江戸時代前期、徳川による天下泰平が盤石の体制へと向かう激動の時代に、一人の大名が武勇と才気で一際強い光を放ちながらも、その家名はわずか二代で歴史の表舞台から姿を消した。その人物こそ、大和国高取藩の第二代藩主、本多政武(ほんだ まさたけ)である。
ご依頼者が把握されている「徳川家臣。利朝の長男。大和高取藩2代藩主。大坂夏の陣・道明寺口の戦いに功があった。大坂城修築、高野山大塔造営に活躍。囲碁の名人であった」という情報は、彼の生涯の要点を的確に捉えている 1 。しかし、この断片的な情報の裏には、豊臣恩顧という出自を背負い、徳川の世を必死に生き抜こうとした一族の苦闘、そして個人の功績だけでは抗うことのできない、江戸幕府初期の厳格な大名統制という時代の大きなうねりが存在する。
本報告書は、本多政武という人物の生涯を、その出自、武功、治績、文化的側面、そして家の断絶に至るまで、あらゆる角度から徹底的に調査・分析するものである。彼の生涯は、単なる一個人の物語にとどまらない。それは、徳川幕府による天下泰平が確立していく過程で、多くの大名が直面した栄光と悲劇の縮図であり、個人の能力や功績だけでは家の存続が保証されなかった時代の厳しさを象徴する事例である。武勇に優れ、文化的な素養も持ち合わせた彼が、なぜその血脈を次代に繋ぐことができなかったのか。この問いを解き明かすことを通じて、本多政武という人物の実像に迫る。
【表1:本多政武 略年表】
年代(西暦) |
政武の年齢(数え) |
主な出来事 |
典拠 |
慶長3年(1598) |
1歳 |
本多俊政の長男として誕生。 |
1 |
慶長15年(1610) |
13歳 |
父・俊政の死去に伴い、大和高取藩2万5千石の家督を相続。同年、「囲碁本因坊戦で勝利」との記録が残る。 |
1 |
慶長19年(1614) |
17歳 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣。 |
1 |
元和元年(1615) |
18歳 |
大坂夏の陣・道明寺口の戦いで奮戦し、武功を挙げる。戦後、従五位下因幡守に叙任される。 |
1 |
元和6年(1620)以降 |
23歳以降 |
幕府による大坂城再築工事(天下普請)の奉行を務める。 |
1 |
寛永8年(1631)以降 |
34歳以降 |
高野山根本大塔の造営奉行を務める。 |
1 |
寛永9年(1632) |
35歳 |
二代将軍・徳川秀忠の死去に際し、遺物として銀300枚を拝領。 |
1 |
寛永14年(1637) |
40歳 |
7月13日、死去。嗣子がなく、高取本多家は無嗣改易となる。 |
1 |
本多政武の生涯と運命を理解するためには、まず彼が背負っていた「高取本多家」の出自と、その複雑な立場を解明する必要がある。彼の行動原理の根源は、この家の歴史に深く根差している。
高取本多家の歴史は、徳川家譜代の名門として知られる本多忠勝の家系とは全く異なる源流を持つ 4 。その祖は、水野氏であったとされる。政武の祖父・本多利久は、元は水野半右衛門と名乗り、尾張国岩倉城主・織田信安に仕えていた 7 。その後、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長に仕え、その重臣として頭角を現す。天正13年(1585年)、秀長が大和郡山城主となると、利久はその配下として大和国高取城を与えられ、1万5千石を領するに至った 9 。
政武の父・本多俊政(諱は利朝、正武ともされる)は、この利久の子として生まれ、父祖の地盤を継承した 7 。彼は豊臣秀長、そしてその養嗣子である秀保に仕え、秀保の死後は豊臣秀吉の直臣となった 7 。文禄元年(1592年)の文禄の役では、壱岐勝本城に兵500を率いて在番し、兵站物資の海上輸送と治安維持の任にあたるなど、豊臣政権下で着実に実績を重ねていた 7 。このように、高取本多家は、その成り立ちからして紛れもない「豊臣恩顧」の大名であり、この事実は徳川の世における彼らの立場を決定づける重要な要素となった。
豊臣秀吉の死後、天下の情勢が徳川家康へと傾く中、豊臣恩顧の大名たちは重大な選択を迫られた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、父・俊政は家康が率いる会津征伐に従軍し、東軍に与するという大きな決断を下す 7 。
この決断は、一族の運命を左右するまさに乾坤一擲の賭けであった。俊政が主力を率いて関東へ出陣している隙を突き、石田三成方の西軍が高取城に攻め寄せた。しかし、城主不在という危機的状況にもかかわらず、留守を預かる家臣団は、「日本三大山城」の一つに数えられる高取城の天険の要害を利して奮戦し、見事に西軍を撃退、城を死守したのである 7 。
この功績は、東軍の勝利後、家康から高く評価された。俊政は所領を安堵されるだけでなく、1万石の加増を受け、大和高取藩2万5千石の初代藩主となった 12 。豊臣恩顧の大名が、存亡を賭けて東軍に味方するという決断と、それに伴う具体的な功績によって、高取本多家は徳川体制下での存続を勝ち取った。しかし、この「転向」は、彼らが幕府から譜代大名と同列に扱われることを意味しなかった。彼らの地位は、あくまで幕府の厳しい監視下に置かれる「外様大名」であり、この立場こそが、本多政武の生涯にわたる苦闘の出発点となったのである。
【表2:高取本多家の略系図と徳川譜代本多家の比較】
高取本多家(外様大名) |
徳川譜代本多家(代表例) |
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祖父:本多 利久 (元は水野半右衛門。豊臣秀長に仕え高取城主となる) |
(参考)徳川四天王 本多 忠勝 |
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↓ |
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父:本多 俊政(利朝) (関ヶ原の戦いで東軍に属し、初代高取藩主となる) |
(参考)本多 忠政 (忠勝の長男。桑名藩主、姫路藩主) |
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本多 政武 (二代藩主。本報告書の主題) |
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※徳川譜代の本多氏とは別系統である 4 。 |
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父・俊政が徳川の世で勝ち取った地盤を、いかにして盤石なものとするか。その重責は、若き本多政武の双肩に託された。彼の治世は、幕藩体制という新たな秩序の中で、家の存続と地位向上を目指す、計算された戦略の連続であった。
慶長3年(1598年)、本多政武は初代藩主・俊政の長男として生を受けた 1 。そして慶長15年(1610年)、父・俊政が死去すると、政武はわずか13歳(数え年)で家督を相続し、大和高取藩2万5千石の二代藩主となった 1 。幼くして大藩を率いることになった彼の背後には、父の代からの有力な家臣団による補佐体制があったと推察されるが、若き藩主として、自らの手で幕府との関係を構築し、その信頼を勝ち取っていく必要があった。
外様大名である本多家が、家の安泰を確実なものとするために打った最も効果的な一手、それが幕府中枢との姻戚関係の構築であった。本多政武は、下総関宿藩主であり、当時幕府の最重要役職の一つである京都所司代を務めていた板倉重宗の娘を正室に迎えている 15 。
板倉重宗は、父・勝重と共に「名所司代」としてその名を馳せ、二代将軍・秀忠や三代将軍・家光からの信任も極めて厚い、まさに幕政の中核を担う人物であった 18 。この縁組は、単なる個人的な結びつきを遥かに超える、高度な政治戦略であったと言える。畿内の要衝である高取城を押さえる外様大名を、幕府の重鎮を通じて直接的な影響下に置こうとする幕府側の思惑と、幕府の中枢に強力なパイプを築き、万一の際に有力な後ろ盾を得ようとする本多家の生存戦略とが合致した結果であった。この政略結婚は、高取本多家の最大の政治的成果であり、その後の政武の行動を支える重要な基盤となった。
本多政武が治めた高取藩の拠点は、標高583.9メートルにそびえる高取城であった。この城は、備中松山城、岩村城と並び「日本三大山城」と称され、その壮麗な姿は「巽高取(たつみたかとり) 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」と和歌に詠まれるほどであった 21 。
この壮大な近世城郭の基礎は、政武の祖父・利久の時代に、家臣の諸木大膳に命じて新しい縄張りで築城されたものである。本丸には多聞櫓で連結された三重の天守がそびえ、城内には17基もの三重櫓が林立していたという 21 。また、山麓には城下町が営まれ、高取は城郭都市として整備された 21 。政武の治世において、この難攻不落の山城は、藩の権威と軍事力を象徴する重要な存在であった。しかし、泰平の世においては山城での日常生活は不便であり、政武の死後、後継の植村氏の時代になると、藩主や家臣団の屋敷は山麓の街道筋へと移され、城には城番が置かれるのみとなった 24 。本多氏の時代は、高取城が城郭として最も輝いていた最後の時代であったと言えるかもしれない。
幕府への忠誠を最も明確に示す手段は、やはり「武功」であった。特に、旧主である豊臣家を滅ぼす大坂の陣は、高取本多家のような豊臣恩顧の大名にとって、徳川への忠誠を証明する試金石であり、絶好の機会であった。若き当主・本多政武は、この戦場でその真価を遺憾なく発揮する。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、本多政武は徳川方として参陣した 1 。かつての主家である豊臣家と干戈を交えるという複雑な立場にありながら、彼は徳川の大名として戦う道を選んだ。これは、父・俊政が関ヶ原で下した決断を、息子である政武が自らの行動で再確認し、新体制への完全な帰属を誓う行為であった。
政武の名を世に知らしめたのは、翌元和元年(1615年)の大坂夏の陣、その中でも屈指の激戦地となった「道明寺口の戦い」における奮戦であった 1 。
この時、政武はわずか17歳(数え年)。若き当主の身を案じる家臣の上松八左衛門が、危険な前線に出ることを幾度となく諫めた。しかし、政武は「この戦場で武人たる者、命を惜しむべきではない」と毅然として述べ、その制止を振り切って自ら先陣を切ったという逸話が残されている 27 。彼は豊臣方の猛将・後藤又兵衛の部隊に果敢に切り込み、一説には敵兵300人を討ち取るという目覚ましい武功を挙げたとされる 27 。
この道明寺での勇猛果敢な戦いぶりは、政武個人の武人としての資質を示すだけでなく、政治的にも極めて大きな価値を持った。それは、若き当主自らが命を賭して徳川のために戦うという、これ以上ないほど明確な忠誠の証であった。この武功は、二代将軍・秀忠をはじめとする幕府首脳に「高取本多家は、その出自に関わらず、信頼に足る有用な家である」と強く印象付けたに違いない。大坂の陣での奮戦は、家の安泰を保障するための、血で記された誓約書とも言える重要な布石となったのである。
戦乱の世が終わり、徳川幕府による新たな国づくりが始まると、大名の役割も戦場での武功から、平時における幕府への「奉公」へと変化していった。本多政武は、幕府が主導する国家建設事業「天下普請」においても、有能な行政官僚としてその手腕を発揮し、幕府への忠誠を形で示し続けた。
大坂の陣で灰燼に帰した大坂城を、豊臣時代の城を完全に埋め立て、その上に全く新しい徳川の城として再築する事業は、幕府の威光を天下に示す象徴的なプロジェクトであった。この大事業に、本多政武は奉行の一人として参加している 1 。天下普請は、西国大名を中心に多くの大名に普請が割り当てられ、その財力を削ぐことで幕府への服従を促すという側面も持っていた。この国家的事業への参加と忠実な任務の遂行は、大名としての義務であり、幕府への恭順の意を示す重要な機会であった。
現在も大坂城に残る壮大な石垣には、普請を担当した大名を示す多種多様な刻印が刻まれている。その中には、本多政武の家紋や符号である可能性が指摘される刻印も存在する 28 。もしこれが事実であれば、彼の貢献を今に伝える具体的な物証となる。
政武は、軍事・土木事業だけでなく、宗教的な権威の象徴である高野山金剛峯寺の根本大塔の造営奉行という大任も務めている 1 。史料によれば、この大塔は寛永8年(1631年)に幕府の特命によって再建が始まり、寛永19年(1642年)に落成したとされる 6 。政武は寛永14年(1637年)に死去しているため、彼が担当したのは事業の初期段階であったと考えられるが、幕府にとって極めて重要な宗教施設の再建を任されたという事実は、彼が幕府から厚い信頼を得ていたことを明確に示している。
こうした一連の武功や奉公が、幕府との良好な関係に結実していたことを示す出来事がある。寛永9年(1632年)、二代将軍・徳川秀忠が死去した際、政武はその遺物として銀300枚を拝領しているのである 1 。これは、将軍家から個人的に目をかけられ、その働きが高く評価されていたことの証左に他ならない。本多政武は、武勇だけでなく、行政官僚としても有能であり、幕府の政策を的確に遂行することで、外様大名という立場でありながら、着実に自家の地位を確立していったのである。
本多政武の人物像は、武人や藩主といった側面だけにとどまらない。彼はまた、当代一流の文化人としての素養を兼ね備えていた。特に「囲碁の名人」という評価は、彼の多面的な魅力を示すと同時に、武家社会における教養の重要性を物語っている。
複数の史料において、本多政武は「囲碁の名人であった」と記されている 1 。中でも驚くべきは、彼が家督を相続した慶長15年(1610年)、わずか13歳の時に「囲碁本因坊戦で勝利している」という記録である 1 。
この記録の解釈には慎重を期す必要がある。当時の囲碁界における絶対的な第一人者は、織田信長に「名人」と言わしめ、豊臣秀吉、徳川家康にも仕えた本因坊算砂(日海)であった 29 。算砂は幕府から「碁所」に任じられ、将軍の指南役も務めるなど、他の棋士とは一線を画す権威であった 30 。13歳の少年が、この算砂本人に公式の対局で勝利したとは考えにくい。もしそれが事実であれば、空前絶後の天才棋士として、他の史料にも特筆大書されていたはずである。
この記録の背景として、いくつかの可能性が考えられる。一つは、「本因坊戦」とは算砂本人との対局ではなく、本因坊門下の高弟との手合わせであった可能性。もう一つは、公式の勝敗ではなく、指南碁(指導対局)において政武が善戦し、算砂からお褒めの言葉、すなわち実質的な勝利宣言に等しい評価を得たという逸話が、後世に簡略化されて伝わった可能性である。
いずれにせよ、確かなことは、若き政武が幕府公認の囲碁の家元である本因坊家と交流を持ち、その腕前が「名人」と評されるほど卓越していたという事実である。これは、彼が武辺一辺倒の武将ではなく、高度な知的遊戯を嗜む洗練された文化人であったことを示している。
武家社会、特に泰平の世へと向かう江戸初期において、囲碁や茶の湯、和歌といった教養は、単なる趣味や娯楽ではなかった。それは、自身のステータスを高め、社交の場で他者との関係を円滑にするための重要な「文化資本」であった。将軍家康自身も囲碁を愛好したことから、囲碁は武家上流階級において特に重視される教養であった 33 。本多政武が囲碁に秀でていたことは、彼が単なる地方の外様大名ではなく、将軍や幕閣とも共通の話題で渡り合える洗練された人物であるという評価に繋がったであろう。彼の囲碁の腕前は、武功や奉公とは異なる側面から家の地位を安定させる、一種の「ソフトパワー」として機能していたと推察される。
武功を挙げ、奉公に励み、幕府中枢との姻戚関係を築き、さらには文化的な素養で評価を高める。家の安泰のために考えうるあらゆる努力を積み重ねてきた本多政武と高取本多家であったが、その終焉はあまりにも突然、そして非情な形で訪れた。
寛永14年(1637年)7月13日、本多政武は40歳という働き盛りの若さでこの世を去った 1 。死因に関する具体的な記録は見当たらないが、この予期せぬ早すぎる死が、一族の運命に暗い影を落とすことになる。
政武には、家督を継ぐべき嗣子(男子)がいなかったのである 1 。そして、この一点が、彼のこれまでの全ての功績を無に帰さしめた。高取藩本多家は、藩主死去に際して跡継ぎがいないことを理由とする「無嗣断絶」により、幕府から改易、すなわち領地2万5千石の没収を命じられた 3 。
なぜ、これほどの功績があり、幕府中枢に強力な義父(板倉重宗)まで持つ本多家が、かくもあっさりと取り潰されてしまったのか。その背景には、当時の幕府が敷いていた厳格な大名統制策、とりわけ「末期養子(まつごようし)の禁」の存在があった。
江戸幕府初期、特に三代将軍・家光の治世下では、大名家の安易な存続を許さず、幕府の権威を絶対的なものとするため、大名が死に際に急遽養子を迎えることを原則として厳しく禁じていた 34 。この法度は、幕府にとって大名家を統制し、時には取り潰すための強力な口実となった。実際、福島正則をはじめとする多くの大名家が、些細な法度違反やこの無嗣を理由に改易の憂き目に遭っている 34 。
本多政武のケースは、この「末期養子の禁」が非情に適用された典型例であった。政武個人の輝かしい功績や、義父である板倉重宗の幕閣における政治力をもってしても、この厳格なシステムの前には無力であった。彼の家の断絶は、個人の失敗や不運という側面以上に、徳川幕府の体制固めという大きなシステムの必然的な帰結であったと言える。
高取本多家の改易後、その旧領は3年間の城番支配を経て、寛永17年(1640年)に徳川家譜代の旗本であった植村家政に2万5千石で与えられた 9 。以後、高取藩は譜代大名である植村家の支配の下、幕末まで存続することになる 12 。幕府が、豊臣恩顧の外様大名であった本多家を断絶させた後、その戦略的要衝に信頼できる譜代大名を配置したという事実は、幕府の冷徹な大名配置戦略の一端を物語っている。
本多政武の生涯は、わずか40年という短い期間であったが、その中に武人、藩主、そして文化人としての濃密な輝きが凝縮されている。彼は、豊臣恩顧という出自のハンディキャップを乗り越えるべく、大坂の陣での武勇、天下普請での奉公、そして幕府中枢との姻戚関係という、あらゆる手段を尽くして徳川の世を生き抜こうとした。その努力は、将軍の遺物を拝領するほどの評価を得るまでに結実した。
しかし、彼の奮闘も、嗣子なくして早世するという一個人の不運と、「末期養子の禁」という時代の非情なシステムの前に、ついには潰えた。彼の物語は、個人の才覚や努力だけでは抗うことのできない、歴史の大きなうねりの存在を我々に突きつける。
本多政武の生涯と彼の家の断絶は、戦国の遺風が消え去り、徳川による盤石な支配体制が確立されていく過程で、いかに多くの大名家が興亡を繰り返したかを示す、貴重なケーススタディである。泰平の世の礎の下には、彼のように確かな輝きを放ちながらも、歴史の闇に消えていった無数の星々が存在した。その事実を、本多政武という一人の大名の生き様は、今なお静かに語りかけているのである。