戦国時代の尾張国にその名を刻む斯波義統(しば よしむね)という人物は、一般的に「悲劇の傀儡君主」として記憶されている。尾張守護という高貴な身分にありながら、その実権は守護代の織田信友(広信)に握られ、清須城で無為の日々を送る。そして、信友が企てた織田信長暗殺計画を密かに信長に知らせたことが露見し、報復として殺害された──これが、斯波義統について語られる物語の骨子である 1 。
この通説は、彼の生涯の結末を的確に要約している。しかし、この一面的な評価だけでは、斯波義統という一人の武将が背負った歴史の重み、そして彼が時代の転換点において果たした皮肉な役割を見過ごすことになる。彼の生涯を深く理解するためには、室町幕府三管領筆頭という名門・斯波氏の栄光と没落の軌跡、守護・守護代・奉行という複雑な権力構造が渦巻く尾張国の情勢、そして何より、義統自身が抱いていたであろう政治的意図と画策に光を当てる必要がある。
本報告書は、この通説的理解を基盤としつつも、その背景にある歴史的力学を徹底的に掘り下げることを目的とする。単なる「悲劇の傀儡」という評価から脱却し、斯波義統を、失われた権威の回復を目指して自らの意思で行動した一人の歴史的能動者として捉え直す。そして、彼の死が結果として織田信長の尾張統一への道を切り拓くという、歴史の皮肉を浮き彫りにすることで、斯波義統という人物の多角的な実像に迫りたい。
斯波義統の生涯を理解する上で、彼が家督を継いだ時点で斯波氏がいかに凋落し、尾張国がいかに複雑な権力闘争の舞台となっていたかを知ることは不可欠である。
斯波氏は、清和源氏足利氏の流れを汲む名門であり、室町幕府においては足利将軍家の一門として極めて高い家格を誇った 4 。その当主は代々左兵衛督(さひょうえのかみ)や左兵衛佐(さひょうえのすけ)に任ぜられたことから、その唐名にちなんで「武衛家(ぶえいけ)」と称された 6 。室町幕府の職制が確立すると、斯波氏は畠山氏、細川氏とともに将軍を補佐する管領(かんれい)を輩出する三管領家の一つとなり、その中でも筆頭の家柄として幕政に重きをなした 5 。
最盛期には越前、尾張、遠江の三国を領する守護大名として君臨したが、応仁の乱(1467年-1477年)を境にその権勢は急速に衰え始める 8 。長年の内乱は斯波氏の家督争いも一因となっており、この乱を経て、守護代として現地支配を担っていた家臣の力が主家を凌駕する「下剋上」の風潮が全国的に加速した。斯波氏もその例外ではなく、中核たる領国であった越前は守護代の朝倉氏に事実上奪われ(「下剋上」)、遠江は隣国駿河の強豪・今川氏の侵攻によってその手から失われた 5 。
斯波義統が歴史の表舞台に登場する頃には、かつて三国を領した斯波武衛家の威光は過去のものとなり、その支配権は尾張一国に逼塞(ひっそく)する名ばかりの存在となっていた。彼の生涯は、この「失われた権威」を取り戻すための苦闘の連続であったと見ることができる。
義統の父である第13代当主・斯波義達(よしたつ)は、失われつつある斯波氏の権威を回復すべく、遠江国の奪還に異常なまでの執念を燃やした人物であった 4 。しかし、この試みは斯波氏の没落を決定づける悲劇的な結末を迎える。
義達が主導した遠江への度重なる出兵は、尾張国内の家臣団、特に守護代であった織田氏の強い反対を招いた。ついには守護代・織田達定(たつさだ)が義達に反旗を翻し、守護と守護代が干戈を交えるという異常事態にまで発展した 4 。義達はこの戦いで達定を討ち、一時的に守護の権威を示したが、その強引な手法は家臣団との間に深い溝を残した。
そして永正12年(1515年)、義達は今川氏親との引馬城(ひくまじょう)における決戦で致命的な大敗を喫する。この戦いで義達自身が捕虜となり、剃髪させられた上で尾張に送り返されるという屈辱を味わった 3 。この敗北は、斯波氏の軍事力の失墜を天下に示し、義達の尾張国内における求心力を完全に破壊した。
失意のうちに事実上の引退に追い込まれた父に代わり、義統はわずか3歳(永正10年(1513年)生まれ 1 、数え年で3歳)にして斯波家の家督と尾張守護職を継ぐこととなった 2 。父・義達の失敗は、義統の時代の権力構造を規定した。守護の権威は地に堕ち、守護代が実権を掌握する下剋上の土壌が完全に整ったのである。義統は、父が残した負の遺産を一身に背負い、その生涯をスタートさせざるを得なかった。
義統が守護となった当時の尾張国は、斯波氏の権威失墜に加え、守護代である織田氏自体が分裂し、複雑な権力闘争を繰り広げている状態にあった。
応仁の乱以降、尾張の守護代・織田氏は、尾張の上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)を支配する「伊勢守家」(岩倉織田氏)と、下四郡(海東・海西・愛知・知多)を支配する「大和守家」(清洲織田氏)の二大派閥に分裂し、長らく対立していた 3 。義統の父・義達が清洲織田氏の当主・達定を討伐したことで、一時的に清洲織田氏は弱体化したが、義達の失脚後、その一族である織田達勝(たつかつ)、そしてその養子である織田信友が清洲城主となり、幼い義統を傀儡として擁立することで勢力を回復した 2 。
さらにこの構造を複雑にしたのが、清洲織田氏の家臣(被官)でありながら、その主家を凌ぐ勢いを見せていた庶流の「弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)」の台頭である。織田信秀(信長の父)に率いられた弾正忠家は、津島湊などを掌握することによる経済力と、三河や美濃へも進出する軍事力を背景に、尾張国内で急速にその影響力を拡大していた 3 。
つまり、義統が守護として君臨した尾張は、名目上の君主たる斯波氏、分裂する守護代家(岩倉と清洲)、そしてその守護代を凌駕しつつある家臣(弾正忠家)という、三層の権力主体が互いに牽制し合い、覇を競う流動的な政治状況にあった。この複雑な権力構造こそが、本来ならば無力な傀儡で終わるはずだった義統に、自らの政治的延命を賭けた「駆け引き」の余地を与えることになったのである。
斯波義統は、単なる無力な傀儡であったのか、それとも自らの意思で権力闘争の渦中に身を投じた策謀家であったのか。その実像に迫るため、彼の人物像と具体的な政治行動を検証する。
まず、斯波義統の基本的な人物情報と家族構成を以下に整理する。
これらの情報を基に、斯波義統の家族関係を図示すると以下のようになる。
[表1] 斯波義統 家系図 |
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父 |
斯波義達 |
母 |
多々良氏女 |
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本人 |
斯波義統 |
妻 |
石橋房義娘 |
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兄弟 |
斯波義景 |
斯波統雅 |
斯波統銀 |
今川氏豊室 |
子 |
斯波義銀 |
毛利秀頼 |
津川義冬 |
蜂屋謙入 |
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了妙尼 |
吉良義安室 |
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この家系図は、斯波氏内部の血縁関係を示すだけでなく、義統の死後、信長や秀吉の時代を生き抜くことになる子供たちの存在を明らかにしている。特に嫡男・義銀が後に津川義近(つがわよしちか)と改名し 3 、その子孫が加賀藩士として存続したことは 25 、斯波武衛家の「滅亡」が必ずしも血筋の断絶を意味しなかったことを示唆しており、歴史の連続性を視覚的に理解する上で重要である。
父・義達の失脚後、清洲城に入った義統は、守護代の織田達勝、そしてその後継者である織田信友によって擁立され、その治世の初期は無力な傀儡としての生活を余儀なくされた 1 。しかし、彼はその状況に甘んじるだけの人物ではなかった。
天文6年(1537年)頃から、義統は寺領安堵状を発給するなど、尾張守護としての活動を開始する 13 。これは、単なる飾り物ではなく、自らの権威を行使しようとする意思の表れであった。そして、彼がそのためのパートナーとして選んだのが、主家である清洲織田氏を脅かす存在となっていた弾正忠家の織田信秀であった。
義統は、自身を傀儡として扱う織田信友に対抗するため、信秀に積極的に接近した。信秀が美濃や三河へと勢力を拡大させる際には、守護としてその軍事行動に正当性を与える役割を果たした 13 。特筆すべきは天文13年(1544年)の信秀による美濃侵攻の際、義統が尾張国中に信秀への協力を命じ、本来は弾正忠家よりも格上である岩倉織田氏をも動員させたことである 13 。これは、信秀の力を利用して自らの権威を回復しようとする、明確な政治的意図に基づいた行動であった。
さらに義統は、信秀の武力を背景に、かつての斯波氏の分国であり朝倉氏に奪われた越前の奪還すら計画していたとされる 13 。この壮大な構想は、彼が単なる現状維持ではなく、斯波氏の旧領を回復し、名門としての栄光を取り戻すという野心を抱いていたことを物語っている。
当然ながら、義統のこうした動きは、彼を擁立する織田信友の強い警戒と反発を招いた。義統が信秀と結びつけば結びつくほど、信友との対立は決定的となり、清洲城内における両者の関係は抜き差しならないものへと悪化していった 4 。
斯波義統は、「無力な傀儡」と「権力回復を狙う策謀家」という二つの顔を持っていた。彼の行動原理は、失われた守護の権威を取り戻すという一点に集約される。そのために、彼は家臣団の内部対立を利用し、より強い駒(はじめは信秀、そして信長)と結びつくという、戦国時代の没落した権力者が生き残りをかけて行う典型的な政治的賭博に打って出たのである。
天文23年(1554年)、斯波義統が長年続けてきた権力回復への試みは、最も悲劇的な形で終焉を迎える。彼が下した一つの決断が、自らの命運を尽きさせる引き金となった。
織田信秀の死後、その後を継いだ信長と、彼の家督相続を快く思わない守護代・織田信友との対立は激化の一途をたどっていた。追い詰められた信友は、信長の暗殺を計画するに至る 1 。
この絶好の機会を、斯波義統は見逃さなかった。彼は家臣の簗田弥次右衛門(やなだ やじうえもん)を通じて、この暗殺計画を信長に密告し、信友打倒への助力を求めた 1 。この密告の動機は、複合的なものであったと考えられる。
第一に、信友の傀儡であり続ける現状を打破するための自己保身と現状打開の試みであった 10 。第二に、かつて父・信秀をパートナーとしたように、その子・信長を新たな提携相手とし、自らの権威回復の駒として利用しようという戦略的判断があった。そして第三に、信友が斯波氏の宿敵である今川氏と連携しようとしていたという説があり、これが事実であれば、義統にとって信友の行動は「敵への内通」と映り、彼を排除する決定的な理由となった可能性がある 26 。
義統の密告は、単なる保身行為ではなく、攻勢に転じるための戦略的な一手であった。彼は信友と信長の対立という好機を捉え、自らがキャスティングボートを握ろうとしたのである。しかし、この賭けはあまりにも危険すぎた。彼は、密告が露見した場合の信友の反応を、致命的に見誤っていたのかもしれない。
密告を知り激怒した織田信友は、家老の坂井大膳(さかい だいぜん)と共謀し、義統への報復を決意する 2 。彼らは、義統の嫡男・斯波義銀が屈強な家臣団を率いて川狩りに出かけ、守護邸の警備が手薄になった隙を狙った 2 。
天文23年7月12日(西暦1554年8月10日)、信友と坂井大膳に率いられた軍勢が守護邸に殺到した 4 。この事件の年については天文22年とする説も存在する 2 。
『信長公記』によれば、守護邸の守りは寡兵であったにもかかわらず、同朋衆の何阿弥(善阿弥)や森刑部丞(政武)兄弟、柘植宗花(つげ そうか)といった義統の近臣たちは、侵入者に対して凄まじい抵抗を見せた 4 。この奮戦は、義統が単に孤立した傀儡ではなく、彼に忠誠を誓う一定数の家臣団を擁していたことを示唆している。彼らの抵抗は、義統の権威回復への試みが、家臣たちにも共有されていた可能性を窺わせる。
しかし、衆寡敵せず、守り手は次々と討ち取られていった。もはやこれまでと悟った義統は、名門の当主としての誇りを胸に、自ら邸に火を放ち、弟の統雅や一族三十余名と共に自害して果てた 3 。享年42。炎上する自邸で果てるというその最期は、信友に対する最後の、そして最大の抗議であったと言えよう。
この守護殺害という大罪を犯した中心人物は、織田信友と坂井大膳である。
守護殺害という凶行は、信友自身の決断というよりは、追い詰められた信友を家老の坂井大膳が焚きつけ、断行させたという側面が強い。信長との対立を打開するために主君殺しという大罪に手を染めた彼らの焦燥が、この悲劇の直接的な引き金となったのである。
斯波義統の死は、彼自身の意図とは全く逆に、次代の覇者・織田信長の台頭を決定的に後押しする歴史的転換点となった。
川狩りから戻り、父の非業の死を知った嫡男・義銀は、着の身着のまま那古野城の信長のもとへ駆け込み、保護を求めた 4 。
信長にとって、これは千載一遇の好機であった。これまで彼は、名目上の主家である清洲織田氏を公然と攻撃する正当な理由を欠いていた。しかし、信友が「守護殺し」という天下の大罪を犯したことで、信長は尾張の誰もが反論できない絶対的な大義名分を手に入れた。すなわち、「主君(斯波氏)の仇を討つ」という旗印である 10 。
信長の行動は迅速を極めた。義統自害からわずか6日後の7月18日、信長は仇討ちの軍を挙げた。柴田勝家らを将とする信長軍は、安食(あじき)村にて清洲勢を撃破し、義統殺害に加担した河尻左馬助や織田三位らを討ち取った(安食の戦い) 4 。この戦いで、義統の小姓であった由宇喜一(ゆうき きいち)が主君の仇である織田三位を討ち取ったという逸話は、この戦がまさしく「仇討ち」であったことを象徴している 4 。
この迅速な行動は、信長がいかにこの好機を重視していたかを示している。彼は義統の死を最大限に政治利用し、自らの立場を「反逆者」から「正義の執行者」へと一変させたのである。
安食の戦いで弱体化した織田信友は、翌天文24年(1555年)、信長の叔父・織田信光の謀略にかかり討ち取られ、ここに清洲織田大和守家は滅亡した 26 。信長は那古野城から清洲城へと本拠を移し、名実ともに尾張下四郡の支配者となった。
信長は、父の仇を討ってやった義銀を、形式的に新たな尾張守護に据えた 31 。これは、自らの尾張支配の正当性を確保するための措置であった。
しかし、義銀もまた父・義統と同様に、傀儡であることに不満を抱き、今川氏や吉良氏と結んで信長追放を画策した 3 。この陰謀が露見すると、義銀は信長によって尾張から追放され、守護・斯波武衛家は事実上滅亡した 3 。
信長は、信友が義統を傀儡としたのと同じように、義銀を傀儡として利用した。しかし、不要となれば斯波氏の権威を完全に無力化し、追放するという点で、信長は信友よりもはるかに冷徹かつ現実的であった。この一連の出来事を通じて、信長は尾張国内の古い権威(守護・守護代)を完全に排除し、自らを唯一の支配者とする体制を確立したのである。
斯波義統の死は、信長の尾張統一における最大の障害であった清洲織田氏の排除を可能にし、その後の天下取りへの道を決定的に切り拓いた。彼の死と義銀の追放は、室町時代から続いた尾張の守護・守護代体制の完全な崩壊を意味した。これにより、尾張は「守護大名」が支配する国から、「戦国大名」が支配する国へと完全に移行したのである。
斯波義統は、自らの意図とは全く裏腹に、歴史の転換点において決定的な役割を果たした人物であった。彼は古い権威の最後の抵抗者であったが、その死は皮肉にも新しい時代の到来を加速させた。彼の存在なくして、その後の織田信長の飛躍はあり得なかったかもしれない。
斯波義統の生涯を総括すると、彼が多面的な評価を必要とする人物であることがわかる。
一つには、彼は名門に生まれながらも時代の奔流の中で実権を失い、権力回復の夢も叶わぬまま非業の死を遂げた、悲劇の人物として捉えることができる。その生涯は、下剋上の時代に没落していく旧勢力の宿命を象徴している。
しかし同時に、彼は決して無力なだけの傀儡ではなかった。与えられた状況下で、家臣団の対立を巧みに利用し、権威回復のために危険な賭けに打って出るなど、主体的に行動した政治的能動者として評価されるべきである。彼の行動は、失敗に終わったとはいえ、最後まで名門の誇りを失わず、運命に抗おうとした強い意志の表れであった。
そして最も重要なのは、彼の歴史的役割である。意図せざる結果として、彼の死は次代の覇者・織田信長の台頭を決定的に助けた。斯波義統は、古い権威が新しい権力に取って代わられる戦国という移行期を象徴する、極めて示唆に富んだ人物と言えるだろう。彼の人生は、個人の意志と歴史の必然が交錯する、歴史の力学そのものを体現しているのである。