戦国時代の安芸国人、吉川氏の家臣に「手島興信」という名の武士がいた。彼は幼少の頃より主君・吉川興経に仕え、興経が毛利元就の謀略によって隠居に追い込まれた際も、これに従い最後まで側を離れなかった。そして、天文19年(1550年)、興経が毛利の刺客に襲われた時、主君を守って奮戦し、共に討死を遂げた。この、主君に殉じた忠臣という姿は、手島興信という人物を語る上で揺るぎない核となるものである。しかし、この簡潔な人物像の背後には、一個人の忠義という言葉だけでは語り尽くせぬ、より壮大で悲劇的な一族の物語が秘められている。
本報告は、この手島興信という人物の生涯を徹底的に掘り下げるものであるが、その調査の過程で極めて重要な事実が明らかとなった。手島興信は単独の存在ではなく、実は「豊島(手島)五人兄弟」の長兄であったのである 1 。彼の名は、より正確には「豊島 内蔵充 興信(とよしま くらのじょう おきのぶ)」といい、四人の弟たち、すなわち又四郎満武、又五郎弘光、又七郎頼達、又八郎重康と共に、主君・興経と運命を共にした。この発見は、手島興信の物語を、一個人の忠烈な生涯から、一族郎党が主家と一体となりて滅びの道を選んだ「一族の殉教」の物語へと昇華させる。それは、戦国乱世における主従関係が、単なる個人間の契約ではなく、家と家、一族全体を巻き込む強固な運命共同体であったことを、痛切に物語るものである。
彼ら手島一族の運命を理解するためには、その舞台となった16世紀半ばの安芸国の政治情勢、そして彼らの主君・吉川興経が置かれた絶望的な苦境を避けては通れない。西の周防を本拠とする大内義隆と、東の出雲から勢力を拡張する尼子経久。この二大勢力の狭間で、安芸の国人領主たちは常に存亡を賭けた選択を迫られていた。興経の苦悩と決断、そしてそれが招いた悲劇的な結末は、そのまま手島兄弟の運命に直結する。
さらに、この物語にはもう一人の重要な登場人物がいる。後に中国地方の覇者となる謀神・毛利元就である。興経と手島兄弟の悲劇は、元就が描いた壮大な戦略の過程で引き起こされた必然であったともいえる。しかし、この事件の詳細は、勝者である毛利氏側の公式な記録にはほとんど残されていない 2 。約束を反故にして旧主を殺害するという、いわば「不都合な真実」であったからに他ならない。我々がその凄惨な顛末を知ることができるのは、主に後世に編纂された軍記物語『陰徳太平記』(別称『陰徳記』)の記述によるものである 2 。この書は、吉川家の家臣によって書かれたものであり、毛利・吉川氏の視点から描かれているものの、物語的な潤色が加えられている可能性は否定できない 5 。
したがって、本報告では、これらの史料の性質を十分に踏まえ、記述を鵜呑みにすることなく、時に批判的な視座を保ちながら、残された伝承や石碑の記録を丹念に繋ぎ合わせることで、歴史の闇に葬られかけた忠臣・手島一族の実像に迫ることを目的とする。
手島興信ら兄弟がその生涯を捧げた主家・吉川氏は、鎌倉時代より続く安芸国の名門国人領主であった。しかし、彼らが歴史の表舞台に登場する16世紀半ば、安芸国は群雄割拠の様相を呈しており、単独の勢力でその独立を維持することは極めて困難な状況にあった。その地理的条件から、安芸は西に一大勢力を築いた周防・長門の守護大名・大内義隆と、東から中国地方の覇権を窺う出雲の尼子経久、そしてその子・晴久という、二つの巨大な力の衝突点となっていたのである。
吉川家当主・吉川興経は、この二大勢力の狭間で、常に家の存亡を賭けた綱渡りのような外交を強いられていた。当初、興経は尼子氏に属し、その勢力下で安芸国内での地位を保っていた。しかし、大内氏の勢力が安芸に深く浸透してくると、興経は大内義隆のもとへと転じる 6 。これは、時勢を読み、より強大な勢力に与することで家を保とうとする、当時の国人領主としてはごく自然な選択であった。
しかし、この決断が興経の運命を大きく狂わせる転機となる。天文11年(1542年)、大内義隆は尼子氏を滅ぼすべく、毛利元就ら安芸・備後の国人衆を率いて出雲へと大軍を進めた。世に言う「第一次月山富田城の戦い」である。興経も大内軍の一翼を担い、尼子氏の本拠である月山富田城の包囲に加わった。ところが、戦いが長期化し、大内軍の兵站が伸びきって士気が低下すると、戦況は膠着し、やがて尼子方の反撃が開始される。この劣勢を目の当たりにした興経は、突如として大内方を裏切り、再び尼子方へと寝返ったのである。この興経の離反が引き金となり、大内軍は総崩れとなり、義隆は命からがら周防へと敗走することとなった 6 。
興経のこの行動は、短期的に見れば自軍の損害を回避し、勝利した尼子方との関係を修復するという合理的な判断であったかもしれない。しかし、長期的に見れば、それは自らの首を絞める致命的な失策であった。この「裏切り」は、興経に対する内外の評価を決定的に失墜させた。大内義隆の恨みを買ったことは言うまでもなく、安芸国人衆の盟主としての地位を固めつつあった毛利元就からの信頼をも完全に失った。さらに、この変節は吉川家中にも深刻な動揺と不満をもたらし、当主としての興経の求心力は著しく低下した。興経の叔父にあたる吉川経世らが、家中の実権を握る大塩右衛門尉を殺害し、元就と連携して家中改革を断行しようとする動きも、この時期に起こっている 6 。これは、興経の指導力に見切りをつけた家臣たちが、新たな秩序を模索し始めたことの証左に他ならない。
興経の行動は、二大勢力の狭間で必死に生き残りを図る弱小国人領主の苦悩の表れであった。しかし、その場しのぎの選択は、結果として毛利元就という新たな権力者に介入の絶好の口実を与え、自らの家を乗っ取られ、ついには命まで奪われるという、皮肉な結末を招くことになる。手島興信ら兄弟の忠義は、まさにこの、主君が招いた絶望的な政治的孤立と、そこから始まる悲劇の渦の中へと否応なく巻き込まれていくのであった。
吉川興経が変節によって孤立を深める一方、安芸の一国人に過ぎなかった毛利元就は、着実にその勢力を拡大し、中国地方の覇権を視野に入れた壮大な構想を描き始めていた。その中核をなすのが、自らの血族をもって有力国人領主の家を支配下に置くという戦略である。具体的には、自身の次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を竹原小早川家へと養子に送り込み、両家を毛利宗家の支柱とする「毛利両川」体制の構築であった 7 。この戦略は、婚姻や養子縁組を駆使して相手の家を内部から掌握するという、元就の権謀術数の真骨頂を示すものであった。
月山富田城の戦いでの裏切りにより、興経が政治的信用を失ったことは、元就にとってまさに千載一遇の好機であった。元就は、興経の指導力に不満を抱く吉川家中の反興経派、すなわち叔父の吉川経世や重臣の森脇祐有らと密かに連携し、興経に圧力をかけ始めた。その要求は、元就の次男・元春を興経の養子として迎え入れ、将来の家督を継がせるという、事実上の家督乗っ取り計画であった 2 。
この計画を遂行する上で、元就は極めて重要な駒を用意していた。安芸の有力国人であり、毛利氏に属する猛将として知られた熊谷信直である。信直は、かつて父を毛利氏との戦いで失った過去を持つが、後に元就の器量に感じ入って和解し、その配下となっていた 8 。そして、天文16年(1547年)、信直の娘である新庄局が、元就の次男・元春に嫁いだのである 9 。この婚姻により、熊谷信直は吉川家の次期当主となる元春の舅、そして毛利元就の姻戚という、毛利一門衆に準ずる極めて強固な関係を築き上げることになった 11 。この複雑に張り巡らされた血縁と姻戚の網こそが、後の悲劇の伏線となる。
内外からの圧力に抗しきれなくなった興経は、天文16年(1547年)、ついに元春を養子として受け入れることを承諾する。そして天文19年(1550年)、興経は家督を元春に強制的に譲らされ、隠居の身となった。隠居先としてあてがわれたのは、吉川家の本拠である新庄(現在の広島県北広島町)から遠く離れた、毛利領内の深川(現在の広島市安佐北区上深川町)であった 1 。ここは三篠川が流れ、両側を高い山に囲まれた、外部との交通が不便な場所であり、事実上の軟禁、幽閉に他ならなかった。この時、多くの家臣が新当主・元春に従う中、手島内蔵充興信をはじめとする五人兄弟ら、ごく僅かな側近だけが興経に従い、この幽閉地へと赴いた 1 。
興経の追放劇は、単なる当主の交代劇ではない。それは、毛利元就という謀神が、血縁と婚姻を巧みに利用して仕掛けた、冷徹かつ周到な権力移譲のプロセスであった。そして、このプロセスの最終段階、すなわち旧体制の完全な破壊と、新体制の血族による結束強化という最も汚れた仕事を実行する役割は、新当主・元春の「舅」である熊谷信直の双肩にかかってくるのである。この人間関係の力学こそが、事件の核心に潜む戦国の非情なリアリズムを物語っている。
人物 |
立場・所属 |
吉川興経との関係 |
吉川元春との関係 |
備考 |
手島 興信 |
吉川家家臣(五人兄弟の長兄) |
幼少期より仕えた忠臣 |
敵対 |
主君・興経と共に討死。一族で殉じた忠義の象徴。 |
吉川 興経 |
吉川家 前当主 |
(本人) |
養父 |
毛利元就の調略により、元春に家督を譲らされ、殺害される。 |
吉川 元春 |
吉川家 新当主 |
養子 |
(本人) |
毛利元就の次男。興経の死により吉川家を完全に掌握。 |
毛利 元就 |
毛利家当主 |
興経殺害の首謀者 |
実父 |
「毛利両川」体制のため、息子・元春を使い吉川家を乗っ取る。 |
熊谷 信直 |
安芸国人・毛利家臣 |
殺害の実行犯 |
舅(妻の父) |
娘を元春に嫁がせた猛将。自らの娘婿の地位を固めるため、その前任者を殺害するという極めて複雑な立場にあった。 |
天野 隆重 |
毛利家臣 |
殺害の実行犯 |
家臣 |
熊谷信直と共に襲撃部隊を率いた。 |
深川の地に幽閉された吉川興経であったが、彼自身は自らの命が脅かされているとは考えていなかった節がある。なぜなら、隠居を受け入れるにあたり、彼は毛利方に対して自筆の誓約書、すなわち「起請文」を提出していたからである 2 。これは、熊野牛王符という神聖な護符に書かれたものであり、神仏に誓って約束を違えないことを示す、当時最も重い意味を持つ文書であった。興経はこの起請文によって、自らの生命、そして何よりも嫡男・千法師の将来が保障されたものと信じていた。千法師については、将来元春に女子が生まれれば娶わせるという約束まで交わされていたという 2 。
しかし、謀神・毛利元就にとって、このような神仏への誓いなど、自らの覇業の前では一片の紙切れに過ぎなかった。元就は、興経と千法師を生かしておくことは、将来必ずや毛利家の禍根となると判断し、非情な決断を下す。すなわち、両名の抹殺である。
運命の日、天文19年(1550年)9月27日の早朝、元就の密命を受けた熊谷信直と天野隆重が率いる三百騎余りの軍勢が、夜陰に紛れて深川の興経の隠居館を完全に包囲し、奇襲をかけた 2 。この襲撃の様子は、後世の軍記物語『陰徳太平記』に生々しく、そして凄惨に描かれている。
元就の謀略は、単なる武力による襲撃に留まらなかった。彼は事前に興経の側近である村竹宗蔵なる者を内応させ、興経の武具に密かに細工をさせていた。怪力で知られた興経が頼みとする愛刀「青江(狐ヶ崎)」の刃は潰され、その弓の弦も切られていたという 2 。不意を突かれ、頼みの武器さえも万全ではないという絶望的な状況にありながら、興経は鬼神の如く奮戦し、たちまち何人かの討手を斬り伏せた。しかし、多勢に無勢、そこへ背後から村竹の放った矢が興経の腰から下腹部にかけて深々と突き刺さった。矢を抜こうにも抜けず、苦戦する興経に杉原太郎左衛門なる者が斬りかかり、これを切り結んでいるところへ、討手の大将の一人、天野隆重が組み伏せた。上下にもみ合う中、隆重の従者である与助が興経を刺し、ついに熊谷信直の家臣・末田民部左衛門(あるいは末田直共とも伝わる)がその首を掻き切った 2 。
この時、興経が将来を託した我が子、当時まだ五、六歳であったと推測される千法師もまた、乳母や家来と共に館から逃げ出したが、すぐに追手に捕らえられ、無残にもその命を奪われた 2 。こうして、毛利元就は自らの手を汚すことなく、吉川家の旧主とその血脈を完全に根絶やしにしたのである。
この一連の殺害方法は、戦国時代の非情な謀略の縮図といえる。神聖な誓約の破棄、内通工作による無力化、そして騙し討ち。これは、元就が興経を対等な「武士」としてではなく、いかなる非道な手段を用いてでも完全に除去すべき「政治的腫瘍」と見なしていたことの何よりの証拠である。そして、この徹底的な破壊工作の前に、最後の最後まで主君を守るべく立ちはだかったのが、手島興信ら五人の兄弟であった。
天文19年9月27日、深川の館が三百余騎の討手に襲われた時、主君・吉川興経の側に侍り、最後までその盾となって戦った忠臣たちがいた。彼らこそ、手島興信とその兄弟たちである。終焉の地に残された墓碑銘は、その名を現代にまで明確に伝えている 1 。
彼ら五人兄弟は、主君が隠居を強いられ、多くの家臣が新当主・元春のもとへと去っていく中で、ただ一筋に興経に従い、この寂しい幽閉地まで付き従ってきた。その忠誠心は、この最後の瞬間において、最も純粋な形で発揮されることとなる。
『陰徳太平記』をはじめとする諸記録や現地の伝承は、この絶望的な状況下で手島兄弟らが奮戦したと伝えている 1 。夜明け前の突然の奇襲、圧倒的な兵力差、そして主君の武器は内通者によって既に無力化されている。勝敗は初めから決していた。しかし、彼らは降伏や逃亡という道を選ばなかった。主君が裏切りによって嬲り殺しにされようとするその眼前で、彼らは文字通り最後の防波堤として、次々と襲い来る討手の前に立ちはだかったのである。
その戦いの具体的な様子を詳細に記した一次史料は存在しない。しかし、墓碑に刻まれた「奮闘したがかなわず、ことごとく討死、または自害して果てた」という一文が、その壮絶な最期を雄弁に物語っている 1 。これは、兄弟全員が一人残らず、武士としての本分を全うし、主君と運命を共にする道を選んだことを意味する。彼らの死は、興経の悲劇性を一層際立たせると同時に、『陰徳太平記』のような後世の軍記物語においては、乱世に咲いた忠義の鑑として、賞賛をもって描かれている 17 。
手島兄弟のこの行動は、論理や損得勘定を超越した、主君への絶対的な帰属意識の究極的な発露であった。彼らの主君・興経は、政治的には敗者であったかもしれない。しかし、手島兄弟にとって興経は、幼少の頃より仕え、生涯を捧げると誓った唯一無二の主君であった。その主君の命運が尽きる時、自らの命もまたそこで終わる。この主従一体の思想こそが、彼らの行動原理の根幹をなしていた。
毛利元就が冷徹なリアリズムと合理的な謀略によって旧勢力を排除し、新たな秩序を築き上げていくその過程で、手島兄弟は、非合理的ともいえる純粋な「忠義」という価値観を自らの命をもって体現した。彼らの死は、勝者の論理とは全く相容れない、滅びゆく者たちの美学と悲壮な覚悟を、我々に強く印象付けるのである。
深川の館での悲劇によって、吉川興経とその嫡男・千法師、そして手島五人兄弟をはじめとする僅かな側近たちがことごとく命を落とした。この事件をもって、鎌倉時代から続いた藤原氏を祖とする吉川氏の嫡流は、完全に断絶した 14 。そして、興経の養子であった毛利元春が名実ともに吉川家の当主となり、以後、弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と称され、毛利宗家を支える両翼として、特に山陰地方の経略において絶大な武功を挙げていくことになる 7 。興経と手島兄弟の死は、毛利氏の覇業完成に向けた、一つの冷徹な礎石となったのである。
勝者である毛利氏の公式な歴史において、この不名誉な旧主殺害事件は深く語られることはなかった。しかし、その記憶は決して消え去ることはなかった。興経と千法師、そして主君に殉じた手島兄弟の墓は、終焉の地である広島市安佐北区上深川町、JR芸備線上深川駅のすぐ近くに、事件から四百七十年以上が経過した現在も、地域の人々の手によって静かに守られている 1 。
特に注目すべきは、手島兄弟の墓の来歴である。彼らの墓は、事件当時はそれぞれ別の場所に散在していたという。それが一つの場所にまとめられ、現在のような「五人墓」として石碑が建立されたのは、事件から実に335年もの歳月が流れた明治18年(1885年)5月のことであった。そして、この墓を建立したのは、第十一世孫にあたる「豊島 諒(てしま りょう)」という人物であった 1 。彼は、主家である吉川氏が関ヶ原の戦いの後に移封された岩国に在住していた。この事実は、手島(豊島)一族の末裔が、主家に従って安芸から岩国へと移り住み、先祖の悲劇的な物語を「家の記憶」として、三百数十年間にわたって途絶えることなく語り継いできたことを力強く証明している。
さらに興味深いのは、この明治時代に建てられた墓碑に、情報の出典として『藝藩通志』と、地元の郷土史である『ふるさと高陽』の名が記されていることである 1 。『藝藩通志』は、江戸時代後期に広島藩の命によって編纂された、藩の公式地誌ともいえる書物である 19 。勝者である毛利氏の後継藩である広島藩の公式記録に、この事件が(たとえ簡潔にであれ)記載されていたことは、この悲劇が単なる一族の私的な伝承に留まらず、地域の歴史として公的にもある程度認識されていたことを示唆している。
手島一族の物語は、勝者の公式史から抹消されかけたにもかかわらず、三つの異なる流れによって現代まで命脈を保ってきた。一つは、『陰徳太平記』に代表される軍記物語による伝播。一つは、『藝藩通志』や地域の口伝といった、地方史の中での継承。そして何よりも決定的だったのが、子孫による「家の記憶」としての私的な伝承である。歴史の表舞台から消された記憶が、一族のアイデンティティの中核を成す物語として世代を超えて語り継がれ、近代国家が成立した明治の世になって、子孫が私財を投じ、石碑という公的な形で再びその記憶を可視化した。これは、歴史叙述における「公」と「私」の記憶が織りなす、極めて興味深いダイナミズムを示す事例といえよう。
手島興信の生涯を追う旅は、彼が「豊島五人兄弟」の長兄であり、一族郎党が主君と運命を共にしたという、壮絶な物語に行き着いた。彼らの生き様と死に様は、戦国時代の非情な権力闘争の奔流の中で、個人や一族が掲げた「忠義」という理念がいかに脆く、しかし同時に、いかに尊い輝きを放ち得たかを象徴している。
この深川の悲劇は、戦国乱世を貫く二つの異なる論理の衝突として捉えることができる。一つは、毛利元就に代表される「国家(家)の存続と発展」を至上の目的とし、そのためには神仏への誓約さえも反故にし、非情な謀略をも厭わない、冷徹で合理的な政治の論理である。もう一つは、手島兄弟に代表される、主君への絶対的な忠誠と自己犠牲を最高の美徳とする、情念的で非合理な武士の論理である。元就の論理が新たな時代を創造し、歴史の勝者となった一方で、手島兄弟の論理は、主君と共に滅びることでその純粋性を完結させた。
歴史はややもすれば勝者の物語として語られ、敗者や、手島兄弟のような歴史の主役ではない人物たちの生き様は、その片隅に埋もれがちである。しかし、彼らのような名もなき人々の物語を丹念に追うことこそ、歴史の多層性と複雑性、そしてそこに生きた人間たちの息遣いを真に理解する上で不可欠な作業である。
手島興信と四人の弟たちの墓が、事件から五百年近くを経た今なお、終焉の地にひっそりと、しかし大切に守られている。この事実は、人々が、計算や損得を超えた「忠義」という名の物語に、時代を超えて心を動かされ、その鎮魂を願わずにはいられないことの、何よりの証左ではないだろうか。彼らの物語は、歴史の冷厳な事実を超えて、我々の心に静かに、そして深く響き続けるのである。