最終更新日 2025-06-24

新庄直頼

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新庄直頼公 激動の生涯:近江の国人から常陸麻生藩祖へ

序章:乱世を生き抜いた「人倫をわきまえた武将」

日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、数多の武将が歴史の舞台で興亡を繰り返した。その中にあって、新庄直頼(しんじょう なおより)という武将の生涯は、ひときわ異彩を放っている。彼は、豊臣秀吉の家臣として高槻城主三万石を領する大名にまで上り詰めたが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属したことで改易の憂き目に遭う。しかし、多くの西軍大名が没落する中、直頼はわずか四年で赦免され、旧領に匹敵する常陸麻生三万石の大名として奇跡的な復活を遂げた。

本報告書は、新庄直頼という一人の武将の生涯を、その出自である近江の国人時代から、織田・豊臣政権下での飛躍、関ヶ原の戦いにおける決断と失脚、そして徳川政権下での大名復帰と常陸麻生藩の創設に至るまで、あらゆる角度から徹底的に詳述するものである。彼の生涯は、主君を次々と変えながらも家名を存続させた巧みな処世術の好例であり、とりわけ関ヶ原での敗北後に大名として返り咲くという、戦国史上でも稀有な事例として特筆される。

後世、彼は「文武に優れ人倫をわきまえた人物」と評された 1 。本報告書は、その評価の根源を探り、彼の人物像の核心に迫ることを目的とする。なお、本報告書で扱う新庄氏は近江国坂田郡を本貫とする一族であり、山形県の新庄藩を治めた戸沢氏とは異なることを冒頭で明確にしておきたい 2

第一章:近江国人としての出自と浅井氏への臣従

第一節:新庄氏の系譜と近江坂田郡での台頭

新庄氏は、近江国坂田郡新庄(現在の滋賀県米原市新庄)を本貫とした国人領主である 2 。その系譜については、二つの異なる伝承が残されている。一つは、北近江の守護大名であった京極氏の古くからの被官、今井氏から分かれた一族であるとする説である 2 。もう一つは、三上山の百足退治伝説で知られる俵藤太こと藤原秀郷の後裔であり、室町幕府二代将軍・足利義詮に仕えた俊名が坂田郡新庄に居住して新庄を名乗ったのが始まりで、蒲生氏と同祖にあたるという説である 5

これら二つの出自は、単なる伝承に留まらず、直頼の生涯において重要な社会的資本として機能した可能性が高い。京極氏被官の家系という出自は、北近江における在地領主としての正統性を示し、浅井氏に仕える上での基盤となった。一方で、武家の名門である藤原秀郷流という系譜は、より広範な武家社会における「格」を意味した。特に、同祖とされる蒲生氏との繋がりは、後年、関ヶ原の戦後処理において直頼の身柄が会津の蒲生秀行に預けられるという運命に直結することになる 7 。直頼は、状況に応じてこれらの出自を巧みに利用し、自らの立場を有利にするための人脈形成に活用したと推察される。

第二節:父・直昌の戦死と若き当主の苦難

直頼の父・新庄直昌は、近江の戦国大名・浅井氏に仕え、朝妻城(現在の滋賀県米原市朝妻)を居城としていた 5 。しかし、天文18年(1549年)、細川晴元方として三好長慶と戦った江口の戦いにおいて、27歳の若さで戦死する 1

これにより、直頼はわずか11歳という若さで家督を継承し、弟の直忠らと共に、三好軍の脅威に晒されるという苦難の船出を余儀なくされた 1 。当初、北近江の覇権を巡って争う六角氏と新興の浅井氏との間で、その去就は揺れ動いたが、最終的には浅井長政に臣従することを決断する 1

第三節:浅井長政の麾下として

浅井氏の家臣となった直頼は、有力な武将として長政を支えた。元亀元年(1570年)に勃発した姉川の戦いでは、浅井軍の第四陣を構成し、織田信長・徳川家康の連合軍を相手に奮戦した記録が残っている 1

しかし、織田軍の猛攻の前に浅井氏の勢力は次第に衰退していく。元亀2年(1571年)2月、浅井方の南の拠点であった佐和山城主・磯野員昌が織田信長に降伏。これに連動して、織田方の重臣・丹羽長秀が直頼の居城である朝妻城に侵攻した。抗戦は不可能と判断した直頼は、城を開いて降伏し、織田家の軍門に降ることとなった 1 。この決断が、彼を新たな時代の潮流へと導く転機となったのである。

第二章:豊臣秀吉の家臣としての飛躍

第一節:織田信長の配下から秀吉の与力、そして直臣へ

織田信長に降伏した直頼は、北近江の支配を任された羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の与力、すなわち配下武将として組み込まれた 1 。秀吉が坂田郡の支配を確立していく過程で、直頼はその能力を認められ、単なる与力から秀吉の直臣へとその地位を変えていった 1 。この過程は、秀吉が在地領主を巧みに自身の権力基盤へと吸収していく典型的な手法であり、直頼の資質が秀吉に高く評価されていたことを物語っている 11

天正11年(1583年)に柴田勝家と秀吉が覇権を争った賤ヶ岳の戦いでは、直頼は秀吉方として参陣し、近江坂本城の守備を担当するなど、着実に信頼を積み重ねていった 1

第二節:城主としての経歴と知行の変遷

秀吉の下で直頼は順調に出世街道を歩み、畿内の要衝とされる城の城主を次々と歴任した。この経歴は、豊臣政権内における彼の地位の向上を明確に示している。

表1:新庄直頼の城主歴と石高の変遷

時期(推定)

城名

石高(推定)

典拠

天正11年(1583)頃

山崎城

摂津国

3万石

1

天正19年(1591)

大津城

近江国

1万2,000石(※)

1

文禄3年(1594)

宇陀城

大和国

不明

1

文禄4年(1595)

高槻城

摂津国

3万石

1

※嫡男・直定の所領と合わせて2万4,000石であったともされる 1

この表が示すように、直頼は山崎、大津、宇陀、高槻といった畿内の戦略的要地を任されており、豊臣政権における彼の重要性がうかがえる。石高も最終的には三万石に達し、一国人領主から大名へと飛躍を遂げた。

第三節:御伽衆としての役割と豊臣政権下での活動

直頼は単なる武将としてだけでなく、秀吉の側近である「御伽衆(おとぎしゅう)」にも列せられていた 1 。御伽衆とは、秀吉の話し相手や相談役を務める役職であり、政権中枢の非公式な情報が集まる、極めて特権的な立場であった。この地位にあったことで、直頼は秀吉の素顔に接するだけでなく、徳川家康をはじめとする全国の有力大名と個人的な関係を築く絶好の機会を得たと考えられる。

文禄元年(1592年)に始まった文禄の役では、直頼自身は朝鮮へ渡海せず、嫡男の直定が兵300を率いて出陣している 1 。これは、直頼が国内で秀吉の側近として仕える重要な役割を担っていたためと推察される。また、文禄3年(1594年)に肥前名護屋城で明の使節を饗応した際には、「御酌通之衆」として儀礼に参加しており、外交の場にも関与していたことがわかる 1

慶長3年(1598年)に秀吉が死去した際には、遺物として金十枚を賜っている 1 。秀吉の死後、政局が不安定になると、慶長4年(1599年)には加藤清正らと共に、徳川家康の伏見屋敷の警護にあたった 1 。この事実は、彼が豊臣恩顧の大名でありながら、家康からも一定の信頼を得ていたことを示す重要な証拠である。この時に培われた家康との「旧好」こそが、後に彼の運命を劇的に好転させる最大の伏線となったのである。

第三章:関ヶ原の戦いにおける決断と行動

第一節:西軍加担の背景――畿内大名の苦渋と戦略

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、摂津高槻城主であった直頼は、子の直定と共に西軍に与した 1 。この決断は、彼の本拠地である高槻が、石田三成ら西軍の勢力圏の只中に位置していたことが最大の理由であった。『寛政重修諸家譜』をはじめとする複数の資料には、周囲の大名が軒並み西軍に与したため、それに抗うことができず、やむなく従ったと記されている 1

多くの西軍敗将が戦後に「不本意な参加であった」と弁明するが、直頼の場合、その後の行動がこの主張に一定の説得力を持たせている。彼は石田三成の主力軍には合流せず、関ヶ原の本戦には参加しなかった 7 。その代わりに、畿内における限定的な軍事行動、すなわち東軍方である筒井定次の伊賀上野城攻略に兵を向けたのである 16 。これは、西軍への義理を果たしつつも、徳川方との全面的な武力衝突を極力避け、戦後の交渉の余地を残そうとする、高度な政治的判断であった可能性が高い。彼の行動は、単なる日和見主義ではなく、自領と家名を保つための計算されたリスク管理戦略と解釈できる。そして、この「やむを得ぬ加担」という物語は、戦後に家康が彼を赦免するための「大義名分」としても機能したのである。

第二節:伊賀上野城の占拠――筒井定次との攻防

直頼・直定父子の軍勢は、東軍に与した筒井定次の居城・伊賀上野城を攻撃した 1 。当時、城主の定次は家康に従って会津征伐に出陣中で、城の留守を預かっていたのは兄の筒井玄蕃允であった。玄蕃允は新庄軍の威勢に恐れをなし、戦わずして城を明け渡し、高野山へと逃亡した 16 。これにより、直頼は無血で伊賀上野城の占拠に成功した。

しかし、急報を受けた筒井定次は家康の許可を得て急ぎ伊賀に引き返し、現地の伊賀衆を率いて上野城を包囲した 1 。両軍はしばらく対峙したが、最終的に直頼は定次の息子を人質に取る形で和睦を成立させ、城から兵を引いた 1 。この一連の戦闘においても、直頼が徹底抗戦を意図していなかったことがうかがえる。

第三節:戦後の改易と蒲生氏への預託

関ヶ原における西軍の決定的な敗北により、直頼・直定父子は改易、すなわち領地である高槻三万石を没収された 8

しかし、その処分は他の西軍大名と比べて温情的なものであった。死罪や追放ではなく、身柄は会津六十万石の領主・蒲生秀行に預けられることになったのである 1 。この預け先が、同じ近江出身であり、藤原秀郷を共通の祖とするとされる蒲生氏であったことは偶然ではない 6 。家康は、直頼との個人的な信頼関係と、その「人倫をわきまえた」人格を評価し、同郷の縁がある蒲生氏に預けることで、直頼の身柄を保全し、将来の赦免への道を残したのである。これは、家康の冷徹な政治家としての一面と、個人的な繋がりを重んじる人間的な一面が融合した、巧みな人事采配であったと言えよう。

第四章:徳川政権下での復活と常陸麻生藩の創設

第一節:徳川家康との「旧好」と赦免

改易から4年の歳月が流れた慶長9年(1604年)、直頼の運命は劇的に転回する。彼は徳川家康に召し出され、駿府城で拝謁し、正式に赦免された。その後、江戸城にて二代将軍・秀忠にも拝謁を果たしている 1

この異例の復活劇の背景には、家康との個人的な親交、すなわち「旧好」があったと多くの資料が伝えている 2 。特に、直頼が家康の囲碁の相手を務めるほど親密な関係であったという逸話は、二人の関係の深さを象徴している 1 。家康は直頼の質実直な人柄を高く評価しており、関ヶ原での西軍加担も本意ではなかったと見抜いていたとされる 6 。この個人的な信頼関係が、西軍の敗将という立場を覆す最大の要因となったのである。

第二節:常陸麻生藩の立藩と藩政の礎

赦免された直頼は、常陸国と下野国の8郡内において、3万300石の所領を与えられた 1 。これは、改易前の高槻三万石とほぼ同規模であり、敗軍の将に対する処遇としてはまさに破格であった。彼は常陸国行方郡麻生(現在の茨城県行方市麻生)に居所を定め、ここに常陸麻生藩が立藩した 6

彼が麻生を新たな本拠地として選んだ理由として、霞ヶ浦の広大な水郷風景が、故郷である近江の琵琶湖を彷彿とさせたからではないか、という説が伝えられている 17 。現在も霞ヶ浦の名物であるワカサギは、直頼が国替えの際に琵琶湖から持ち込んだという伝承も残っており、彼がこの地に故郷の面影を重ねていたことを示唆している 24

復活を遂げた直頼は、慶長17年(1612年)12月19日(一説に慶長18年)、75年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。その生涯は、激動の時代を巧みな処世術と人間性で乗り越え、見事に家名を未来へと繋いだ成功例として評価できよう。

第三節:新庄家の継承と後世――一時改易からの再興

直頼の死後、麻生藩の家督は嫡男の直定が継ぎ、以後、幕末に至るまで新庄家によって統治された 2 。しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。5代藩主・直矩が跡継ぎのないまま若くして死去したため、延宝4年(1676年)、麻生藩は無嗣を理由に一旦改易されてしまう 2

新庄家は再び存亡の危機に立たされたが、幕府は初代・直頼の功績や家柄を考慮し、特別な裁定を下した。隠居していた4代藩主の直時(直頼の孫)に新たに三千石を加増して合計一万石の大名とすることを認め、麻生藩の再興を許可したのである 11

新庄家は「関ヶ原」と「無嗣改易」という、大名家にとって致命的ともいえる二度の危機を乗り越えた。一度目は直頼個人の徳川家康との強固なコネクションによって、二度目は石高こそ削減されたものの、一族の血脈と幕府の温情によって救われた。これは、初代・直頼が築いた「徳川家への忠誠」と「人倫を重んじる家風」という無形の遺産が、数代後まで影響を及ぼした結果と見ることができる。江戸から近い常陸国に外様大名が一度も転封されることなく存続したことは稀有な例であり 22 、その背景には、実質的に譜代大名に近い役割を担うことで幕府との良好な関係を維持し続けた、歴代藩主の叡智と努力があったのである 22

終章:新庄直頼の人物像と歴史的評価

第一節:「文武に優れ人倫をわきまえた」人物像の再検証

新庄直頼は、姉川の戦いでの武勇や伊賀上野城での采配に見られるように、武将としての確かな能力を備えていた。しかし、彼の本質は、御伽衆や囲碁の相手として為政者の懐深くに入り込むことを得意とした、優れた政治家・外交家であったと言える 1 。彼の生涯は、戦国乱世の終焉期において、純粋な武力だけでなく、人間関係の構築、情報収集、そして時勢を読む洞察力がいかに重要であったかを如実に物語っている。家康が彼の「質直な人柄」を見込んだという記述は 6 、戦乱の時代が終わり、武勇よりも誠実さや信頼性といった徳性が、新たな統治の時代における価値基準となりつつあったことを示唆している。

第二節:墓所に見る故郷への想い

直頼の墓所は、江戸の菩提寺である東京都文京区本駒込の吉祥寺と 1 、一族のルーツである滋賀県米原市の総寧寺の両方に存在する 2 。これは、彼が徳川家の家臣として江戸に根を下ろし、麻生藩の藩祖となりながらも、生涯を通じて近江の国人としての自己認識を持ち続けていたことの証左であろう。霞ヶ浦のほとりに新たな故郷を築きながらも、その心は常に近江の琵琶湖と共にあったのかもしれない。

第三節:歴史的意義の総括

新庄直頼は、華々しい武功を立てて歴史に名を刻んだ英雄タイプの武将ではない。しかし彼は、戦国から江戸へと移行する時代の大きな転換点を、類稀なるバランス感覚と人間的魅力、そして先見の明をもって生き抜き、一つの大名家を創設し、その血脈を後世に繋いだ偉大な「サバイバー」であった。

彼の生涯は、戦国乱世の終結が、単なる武力による平定ではなく、多様な背景を持つ人々との融和や、個人的な信頼関係の再構築によって成し遂げられたことを示す、貴重な歴史の証言と言える。近江の小さな国人領主が、関ヶ原の敗北という絶望的な状況を乗り越え、徳川政権下で外様大名として家名を永続させたという事実は、彼の非凡な処世術と、その価値を見抜いた徳川家康の慧眼を同時に物語っているのである。

引用文献

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