日本の歴史上、最も激しい変革期の一つである戦国時代から江戸時代初期にかけて、一人の武将がその類稀なる才覚で時代の荒波を乗り越えた。その名は、木造雄利(こづくり かつとし)、後に滝川雄利(たきがわ かつとし)として知られる人物である。天文12年(1543年)に生を受け、慶長15年(1610年)に没するまで、彼の生涯はまさに波乱万丈という言葉で表される 1 。
雄利の経歴は極めて特異である。伊勢の名門武家に生まれながら、一度は仏門に入り、僧侶としての道を歩み始めた。しかし、織田信長の伊勢侵攻を機に還俗し、武将の世界へ身を投じる。信長の家臣・滝川一益に見出されてその名を継ぎ、信長の子・織田信雄の家老として頭角を現した。本能寺の変後の動乱期には、主君・信雄を支え、豊臣秀吉との対立と和睦という国家的な大事業において重要な役割を担う。その後は秀吉の直臣、さらには徳川秀忠の側近として仕え、織田、豊臣、徳川という三つの天下人の政権を渡り歩いた。
特筆すべきは、関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、戦後、所領を没収されて全てを失ったにもかかわらず、わずか数年で大名として奇跡的な復活を遂げた点である 1 。これは単なる武勇や幸運だけで成し遂げられるものではない。彼の生涯を貫くのは、鋭い政治感覚、卓越した交渉能力、そして時代の変化を的確に読み解く高度な知性であった。
本報告書は、錯綜する史料を丹念に読み解き、木造雄利という一人の人物の生涯を徹底的に追跡するものである。出自の謎から、各時代の権力者との関わり、そして失脚からの驚くべき復活劇の背景に至るまで、その多面的な実像に迫ることを目的とする。彼の生涯は、戦国乱世における多様な生き方と、個人の才覚が如何に運命を切り拓くかを示す、示唆に富んだ歴史の一幕と言えよう。
滝川雄利の人物像を理解する上で、まず彼の出自という根源的な問題に光を当てる必要がある。彼は伊勢の名門・木造氏の血を引くとされるが、その系譜は諸説紛々としており、一筋縄ではいかない。この章では、木造氏の歴史的背景と、錯綜する雄利の出自に関する諸説を比較検討し、彼が歴史の表舞台に登場する以前の姿を明らかにする。
木造氏は、村上源氏を祖とする伊勢国司・北畠家の庶流にあたる名門である 4 。南北朝時代、南朝方の重鎮として伊勢に勢力を築いた北畠顕能の子・顕俊が、一志郡木造庄に居を構え、木造城を築いて「木造御所」と称したのがその始まりとされる 4 。京都に屋敷を構えた際にはその所在地から「油小路殿(あぶらのこうじどの)」とも呼ばれ、室町幕府や朝廷からは、庶流でありながら宗家と同格の待遇を受けるほどの高い家格を誇っていた 4 。
しかし、その関係は常に良好だったわけではない。応仁の乱の際には宗家と敵対するなど、木造氏は北畠一門の中で独立した勢力としての側面も持ち合わせていた 5 。この宗家との間に存在する一定の緊張関係は、後に織田信長が伊勢に侵攻した際、木造氏が宗家から離反する遠因となった。
信長の伊勢侵攻が行われた永禄年間、木造家の当主は木造具政であった。彼は宗家当主である北畠具教の実弟でありながら、木造家に養子として入ったという複雑な立場にあった 5 。この兄弟間の関係は必ずしも良好ではなかったとされ、この不和が、後に雄利(当時は僧侶・主玄)による調略が成功する土壌となったのである 10 。
雄利の出自については、江戸時代に編纂された複数の系譜史料において記述が異なり、今日に至るまで確定を見ていない。この錯綜した状況そのものが、彼の生涯の流動性を象徴しているとも言える。主要な説は以下の通りである。
これらの諸説を以下の表に整理する。
表1:滝川雄利の出自に関する諸説の比較
| 説 | 父親 | 母親 | 主な典拠史料 | 史料の性格 |
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| 説① | 木造具康 | 不明 | 『朝日日本歴史人物事典』、滝川氏系図、『勢州軍記』 | 近代の事典、家系図、軍記物語 |
| 説② | 木造俊茂 | 不明 | 『藩翰譜』、『系図纂要』 | 江戸中期の研究書、系譜集 |
| 説③ | 木造具政 | 木造俊茂の娘 | 『寛政重修諸家譜』(滝川家提出家譜) | 幕府公式編纂物(家伝に基づく) |
| 説④ | 柘植三郎兵衛 | 木造具康または俊茂の娘 | 『寛永諸家系図伝』(木造氏・星合氏系図) | 幕府公式編纂物 |
この情報の錯綜は、雄利が特定の強力な後ろ盾を持たず、自らの才覚でのし上がった人物であったことを示唆している。彼の出自の曖昧さは、後世の家々が、それぞれの家の歴史や権威付けのために、彼を都合よく自らの系譜に位置づけようとした結果とも考えられる。特に、徳川の世になってから編纂された『寛政重修諸家譜』において、滝川家が「木造具政の三男」説を提出した背景は興味深い。これにより、雄利は織田信雄(具政の兄・具教の養子)の義理の甥ではなく、従兄弟という、より近しい関係となり、徳川政権下での家の格を意識した可能性がうかがえる。
いずれの出自であったにせよ、雄利が武将となる以前、若くして出家し、「源浄院(または源常院)主玄(しゅげん)」という名の僧侶であったことは、多くの史料で一致している 1 。この源浄院は、木造家の菩提寺、あるいは一族が建立した寺院であった可能性が指摘されており 14 、彼の出家が単なる信仰心からではなく、名門武家の子弟が政治的な理由で一時的に僧籍に入るという、当時しばしば見られた慣習に則ったものであった可能性が高い。
『勢州軍記』によれば、主玄は出家の身でありながら「文武に長けていた」とされ、世の情勢にも通じていたという 14 。この僧侶として培われたであろう教養と、武家の血筋に由来するであろう才覚が、後の還俗と目覚ましい活躍の素地となったことは想像に難くない。彼は静かに、時代の変化と自らが飛躍する好機を待っていたのである。
一介の僧侶であった主玄が、歴史の表舞台に躍り出る転機は、永禄12年(1569年)に訪れた。天下布武を掲げる織田信長による伊勢侵攻である。この動乱の中で、彼は還俗して「滝川雄利」となり、戦国の主要な登場人物の一員へと劇的な変貌を遂げる。この章では、その過程を詳細に追う。
信長の伊勢平定において、北伊勢の要衝を占める木造氏の動向は、戦局を左右する重要な要素であった。信長軍の先鋒を務めたのは、織田家屈指の宿老・滝川一益である。彼は武力による制圧と並行して、巧みな調略を展開した 9 。
この一益の調略に、木造家内部から呼応したのが、僧侶・主玄(雄利)と、木造家の重臣・柘植保重であった 5 。『勢州軍記』などによれば、主玄は世の情勢を鑑み、木造家が宗家の北畠氏と運命を共にするよりも、日の出の勢いである織田氏に付くことが得策であると判断した 14 。彼は柘植保重と謀り、主君である木造具政を説得。長年の宗家との確執や、当主である具教との不和も手伝い、具政はついに織田方への寝返りを決断した。この木造氏の帰順は、北畠氏の防御網に大きな亀裂を生じさせ、信長の伊勢平定を決定づける上で極めて大きな功績となった。
しかし、この決断は大きな犠牲を伴った。木造氏の離反を知った北畠具教は激怒し、人質としていた柘植保重の娘を雲出川のほとりで惨殺し、見せしめにしたと伝えられる 7 。この出来事は、雄利の行った調略が、単なる政治工作ではなく、血を伴う非情な決断であったことを物語っている。
木造氏の帰順に際し、その中心的な役割を果たした主玄の才能は、調略の当事者であった滝川一益の目に留まった。一益は主玄を高く評価し、彼を還俗させると、自らの「滝川」という姓を与えた 15 。これにより、主玄は「滝川雄利」として武将の道を歩み始める。一益との関係については、娘婿になったという説 1 、あるいは甥分や養子として遇されたという説 3 など諸説あるが、いずれにせよ、織田政権の重鎮である一益の強力な庇護下に入ったことを意味する。これは、出自の曖昧な彼にとって、武将として立身していく上でこの上ない後ろ盾となった。
一益の推挙により、雄利は信長に仕えることとなり、北畠家の家督を継承した信長の次男・織田信雄(当時は北畠信意)の配下に付けられた 1 。これにより、雄利は単なる伊勢の国人から、織田政権の中枢に連なる一員へとその地位を大きく向上させたのである。
雄利が主君・信雄から厚い信頼を得ていたことは、彼の度重なる改名からも窺える。現存する書状などから、彼の諱(いみな)は当初「友足」や「友忠」を名乗り、本能寺の変後は「一盛」、そして最終的に「雄利」へと変遷したことが確認されている 3 。特に「雄利(かつとし)」という名は、主君である信
雄 (のぶ かつ )から一字を拝領したものであり、これは家臣にとって最高の栄誉の一つであった。この偏諱は、雄利が信雄の側近として、極めて重要な地位を占めるに至ったことを明確に示している。
この一連の出来事は、雄利が持つ本質的な能力が、単なる武勇ではなく、政治情勢を的確に読み解き、人心を掌握して主君をも動かすほどの「交渉能力」と「戦略的思考」であったことを示している。滝川一益が彼を見出したのも、伊勢国内の複雑な力学に精通し、それを動かすことができる雄利を、自らの伊勢統治における代理人として活用しようという、戦略的な意図があったと推察される。
天正10年(1582年)の本能寺の変により織田信長が横死すると、天下は再び動乱の時代へと突入する。信長の後継者の地位を巡り、羽柴秀吉と、信長の次男である雄利の主君・織田信雄との対立が先鋭化していく。この、世に言う「小牧・長久手の戦い」は、雄利の政治的生存術が最も試された局面であった。
天正12年(1584年)、秀吉との開戦を目前にして、信雄の陣営を揺るがす事件が起こる。信雄が、秀吉への内通を疑い、宿老であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名を、自身の居城である伊勢長島城にて誅殺したのである 23 。
この時、雄利もまた、秀吉との間に繋がりを持っていた。秀吉が主催する茶会に出席した記録が残っており、彼が秀吉の懐柔策の対象となっていたことは明らかである 24 。粛清された三家老と同様に、内通を疑われても何ら不思議ではない立場にあった。しかし、雄利はこの粛清を免れ、信雄方として秀吉と戦う道を選ぶ。この背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、伊勢の地理や国人衆の動向に精通する雄利が、対秀吉戦における伊勢方面の防衛責任者として不可欠な存在であったこと。そして第二に、彼が巧みな立ち回りで信雄の信頼を繋ぎ止め、自らの潔白を証明し得たことであろう 25 。この危機を乗り越えたことで、雄利は信雄家中で比類なき重臣としての地位を確立し、その政治的価値を一層高めることになった。
小牧・長久手の戦いが勃発すると、戦線は尾張と伊勢の二方面で展開された。雄利は伊勢方面の防衛を一手に担い、秀吉の弟・羽柴秀長や猛将・蒲生氏郷らが率いる大軍と対峙した。
雄利はまず、誅殺された津川義冬の居城であった南伊勢の松ヶ島城に入り、籠城する 3 。徳川家康から派遣された服部正成率いる伊賀衆の援軍を得て奮戦するも、大軍の前に城は追い詰められ、一ヶ月足らずで二の丸まで攻め込まれた 3 。雄利はこれ以上の抵抗は無益と判断し、城兵の助命を条件に城を明け渡し、尾張へと撤退した 3 。
その後、雄利は北伊勢に転じ、四日市の浜田城に籠城して再び秀吉軍の進攻を食い止めた 26 。この一連の粘り強い防衛戦は、秀吉方に伊勢方面での多大な時間と労力を費やさせた。戦い自体は局地的な敗北であったが、主戦場である尾張への圧力を軽減させ、戦全体の膠着状態を維持するという意味で、戦略的に大きな意味を持つものであった。
尾張での戦況が膠着し、伊勢方面でも秀吉軍の圧力が強まる中、信雄は次第に戦意を喪失していく。そして同年11月、信雄は同盟者である家康に一切の相談なく、独断で秀吉との和睦に踏み切った 26 。
この歴史的な和平交渉において、滝川雄利は極めて重要な役割を果たす。彼は信雄の使者として家康のもとへ派遣され、和睦の成立を伝えた 3 。しかし、その立場は単なる信雄の使者にとどまらなかった。むしろ、秀吉側の意向を家康に伝える役割を担っており、事実上、両陣営の橋渡し役を務めたのである。敵将であったはずの雄利が、秀吉からもその交渉能力と、両陣営に通じる稀有な立場を評価され、和平成立のキーパーソンとして起用された。この事実は、彼が単なる武将ではなく、高度な政治感覚を備えた外交官であったことを雄弁に物語っている。
秀吉が敵将である雄利を使者に選んだ背景には、家康と信雄の関係を完全に断ち切るという、高度な政治的計算があったとも考えられる。信雄の重臣である雄利自身に和睦を伝えさせることで、家康に信雄への不信感を決定的に植え付け、織田・徳川同盟を内側から切り崩そうとしたのである。雄利は、そうした秀吉の深謀遠慮の中で、自らの役割を的確に演じきった。この経験が、後の豊臣政権下での彼の飛躍に繋がっていくのである。
小牧・長久手の戦いを経て、滝川雄利は織田信雄の家臣という立場を超え、天下人・豊臣秀吉からも一目置かれる存在となった。天正18年(1590年)に主君・信雄が改易されるという最大の危機に際しても、雄利は沈むことなく、むしろ秀吉の直臣としてキャリアの頂点を迎える。この章では、彼が果たした多面的な役割を分析し、通説的な「軍師」という言葉の妥当性を再検討する。
天正18年(1590年)、秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原征伐を敢行する。この戦後処理において、信雄は旧領の尾張・伊勢から徳川家康の旧領であった東海地方への国替えを命じられるが、これを拒否したため、秀吉の怒りを買い改易処分となった 2 。
主君が全てを失う中、雄利は連座を免れるどころか、伊勢神戸に2万石(後に加増され3万石以上)を与えられ、独立した大名として秀吉の直臣に取り立てられるという、異例の厚遇を受けた 1 。この事実は、小牧・長久手の戦い以降、雄利が単なる「信雄の家臣」ではなく、すでに「秀吉政権にとって有用な人材」として認識されていたことを明確に示している。特に、家康との和平交渉や、その後の秀吉の妹・朝日姫が家康に嫁ぐ際の婚儀の取りまとめといった外交案件で、秀吉に直接その能力を示したことが、この抜擢の決定打となったと考えられる 3 。
雄利はしばしば「秀吉の軍師格」と評されるが、その実態はより複雑で多岐にわたるものであった。彼の役割を理解する上で重要なのが、秀吉の「御伽衆(おとぎしゅう)」の一員であったという事実である 12 。
御伽衆とは、単なる主君の話し相手ではない。豊富な知識や経験、諸国の情報に通じた大名や文化人、元僧侶などで構成され、主君の諮問に応じ、政策決定に影響を与えるブレーン集団であった。雄利もその一人として、秀吉の側に仕えたのである。
彼の具体的な活動は、軍事作戦の立案といった典型的な「軍師」のイメージとは一線を画す。
これらの活動から、雄利の役割は、軍略を練る「軍師(ストラテジスト)」というよりも、外交交渉を担う「ネゴシエーター」、実務をこなす「テクノクラート」、そして主君に情報と知見を提供する「政治顧問」としての側面が遥かに強かったと結論付けられる。秀吉は、旧織田家臣団の中から、武勇に秀でた武断派の将だけでなく、雄利のような実務能力や交渉力に長けた人材を積極的に登用することで、巨大な政権の安定化を図った。雄利の抜擢は、そのような豊臣政権の人材登用戦略を象徴する一例と言えるだろう。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢は再び大きく揺れ動く。豊臣政権内部の対立は、徳川家康率いる東軍と、石田三成らを中心とする西軍との全国規模の争乱へと発展した。順風満帆に見えた滝川雄利のキャリアは、この天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、大きな転換点を迎える。
慶長5年(1600年)、雄利は西軍に与するという決断を下す。この選択の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられる。
第一に、 豊臣恩顧の大名としての立場 である。雄利は主君・織田信雄の改易後、秀吉によって直接大名に取り立てられた経緯を持つ 3 。その恩義に報いるため、また豊臣家の安泰を願う立場から、秀頼を擁する西軍に付くことは、彼にとって自然な選択であった。
第二に、 地理的な制約 が挙げられる。雄利の居城である伊勢神戸城は、西国大名が多くを占める西軍の勢力圏の只中にあった 32 。周辺の安濃津城や松坂城が西軍の猛攻に晒される中 33 、東軍に与することは物理的に極めて困難であり、自領と家臣を守るためには西軍に加担せざるを得ない状況であった。
第三に、 当時の情勢判断 である。開戦当初、毛利輝元を総大将に据え、宇喜多秀家、小西行長といった大名を擁する西軍は、兵力的にも東軍に匹敵、あるいは凌駕すると見られていた 35 。多くの大名が西軍の勝利を予測しており、雄利もまた、当時の情勢を合理的に判断した結果、西軍の勝利に与した可能性が高い 36 。
この決断が、彼の運命を大きく左右することになる。徳川家康の嫡男・秀忠からは、雄利に対して味方になるよう促す書状が送られていた記録があり、東軍からも働きかけがあったことが確認できる 37 。この誘いを蹴って西軍に与したことは、彼の敗北を決定的なものとした。
雄利は、関ヶ原での本戦には直接参加しなかった。彼の役割は、伊勢国における西軍の拠点の一つとして神戸城を維持し、東軍方の伊勢の諸城を牽制することにあったと考えられる 3 。
関ヶ原周辺では、東軍方の富田信高が籠る安濃津城を毛利秀元らの西軍主力部隊が攻撃するなど、激しい前哨戦が繰り広げられていた 34 。雄利の神戸城も、この伊勢方面の戦線において、西軍の一翼を担っていた。
しかし、9月15日の本戦で西軍がわずか一日で壊滅すると、戦局は一変する。西軍の敗北が決定的となると、雄利は神戸城に籠城を続けるが、もはや抵抗する術はなかった。最終的に、伊勢方面の西軍残党の鎮圧にあたっていた山岡道阿弥の軍に降伏し、戦後、徳川家康によって改易、その所領は全て没収された 1 。
これにより、滝川雄利は再び全てを失い、一介の浪人の身となった。彼の西軍加担は、当時の状況下では合理的な判断であったかもしれないが、結果としてそのキャリアを一度は完全に断ち切る「判断ミス」 40 となったのである。
関ヶ原の戦いで西軍に与し、改易された大名の多くが、歴史の舞台から姿を消した。しかし、滝川雄利は違った。一度は全てを失った彼が、驚くべき復活を遂げるのである。その背景には、新たな支配者となった徳川家、特に二代将軍・秀忠の深い思惑が存在した。
慶長8年(1603年)、関ヶ原の戦いからわずか3年後、浪人の身であった雄利は、二代将軍・徳川秀忠によって召し出されるという異例の抜擢を受ける 1 。そして、将軍の側近である「御伽衆(おとぎしゅう)」、あるいは「御咄衆(おはなししゅう)」として、秀忠に近侍することになった 3 。
西軍の将であり、一度は徳川と敵対した人物が、なぜこのような破格の待遇で迎え入れられたのか。その理由は、雄利が持つ他に代えがたい価値にあった。
雄利の復活は、単なる温情による赦免ではない。それは、徳川政権が安定期へと移行する中で、旧体制の有能な人材を積極的に登用し、新体制の糧とするという、秀忠の合理的かつ戦略的な判断の結果であった。関ヶ原での敗北は、皮肉にも雄利を過去の政治的しがらみから解放し、新政権にとって「活用しやすい」貴重な人材へと変えたのである。
秀忠の雄利に対する信頼は、御伽衆としての登用に留まらなかった。雄利は常陸国片野(現在の茨城県石岡市)に2万石の所領を与えられ、大名として奇跡的な返り咲きを果たしたのである 1 。これは、秀忠からの厚い信任の証であり、西軍出身の大名としては極めて稀なケースであった。
片野藩主としての雄利の具体的な藩政に関する史料は乏しいが、戦国の動乱を生き抜き、博多の復興事業にも携わった彼が、その経験を活かして領国経営にあたったことは想像に難くない。
慶長13年(1608年)頃までには再び出家して「一路(いちろ)」と号し、羽柴刑部卿法印と称した 3 。これは、彼が最後まで豊臣家から与えられた「羽柴」の姓を名乗り続けたことを示しており、その複雑な心境が窺える。
そして慶長15年2月26日(1610年3月21日)、雄利は68年の波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。彼の墓所は、かつての領地であった常陸片野の泰寧寺に現存し、その特異な生涯を今に伝えている 3 。
滝川雄利の生涯を振り返る時、彼は典型的な戦国武将の枠には収まらない、多面的な人物像を浮かび上がらせる。僧侶としての教養、名門の出自、そして何よりも自らの知性と交渉能力を武器に、三つの政権を渡り歩いた稀有な才人であった。本章では、彼の人間性に迫ると共に、彼が遺した血脈が後世に与えた影響を追うことで、その歴史的評価を総括する。
雄利の人物像をより深く理解するために、後世の逸話集に残されたいくつかのエピソードは貴重な示唆を与えてくれる。
これらの逸話は、雄利が単なる世渡り上手な人物ではなく、武将としての確かな実力と、人間的な器の大きさを兼ね備えていたことを示唆している。
雄利が再興した滝川家は、彼の死後も存続したが、その道のりは平坦ではなかった。
息子の滝川正利は父の跡を継いで片野藩主となるが、病弱で嗣子がいなかったことから、寛永2年(1625年)に大名の地位を返上。2万石のうち1万8千石を幕府に返し、2千石の旗本として家名を存続させる道を選んだ 5。
その後、正利の娘婿として譜代大名・土岐氏から利貞が迎えられ、滝川家は4000石の大身旗本として幕末まで続いた 3 。そして、この雄利の血脈は、日本の歴史が再び大きく動く幕末期に、意外な形で表舞台に登場する。雄利の曾孫・具章が興した分家から、大目付として鳥羽・伏見の戦いの戦端を開いたとされる重要人物・**滝川具挙(たきがわ ともたか)**を輩出したのである 5 。戦国乱世を生き抜いた雄利の末裔が、二百数十年後、徳川幕府の終焉という歴史の転換点に深く関わったことは、数奇な運命の巡り合わせと言えよう。
滝川雄利は、特定の主君に命を捧げる「忠臣」でもなければ、戦場で武名を轟かせる「猛将」でもなかった。彼は、自らが持つ知性と交渉能力、そして時代の流れを読む先見性を最大の武器として、激動の時代を巧みに泳ぎ切った、極めて現代的な「政治的才人」であった。その生涯は、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムと、その中で個人が如何にして生き残り、自らの価値を最大化していくかという、普遍的なテーマを我々に提示している。彼の波乱に満ちた人生は、乱世における多様な成功の形を示す、示唆に富んだ一例として、今後も歴史研究において注目され続けるであろう。