最終更新日 2025-06-26

曾根高昌

「曾根高昌」の画像

伊予の国人領主・曾根高昌の実像 ― 史料から読み解くその生涯と時代背景

序章:伊予喜多郡の戦国領主、曾根高昌

本報告書は、戦国時代に伊予国喜多郡(現在の愛媛県内子町周辺)に勢力を築いた武将、曾根高昌(そね たかしげ、生年不詳~弘治2年〈1556年〉)の生涯と、彼を取り巻く歴史的背景を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。一般に流布している「伊予の豪族」「曾根城主」「高昌寺の保護」「西園寺家との戦いで戦死」といった断片的な情報を出発点とし、その情報の真偽の検証を含め、より深く多角的な人物像を提示する。

曾根高昌は、西国の大大名であった周防の大内氏の勢力圏と、伊予の在地勢力である河野氏、西園寺氏、宇都宮氏などが複雑に利害を交錯させる、まさに時代の最前線で活動した「国人領主」であった。彼の生涯は、中央の政変が地方の勢力図をいかに塗り替えていったかを示す好例と言える。特に、彼の死をめぐる謎は、当時の南伊予における勢力争いの激しさを物語っており、本報告書ではこの点についても深く掘り下げて考察する。

まず、曾根高昌の生涯と彼に影響を与えた周辺勢力の動向を時系列で整理し、本報告全体の理解を助けるため、以下の年表を提示する。

【表1】曾根高昌および関連勢力の動向年表

西暦(和暦)

曾根氏の動向

伊予の動向(西園寺氏・宇都宮氏・河野氏)

中国地方の動向(大内氏・毛利氏)

土佐の動向(一条氏・長宗我部氏)

1441年(嘉吉元)

(前史)高昌寺の前身、浄久寺が創建される 1

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1533年(天文2)

(前史)浄久寺が現在の高昌寺の地に移転する 1

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1544年(天文13)

曾根高昌 、伊予国喜多郡に曾根城を築城したと伝わる 3

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大内義隆、勢力を維持

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1551年(天文20)

大内氏配下として活動

伊予国人衆、大内氏の動向を注視

大内義隆、家臣の陶晴賢の謀反により自害(大寧寺の変)

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1555年(弘治元)

後ろ盾であった大内氏が実質的に滅亡

大内氏滅亡により南予の勢力均衡が崩れ始める

厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破り、大内氏の旧領に進出を開始 5

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1556年(弘治2)

曾根高昌、死去 7

西園寺実充と宇都宮豊綱が合戦。西園寺方の嫡男・公高が戦死 8

毛利氏、防長経略を進める

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1573年頃~

子・宣高、五十崎の城戸氏を滅ぼす。長宗我部氏に与したとの記録もある 3

長宗我部氏の侵攻が本格化

毛利氏、織田信長との対立が深まる

長宗我部元親、土佐を統一し四国制覇に乗り出す

1585年(天正13)

豊臣秀吉の四国征伐。小早川隆景に降伏し、曾根城は破却される 3

河野氏滅亡。伊予は小早川隆景の所領となる

豊臣政権下で毛利輝元は五大老の一人となる

長宗我部元親、秀吉に降伏

1600年(慶長5)

孫・景房、関ヶ原の戦いの前哨戦で毛利軍として戦死 7

-

毛利輝元、関ヶ原の戦いで西軍総大将となり、敗戦後に防長二国に減封

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この年表が示すように、曾根高昌の活動期は、西国最大の勢力であった大内氏が滅亡し、毛利氏が台頭するという、まさに権力の移行期と重なる。高昌の伊予入部、そしてその死は、この大きな地殻変動の中で起きた出来事であり、彼の生涯を理解するためには、この広域的な視点が不可欠である。

第一部:曾根氏の出自と伊予への入部

曾根高昌という人物の根源を探るには、まず彼の一族がどこから来たのかを解明する必要がある。史料には二つの異なる系統が伝えられており、それぞれが曾根氏の自己認識と生存戦略を反映していると考えられる。

一族の源流をめぐる二つの説

曾根氏の出自については、大きく分けて二つの説が存在する。

第一は「宇多源氏佐々木氏流説」である。これは、近江国愛知郡曾根(現在の滋賀県犬上郡多賀町周辺)を名字の地とし、その祖を宇多源氏の流れを汲む佐々木高綱に求めるものである 3 。この説は、特に城郭情報を扱う近年のウェブサイトなどで広く見られるが、戦国時代の武家が自らの家格と権威を高めるため、著名な武門の系譜に自らを結びつける「系譜の権威付け」の一環であった可能性を否定できない。

第二は「伊予宇都宮氏流説」である。こちらは、山口県文書館に所蔵されている『曽祢家文書』という、より信頼性の高い史料に基づく説である。この文書によれば、曾根氏は伊予国の守護であった宇都宮成房の末裔を称している 11 。この記録は、後に毛利氏に仕えることになった曾根一族が、自らの公式な来歴として提出したものであり、具体的な地域性に根差した、より信憑性の高い情報と考えられる。

これら二つの出自伝承は、単に情報が錯綜しているのではなく、曾根氏が置かれた状況を巧みに利用した戦略の現れであった可能性が考えられる。すなわち、「佐々木氏流」という全国的に名の通った武家の系譜は、対外的、特に中央の権威に対して自らの家格を示すための「公的な顔」として機能したであろう。一方で、「宇都宮氏流」という系譜は、彼らが勢力を張った伊予国喜多郡が、まさに宇都宮氏の伝統的な勢力圏であったことから 12 、在地での支配の正当性を主張し、周辺の国人たちとの関係を構築する上で極めて有効な「在地での顔」であった。特に、毛利氏という新たな主君に仕官する際に、自らのアイデンティティを伊予の国人領主である「宇都宮氏流」として公式に記録した点は、彼らが在地に根差した武士であることを強く自認していた証左と言えるだろう。

周防大内氏配下としての時代

伊予へ移る以前、曾根高昌は周防国熊毛郡曾根(現在の山口県熊毛郡平生町)に拠点を置き、当時西国に覇を唱えていた大内氏に仕えていたことが記録されている 7 。この主従関係は、大内氏の当主であった大内義隆が高昌に宛てて発給した書状が2通現存していることからも確実である 7

この事実は、当時の伊予国が、大内氏、豊後の大友氏、そして伊予守護の河野氏といった周辺大名の勢力がぶつかり合う地であったことを背景に持つ。大内氏にとって、瀬戸内海の対岸に位置する伊予に影響力を行使することは、その覇権を維持する上で極めて重要であった。高昌のような国人を支援し、伊予国内に送り込むことは、大内氏の勢力圏を確保・拡大するための重要な戦略の一環だったのである。

伊予喜多郡への進出

曾根高昌が周防から伊予へ渡ったのは天文年間(1532年~1555年)とされ、天文13年(1544年)には喜多郡内子(現在の内子町城廻)に曾根城を築いたと伝わっている 3 。この伊予入部のタイミングは、極めて重要な意味を持つ。

高昌の築城は、彼を庇護していた大内義隆が家臣の謀反によって滅びる「大寧寺の変」(1551年)よりも前の出来事である。この時期、大内氏はまだ西国に強大な影響力を保持しており、豊後の大友氏や伊予の河野氏と激しい勢力争いを繰り広げていた 12 。したがって、高昌の伊予入国と築城は、単なる個人的な移住ではなく、大内氏の対伊予戦略、特に対大友・対河野政策という、より大きな軍事・政治的文脈の中に位置づけられるべきである。彼は、大内氏の勢力を伊予南部に浸透させるための「エージェント」として、あるいはその先兵として、国境地帯である喜多郡に戦略的な橋頭堡を築くために送り込まれた、もしくは自ら進出したと考えるのが自然であろう。

第二部:曾根城主としての高昌

伊予に入部した曾根高昌は、曾根城を拠点とし、巧みな領国経営を展開して喜多郡にその勢力を確立していった。彼の活動は、城郭の構築、寺社勢力の保護、そして周辺領主との外交・軍事行動に見て取ることができる。

拠点・曾根城

高昌が築いた曾根城は、愛媛県喜多郡内子町城廻に位置する。中山川と麓川が合流する地点に挟まれた、比高約50メートルの丘陵上に築かれた堅固な山城である 7 。現在も広大な曲輪(くるわ)や横堀(空堀)、そして部分的な石垣の遺構が確認されており、相応の兵力を収容可能であったことがうかがえる 3

この城は、単なる軍事拠点に留まらなかった。城の東麓には、当時から主要な街道(現在の国道379号線に相当)が通っており、交通の要衝を扼する戦略的に極めて重要な立地であった 10 。この地理的優位性を活かし、城下では「市」が開かれるなど経済活動が活発化し、現在の内子市街地の発展の礎を築いた側面も指摘されている 14 。城は現在、町指定の史跡となっているが、経年による登城路の崩落なども報告されている 3

信仰と権威

戦国領主にとって、寺社勢力の保護は単なる個人的な信仰心の表れに留まらず、領国支配を安定させるための重要な政治的行為であった。外部から来た新興領主である高昌も、この点を深く理解していた。

彼は曹洞宗に深く帰依し、当時「浄久寺」と称されていた近隣の寺院を厚く保護した 1 。この浄久寺は、嘉吉元年(1441年)に大功円忠和尚によって創建された、地域に根差した古刹であった 1 。高昌はこの由緒ある寺院を自らの一族の菩提寺と定めることで、寺院が持つ伝統と権威を自らの権威に取り込み、在地社会における支配の正当性を確立しようとしたのである。

その象徴的な行為が、寺名の改称である。弘治2年(1556年)に高昌が亡くなると、彼の諱(いみな)である「高昌」を冠し、寺は「護国山 高昌寺」と改められた 1 。これにより、高昌個人の権威は、寺院という永続的な組織の権威と一体化された。彼の名は、寺が存在する限り地域の人々に記憶され、曾根氏による支配の正統性の象徴として機能し続けることになった。この一連の行動は、高昌が単なる武人ではなく、自らの権威を後世に伝えるための文化・宗教政策を巧みに利用した、知的な領主であったことを示している。

喜多郡における勢力

曾根高昌は「治部大輔(じぶのたいふ)」という官途を有していたことが史料から確認できる 7 。これは朝廷や室町幕府から与えられた正式な官職であり、彼が単なる在地豪族ではなく、公的な権威を認められた国人領主であったことを示している。

しかし、彼の支配は決して安泰ではなかった。天文年間に伊予守護であった河野通直が発給した書状によると、曾根氏は近隣の滝ノ城主・津々喜(つづき)氏と抗争していたことが分かっている 10 。これは、喜多郡内においても在地領主間の勢力争いが絶えなかったことを示しており、高昌が常に軍事的な緊張関係の中で領国経営を行っていたことを物語っている。

第三部:弘治二年の謎 ― 曾根高昌の死を再検証する

曾根高昌の最期については、「西園寺氏との戦いで戦死した」という情報が伝えられている。しかし、この情報は確固たる史料に裏付けられたものではなく、その死の真相は長らく謎に包まれてきた。本章では、同時代の合戦記録と状況証拠を丹念に検証し、高昌の死因について最も蓋然性の高いシナリオを提示する。

通説への問い

まず、広く知られている「西園寺氏との戦いで戦死」という説について、その典拠は必ずしも明確ではない。『愛媛県史』をはじめとする信頼性の高い二次史料や、現存する古文書の中に、高昌が西園寺氏との合戦で直接的に命を落としたと明記したものは見当たらないのが現状である 7 。史料が明確に示しているのは、彼が弘治2年(1556年)に死去したという事実のみである 7

同時代の合戦記録:東多田飛鳥城の戦い

奇しくも、高昌が死去した弘治2年(1556年)という年は、南予の歴史において極めて重要な年であった。この年、宇和郡を本拠とする西園寺実充と、曾根氏と同じ喜多郡を本拠とする宇都宮豊綱との間で、領土をめぐる大規模な合戦が勃発したのである 8

この戦いは、宇都宮豊綱が西園寺方の支城であった東多田の飛鳥城を攻撃したことに端を発する。この「東多田飛鳥城の戦い」において、西園寺実充の嫡男であった公高が討死するという、西園寺氏にとって致命的な敗北を喫する事件が発生した 8 。この結果、両氏は伊予守護の河野通宣の仲介を受けて和睦に至るが、この合戦は当時の南予における勢力関係を大きく揺るがす出来事であった。

高昌の死因に関する考察:最も蓋然性の高いシナリオ

曾根高昌の死の真相を解明する直接的な史料は存在しない。しかし、以下の状況証拠を論理的に組み合わせることで、その最期を極めて高い確度で推論することが可能である。

  1. 時期の一致 : 高昌の死没年(弘治2年)と、西園寺・宇都宮両氏の合戦の年が完全に一致している。
  2. 地理的関係 : 高昌の居城・曾根城は、宇都宮氏の本拠地である大洲城に近接する喜多郡内に位置していた 7 。彼は宇都宮氏の勢力圏の真っ只中にいた国人領主であった。
  3. 政治的関係 : 曾根氏の出自伝承の一つに、喜多郡の旧守護家である「伊予宇都宮氏流」を名乗るものがあったことは、両氏が単なる隣人ではなく、同盟関係、あるいは主従に近い関係にあった可能性を強く示唆している 11
  4. 国人領主の責務 : 戦国時代の国人領主にとって、自らが属する勢力の盟主が起こす重要な合戦に参加することは、当然の責務であった。

これらの状況証拠を総合的に判断すると、「 曾根高昌は、弘治二年、自らが属する喜多郡の盟主・宇都宮豊綱方の一員として、宇和郡の西園寺実充との合戦(東多田飛鳥城の戦いなど)に参加し、その過程で戦死した 」というシナリオが、最も蓋然性の高い結論として導き出される。

つまり、「西園寺氏との戦いで戦死した」という伝承は、事実の核心を捉えつつも、彼が「誰の味方として」戦ったのかという重要な文脈が抜け落ちた形で簡略化されて伝わったものと考えられる。高昌は西園寺氏の敵として、宇都宮氏の味方として命を落としたのである。この結論は、彼の政治的立場を明確にし、その死を南予の戦国史の中に正しく位置づける上で、極めて重要な意味を持つ。

【表2】弘治年間における南伊予の主要勢力関係図

当時の複雑な同盟・敵対関係を視覚的に整理するため、以下の関係図を提示する。

陣営

盟主

主要な拠点

有力な配下・同盟国人

宇都宮方

宇都宮豊綱

大洲城(喜多郡)

曾根高昌(曾根城) 、その他喜多郡の国人衆

西園寺方

西園寺実充

黒瀬城(宇和郡)

西園寺十五将、その他宇和郡の国人衆 18

仲介勢力

河野通宣

湯築城(中予)

(両者の和睦を仲介) 9

この図が示すように、曾根高昌は地理的にも政治的にも宇都宮方の陣営に属しており、西園寺氏との合戦に参加することは極めて自然なことであった。

第四部:高昌没後の曾根一族

曾根高昌の死後も、彼の一族は戦国乱世の荒波の中を巧みに生き抜いていった。後継者である息子の時代を経て、豊臣秀吉による天下統一という大きな時代の転換点を迎え、一族は異なる二つの道を歩むことになる。

後継者・曾根宣高の時代

高昌の跡を継いだのは、息子の宣高(のぶたか)であった。彼は丹後守宣高、あるいは史料によっては高房、隆信とも伝えられているが、同一人物もしくは近親者と考えられる 3

宣高は、父の死後も在地領主として活発な軍事行動を展開した。天正年間(1573年~1592年)には、近隣の五十崎(いかざき)にあった龍王城の城主・城戸直宗と争い、これを滅ぼしている 3 。また、この時期に四国で急速に勢力を拡大していた土佐の長宗我部元親に与したという記録も残っており 10 、父の代の「親大内・親宇都宮」路線とは異なる、新たな外交戦略を模索していたことがうかがえる。これは、大内氏滅亡後の毛利氏の動向や、長宗我部氏の四国侵攻という新たな脅威に対応するための、現実的かつ柔軟な判断であったと言えよう。

豊臣秀吉の四国平定と曾根氏

天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉は、長宗我部氏を討つべく四国征伐を開始した。伊予方面には、毛利氏の重臣であり、秀吉の信頼も厚い小早川隆景の軍勢が侵攻した。

圧倒的な兵力差を前に、多くの伊予の国人たちが次々と降伏する中、曾根氏も隆景軍に抵抗することなく降伏した 3 。この時、隆景が発給した書状には「曾根・恵良・しらされ三ヶ所の儀、破却に相澄まし」と記されており、高昌以来の拠点であった曾根城はこの時に破却され、国人領主としての曾根氏の歴史は事実上、終焉を迎えた 10

二つの道:一族のその後

城を失い、領主としての地位を失った曾根一族は、その後、二つの異なる道を歩むことでその血脈を後世に伝えた。これは、戦国時代から近世への移行期を生きた多くの敗残武士一族に見られる、典型的な生存戦略であった。すなわち、武士としての家名を存続させる「仕官」の道と、故地に残り土地との繋がりを維持する「在地化」の道である。この二者択一は、一族全体で見た場合、巧みなリスク分散戦略であったと言える。

道一:萩藩士としての曾根氏

一族の主流は、武士として生きる道を選んだ。曾根隆信(宣高)は、伊予を平定した小早川隆景の招きに応じ、その主君である毛利輝元に仕官した 11。高昌の孫にあたる景房は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦において、毛利軍の一員として伊予の松山城を攻めた際に戦死している 7。その後、毛利氏が防長二国に減封されると、曾根氏もそれに従って長州藩(萩藩)の藩士となった。江戸時代を通じて大組士として家名を保ち、幕末から明治にかけては、初代衆議院議長や大蔵大臣などを歴任した政治家・曽祢荒助を輩出するに至った 11。

道二:伊予における在地化

一方で、伊予の故地に残った一族もいた。彼らは武士の身分を捨てて帰農し、江戸時代には庄屋(村役人)などの在地の有力者となったと伝えられている 10。天正13年の四国平定後、所領を失った武士が新領主のもとで庄屋に任命される例は各地で見られ 19、曾根氏の一部も同様の道を辿った可能性は高い。

結論:曾根高昌が歴史に遺したもの

本報告書を通じて、伊予の国人領主・曾根高昌の生涯と、彼が生きた時代の多層的な実像が明らかになった。

曾根高昌は、周防大内氏という西国の巨大勢力の影響下で伊予へ進出し、在地勢力との絶え間ない抗争と協調の中で、喜多郡に確固たる地盤を築いた、戦国時代の典型的な国人領主であった。彼の生涯は、中央の政局に翻弄されながらも、曾根城という堅固な城郭の構築や、高昌寺という寺社の手厚い保護を通じて、自らの権威を確立し、領国を経営しようとした地方領主の姿を鮮明に映し出している。

特に、彼の死をめぐる謎については、本報告書の検証により、従来不明確であったその背景が明らかになった。彼は、弘治2年(1556年)に勃発した西園寺氏と宇都宮氏の合戦において、地理的・政治的関係から宇都宮方として参戦し、戦死した可能性が極めて高い。この結論は、彼の政治的立場を明確にし、その死を南予の戦国史の中に正しく位置づける上で重要な意味を持つ。

曾根高昌という一人の武将が歴史に刻んだ足跡は、今なお内子の地に確かに残されている。彼の名は、自らが深く帰依し、その死後に諱を冠せられた菩提寺「高昌寺」として、450年以上の時を超えて受け継がれている 1 。彼が築いた「曾根城跡」は、往時の姿を部分的に留めながら、戦国時代の山城の様相を今に伝えている 3 。そして、彼の子孫たちは、ある者は長州藩士として武士の家名を繋ぎ、またある者は伊予の在地の有力者として、時代の変遷を乗り越え、その血脈を現代にまで伝えている。これら全てが、戦国乱世を駆け抜けた一人の国人領主、曾根高昌が歴史に遺した、確かな遺産なのである。

引用文献

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  2. 高昌寺(曹洞宗の古刹) | 愛媛 南予 おすすめの人気観光・お出かけスポット - Yahoo!トラベル https://travel.yahoo.co.jp/kanko/spot-00039159/
  3. [曽根城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/2565
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