日本の戦国時代、数多の武家が勃興と滅亡を繰り返す中で、陸奥国斯波郡(現在の岩手県紫波郡周辺)に拠った高水寺斯波氏は、室町幕府三管領筆頭という名門の血筋を引く特異な存在であった。本報告書が主題とする斯波経詮(しば つねあき)は、この奥州斯波氏が権勢の頂点を極め、そして不可逆的な衰亡へと向かう、まさにその転換点に君臨した当主である。彼は、父・詮高(あきたか)が築いた全盛期を継承し、弟たちとの共同統治によって一族最後の輝きを放った一方で、その死は斯波氏の急速な衰退の序章となった 1 。
しかしながら、斯波経詮という人物は、その重要性にもかかわらず、史料的制約から多くの謎に包まれている。本報告書は、経詮個人の生涯と業績を解明することに留まらず、彼の生きた時代を、父・詮高から子・詮真(あきざね)、そして孫・詮直(あきなお)へと至る一族の興亡史という縦軸と、16世紀の奥州における地政学的変動という横軸が交差する点として捉え、複眼的な視座からその実像を徹底的に解明することを目的とする。
斯波経詮の研究を進める上で、まず直面するのは史料間の矛盾である。特に、江戸時代に成立した軍記物や伝承集である『奥南落穂集』や、それを参照した『内史略』、『岩手県史』などでは経詮の具体的な治績が記されているのに対し、『続群書類従』に収められた「奥州斯波系図」のような公式性の高い系図史料には、彼の名が一切見られない 1 。
この系図からの欠落という事実は、単なる記録漏れとして片付けるべきではない。それは、斯波氏滅亡後の歴史が、勝者である南部氏の視点や、後世の編纂意図によって再構成された可能性を強く示唆するものである。『奥南落穂集』自体が、元禄15年(1702年)頃に成立した南部藩の伝承を基にした資料であることを踏まえれば、その記述には勝者の論理が色濃く反映されていると見るべきであろう 4 。斯波氏最後の当主・詮直の暗愚さを強調し、家臣の離反や南部氏による侵攻を正当化する物語は、南部氏の支配体制を磐石にする上で極めて都合の良いものであった。
一方で、経詮の具体的な治績、例えば岩手郡攻略や「三御所」体制の維持といった記録が地域伝承の中に残存していることは、彼が地域レベルでは重要な統治者として記憶されていた証左でもある 1 。この公式記録と地域伝承の乖離こそが、歴史記述の政治性を浮き彫りにする。
したがって、本報告書は特定の史料を無批判に受容するのではなく、それぞれの成立背景を常に念頭に置いた史料批判の視点を堅持する。そして、矛盾する史料群を突き合わせ、その背後にある歴史的文脈を読み解くことで、勝者によって語られなかった名門の当主、斯波経詮の実像に迫ることを試みるものである。
奥州斯波氏の歴史は、鎌倉時代中期、足利氏宗家の家督継承問題にその源流を発する。足利氏三代当主・泰氏の長男であった家氏(いえうじ)は、本来であれば宗家を継ぐべき立場にあった。しかし、彼の母が北条氏の有力一門ではあるものの、得宗家(嫡流)に反旗を翻した名越氏の出身であったことが災いする。兄・名越光時らが幕府中枢に対して反乱(宮騒動)を起こした影響か、家氏の母は正室の座を追われ、家氏自身も嫡子の地位を失った 3 。代わって、北条得宗家の娘を母に持つ弟の頼氏が足利氏の嫡流を継ぐこととなり、家氏は宗家から分流する形で陸奥国斯波郡(しわぐん)を所領として与えられた。これが斯波氏の始まりである 3 。
この分流は、他の足利庶流とは一線を画すものであった。家氏は宗家の後見役を務めるなど、足利一門において宗家に次ぐ高い家格を維持し続けた。斯波氏が奥州の地に実質的な拠点を築くのは、南北朝の動乱期、建武2年(1335年)のことである。室町幕府を創始した足利尊氏が、奥州で勢力を張る南朝方の北畠顕家に対抗するため、斯波氏四代当主・高経(たかつね)の嫡男である家長(いえなが)を奥州管領として派遣した 7 。家長は斯波郡の高水寺に入り、これを拠点として城郭を本格的に整備したとされ、これが高水寺城の起源と伝えられている 7 。家長は若くして戦死するものの、彼の下向が奥州斯波氏の歴史を本格的に始動させる画期となったのである。
奥州斯波氏の権威を理解する上で不可欠なのが、その卓越した家格である。斯波氏宗家は、室町幕府において将軍に次ぐ最高職である管領を、細川氏・畠山氏と共に世襲する「三管領家」の筆頭であった 3 。この中央政界における絶大な権威は、遠く離れた奥州の地においても大きな影響力を持った。
その権威の象徴が「御所」という尊称である。高水寺斯波氏は、周辺の諸大名から「斯波御所」あるいは「奥の斯波殿」と呼ばれ、敬意を払われた 14 。この称号は、同じく斯波一門から分かれ、それぞれ奥州探題、羽州探題という幕府の公的役職に就いていた大崎氏や最上氏と斯波氏が同格であることを示している 15 。これは、当時奥州で勢力を拡大していた伊達氏や南部氏といった他の有力大名よりも格式が上であることを意味し、書状のやり取りにおける礼法(書札礼)など、外交儀礼の面でも優位に立つための重要な基盤であった 3 。
しかし、この構造は戦国時代という実力主義の世において、致命的な脆弱性を内包していた。奥州斯波氏の権威は、自らの領国経営の成果や軍事力以上に、中央の足利幕府と管領家斯波氏という「外部の権威」に大きく依存していたのである。幕府の権威が全国に行き渡っていた室町時代前期には、この家格は絶大な力を発揮した。事実、永享7年(1435年)に和賀郡で内乱が発生した際には、高水寺斯波氏が奥州探題大崎氏に代わって北奥羽の諸将を指揮し、乱を鎮圧している 3 。だが、応仁の乱以降、幕府の権威が失墜し、各地で守護代や国人が実力で領国を支配する下剋上の時代が到来すると、その権威の源泉を失った斯波氏の地位もまた、その基盤から揺らぎ始めることになる。名門の権威は、戦国の厳しい現実の前では、実力を伴わない限り砂上の楼閣に過ぎなかったのである。
世代 |
本家(高水寺御所) |
分家(雫石御所) |
分家(猪去御所) |
婚姻関係 |
親 |
斯波詮高 |
- |
- |
- |
子 |
斯波経詮 |
雫石詮貞 |
猪去詮義 |
- |
孫 |
斯波詮真 |
雫石詮貴 |
猪去義方 |
詮真の娘 ⇔ 九戸弥五郎(高田康実) |
曽孫 |
斯波詮直(詮元) |
雫石久詮 |
猪去久道 |
- |
(出典: 1 に基づき作成)
斯波経詮の父である詮高の時代に、高水寺斯波氏はその権勢の頂点を迎える。しかし、その詮高自身の出自については謎が多く、『奥南落穂集』などによれば奥州探題大崎氏の当主・大崎教兼の庶子であったとされる 3 。また、越前の斯波一門である鞍谷氏の出身とする説もあり 20 、このことは、高水寺斯波氏の家督が必ずしも父子相続によって一貫して継承されてきたわけではなく、時には同族の有力者からの養子によって家名が維持されてきた可能性を示唆している。
出自の謎とは裏腹に、詮高の政治手腕・軍事能力は卓越していた。当時、北の三戸南部氏はその勢力を南へと拡大しており、斯波氏にとって最大の脅威となっていた 20 。天文9年(1540年)、南部氏が岩手郡に侵攻し、雫石(当時は滴石)を拠点としていた戸沢氏を破ると、詮高はこれを座視しなかった。天文14年(1545年)、詮高は南部氏に対する大々的な反撃を開始。雫石城を攻略して南部勢力を岩手郡から駆逐し、さらに太田(現在の盛岡市)方面にまで進出するなど、目覚ましい戦果を挙げた 3 。彼は単なる武勇だけでなく謀略にも長けていたと伝えられ 20 、周辺の稗貫氏や和賀氏とも巧みに連携し 20 、高水寺斯波氏の歴史上、最大の版図を築き上げることに成功したのである。
天文18年(1549年)、父・詮高が74歳で死去すると、その跡を嫡男である経詮が継いだ 20 。経詮の治世は、父が築いた権勢を維持し、さらに盤石なものにすることに注がれた。彼の統治体制を象徴するのが、いわゆる「三御所」体制の確立である。
この体制は、経詮自身が本拠である高水寺城に座して「斯波御所」として一族を統べる一方、南部氏との勢力圏が接する最前線に弟たちを配置するものであった。具体的には、次弟の雫石詮貞(しずくいし あきさだ)を、南部氏から奪取したばかりの雫石城(雫石御所)の城主とし、三弟の猪去詮義(いさり あきよし)を猪去城(猪去御所)に置いた 1 。斯波氏の高い家格から、これら三つの拠点はそれぞれ「御所」と尊称された。
この「三御所」体制は、二つの重要な機能を持っていた。第一に、南部氏の南下に対する強力な防衛網である。岩手郡の戦略的要衝に一族の有力者を配置することで、領国の守りを固めた。第二に、拡大した領国を効率的に統治するための分権的な支配システムである。経詮は、弟たちとの緊密な連携による共同統治を行い、父の代から続く斯波氏の全盛期を維持することに成功した 1 。『奥南落穂集』などの記録によれば、経詮は天文年間に岩手郡の攻略を主導したとされ、父の拡大路線を確実に引き継いだ当主であったことが窺える 1 。また、自らの居城を明確に「斯波御所」と称したことは、斯波氏の権威を内外に改めて誇示する、象徴的な意味合いを持つ行為であった 1 。
しかし、この「三御所」体制は、その成功の内に構造的な脆弱性を孕んでいた。このシステムが円滑に機能したのは、経詮と弟たちとの間の強い信頼関係と、経詮自身の強力なリーダーシップがあったからに他ならない。それは一族の結束という、極めて人的な要素に依存した権力構造であった。権力が分散しているため、もし宗主の求心力が低下したり、一族の結束が乱れたりすれば、各個撃破される危険性を常に内包していた。詮高・経詮という傑出した当主の時代には攻守に優れたシステムとして機能したが、後継者の能力や外部環境の変化に対応できず、後の世代で崩壊する運命にあった。それは、特定の世代の能力によってのみ支えられた「一代限りの成功モデル」であり、その栄光の内に、すでに次代の滅亡の種子が蒔かれていたのである。
詮高・経詮の時代、斯波氏の勢力は本拠地の斯波郡に留まらず、南の稗貫郡、和賀郡にまで影響力を及ぼしていた。記録によれば「斯波三十三郷」を領したとされ、斯波氏を盟主とする広域の連合圏が形成されつつあった 18 。この勢力拡大を支えたのが、巧みな外交・婚姻政策である。斯波氏は、南に隣接する和賀氏や、遠野を本拠とする阿曽沼氏の庶流である鱒沢氏などと積極的に婚姻関係や養子縁組を行い、背後の安全を確保すると同時に、対南部氏の包囲網を形成していった 3 。
この戦略は、斯波氏が単なる軍事力だけでなく、自らが持つ「御所」としての高い家格という政治的資本を最大限に活用した結果であった。周辺の国人領主たちは、斯波氏との縁戚関係を結ぶことで、自らの家格を高め、領国支配における権威付けとすることができた。斯波氏にとっては、兵を損なうことなく影響力を拡大する有効な手段であった。
このように、経詮の治世は、軍事、統治、外交の各方面において、奥州斯波氏が最も輝いた時代であった。しかし、この栄光は長くは続かなかった。経詮の没年については詳らかではないが、彼の死後、嫡男である詮真が家督を継いだ 1 。この家督継承が、斯波氏の運命を栄光から衰亡へと転換させる、重大な分岐点となるのである。
斯波経詮が世を去った16世紀後半、奥州の政治情勢は大きな地殻変動の時代を迎えていた。その中心にいたのが、斯波氏の宿敵である三戸南部氏であった。当主・南部晴政のもと、南部氏は室町幕府12代将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜る(偏諱)など、中央政権との結びつきを巧みに利用して家格を上昇させた 14 。これにより、南部氏は幕府から北奥羽を代表する大名として公認され、南部一族の惣領としての地位を不動のものとした。晴政はこれを背景に、強力な騎馬軍団を中核とした軍事力をもって、北上川流域への南下政策を一層強力に推し進めていった 18 。
一方で、斯波氏がその権威の源泉としてきた旧来の室町的秩序は、大きく揺らいでいた。南奥羽では伊達氏が急速に台頭し、大永年間には陸奥国守護職に任じられる。これにより、斯波氏が同格として並び立っていた奥州探題大崎氏の権威は完全に形骸化した 14 。斯波氏の権威を保証してきた幕府の地方支配体制そのものが崩壊し、奥州は名門の家格よりも実力が全てを決定する、真の戦国乱世へと突入したのである。このパワーバランスの変化の中で、斯波氏の相対的な地位の低下は避けられない趨勢であった。
年号(西暦) |
斯波氏の動向 |
南部氏の動向 |
主要な出来事・結果 |
天文9年(1540) |
- |
岩手郡に侵攻、雫石の戸沢氏を攻略 3 |
南部氏、岩手郡への影響力を拡大 |
天文14年(1545) |
南部氏に反撃。雫石城、太田などを奪取 3 |
- |
詮高、岩手郡の支配権を確立。斯波氏の権勢が頂点に達する |
天文18年(1549) |
詮高死去。嫡男・ 経詮 が家督継承 20 |
- |
「三御所」体制による全盛期を維持 |
弘治2年頃(1556頃) |
経詮の子・詮真が家督継承か(時期不詳) |
晴政、斯波領への圧力を強化 |
斯波氏、南部氏の攻勢に劣勢となる |
永禄年間(1558-70) |
詮真、南部氏の圧力に屈し、九戸政実の弟・弥五郎を婿養子に迎える 3 |
斯波氏への影響力を内部から確保 |
斯波氏、事実上南部氏の支配下に。衰退が始まる |
天正14年(1586) |
当主・詮直と婿養子・高田康実(弥五郎)が不和に。康実は南部信直の下へ出奔 3 |
出奔した康実を保護。これを口実に斯波領へ侵攻 |
雫石御所・猪去御所が陥落。斯波氏は岩手郡の主要地を割譲 3 |
天正16年(1588) |
家臣の岩清水義教らが南部氏に内通し謀反。詮直は高水寺城を放棄し逃亡 3 |
斯波氏の内乱に乗じて総攻撃をかけ、高水寺城を攻略 15 |
奥州斯波氏、滅亡 |
(出典: 3 に基づき作成)
経詮の子・詮真が家督を継ぐと、南部晴政からの軍事的圧力は日増しに強まっていった 3 。かつて父や祖父が誇った武威も、勢いを増す南部氏の前では劣勢を免れなかった。追い詰められた詮真が選んだのは、軍事力ではなく、政略結婚による和平であった。彼は、南部一族の中でも特に武勇に優れた九戸氏から、当主・九戸政実の弟である弥五郎を自らの娘の婿として迎え入れたのである 3 。
この婚姻は、戦国時代においてしばしば見られる同盟強化策とは全く意味合いが異なっていた。対等な立場での縁組ではなく、明らかに斯波氏が南部氏の圧力に屈したことを示す、事実上の従属儀礼であった 9 。弥五郎は高田村を与えられて高田吉兵衛康実と名乗り、高水寺城の出丸である吉兵衛館に居を構えた 8 。これにより、南部氏の影響力は斯波氏の中枢にまで直接及ぶことになった。短期的な和平は得られたかもしれないが、それは自らの領国に敵国の監視役を常駐させるに等しい行為であった。この決断は、斯波氏の独立性を著しく損ない、内部からの切り崩しを許す致命的な失策となった。それは、滅亡への坂道を転がり落ちる、不可逆的なプロセスの始まりだったのである。
詮真の苦渋の決断も、斯波氏の命運を好転させるには至らなかった。その子・詮直の代になると、婿養子として迎えられた高田康実との間に不和が生じる。そして天正14年(1586年)、康実は斯波家を見限り、南部氏の新当主・南部信直のもとへと出奔するという最悪の事態が発生した 3 。
これは単なる一武将の離反ではなかった。康実は斯波氏の婿として、その内情、軍事力、家臣団の人間関係に至るまで、あらゆる弱点を熟知していた。彼はまさに、南部氏にとって斯波氏を攻略するための最高の情報源、城内に送り込まれた「トロイの木馬」であった。南部信直はこの好機を逃さなかった。康実の出奔を大義名分として即座に斯波領へと侵攻を開始。かつて「三御所」体制の中核を担った雫石御所と猪去御所はあっけなく攻略され、それぞれの当主であった雫石久詮と猪去義方は本家の高水寺城へと敗走した 3 。
最終的に、南に隣接する稗貫氏の仲介によって和睦が成立するが、その代償はあまりにも大きかった。斯波氏は、岩手郡に領有していた見前、津志田、中野、飯岡といった、経済的にも戦略的にも重要な地域を全て南部氏に割譲させられたのである 3 。これにより、かつて詮高・経詮の時代に築き上げた勢力圏は大幅に縮小し、高水寺斯波氏は滅亡の一歩手前まで追い詰められた。
奥州斯波氏最後の当主となったのは、詮真の子・詮直であった。彼ははじめ詮基(あきもと)と名乗ったとされる 24 。後世に成立した『奥南落穂集』や『奥羽永慶軍記』といった軍記物によれば、詮直は政務を顧みずに遊興に耽り、当主としての器量を欠いていたと酷評されている 25 。これが事実であれば、家臣団の忠誠心が離れ、求心力を失っていったのは当然の帰結であったと言える。
ただし、この「暗君」像には史料批判的な視点が必要である。前述の通り、これらの記録は斯波氏滅亡後に、勝者である南部氏の側で編纂されたものである。家臣の裏切りや南部氏による侵攻という結果を正当化するために、最後の当主の不行跡が意図的に強調された可能性は否定できない。しかし、結果として家中の統制が完全に失われていたことは、その後の出来事が雄弁に物語っている 3 。当主の資質に問題があったか、あるいは時代の大きな変化に対応しきれなかったかは別として、詮直が名門斯波氏を率いる最後の指導者として、その役割を果たせなかったことは事実であろう。
斯波氏の弱体化を決定づけたのは、外部からの圧力だけでなく、内部からの崩壊であった。その引き金を引いたのが、かつて斯波氏の婿養子であり、今は南部信直に仕える中野康実(旧名・高田康実)であった。彼は斯波氏の内情を知り尽くしており、その知識を活かして巧みな調略を開始する。標的となったのは、斯波氏の有力家臣であり、主君・詮直に不満を抱いていた岩清水右京義教(いわしみず よしのり)と簗田詮泰(やなだ あきやす)であった 12 。
天正16年(1588年)、康実の誘いに乗った岩清水義教と簗田詮泰は、ついに居城の岩清水城で兵を挙げ、主君に反旗を翻した 9 。驚いた詮直は、義教の実の兄である岩清水義長に討伐軍を率いさせて鎮圧を命じるという、骨肉の争いを強いた。しかし、義教は地の利を生かし、わずか50名ほどの寡兵で兄の率いる300余の討伐軍を撃退するという勝利を収める 9 。この内乱の勃発と鎮圧の失敗により、斯波氏の家中は修復不可能なほどに分裂し、組織的な軍事行動が不可能な麻痺状態に陥ったのである。
斯波氏の内乱は、南部信直にとって待ち望んだ絶好の機会であった。彼はこの混乱を見逃さず、自ら大軍を率いて斯波領へと侵攻を開始した。かつて源頼朝が奥州藤原氏討伐の際に本陣を置いたという故事に倣い、陣ヶ岡に本陣を構えた 28 。
詮直は領内に動員令を発するが、もはや彼の命令に従う家臣はほとんどいなかった。多くの者は南部軍に投降するか、自らの居城に籠って事の推移を傍観する道を選んだ 3 。名門の最後の牙城である高水寺城に駆けつけたのは、岩清水義長のほか、家老の細川長門守、稲藤大炊助といった、ごく少数の忠臣のみであったという 3 。
この状況に至り、詮直は抵抗を断念。天正16年(1588年)8月頃、彼は本拠地である高水寺城を放棄し、南に勢力を持つ同族の奥州探題・大崎氏のもとへと落ち延びた 3 。城に残った岩清水義長らは奮戦の末に討死し、ここに足利一門の名門として250年以上にわたり奥州北部に君臨した高水寺斯波氏は、歴史の舞台から姿を消したのである。
この滅亡劇の背景には、もう一つの重要な要因が存在する。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の一環として、天正15年(1587年)に関東・奥羽の大名に対して発令された「惣無事令」である 30 。これは大名間の私的な合戦を禁じるものであり、この新たな政治秩序が斯波氏を外交的に孤立させた可能性が高い。南部氏の侵攻は、形式上は斯波氏の内乱への介入という形を取っており、惣無事令違反の咎めを回避する口実があった。一方で、斯波氏の同盟者であった稗貫氏や和賀氏らは、この惣無事令がある手前、公然と斯波氏に援軍を送ることができなかった。下手に動けば、豊臣政権から「私戦」と見なされ、自らが改易されるリスクを冒すことになるからである。結果として斯波氏は誰の助けも得られず、内部崩壊と外部からの侵攻という二重の圧力の前に、なすすべなく滅び去るしかなかったのである。
高水寺城を追われた詮直のその後の足跡は、諸説あり判然としない。大崎氏を頼った後、諸国を放浪したとされるが、一説には南部氏に降伏して仕えたとも 8 、あるいは同族である出羽の最上氏を頼ったとも、京の公家である二条家に仕えたとも伝えられている 3 。また、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦に乗じて発生した和賀・稗貫一揆に呼応し、旧臣を率いて再起を図ったが失敗に終わった、という悲壮な伝承も残されている 18 。
一方で、斯波氏を構成していた一族や家臣団の多くは、より現実的な道を歩んだ。かつて「三御所」として権勢を誇った雫石氏や猪去氏といった分家は、南部氏に仕官し、盛岡藩士として家名を存続させた 3 。斯波氏滅亡の引き金を引いた中野康実も、その功績を認められ、南部家中で重用されている 32 。
奥州斯波氏の滅亡が持つ歴史的な意義は大きい。それは、豊臣秀吉による「奥州仕置」という、中央政権による全国統一の大きな流れと完全に連動した出来事であった 33 。斯波氏という、室町時代から続く北上川中流域の旧来の権威が消滅したことにより、この地域は南部氏による一元的な支配体制の下に組み込まれることになった。これは、後の盛岡藩の成立と、近世を通じての安定した支配体制の基礎を築く上で、決定的な意味を持つものであった 18 。斯波氏の滅亡は、単なる一地方大名の終焉ではなく、奥州における中世的秩序の完全な終焉と、近世的支配体制への移行を象徴する画期的な事件だったのである。
斯波経詮は、奥州斯波氏の歴史において、権勢の頂点と衰亡の端境期に位置する極めて重要な当主であったと評価できる。彼は、父・詮高が築き上げた最大版図と武威を継承し、弟の詮貞・詮義らとの「三御所」体制による巧みな共同統治を通じて、一族最後の栄光の時代を現出した 1 。彼の治世は、斯波氏が「御所」という名目上の高い権威と、岩手郡にまで及ぶ実質的な勢力を兼ね備えていた最後の時代であり、その意味で彼は斯波氏の「黄昏の輝き」を最も強く体現した人物であったと言える。
しかし、彼が維持した権勢は、常に北から圧力をかけ続ける南部氏との緊張関係の上に成り立つ、脆く不安定なものであった。彼個人の卓越した統率力と、兄弟間の固い結束によって辛うじて保たれていた均衡は、彼の死と共に崩れ去る。彼の治世の成功そのものが、後継者にとってはあまりにも重い遺産となり、結果として斯波氏は彼の死を境に、急速な衰退の道を歩むことになった。
高水寺斯波氏の滅亡は、最後の当主・詮直一個人の資質の問題にのみ帰結するものではなく、より深く構造的な要因に根差している。
第一に、 権威の空洞化 である。斯波氏の権威の源泉は、足利一門という血筋と、中央の室町幕府の権威にあった。しかし、戦国時代という実力主義の奔流の中で、その旧来の権威は実質的な力を失い、斯波氏は時代の変化に適応することに失敗した。
第二に、 統治体制の脆弱性 が挙げられる。「三御所」体制に代表される分権的な統治システムは、経詮のような傑出した当主の個人的な統率力に過度に依存しており、制度としての持続可能性を欠いていた。当主の求心力が低下すると、この体制は内部から容易に崩壊した。
第三に、 外交戦略の失敗 である。南部氏の増大する圧力に対し、詮真の代に選択した婿養子政策は、短期的な和平と引き換えに敵を内部に引き入れる結果となり、斯波氏の自立性を奪い、滅亡を早める致命的な失策となった。
そして最後に、 時代の奔流への不適応 である。豊臣政権による「惣無事令」という新たな政治秩序は、斯波氏から同盟国からの支援という選択肢を奪い、外交的に孤立させた。彼らは、旧来の名門勢力として、中央から押し寄せる近世的な統一権力の波に飲み込まれ、淘汰される運命にあったのである。
斯波経詮とその一族の栄枯盛衰の物語は、中世的な権威の象徴であった「御所」の称号と足利一門の矜持が、下剋上の荒波、より狡猾で実力本位の新興勢力(南部氏)、そして中央集権化を推し進める巨大な政治権力(豊臣政権)の前で、いかに無力であったかを鮮やかに描き出している。
彼らの栄光と滅亡は、単なる一地方大名の興亡史に留まらない。それは、中世という時代が完全に終焉を迎え、日本社会が近世へと大きく移行していく戦国時代末期の奥州における、一つの象徴的な歴史的事件として、後世に多くの教訓を投げかけているのである。