最終更新日 2025-07-01

戸沢政盛

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戸沢政盛の生涯と業績に関する詳細報告書

序論:激動の時代を生き抜いた大名、戸沢政盛

報告書の目的と範囲

本報告書は、日本の安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した大名、戸沢政盛(とざわ まさもり)の生涯と業績について、現存する史料に基づき、詳細かつ徹底的な調査結果をまとめることを目的としています。政盛は、戦国時代の混乱期に生まれ、豊臣政権下で家督を継ぎ、関ヶ原の戦いでは徳川家康に与して功を挙げ、江戸時代には常陸松岡藩および出羽新庄藩の初代藩主を務めました。その生涯は、まさに激動の時代を生き抜いた武将であり、近世大名としての戸沢氏の礎を築いた人物として位置づけられます。本報告書では、彼の出生から家督継承、主要な軍事行動、藩政確立への貢献、そして晩年に至るまでを網羅し、その歴史的意義を多角的に考察します。

戸沢氏の歴史的背景と角館城主としての地位

戸沢氏は、桓武平氏の流れを汲む武家であり、平忠正の子、平維盛の子孫とされています 1 。大和国三輪を本拠地とした後、奥州磐手郡滴石庄(現在の岩手県雫石町)に移り、源頼朝に臣従して御家人としての地位を確立しました 1 。鎌倉時代初期には仙北郡門屋地方に進出し、勢力を拡大。文明年間(1479年頃)には戸沢氏の本拠地が角館城(現在の秋田県仙北市角館町)に移され、戦国大名としての地位を築いていきました 1

戸沢氏が角館城を本拠としたのは、応永30年(1423年)に戸沢家盛が菅利邦から城を奪取して以来とされています 3 。その後、戸沢氏は北浦郡の統一に成功し、仙北三郡の覇権を巡って小野寺氏や安東氏といった周辺勢力との抗争を繰り広げました 1 。特に、戸沢盛安(政盛の父)の代には、小野寺氏や秋田氏との戦いを経て勢力を拡大し、「鬼九郎」あるいは「夜叉九郎」の異名をとるほどの勇将として知られました 1 。盛安は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に参陣し、本領を安堵されましたが、陣中で病没しました 1 。この父の急逝と、その後の叔父の早世が、政盛の家督継承に複雑な背景をもたらすことになります。

生涯初期と家督継承の経緯

出生と庶子としての境遇

戸沢政盛は、天正13年(1585年)に戸沢盛安の長男として誕生しました 8 。しかし、彼の生母は盛安が鷹狩の際に見初めた小古女沢の百姓、源左衛門の娘でした 8 。当時の身分制度において、母の出自が低かったため、政盛は嫡子としての家督継承資格を持たない庶子とされました 8 。その後、政盛の母は東光坊という山伏に嫁ぎ、政盛自身も百姓の子として育つことになります 8 。この幼少期の境遇は、彼が後に家督を継ぐ上で大きな障害となる可能性を秘めていました。

叔父・光盛の死去と家督継承の危機

天正18年(1590年)、父である戸沢盛安が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣中、陣中で病没しました 5 。盛安は享年25歳という若さで、嫡男の政盛はわずか4歳であったため、家督は弟の戸沢光盛が継ぐことになりました 5 。光盛は豊臣秀吉から本領の北浦郡4万4千石を安堵され、戸沢氏の存続を図りました 1

しかし、文禄元年(1592年)、光盛もまた豊臣秀吉による文禄の役(朝鮮出兵)に参加するため肥前名護屋城へ向かう途上、播磨国姫路(または明石)で病に倒れ、享年17歳(または16歳)という若さで死去しました 7 。光盛には実子がなかったため、戸沢氏は当主が不在となり、家系が断絶する危機に直面しました 8 。この事態は、戦国時代から近世への移行期において、大名家が生き残るための重大な局面であり、戸沢氏の家臣団にとって喫緊の課題となりました。

家臣団による擁立と豊臣秀吉への拝謁

戸沢氏の存続が危ぶまれる中、家臣団は政盛を家督継承者として擁立することを決断します。政盛が百姓の子として育っていたため、家臣たちは彼の生母が嫁いだ山伏東光坊を殺害し、政盛を強引に連れ出しました 8 。これは、家門の存続を最優先する家臣団の強い意志を示す行動でした。

その後、家臣団は政盛を伴って大坂へ向かい、豊臣秀吉に謁見させました 7 。秀吉は政盛の家督継承を認め、戸沢氏の存続が正式に承認されました 7 。この拝謁は文禄元年(1592年)8月とも、翌年とも言われています 10 。この出来事により、政盛は戸沢氏第20代当主としての地位を確立し、戸沢家は断絶の危機を乗り越えました 8 。慶長3年(1598年)には豊臣秀吉が死去し、天下の情勢は徳川家康の台頭へと向かっていきます 10 。政盛は、幼少期に父や叔父から「時の権力者の動向を見極め、適切に立ち回ることが肝要」と教えられており、この教えが後の彼の行動指針に深く影響を与えたと考えられます 13

関ヶ原の戦いにおける活躍と転封

東軍への加担と情報提供

慶長5年(1600年)、天下を二分する関ヶ原の戦いが勃発しました 7 。戸沢政盛は、この戦いにおいて徳川家康率いる東軍に加担しました 8 。当時、東国では上杉景勝と最上義光が対立しており、政盛は最上義光らと共に、上杉景勝が戦のために城を築城しているという情報を家康に報告した大名の一人でした 13 。家康は政盛の報告を重視し、「九郎五郎(政盛の別称)の報告によって会津の様子が分かった」と返書を送っています 14 。さらに家康は、関ヶ原の戦いの前年には政盛に対し、「会津への出陣が決まった。来る21日、最上義光を味方にして米沢城を攻撃せよ」という具体的な指示の書状を送りました 14 。これは、家康が政盛の情報を信頼し、彼を東軍の重要な一員として認識していたことを示しています。政盛自身も、初陣の緊張の中で夜通し斥候を務め、「己の命よりも、情報の正確さを重んじよ」という最上義光の言葉を胸に刻んだと伝えられています 13

東禅寺城(酒田城)攻略

家康の指示を受け、戸沢政盛は最上方の武将と共に、上杉方の重要拠点であった東禅寺城(酒田城とも称される、現在の山形県酒田市内に位置)を攻め落としました 3 。この攻略は、関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利に貢献する重要な軍事行動となりました 8

関ヶ原の戦いは東軍の勝利に終わり、政盛はこの戦いでの功績が認められました 8 。その論功行賞として、慶長7年(1602年)に戸沢氏は出羽角館から常陸国松岡(現在の茨城県高萩市)へ転封を命じられました 2 。この転封は、徳川家への忠誠を示した政盛を、江戸の幕府の近くに配置しようとする徳川家康の政策的意図があったと考えられています 10

一方で、一部の史料には、政盛が上杉討伐において安東氏(秋田氏)の勢力増大を恐れ、消極策に終始したため、戦後にこの行動が咎められて常陸国松岡へ減転封された、という記述も存在します 17 。しかし、結果的には4万石の領地を与えられており、これは当時の大名としては一定の規模を保ったものでした 7 。この転封は、戸沢氏が豊臣政権下の大名から、徳川幕府下の近世大名へと移行する重要な節目となりました。

常陸松岡藩主としての統治(約20年間)

慶長7年(1602年)に常陸国へ転封された戸沢政盛は、常陸多賀郡と茨城郡にまたがる計4万石の領地を賜り、松岡藩の初代藩主となりました 2 。彼は慶長11年(1606年)に下手綱村の竜子山城を改築し、「松岡城」と改称して居城としました 10 。この際、山城部分に加え、新たに濠や土居を設けた平城部分を拡張し、城下町の整備も同時に進めました 15 。当時の松岡城は、戦国山城の様式と近世大名に求められる政庁機能を持つ平城部分を兼ね備えた雄大な景観であったと描写されています 10

松岡での約20年間は、戸沢氏が近世大名へと「脱皮し、成長」する上で極めて重要な時期であったと評価されています 15 。この期間に、政盛は徳川家譜代の重臣である鳥居忠政の妹を正室に迎え、さらに忠政の次男・戸沢定盛を継嗣として迎えるなど、徳川幕府との姻戚関係を強化し、御家の安泰を図りました 7 。これは、新興大名として幕府との関係を盤石にするための重要な政治的駆け引きでした。

また、松岡時代に召し抱えられた家臣団が、後の新庄藩政を担う中心的な存在となったことも特筆されます 15 。例えば、元竜子山城主大塚氏の一族であった舟生治右衛門は、政盛に召し抱えられ、後に新庄藩政初期において川の内村や釜淵村などの開発に功をなしました 15 。政盛自身も、松岡地方での地方(農村や土地)支配において、角館時代と比較してかなり進んだ方法がとられていたことを経験し、この経験が後の新庄藩政の確立に大きな影響を与えたことは疑いないとされています 15 。新庄転封時、政盛は38歳であり、20代から30代を過ごした松岡時代は、彼が藩主としての経験と知識を深める上で極めて意義深い期間であったと言えるでしょう 15

大坂の陣における役割と新庄藩への移封

大坂の陣での守備任務

慶長19年(1614年)、徳川秀忠による大坂征討(大坂冬の陣)が始まると、戸沢政盛は幕府の命を受け、小田原城の守衛にあたりました 10 。翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣に際しても、彼は江戸城の守衛任務を担いました 7 。これらの任務は、直接戦場での戦闘に参加するものではありませんでしたが、幕府の要衝を守るという重要な役割であり、徳川家への忠誠を示す機会となりました。政盛は、豊臣家が滅亡した後、「これからは戦ではなく、政で家の存続を図らねばならぬ」という認識を強く持ち、藩政の充実に力を注ぐことになります 13 。この認識転換は、彼が近世大名として生き残るための重要な思考の変化を示しています。

日光東照宮御廟造営手伝い

元和3年(1617年)、政盛は徳川家康を祀る日光東照宮の御廟造営の手伝いを命じられました 7 。彼はこれに応じ、石灯籠を寄進しています 7 。これは、幕府に対する忠勤の表れであり、徳川政権下での戸沢家の地位を確固たるものにするための重要な行動でした。

新庄藩への移封と藩政の確立

元和8年(1622年)、出羽山形藩主であった最上氏が幕府によって改易されるという大きな出来事が発生しました 2 。この最上氏旧領の再編に際し、戸沢政盛は、最上郡と村山郡の旧領地を与えられ、出羽新庄へ移封されることになりました 2 。これにより、戸沢氏は常陸松岡藩4万石から、出羽新庄藩6万石へと大幅に加増され、故郷である出羽国への復帰を果たしました 8 。この加増転封は、政盛が関ヶ原の戦いやその後の幕府への忠勤を通じて、徳川幕府からの信頼を得ていたことの証左と言えます。

新庄藩の初代藩主となった政盛は、当初は真室城に入りましたが、寛永元年(1624年)に新庄城の築城が許可され、翌寛永2年(1625年)には新庄城が完成し、そこを拠点としました 16 。新庄城は、山城であった鮭延城に代わり、湿地帯であった沼田に新たに築かれたもので、堀の造成には困難を伴ったという逸話も残されています 23

新庄入部後、政盛は藩政の確立に尽力しました 9 。彼は城下町の整備を本格的に進め、足軽町、侍町、町人町を区画し、現在の新庄市街地の基礎を築きました 10 。また、藩の財政基盤を確立するため、新田開発と鉱山開発にも積極的に取り組みました 10 。具体的には、新庄と金山の間に広がる指首野・塩野、そして津谷・鞭打野(現在の戸沢村津谷)といった地域の開拓を行いました 24 。鉱山開発では、金山町の谷口銀山と大蔵村の永松銅山を本格的に開発し、産出量を飛躍的に向上させました 24 。谷口銀山は新庄藩の財政を支える「ドル箱」となり、その銀で新庄城の隅櫓が築かれたとも伝えられています 25

さらに、政盛は藩の年貢米や特産品の余剰品を大坂・京都といった上方市場へ運ぶため、西廻り航路を積極的に活用しました 24 。これにより、莫大な利益を得て藩財政を確立し、最上地域一円の発展の礎を築いたと評価されています 24 。政盛は、新庄への移封を新たな挑戦と捉え、最上川の水運や森林資源、交通の要所としての新庄の可能性を見出し、「新庄は我らが最後の地となろう。子孫のために、盤石な基礎を築かねばならぬ」と家臣たちに語りかけ、共に藩づくりに励んだと伝えられています 13

晩年と死没、そして後世への影響

晩年の活動と死没

戸沢政盛は、新庄藩の藩政確立に尽力した後、慶安元年(1648年)閏1月22日に江戸桜田の藩邸において死去しました 8 。享年64歳でした 8 。彼の遺骸は、東京都港区三田の常林寺に葬られ、新庄市太田の瑞雲院にも墓所が設けられています 9

政盛の晩年には、後継者問題が生じました。彼は実子の戸沢正誠(幼名:千代鶴)を後継者として認めず、重病に陥った後も後継者を立てなかったとされています 28 。しかし、政盛の死後、家臣たちは画策し、幕府に正誠の家督相続を認めさせました 28 。幕府から正誠の家督相続の領知状が出されたのは、政盛が亡くなってから3年後の慶安3年(1650年)のことでした 28 。この空白期間は、家中の安定と幕府への対応が、いかに家臣団にとって重要な課題であったかを示しています。

戸沢家の存続と新庄藩の発展

戸沢政盛が築いた新庄藩は、その後11代、約250年間にわたり戸沢家が藩主として統治し続けました 2 。彼の開いた城下町の基本的な構造は、現在の新庄市街地にも受け継がれており、新庄まつりなどの伝統行事も現在まで残されています 13 。これは、政盛が築いた政治的・文化的基盤が、後の子孫によってさらに発展させられ、最上地方を中心に出羽の歴史に大きな足跡を残したことを示しています 13

新庄藩の歴代藩主は、初代政盛に始まり、正誠、正庸、正勝、正諶、正産、正良、正親、正胤、正令、正実と続きました 2 。彼らはそれぞれ、新田開発、鉱山開発、西廻り航路の活用といった政盛の政策を継承・発展させ、藩財政の確立と領内の発展に努めました 24 。また、飢饉対策としての備蓄制度や、藩士への禄米給与の見直し、倹約令の発布など、時代に応じた様々な改革も行われました 7 。これらの努力により、新庄藩は幕末まで安定した統治を維持しました。

歴史的評価と人物像

戸沢政盛は、戦国末期から江戸時代初期という激動の時代を生き抜き、最上家の与力という立場から独立した大名へと家格を高めた実力者として高く評価されています 13 。彼は、最上家改易という危機的状況を逆に好機と捉え、常陸松岡藩、そして出羽新庄藩の基礎を築き上げた政治手腕は特筆に値します 13

彼の人物像は、史料や逸話から多角的に浮かび上がります。幼少期に父盛安から「乱世を生き抜くため用心深くあらねばならぬ」「時の権力者の動向を見極め、適切に立ち回ることが肝要」と教えられたことは、彼の生涯の指針となりました 13 。関ヶ原の戦いでは、若輩ながらも斥候として情報の正確さを重んじ、徳川家康からの信頼を得ました 13

家督相続後、家臣団の統制に苦心しながらも、古参家臣の知恵を尊重しつつ自らの意思決定を明確に示し、酒を酌み交わしながら信頼関係を築いたと伝えられています 13 。大坂の陣を経て、「これからは戦ではなく、政で家の存続を図らねばならぬ」と認識を転換し、領内の整備や年貢の安定化、最上川の水運を活用した交易に注力しました 13 。松岡藩主時代には、徳川幕府への忠誠を示すため江戸城西の丸普請に忠実に参加し、財政を圧迫されながらも工事を遅滞なく完了させ、幕閣からの評価を高めました 13 。また、江戸での滞在中に幕府要人との交流を深め、歌や俳諧を楽しむなど、武将としての剛毅さと文人としての柔和さを兼ね備えた人物であったことが窺えます 13

新庄への移封後も、当初の嘆息から一転してその可能性を見出し、新庄城の改修・拡張、城下町の区画整理、商人・職人の積極的な招致など、都市計画に尽力しました 13 。晩年には病に伏すことが多くなりましたが、重要な決断は自身が下し、藩主としての責任を全うしました 13 。彼は嫡子に「民を思い、家臣を大切にし、そして何より、藩の存続を第一に考えよ」と諭し、乱世に生まれながらも徳川の世で大名として生きた人生に悔いはないと振り返ったとされています 13 。政盛の生涯は、常に変化の中で生き、家臣と共に困難を乗り越え、新たな道を切り開いてきた軌跡であり、「どのような時代になろうとも、民を大切にし、時勢を読み取る力があれば、家は存続していくことができるはずだ」という彼の言葉は、後世に生きる者への深い示唆を含んでいます 13

結論

戸沢政盛の生涯が持つ歴史的意義

戸沢政盛の生涯は、日本の歴史が戦国時代から近世へと移行する激動期において、一地方大名がいかにして家門を存続させ、新たな時代に適応していったかを示す典型的な事例として、極めて重要な歴史的意義を持っています。彼は、庶子という不利な出自、父と叔父の相次ぐ早世による家督継承の危機という困難な状況を乗り越え、家臣団の結束と機敏な政治判断によって戸沢氏の存続を確かなものにしました。

特に、豊臣政権から徳川幕府への権力移行期における彼の行動は、その後の戸沢氏の命運を決定づけました。関ヶ原の戦いにおける東軍への加担と情報提供、そして東禅寺城攻略における功績は、徳川家康からの信頼獲得に直結しました。これにより、戸沢氏は常陸松岡藩4万石、そして出羽新庄藩6万石へと加増転封され、故郷出羽への復帰と独立した近世大名としての地位を確立しました。この転封は単なる領地の移動に留まらず、松岡時代に培った近世大名としての統治経験と家臣団の育成が、後の新庄藩政の基盤を築く上で不可欠であったことが明らかになりました。

新庄藩主となってからの政盛は、城下町の整備、新田開発、鉱山開発、西廻り航路の活用といった多岐にわたる政策を推進し、藩の財政基盤を確立するとともに、領内の経済と文化の発展に大きく貢献しました。これらの政策は、新庄藩が約250年間にわたり存続し、現在の新庄市街地の基礎を形成する上で決定的な役割を果たしました。彼の藩政は、単なる領地経営に留まらず、民の安寧を第一に考え、時勢を読み解き、柔軟かつ確固たる信念を持って臨んだ結果であり、そのリーダーシップは現代にも通じる普遍的な価値を有しています。

報告書のまとめと今後の研究への示唆

本報告書は、戸沢政盛が、単なる武将としてだけでなく、激動の時代を乗り越え、家門の存続と発展に尽力した優れた政治家、そして領民を思いやる慈悲深い大名であったことを明らかにしました。彼の生涯は、戦国から近世への転換期における地方大名の苦悩と適応、そして成功の軌跡を示す貴重な事例です。

今後の研究においては、政盛が松岡藩時代に具体的にどのような統治手法を導入し、それが角館時代と比較してどのように進んでいたのか、より詳細な史料分析が求められます。また、新庄藩における初期の経済政策、特に西廻り航路を通じた上方との交易が、藩財政に与えた具体的な影響についても、さらなる深掘りが必要です。さらに、政盛の人物像を形成した幼少期の経験や、家臣団との関係性、そしてその政治思想の根源についても、多角的な視点からの考察が期待されます。これらの研究を通じて、戸沢政盛という人物が日本の歴史において果たした役割が、より一層明確になることでしょう。

引用文献

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  6. BLOG スタッフブログ - ブログ | 休暇村乳頭温泉郷【公式】 https://www.qkamura.or.jp/nyuto/blog/detail/?id=92187
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