本多利久(ほんだ としひさ) 1 。この名を聞いて、戦国時代から安土桃山時代にかけての歴史に精通する者でさえ、徳川四天王の一人として名高い本多忠勝と混同するか、あるいはその存在自体を知らないことが多い。しかし、利久は豊臣政権下における大和国統治の枢要を担い、日本三大山城の一つに数えられる高取城を近世城郭へと変貌させた、紛れもない大名である 3 。彼の功績の大きさに比して、その人物像は歴史の影に埋もれがちである。この評価の不均衡こそが、本多利久という武将を考察する上での出発点となる。彼の遺した高取城がその堅固さと壮麗さで後世に名を残す一方で、築城主である利久自身の生涯は、断片的な史料の中にしかその姿を留めていない。
本稿は、この本多利久という人物の実像に迫ることを目的とする。その生涯を丹念に追うことで、彼が戦国乱世から近世へと移行する時代を生き抜いた、一つの典型的な武将像を提示できると考える。すなわち、利久は、戦場での武功よりも、むしろ統治や築城といった実務能力によって立身した「テクノクラート(技術官僚)型大名」であった。彼の主君となった豊臣秀長が、まさにそうした実務能力に長けた人材を積極的に登用し、豊臣政権の支配体制を盤石なものにしたことはよく知られている。利久の経歴は、尾張の小領主の家臣から身を起こし、秀長の信頼を得て大名へと駆け上がり、ついには巨大山城を築き上げるに至る、その典型例と言えるだろう。本稿では、水野半右衛門と名乗った前半生から、豊臣大名としての栄達、そして彼の一族が辿った運命までを、現存する史料を基に詳細かつ徹底的に検証し、その生涯と彼が生きた時代の特質を明らかにしていく。
本多利久の生涯を理解するためには、まず彼の謎に包まれた前半生、すなわち「水野半右衛門」として生きた時代を解き明かす必要がある。彼の出自、仕えた主君、そして「本多」へと姓を改めた背景には、戦国武将としての彼の生存戦略と政治的アイデンティティの形成過程が凝縮されている。
本多利久の前半生は、多くの部分が不明確である。史料によれば、彼の生年は天文4年(1535年)とされ、尾張国の出身であったことが示唆されている 3 。彼のキャリアの初期段階において、彼は「水野半右衛門(みずの はんえもん)」という名を名乗っていた 3 。この事実は、彼の出自が尾張国に根を張る有力な国人領主、水野氏にあることを強く示唆している。『系図纂要』などの系譜資料では、利久の父(あるいは利久自身)を水野利忠(みずの としただ)としており、彼が水野一族の一員であったことはほぼ間違いない 6 。
水野氏という姓が持つ意味は大きい。尾張水野氏は、徳川家康の生母である於大の方を輩出した名族であり、戦国時代を通じて尾張・三河地域において重要な政治的地位を占めていた 9 。利久が水野氏の直系であったか、あるいは傍流であったかは定かではないが、「水野」を名乗ることは、織田信長による尾張統一以前の、諸勢力が割拠する複雑な政治情勢の中で、一定の社会的・政治的資本となったはずである。彼のキャリアは、この「水野」という出自から始まった。しかし、後年、彼はこの姓を捨て「本多」へと改姓する。このアイデンティティの転換は、彼の生涯における極めて重要な戦略的決断であった。
水野半右衛門としての利久が最初に仕えた主君は、尾張上半四郡を支配した岩倉城主・織田信安(おだ のぶやす)であった 3 。信安は、清洲城を拠点とする織田信長の同族でありながら、尾張の覇権を巡って信長と激しく対立した人物である 10 。利久は、この岩倉織田氏(伊勢守家)の家臣として、そのキャリアを開始した。
しかし、弘治2年(1556年)から永禄2年(1559年)にかけての信長による尾張統一戦争の結果、事態は一変する。永禄元年(1558年)の浮野の戦いなどで信安は信長に敗れ、岩倉城は落城し、信安は追放された 11 。これにより、利久は主君を失い、いわゆる浪人の身となったか、あるいは新たな仕官先を早急に見つけなければならない状況に追い込まれた。彼の最初の主君が、歴史の敗者であったという事実は重要である。この敗北の経験は、彼に戦国乱世の厳しさと、時勢を見極めることの重要性を痛感させたに違いない。ある史料によれば、信安の敗北後、利久は豊臣秀長の家臣へと転身したとされており、この敗北が彼のキャリアにおける次なる飛躍の契機となったことが窺える 11 。敗北の中から立ち上がり、最終的に天下人である豊臣家の重臣へと至る彼の経歴は、その卓越した現実主義と、逆境を乗り越える能力を物語っている。
利久の家系における最も重要な転換点の一つが、水野姓から本多姓への改姓である。この改姓は、単なる名前の変更に留まらず、彼の政治的立場と将来を見据えた戦略的なアイデンティティの再構築であった。
史料によれば、この改姓は利久の子である俊政(としまさ)の代に行われたとされ、徳川家康の重臣である本多忠勝、あるいは本多正重(三弥)から本多姓を与えられたと記されている 6 。しかし、父である利久自身も、豊臣家臣としてのキャリア後期には一貫して「本多利久」として記録されている 2 。このことから、改姓は一族全体の決定であり、その政治的意図は利久の代から存在したと考えられる。彼らの一族の系譜は、「尾張水野氏 → 源姓本多氏」と記されており、これが公式な氏族の変更であったことを示している 12 。
この改姓が持つ戦略的意味は計り知れない。本多氏、特に忠勝の平八郎家は、徳川家康配下の譜代家臣団の中でも筆頭格であり、その武威は天下に鳴り響いていた 13 。豊臣政権に仕える身でありながら、その最大のライバルである徳川家の重臣から姓を賜るという行為は、極めて高度な政治的判断である。これは、豊臣家への忠誠を尽くしつつも、来るべき「秀吉後」の世界を見据え、次なる覇者と目される徳川家との間に、政治的な繋がりを構築しようとする深謀遠慮の表れであった。いわば、未来への政治的保険であり、来るべき時代の変動を乗り切るための布石であった。
この改姓に伴い、彼らは本多氏の定紋である「立葵(たちあおい)」紋を使用するようになったと考えられる 14 。徳川家の「三つ葉葵」と意匠を同じくするこの家紋を掲げることは、彼らが本多一門に連なる者であることを視覚的に示し、その政治的立場をより強固なものにした。水野半右衛門から本多利久へ。この名の変更は、一人の武将が自らの出自を乗り越え、激動の時代を生き抜くために、新たな政治的アイデンティティを創造した瞬間を象徴している。この先見性こそが、後の関ヶ原の戦いにおいて、彼の一族を救うことになるのである。
水野半右衛門としての前半生に別れを告げた本多利久は、豊臣秀長の家臣となることで、その才能を大きく開花させる。秀吉の弟として政権の重鎮であった秀長の下で、利久は単なる一武将から、大和国統治の一翼を担う大名へと成長していく。高取城への入城は、そのキャリアの頂点への第一歩であった。
本多利久が仕えた豊臣秀長は、兄・秀吉が最も信頼した実弟であり、豊臣政権における事実上のナンバーツーであった 5 。天正13年(1585年)の紀州・四国征伐の後、秀長は大和・和泉・紀伊の三国にまたがる百万石超の大領を与えられ、大和郡山城を本拠とした 4 。秀長は、温厚篤実な人柄で知られる一方、極めて有能な統治者であり、その家臣団は、藤堂高虎や小堀正次など、武勇だけでなく、築城、検地、内政といった実務能力に長けたテクノクラート集団として知られていた 20 。
利久がこの秀長の家臣団に加わったことは、彼のキャリアにとって決定的な意味を持った。秀長は、出自や過去の経歴にこだわらず、実務能力のある人材を積極的に登用した。利久が後に見せる卓越した築城技術や統治能力は、まさに秀長が求めていた資質そのものであった。秀吉子飼いの武断派家臣団とは異なり、秀長の家臣団は、政権の支配を安定させるための実務を担うプロフェッショナル集団であった。利久は、この中で自らの能力を最大限に発揮する機会を得たのである。彼の役割は、華々しい戦場での活躍よりも、むしろ検地の実施や城郭の普請といった、豊臣政権の支配を地方に浸透させるための地道で、しかし極めて重要な任務にあったと考えられる 23 。利久は、最適な主君に巡り会うことで、その真価を発揮する舞台を得たのだ。
天正13年(1585年)、大和に入国した秀長は、国内の戦略的拠点に重臣を配置した。その一環として、大和国南部の要衝である高取城には、当初、賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる猛将・脇坂安治が城主として置かれた 26 。しかし、ほどなくして脇坂安治は淡路洲本へと転封となり、その後任として高取城主に任命されたのが、本多利久であった 29 。この時、利久は1万5千石の知行を与えられている 17 。
この城主の交代は、秀長の大和統治戦略における方針転換を象徴する出来事であった。当初、軍事的な制圧を担う武将として脇坂安治が配置されたが、地域の安定化が進むにつれて、秀長が次に必要としたのは、恒久的な支配拠点としての城郭を築き、周辺地域を統治する行政官であった。猛将・脇坂から、実務官僚型の利久への交代は、高取城の役割が、一時的な軍事拠点から、恒久的な支配と統治の拠点へと移行したことを示している。
高取城は、秀長の本拠地である郡山城の南方を固める上で、極めて重要な戦略拠点であった。この重要拠点に利久を抜擢したことは、秀長が彼の行政能力と築城技術に絶大な信頼を寄せていたことの証左である。利久は、この期待に応えるべく、高取城を中世の山城から、近世の巨大要塞へと変貌させるという、壮大なプロジェクトに着手することになる。彼の任命は、単なる人事異動ではなく、大和国に豊臣政権の威光を示す巨大モニュメントを建設せよ、という特命であった。
本多利久の名を不朽のものとした最大の功績は、大和高取城を前代未聞の規模を誇る近世山城へと大改修したことである。この事業は、単なる城の強化に留まらず、豊臣政権の権威を大和の地に刻み込むという、壮大な政治的意図を持っていた。利久の指揮の下、高取城は機能性と美観を兼ね備えた、まさに「日本一の山城」と呼ぶにふさわしい姿へと生まれ変わった。
天正17年(1589年)、主君・豊臣秀長の命を受けた本多利久は、高取城の大規模な改修工事(大普請)に着手した 26 。利久は、家臣の諸木大膳らに命じ、全く新しい縄張り(城郭の設計)をもって、城の全面的な再構築を行った 3 。この改修により、高取城は中世的な砦から、安土桃山時代の最新技術を結集した近世城郭へと変貌を遂げた。
その構造は壮大を極めた。本丸には、白漆喰で塗り固められた三重の天守と小天守が築かれ、それらは多聞櫓(長屋状の防御施設)で連結されていた 26 。さらに城内には、17基もの三重櫓が林立し、城郭の主要部分は総石垣で固められた 26 。城郭全体の面積は約6万平方メートル、城の周囲は約30キロメートルにも及ぶ広大なものであったと伝わる 26 。また、郭内には家臣たちの侍屋敷も整備され、山麓には城下町が形成された 32 。
この高取城の設計思想には、明確な政治的意図が込められていた。大和国は、興福寺や東大寺といった強大な寺社勢力や、古くからの土豪が根を張る、中央政権にとって統治が難しい地域であった。秀長と利久は、この地に、誰もが圧倒されるような恒久的で威圧的な権力の象徴を打ち立てる必要があった。平地に城を築くのではなく、標高583メートルの高取山の山頂全体を要塞化するという前代未聞の計画は、大和のあらゆる在地勢力に対し、豊臣政権の絶対的な力を誇示し、抵抗の意思を根こそぎ奪うための、計算され尽くした戦略だったのである。利久が築いた石垣と櫓群は、まさに石でできた豊臣政権の権威そのものであった。
本多利久が築いた高取城は、単なる軍事要塞ではなかった。それは、圧倒的な防御機能と、見る者を魅了する美観とを兼ね備えた、安土桃山文化の結晶体であった。
その美しさは、白漆喰で塗り込められた天守や櫓群が、遠くから見るとまるで山頂に雪が積もっているかのように見えたことから、「雪かとみれば雪でござらぬ」と詠われ、優美な「芙蓉城(ふようじょう、綿の花の城)」という雅称で呼ばれたほどであった 26 。この美観は、城主の権威と文化的洗練を示すための重要な装置であった。城は、敵を拒むと同時に、味方を魅了し、領民に畏敬の念を抱かせるための、視覚的なプロパガンダでもあったのだ。
一方で、その防御機能は極めて冷徹かつ実用的であった。本丸へ至る道筋は巧妙に設計されており、侵入者を阻むための罠が随所に仕掛けられていた。特に有名なのが、何度も険しく折れ曲がる「七曲り(ななまがり)」と呼ばれる坂道と、その先にある「一升坂(いっしょうざか)」という急峻な坂である 26 。一升坂の名の由来は、あまりの急勾配に、重い荷物を運び上げることができた者には米一升が褒美として与えられた、という逸話から来ている 26 。これらの防御施設は、敵兵の勢いを削ぎ、狭い場所で効果的に迎撃するための、計算され尽くした殺戮の空間であった。
このように、高取城は「芙蓉城」という優美な顔と、「一升坂」に代表されるような冷酷な要塞としての顔を併せ持っていた。この美と実用の二元性こそが、利久が体現した安土桃山時代の築城思想の真髄であった。彼は単なる土木技術者ではなく、権力の本質を理解し、それを建築という形で表現できる、優れた思想家でもあった。この城は、美濃の岩村城、備中の松山城と並び、日本三大山城と称されるにふさわしい、彼の最高傑作なのである 26 。
高取城の大改修という大事業を成し遂げた本多利久であったが、彼の栄達を支えた豊臣政権は、秀吉の死を境に大きく揺らぎ始める。主君の相次ぐ死、そして天下分け目の関ヶ原の戦いという激動の中で、利久とその一族は、生き残りを賭けた重大な決断を迫られることになる。
表1:本多利久と高取藩本多家関連年表
年代 |
主要な出来事 |
人物 |
備考 |
天文4年 (1535) |
誕生(推定) |
本多利久 |
尾張国にて水野半右衛門として生まれる 5 |
永禄元年頃 (1558) |
主君・織田信安が織田信長に敗北 |
本多利久 |
岩倉城が落城し、主君を失う 11 |
天正13年 (1585) |
豊臣秀長の家臣となり、高取城主となる |
本多利久 |
1万5千石を領する 17 |
天正17年 (1589) |
高取城の大規模改修を開始 |
本多利久、豊臣秀長 |
近世城郭への大普請 26 |
天正19年 (1591) |
主君・豊臣秀長が死去 |
本多利久、本多俊政 |
秀長の養子・豊臣秀保に仕える 35 |
文禄4年 (1595) |
主君・豊臣秀保が死去 |
本多利久、本多俊政 |
豊臣秀吉の直臣となる 12 |
慶長5年 (1600) |
関ヶ原の戦い |
本多利久、本多俊政 |
東軍に属す。高取城は西軍の攻撃を撃退。戦後、2万5千石に加増される 6 |
慶長8年 (1603) |
本多利久、死去 |
本多利久 |
1月13日に死去 2 |
慶長15年 (1610) |
初代高取藩主・本多俊政、死去 |
本多俊政 |
閏2月8日に死去 6 |
寛永14年 (1637) |
二代藩主・本多政武が嗣子なく死去 |
本多政武 |
大和高取藩本多家は無嗣改易となる 17 |
天正19年(1591年)、本多利久の最大の庇護者であった豊臣秀長が病没する。これにより、豊臣政権内の一大勢力であった秀長派は、その核を失った。利久と息子の俊政は、秀長の養子として後を継いだ豊臣秀保(とよとみ ひでやす)に仕えることとなった 2 。しかし、その秀保もまた文禄4年(1595年)に17歳の若さで早世してしまう。
主君筋である大和豊臣家の断絶は、その家臣団にとって極めて不安定な状況をもたらした。多くの家臣が所領を削減されたり、他の大名家へ転属させられたりする中で、本多利久・俊政親子は、所領を安堵されたまま豊臣秀吉の直臣として召し抱えられるという、破格の待遇を受けた 2 。この事実は、彼らが統治する高取城の戦略的重要性と、彼らの行政手腕が、秀吉自身からも高く評価されていたことを物語っている。彼らは、崩壊しつつあった権力の中枢から、最高権力者である秀吉本人へと、その忠誠の対象を巧みに移行させることに成功したのである。この時期、息子の俊政は文禄の役(1592年)において、壱岐勝本城に在番し、兵站の維持という後方支援の任を担っており、一族として着実に豊臣政権内での役割を果たしていた 6 。
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると、政権内の対立は決定的となり、天下は徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍へと二分される。この天下分け目の局面において、各大名は自らの家の存亡を賭けて、どちらに与するかという究極の選択を迫られた。
ここで、本多利久・俊政親子が下した決断は、東軍、すなわち徳川家康への加担であった 2 。この選択は、決して突発的なものではなかった。第一章で述べたように、彼らは息子の俊政の代に徳川家の重臣から「本多」の姓を賜ることで、早くから徳川方との間に政治的なパイプを築いていた。豊臣恩顧の大名でありながら、彼らは秀吉亡き後の政権の行く末を冷静に見極め、次なる覇者として家康を選択したのである。これは、豊臣家への裏切りというよりは、崩壊しつつある旧体制から、新たな秩序を構築しつつある新興勢力へと乗り換えるという、戦国武将として極めて現実的かつ合理的な判断であった。慶長5年(1600年)、息子の俊政は、家康が上杉景勝を討伐するために起こした会津征伐に、自ら軍を率いて従軍している 6 。この行動は、彼らの徳川方への帰属を明確に示すものであった。
本多俊政が主力を率いて会津へ出征し、城主不在となった高取城は、絶好の標的となった。石田三成は、俊政の留守を好機と見て、大和国内の西軍勢力を結集させ、高取城へと差し向けた。
しかし、西軍の目論見は、本多利久が心血を注いで築き上げた巨大要塞の前に、無残にも打ち砕かれる。城に残った家臣団は、城主不在という不利な状況にもかかわらず、利久の築いた堅固な城郭を頼りに徹底抗戦した。攻め手は、険しい坂道と巧妙な防御施設に阻まれ、多大な損害を出した末に、ついに城を陥落させることを諦めて撤退した 6 。この高取城の籠城戦の勝利は、関ヶ原の戦いの趨勢に直接的な影響を与えたわけではないが、本多家にとっては、その運命を決定づける極めて重要な勝利であった。
もし城が落ちていれば、東軍に味方した彼らの一族は、所領を没収され、改易の憂き目に遭っていたことは間違いない。彼らが築いた城が、文字通り彼らの一族を救ったのである。この功績により、関ヶ原の戦いで東軍が勝利した後、本多家は徳川家康からその忠誠を高く評価された。所領は安堵されるだけでなく、2万5千石へと加増され、息子の俊政は正式に大和高取藩の初代藩主として認められた 5 。利久の築城という事業が、一族の政治的生存と、江戸時代における大名としての地位を確立させる上で、決定的な役割を果たした瞬間であった。
関ヶ原の戦いから3年後の慶長8年(1603年)1月13日、本多利久はこの世を去った 2 。享年68歳であったとされる 5 。彼は、自らの一族が豊臣から徳川へという時代の大きな転換点を無事に乗り越え、大名としての地位を確固たるものにするのを見届けて、その生涯を閉じた。
息子の俊政は、父の死に先立ってすでに家中の実権を握っており、父の死後、正式に家督を継承した 6 。水野半右衛門としてキャリアを開始し、敗北と流転を経験しながらも、時勢を見極める先見性と、卓越した実務能力によって豊臣政権下で栄達し、最後は自らが築いた城によって一族の未来を切り拓いた。その生涯は、まさに激動の時代を生き抜いた、一人の武将の成功譚として完結したのである。
本多利久の深謀遠慮と、彼が築いた高取城の堅固さによって、本多家は徳川の世で大名としての地位を確立した。しかし、戦国乱世を勝ち抜いた者たちの成功が、いかに脆い基盤の上に成り立っていたか、高取藩本多家のその後の運命は、それを雄弁に物語っている。
父・利久の築いた礎の上に、大和高取藩を正式に成立させたのが、息子の本多俊政(としまさ)である 26 。利朝(としとも)や正武(まさたけ)といった別名でも知られる彼は、関ヶ原の戦いでの功績により2万5千石の所領を安堵され、高取藩の初代藩主となった 6 。
俊政は、父と共に豊臣秀長・秀保に仕え、文禄の役では後方支援の任を担うなど、早くから一族の舵取りに関わっていた 6 。父・利久が築いた徳川家との関係を維持・発展させ、天下分け目の決戦において東軍に与するという重大な決断を下し、見事に一族を勝利者へと導いた。彼の治世は、父の遺産を継承し、徳川幕藩体制下で藩の基礎を固めることに費やされた。しかし、その治世は長くは続かなかった。慶長15年(1610年)閏2月8日、俊政は死去する 6 。その亡骸は高野山に葬られ、供養塔が建立された 17 。彼の戒名は「利生院殿秀阿春大禅定門」という 6 。俊政は、父の戦略を完成させ、藩祖としての役割を全うした人物であった。
俊政の跡を継いだのは、その子である本多政武(ほんだ まさたけ)であった 6 。利家(としいえ)とも呼ばれた彼は、高取藩本多家の二代藩主として、祖父・利久、父・俊政が築き上げた藩を継承した。しかし、彼の代で、一族の運命は暗転する。
寛永14年(1637年)、本多政武は嗣子、すなわち跡を継ぐべき男子がいないまま死去した 17 。これは、江戸幕府の厳格な支配体制下では、大名家にとって致命的な事態であった。幕府は、跡継ぎのいない大名家を容赦なく取り潰す「無嗣改易(むしかいえき)」の方針を徹底しており、高取藩本多家もその例外ではなかった。
二代にわたる巧みな政治戦略と、難攻不落の城郭建設という多大な努力の末に築き上げられた大名家は、跡継ぎがいないという、ただ一つの生物学的な偶然によって、あっけなくその歴史に幕を下ろすことになったのである。これは、戦国の夢の儚さを象徴する出来事であった。いかにして乱世を勝ち抜き、大名としての地位を確立しようとも、その成功は常に不確実な要素に左右される、極めて脆いものであった。本多利久が築いた壮大な高取城は、主を失った。
高取藩本多家の改易後、城は一時的に幕府の城番が管理する時代を経て、寛永17年(1640年)、新たに旗本であった植村家政が2万5千石で入封し、高取藩は再興された。以後、植村氏が14代にわたってこの地を治め、明治維新を迎えることになる 26 。本多家の血筋は途絶えたが、彼らが築いた城と藩は、新たな主の下で存続していくことになった。
本多利久の生涯は、戦国時代から江戸時代初期にかけての、典型的な「テクノクラート型大名」の興亡を見事に体現している。彼は、本多忠勝のような華々しい武勇伝を持つ武将ではない。彼の価値は、戦場での一騎当千の活躍ではなく、統治、築城、そして時代の流れを的確に読む政治的嗅覚にあった。彼は、敗軍の将の家臣という逆境から身を起こし、実務能力を重んじる豊臣秀長という理想的な主君に巡り会うことでその才能を開花させた。彼は、単なる生存者ではなく、自らの手で未来を設計し、それを実現する実行力を持った、優れた実務家であり、戦略家であった。
彼の人生における最大の功績は、物理的な城郭と、政治的な家系の両方を「築き上げた」ことにある。第一に、彼は大和高取城を、美観と機能性を兼ね備えた日本史上屈指の山城へと変貌させた。第二に、彼は水野氏から本多氏へと改姓し、豊臣政権下で巧みに徳川家との関係を構築することで、一族が徳川の世で大名として存続するための政治的基盤を築いた。関ヶ原の戦いにおいて、彼が築いた城が、彼が築いた政治的立場を守り抜いたという事実は、彼の二つの偉業が分かちがたく結びついていたことを示している。
しかし、その成功譚は、孫・政武の代に嗣子なく改易という、あまりにもあっけない結末を迎える。二代にわたる苦心と深慮遠謀の結晶であった大名家は、生物学的な偶然によって歴史から姿を消した。これは、戦国時代の成功がいかに脆く、儚いものであったかを我々に突きつける。
今日、本多利久の名を知る者は少ない。彼の一族の血脈も、大名としては途絶えた。しかし、彼が後世に残した最大の遺産は、今なお大和の山中にその威容を留めている。風雪に耐え、静かに佇む高取城の壮大な石垣群こそが、本多利久という一人の武将の生涯と、彼が抱いた野心の大きさを、何よりも雄弁に物語る、不滅の記念碑なのである。彼の名は忘れられても、その仕事は石となって、日本の歴史に深く刻まれ続けている。