるという、相馬家にとって極めて重要な婚姻の約束が交わされたと記されている 20 。相馬氏側からすれば、この重要な縁組の当事者である義宗を、より上の世代、すなわち「父」として記述することで、同盟の格を高め、自家の記録をより有利に構成しようとした可能性がある。
一方で、『世臣系譜』は勝利者である伊達晴宗側の視点で編纂された公式史書であり、敵対した懸田氏の内部情報に関して、より客観的な記録、あるいは異なる伝承に基づいていた可能性が考えられる。他の多くの史料が俊宗と義宗の父子が共に討死したと記録し、一貫して俊宗を主導的な人物として描いていることからも 2 、全体の文脈との整合性を鑑みれば、「俊宗が父、義宗が子」とする『世臣系譜』の記述の方が、より史実に近いと判断するのが妥当であろう。
史料名 |
編纂者(立場) |
記述された親子関係 |
関連記述・背景 |
考察 |
『世臣系譜』(黒木氏条) |
仙台藩(伊達氏) |
俊宗が父、義宗が子 20 |
俊宗・義宗父子の討死を記述 17 |
勝利者である伊達氏側の公式記録としての性格を持つ。 |
『奥相茶話記』 |
相馬藩(相馬氏) |
義宗が父、俊宗が子 20 |
義宗の娘と相馬盛胤の婚姻の約束を記述 20 |
同盟相手としての相馬氏側の視点や、記録の偏りが影響した可能性が考えられる。 |
懸田氏の滅亡は、俊宗の妻「懸田御前」を巡る悲劇的な伝承を生み出した。彼女は伊達稙宗の娘であり、その美貌で知られていた 2 。
伝承によれば、俊宗の家臣でありながら晴宗に寝返った中島伊勢義康が、かねてより懸田御前に横恋慕しており、懸田城落城の混乱に乗じて彼女を自分のものにしようと画策したという 2 。御前がこれを頑なに拒絶すると、中島伊勢は彼女を居城の金山城(宮城県丸森町)へ連れ去り、追い詰められた御前は井戸に身を投げて自害した、あるいは斬り殺されたと伝えられている 6 。
この物語は、史実と後世の脚色が織り交ぜられたものと考えられる。史実として、中島伊勢が懸田氏を裏切り、その功績によって旧主の領地を与えられ、伊達家の重臣としての地位を確立したことは確かである 2 。この史実に対し、旧主を裏切った家臣への地域の憎悪と、悲劇のヒロインへの同情が結びつき、中島伊勢を「主君の妻を奪う不義者」として描くことで、彼の裏切り行為をより劇的に非難する物語が形成されていったのであろう。現在も懸田城跡である茶臼山公園の中腹には「懸田御前観音堂」が建てられており、この悲劇の伝承が地域に深く根付いていることを示している 2 。
懸田氏滅亡後、関係者たちはそれぞれ異なる道を歩んだ。
懸田俊宗は、伊達氏の家臣という枠組みにありながら、最後まで独立した国人領主としての誇りを失わなかった人物として評価できる。岳父・稙宗への忠義は、伊達家臣としての立場と、姻戚としての個人的な繋がりの双方から発せられたものであり、彼の行動を一貫して支えていた。
しかし、彼の生きた時代は、旧来の国人領主の連合体という支配体制が崩壊し、当主を中心とするより集権的な戦国大名へと権力構造が移行していく、まさにその転換期であった。俊宗の「反骨」と、それに続く謀叛と滅亡は、古い時代の国人領主のあり方が、新しい時代の権力構造の中ではもはや許容されなくなったことを示す、象徴的な事件であったと言える。
伊達晴宗にとって、懸田俊宗の討伐は、6年間に及んだ天文の乱の最後の総仕上げであった。天文22年(1553年)の懸田氏滅亡と、同年、晴宗が家臣団に対して一斉に発給した所領安堵の台帳『晴宗公采地下賜録』(はるむねこうさいちかしろく) 2 は、分かち難く結びついている。父の代からの抵抗勢力を完全に排除し、家臣団との主従関係を再編・確定させることで、晴宗は名実ともに伊達家の絶対的な支配者となった。懸田俊宗は、伊達氏の歴史が新たな段階へと進むための、最後の、そして最大の犠牲者だったのである。