最終更新日 2025-06-09

朝倉景連

「朝倉景連」の画像

戦国武将 朝倉景連の実像:その出自、事績、そして朝倉家における位置づけ

はじめに

本報告書は、戦国時代の越前朝倉氏に仕えた武将、朝倉景連(あさくら かげつら)について、現存する史料に基づき、その出自、具体的な事績、そして朝倉家における位置づけを詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。朝倉景連は、主君である朝倉義景の治世において、内政、軍事、外交、さらには文化的側面においても多岐にわたる活躍を見せた重臣である。利用者より提供された情報、すなわち、朝倉家臣としての立場、朝倉宗滴指揮下での加賀一向一揆攻めにおける軍功、四奉行の一人としての内政手腕、そして義景が催した犬追物における豪奢な出で立ちの逸話は、景連の人物像を理解する上で重要な手がかりとなる。本報告書では、これらの情報を深掘りするとともに、関連史料を博捜することで新たな情報を加え、景連の生涯と朝倉家における彼の役割を総合的に明らかにする。

第一部:朝倉景連の出自と家系

朝倉景連の人物像を理解する上で、まず彼の出自と家系を明らかにすることは不可欠である。限られた史料の中から、その生没年、家族構成、そして朝倉一門における彼の位置づけを探る。

1. 生誕と死没

朝倉景連の正確な生年は、残念ながら現存する史料からは特定することができない。しかし、その死没時期については、ある程度の推定が可能である。複数の史料によれば、景連は永禄9年(1566年)頃に没したと考えられている 1 。この推定の根拠として、景連の名が奉行人としての活動記録から永禄9年を最後に途絶えること、そして永禄11年(1568年)に足利義昭が一乗谷の朝倉義景邸を訪問した際の記録(御成)に、伺候した同名衆(朝倉一門衆)の中に景連の名が見られないことが挙げられる 1 。これらの状況証拠から、永禄9年から永禄11年の間に景連が死去した可能性が高いと結論づけられる。

なお、朝倉氏には同名の人物や類似した名を持つ人物が複数存在するため、混同を避ける注意が必要である。例えば、朝倉景恒(?-元亀元年/1570年没)という武将も存在するが、景連とは別人である 4

2. 父母と子

景連の父親については、朝倉景伝(かげつぐ・かげのぶ)または朝倉景宗(かげむね)とされている 1 。特に、史料 2 では「朝倉玄蕃助景宗(あさくら げんばのすけ かげむね)」とやや具体的に言及されており、史料 3 も景連が「玄蕃助」家の出身であると記していることから、父は玄蕃助を称した景宗であった可能性が高いと考えられる。

景連の子としては、景胤(かげたね、通称は三郎)と景泰(かげやす、通称は七郎)の二人がいたと伝えられている 2 。これらの情報は主に『日下部氏朝倉系図』に見られるものであるが、史料 3 はこの系図の記述に関して「事実関係は不明である」と注記しており、その信憑性については慎重な検討を要する。

3. 朝倉氏における家格と系統:「玄蕃助家」

朝倉景連は、朝倉氏の同名衆、すなわち一門衆の一員であった 1 。彼は越前国朝倉山城(現在の福井県域にあったとされる)の城主であり、越前国棗郷(なつめごう、現在の福井市棗地区周辺)を本拠地としていた朝倉氏の庶流「玄蕃助家」の出身であるとされている 1 。この「玄蕃助」という名は、家名であると同時に、景連自身も官途名として玄蕃助(または玄蕃允)を称していた 1

「玄蕃助家」は、一乗谷の奉行人を世襲する家の一つであり、朝倉氏が越前を統一した中興の祖である英林孝景(初代孝景、敏景とも)の時代よりも前に分家した古い庶流であったと考えられている 6 。古い庶流であるならば、宗家との血縁的な距離はやや遠かった可能性も否定できない。しかしながら、景連が朝倉義景政権下で奉行人という中枢の役職に就き、犬追物の興行奉行という重要な役割を担い、さらには義景主催の曲水の宴にも参加している事実は 3 、彼が宗家から厚い信頼を得ていたことを明確に示している。

この信頼関係の背景には、景連個人の卓越した能力があったことは想像に難くない。それに加え、史料 3 が示唆するように、朝倉宗滴が宗家との関係を維持するために宗家から景紀を養子に迎えた例に倣い、玄蕃助家においても宗家との血縁を強化するための養子縁組などが行われた可能性も考慮されるべきであろう。あるいは、古い庶流であっても、代々特定の役職(例えば玄蕃助に関連する職務や奉行職)を担うことで、宗家との間に特別な奉仕関係を築き上げ、その結果として重用されたのかもしれない。戦国大名家における家臣団統制においては、血縁だけでなく、能力主義や戦略的な縁組、あるいは特定の家系に特定の役職を世襲させることによる職能の維持といった要素が複雑に絡み合っていた。景連の事例は、朝倉氏の家臣団構造における柔軟性や、庶流であっても能力と状況次第で重要な地位に就く道が開かれていた可能性を示唆している。

表1:朝倉景連の家族関係

関係

氏名(読み)

備考(官途名、通称など)

関連史料ID

朝倉景伝(かげつぐ・かげのぶ)または<br>朝倉景宗(かげむね)

玄蕃助景宗とも

1

朝倉景胤(かげたね)

三郎

2

朝倉景泰(かげやす)

七郎

2

第二部:朝倉景連の生涯と活動

朝倉景連は、主君である朝倉義景の時代を中心に、行政、外交、軍事、そして文化活動に至るまで、多岐にわたる分野でその才能を発揮した。ここでは、彼の具体的な活動内容を史料に基づいて検証する。

1. 朝倉義景への出仕と奉行人としての活動

景連は、朝倉義景が家督を相続して以降、特に天文19年(1550年)頃から、朝倉氏の本拠地である一乗谷において奉行人として活動を開始した 1 。奉行人は、朝倉氏の家政機関において中核的な役割を担う役職であり、当主の命令を奉じて行政実務を執行する重要な家臣であった 6

景連と共に奉行人を務めた同僚としては、前波景定(まえなみ かげさだ)、小泉長利(こいずみ ながとし)、河合吉統(かわい よしむね)らの名が史料に見える 1 。これらの家々は、景連の「玄蕃助家」と同様に、奉行職を独占的に世襲していた有力な家臣家の一部であった 6 。奉行人の定員は通常2名から4名で構成されていた 6

奉行人の職務内容は多岐にわたる。彼らは朝倉義景の側近として、義景の御前で行われる評定(政策決定会議)に参加し、政務の決定に深く関与した 6 。また、行政官として、領国内の統治に関わる文書の発給や、訴訟の処理なども担当していたと考えられる 6 。史料 7 によれば、前波景定は「評定衆として家中で重きを成した」とあり、足利義晴への奏者(取次役)を務めたこともあると記されている。景連も同様に評定衆の一員として、朝倉氏の政策決定に影響力を持つ立場にあったと推察される。

景連が属する玄蕃助家が奉行職を世襲する家の一つであったという事実は、彼の奉行人就任が個人の能力のみならず、その家格によっても裏打ちされていたことを示している。奉行人が評定衆を兼ね、政務の最高決定プロセスに参画していたことは、景連が単なる実務官僚ではなく、朝倉氏の政策決定にも大きな影響を及ぼす立場にあったことを意味する。彼が、同じく奉行職を世襲する有力家臣である前波氏、小泉氏、河合氏らと共に執務にあたったことは、これらの家臣団との連携や、時には競争関係が、朝倉氏の政務運営のダイナミズムを形成していたことをうかがわせる。景連が奉行人として評定衆の一員でもあったことは、戦国大名朝倉氏の権力構造において、一部の有力な世襲家臣家が合議制に近い形で当主を補佐し、領国経営の中枢を担っていたことを示唆しており、これは当主の専制権力と有力家臣層との間のバランスの上に成り立っていた戦国大名の統治体制の一端を垣間見せるものである。

2. 外交面での活動

景連は内政手腕だけでなく、外交面においても朝倉氏に貢献したと伝えられている。具体的には、但馬国(現在の兵庫県北部)の赤渕神社(あかぶちじんじゃ)に書状を送るなど、外交交渉の一翼を担っていた記録が残っている 1

この但馬国との外交活動は、単なる隣接地域との交渉以上の意味合いを持っていた可能性がある。史料 9 によれば、朝倉氏の本貫(発祥の地)は但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉)である。つまり、朝倉氏にとって但馬国は、一族のルーツという特別な意味を持つ土地であった。景連がこの但馬国の神社と連絡を取っていたという事実は、彼が朝倉氏の外交担当者の一人であったことを示すと同時に、その出自や家柄(玄蕃助家)が、このような朝倉氏の伝統やルーツに関わる外交任務を遂行する上で適任と見なされた可能性を示唆している。あるいは、赤渕神社が特定の政治的・経済的な繋がりを持つ存在であり、景連がそのパイプ役を担っていたのかもしれない。この外交活動は、戦国大名が自らの領国経営だけでなく、一族の出自や伝統といった無形の資産をも外交資源として活用し、関係性を維持しようとしていた可能性を示しており、景連の役割は、朝倉氏が越前の支配者としてだけでなく、但馬にルーツを持つ氏族としてのアイデンティティを保持し、それに関連する外交を行っていたことの一つの証左となり得る。

3. 軍事面での功績

景連は行政官僚としてだけでなく、武将としても戦場での功績が認められている。特に、朝倉氏の宿老であり名将として知られる朝倉宗滴(そうてき、教景)が指揮した加賀一向一揆攻めにおいて、戦功を挙げたとされている 2

その具体的な戦功として、『朝倉始末記』には、弘治元年(1555年)7月、宗滴にとって最後の出陣となった加賀一向一揆討伐戦の様子が記されている。この戦いで景連は宗滴に従軍し、一隊の大将として津葉城(つばのじょう、現在の石川県小松市にあったとされる)を攻め落とし、さらに菅生口(すごうぐち)に陣を敷いて一向一揆勢と対峙したと伝えられている 3 。この記述は、景連が単に後方支援に留まらず、前線で部隊を指揮する能力も有していたことを示している。

また、史料 7 には、前波景定に関する記述として、奉行人としての職務の傍ら、たびたび合戦に出陣し、奉行人連署状に花押の代わりに「在陣」(陣中にありの意)と記したものが残っているとある。景連も同様に、平時においては奉行人として政務を執り、戦時には武将として出陣するという、文武両面にわたる活動を行っていた可能性が高い。

4. 文化的な側面と逸話

景連の人物像を語る上で欠かせないのが、彼の文化的素養や、その華やかさを伝える逸話である。

犬追物における豪奢な装い(永禄四年/1561年)

永禄四年(1561年)4月、主君である朝倉義景は、坂井郡棗庄大窪ノ浜(現在の福井市三里浜付近)において、大規模な犬追物(いぬおうもの、馬に乗って犬を弓で射る武家の騎射訓練・儀礼)を興行した 5 。この一大イベントにおいて、朝倉景連は興行奉行という重要な責任者を務めた 3 。景連自身の居館が犬追物の開催地に近い棗庄深坂村にあり、近隣には彼の居城とされる朝倉山城も存在したことから、興行全体の指揮を執るには最適の人物であった 3

『朝倉始末記』などによれば、この犬追物における景連の出で立ちと行列は、まさに壮麗の一言に尽きたという。景連自身は左折の烏帽子(さおりのえぼし)に「かちんの上衣」(褐衣か)、袴という武士の正装に身を包み、その左右には百余人の武将を二列に並ばせ、さらに白柄の長刀を持つ者や銀金具で飾られた槍を持つ者など、総勢五百余人という大規模な供回りを引き連れて義景の御前に参上し、見物していた人々を大いに驚かせたと伝えられている 2 。この犬追物自体も、参加者は一万余人、馬場の広さは八町四方(約87,000平方メートル)にも及び、かつて鎌倉幕府を開いた源頼朝が由比ヶ浜で行った犬追物以上のものであったと評されるほど盛大なものであった 5

興行奉行という立場は、単に催し物を運営するだけでなく、その成功を通じて主君の権威を高めるという重要な責務を伴う。景連のこの豪奢な演出は、彼個人の富や権勢を示すと同時に、当時の朝倉義景政権の安定と繁栄、そして文化的洗練を内外に誇示する意図があったと考えられる。犬追物自体が、武家の重要な儀礼であり、武芸の鍛錬と披露の場であると同時に、主従関係を確認し、秩序を視覚化する政治的な意味合いも持っていた 11 。景連の演出は、この政治的・文化的イベントの効果を最大限に高めるものであったと言えるだろう。また、景連自身の拠点近くでの開催であり、彼がその責任者であったという事実は、義景からの深い信頼と、景連がその地域において大きな影響力を持っていたことを示唆している。この逸話は、戦国時代の武家社会における儀礼や催し物が、単なる娯楽や武芸鍛錬の場ではなく、権力の誇示、家臣団の結束、文化的成熟度のアピールといった多層的な政治的・社会的機能を有していたことを示す好例であり、景連の行動は、朝倉氏の最盛期における文化的水準と、それを支えた重臣の存在を象徴している。

曲水の宴での和歌(永禄五年/1562年)

景連は武勇や行政手腕だけでなく、文化的素養も持ち合わせていた。永禄五年(1562年)7月、朝倉義景が京都から公家の大覚寺義俊(だいかくじ ぎしゅん)を招き、一乗谷の景勝地である脇坂尾(阿波賀原とも)で曲水の宴(きょくすいのえん、庭園の水の流れに盃を浮かべ、それが自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読むという風雅な遊び)を催した際、景連もこの宴に参加し、和歌を詠んでいる 3 。その歌は、

「秋山を夜深けに出て鹿そ鳴麓の原に妻や籠れる」

(あきやまを よふけにいでて かぞなく ふもとのはらに つまやこもれる)

というものであった 3 。この歌からは、秋の夜の情景と鹿の鳴き声、そして麓の野で妻を待つ鹿の姿(あるいはそれを人に擬えたものか)が詠み込まれており、景連の風雅な一面を伝えている。

朝倉氏は京都との文化的なつながりが深く、本拠地の一乗谷は「北の京」とも称されるほどの文化都市であった 13 。そのような環境下で、重臣である景連が和歌の心得を持つことは、当時の武士の嗜みとして自然なことであったと言える。また、主君である義景自身も和歌や連歌など多くの文芸を好んだ人物であったため 13 、家臣にも同様の素養が求められたか、あるいは奨励された可能性も考えられる。景連の和歌は、彼の多面的な能力を示すと同時に、朝倉家中の文化的レベルの高さを示唆するものであり、戦国武将が武勇だけでなく、和歌や茶道などの文化的素養を身につけることが、社会的地位や教養を示す上で重要であったことを物語っている。景連のこの和歌は、彼が武辺一辺倒の人物ではなく、洗練された文化人としての側面も持っていたことを示し、朝倉氏の文化的な豊かさを裏付ける一端となる。

表2:朝倉景連 略年表

年代(元号・西暦)

主な出来事・活動

関連史料ID

生年不詳

天文19年(1550年)頃

朝倉義景に仕え、一乗谷奉行人として活動を開始

1

弘治元年(1555年)

朝倉宗滴の加賀一向一揆攻めに従軍。津葉城を攻略し、菅生口に布陣

3

永禄4年(1561年)

朝倉義景主催の犬追物で興行奉行を務め、豪奢な出で立ちで参加

2

永禄5年(1562年)

朝倉義景主催の曲水の宴に参加し和歌を詠む

3

永禄9年(1566年)頃

奉行人としての記録が途絶え、この頃に死去したと推定される

1

表3:朝倉景連の主な役職と活動

役職/活動種別

具体的な内容

関連史料ID

一乗谷奉行人

朝倉義景の側近として政務執行、評定に参加。前波景定、小泉長利、河合吉統らと同僚。

1

軍事指揮官

加賀一向一揆攻めで朝倉宗滴に従軍。津葉城攻略、菅生口での対陣。

2

興行奉行

永禄4年の大規模な犬追物の責任者。

3

外交使節(可能性)

但馬国赤渕神社へ書状を送るなど、外交活動に関与。

1

文化的活動

永禄5年の曲水の宴に参加し和歌を詠む。

3

第三部:景連の最期と朝倉家における位置づけ

朝倉景連がいつ、どのようにしてその生涯を終えたのか、そして彼が朝倉家の中でどのような位置を占めていたのかを考察することは、彼の人物像を総括する上で重要である。

1. 景連の終見と死没時期の推定

既に第一部で触れた通り、朝倉景連の活動を示す史料は永禄9年(1566年)を境に確認できなくなる 1 。具体的には、この年を最後に奉行人の名簿から彼の名が消え、さらに永禄11年(1568年)に室町幕府の将軍候補であった足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷を訪れた際、義景邸で行われた御成(おなり、貴人が来訪すること)に伺候した同名衆(朝倉一門衆)の中にも景連の名前は見当たらない 1 。これらの状況から、景連は永禄9年(1566年)頃に死去したものと推定するのが最も妥当であると考えられる 1

2. 朝倉家における景連の総合的評価

朝倉景連は、朝倉氏の同名衆であり、「玄蕃助家」という古い庶流の出身でありながら、主君・朝倉義景の治世において、一乗谷奉行人という朝倉氏の中枢で行政・外交を担い、軍事面でも加賀攻めで具体的な戦功を挙げ、さらには犬追物のような大規模な儀礼行事の責任者も務めるなど、極めて重要な役割を果たした多才な人物であったと言える。彼の活動は、朝倉氏が比較的安定し、一乗谷文化が爛熟した時期と重なっている。

景連が史料から姿を消す永禄9年(1566年)頃は、朝倉氏を取り巻く情勢が徐々に厳しさを増していく時期の前夜にあたる。朝倉氏が最終的に織田信長によって滅ぼされるのは天正元年(1573年)であるが 9 、義景の治世後半は、信長との対立が激化し、それに伴い家臣団の結束にも揺らぎが見え始める。例えば、元亀3年(1572年)には前波吉継(後の桂田長俊)や富田長繁といった有力家臣が織田方に寝返る事件が起き 13 、また、一門筆頭格であった朝倉景鏡(かげあきら)と義景の間にも微妙な距離感が生まれていたことが確認できる 15

このような状況下で、景連のような行政・軍事・外交に長けた経験豊富な重臣が、朝倉氏の権勢が本格的に陰りを見せ始める直前に世を去ったことは、朝倉氏にとって少なからぬ痛手であったと推察される。景連の死後、朝倉家中では義景の側近である鳥居景近(とりい かげちか)や高橋景業(たかはし かげなり)といった人物が台頭し、従来の奉行人システムとは異なる形で権力が集中する動き、すなわち義景による専制化指向が見られた可能性が指摘されている 6 。景連のような伝統的な家臣層の重鎮の不在が、こうした家中の権力構造の変化や、その後の困難な時期における意思決定の質に間接的な影響を与えた可能性は否定できない。もちろん、景連一人の不在が朝倉氏末期の混乱の直接的な原因となったとまでは断定できないものの、彼の多岐にわたる能力と長年の経験が失われたことは、朝倉氏にとって大きな損失であったと考えられる。これは、戦国大名家における有能な人材の重要性と、その喪失がもたらす潜在的なリスクを示す一例と言えるかもしれない。

まとめ

本報告書では、戦国時代の武将、朝倉景連について、現存する史料を基にその実像に迫ることを試みた。

景連は、生年は不明ながら永禄9年(1566年)頃に没したと推定される。朝倉氏の庶流「玄蕃助家」の出身で、父は景伝または景宗(玄蕃助景宗)、子には景胤、景泰がいたとされる。

彼の活動は多岐にわたり、主君・朝倉義景の下で天文19年(1550年)頃から一乗谷奉行人として内政・外交に手腕を発揮した。軍事面では、弘治元年(1555年)の朝倉宗滴による加賀一向一揆攻めに従軍し、津葉城を攻略するなどの戦功を挙げている。さらに文化的側面においても、永禄4年(1561年)の犬追物では興行奉行として豪奢な装いで人々を驚かせ、永禄5年(1562年)の曲水の宴では和歌を詠むなど、武勇や行政能力だけでなく、豊かな教養も兼ね備えた人物であったことがうかがえる。

景連は、一門衆でありながら奉行人として朝倉氏の中枢を支え、軍事、外交、儀礼といった多方面で活躍し、義景政権、特にその比較的安定していた時期において、不可欠な重臣であった。彼の死は、朝倉氏が織田信長との対立を深め、内部的な結束にも陰りが見え始める直前のことであり、その後の朝倉氏の命運に間接的ながらも影響を与えた可能性は否定できない。

史料の制約から、景連の生涯の全てを明らかにすることは困難であるが、断片的な記録を繋ぎ合わせることで、戦国乱世を生きた一人の多才な武将の姿を浮き彫りにすることができた。朝倉景連は、朝倉氏の栄華と、その後の困難な時代への転換期を生きた、記憶されるべき武将の一人と言えるであろう。

引用文献

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  2. 朝倉景連とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%80%A3
  3. 戦国大名朝倉氏(同名衆・朝倉景連) http://fukuihis.web.fc2.com/main/itizoku08.html
  4. 歴史の目的をめぐって 朝倉景恒 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-01-asakura-kagetsune.html
  5. 朝倉義景・犬追物興行 http://fukuihis.web.fc2.com/memory/me008.html
  6. 一乗谷奉行人と奏者衆 - 『福井県史』通史編2 中世 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-4-01-02-03-02.htm
  7. 前波景定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%B3%A2%E6%99%AF%E5%AE%9A
  8. 「"(朝倉氏一乗谷奉行人連署状)"」の検索結果 | NDLサーチ | 国立国会図書館 https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&from=0&size=20&q-title=%22%EF%BC%88%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F%E4%B8%80%E4%B9%97%E8%B0%B7%E5%A5%89%E8%A1%8C%E4%BA%BA%E9%80%A3%E7%BD%B2%E7%8A%B6%EF%BC%89%22
  9. 朝倉氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%B0%8F
  10. 朝倉景連 - 信長の野望新生 戦記 https://shinsei.eich516.com/?page_id=2461
  11. 流鏑馬(やぶさめ)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/25585/
  12. 日・中・韓三国の言語における犬文化の考察 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/141894/2/rek06_02.pdf
  13. 朝倉義景 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E7%BE%A9%E6%99%AF
  14. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第6回【朝倉義景】信長を追い詰めた男!優柔不断は身を滅ぼす? - 城びと https://shirobito.jp/article/1419
  15. 朝倉景鏡 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%8F%A1
  16. 一乗谷朝倉氏遺跡博物館にて『福井県史 資料編6 中・近世四』 899−900頁に収録されている「鳥居... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000346284&page=ref_view