日本の戦国時代、佐渡国は越後の沖合に浮かぶ一島一国として、独自の歴史を歩んでいた。その中心にいたのが、鎌倉時代から約400年にわたり佐渡を支配した本間氏である。本間氏の祖は、相模国(現在の神奈川県)を本貫とする武蔵七党の一つ、横山党の流れを汲むとされる 1 。その一族である本間能久が、承久の乱(1221年)の後、佐渡国の守護となった大佛氏(執権北条氏の支流)の守護代として佐渡に入ったのが、佐渡本間氏の始まりである 2 。
本間氏は、国府に近い雑太(さわた)の地に雑太城(さわだじょう)を築いて本拠とし、そこから島内各地に一族を配して勢力を拡大していった 3 。やがて、主家である大佛氏が衰退すると、守護代であった本間氏は自立し、戦国大名へと成長を遂げる。雑太城を本拠とする惣領家(そうりょうけ)を中心に、河原田、羽茂(はもち)、久知(くじ)、潟上(かたがみ)などに分家が割拠し、島は「本間王国」とも言うべき様相を呈した 2 。彼らは佐渡の事実上の国主として、長きにわたり君臨し続けたのである。
しかし、戦国時代の後期、16世紀も半ばを過ぎると、本間氏の支配体制に大きな揺らぎが生じる。かつて絶対的な権威を誇った雑太の惣領家は次第にその力を失い、代わって河原田本間氏や羽茂本間氏といった有力な分家が台頭し始めた 6 。これらの分家は、それぞれが領地経営に力を注ぎ、独自の勢力を形成して互いに佐渡の覇権を争うようになる 5 。
特に、佐渡南部の羽茂を拠点とする羽茂本間氏は、越後の長尾氏(後の上杉氏)との関係を背景に勢力を伸ばし、佐渡で最も有力な存在の一つとなっていた 8 。一方で、国中平野の西部に位置する河原田城を拠点とする河原田本間氏も、これに拮抗する力を持っていた。惣領家、河原田家、羽茂家による三つ巴の権力闘争は、本間一族の結束を著しく弱体化させた。
本稿の主題である本間憲泰が雑太本間氏の家督を継いだのは、まさにこのような「黄昏の時代」であった。彼が率いたのは、もはや佐渡全土を統べる強固な一族ではなく、内紛によって疲弊し、名目上の権威しか残されていない惣領家だったのである。この佐渡の内部対立こそが、対岸の越後から迫りくる上杉氏という巨大な脅威を呼び込む最大の要因となり、憲泰自身の運命を大きく左右していくことになる。
本間憲泰は、佐渡本間氏の嫡流である雑太本間氏の当主、本間泰高の子として生まれた 9 。父・泰高は天正15年(1587年)に没しており、その跡を継いで憲泰が惣領家の当主となった 2 。彼の官途は「信濃守(しなののかみ)」と伝えられている 9 。また、別名として「高滋(たかしげ)」という名も記録されている 10 。
雑太本間氏の菩提寺は、曹洞宗の寺院である大蓮寺であった 5 。この寺には、父・泰高、そして憲泰自身のものとされる墓が現存しており、法名や没年が記された石塔は、彼の存在を現代に伝える貴重な史跡となっている 2 。この事実は、彼が最終的に故郷である佐渡の地に葬られたことを示しており、その波乱に満ちた生涯を考察する上で重要な意味を持つ。
本間氏が佐渡に入って以来の本拠地は、雑太城であった。ただし、その場所は時代と共に変遷している。初期の本拠は、現在の佐渡市竹田の、より平地に面した微高地に築かれた「檀風城(だんぷうじょう)」、あるいは「新川城(にいかわじょう)」と呼ばれる城館であった 4 。ここは『太平記』に登場する悲劇の舞台としても知られる。元弘の変(1331年)で佐渡に流された公家・日野資朝がこの城で斬首され、その子である阿新丸(くまわかまる)が父の仇を討つために城に忍び込み、本間一族の者を討ち取ったという逸話である 2 。
しかし、この檀風城は防御上の脆弱性があったためか、戦国時代に入ると、西へ約1キロメートル離れた丘陵地帯に新たな城が築かれた 12 。これが、本間憲泰の時代における本拠「雑太城」である 13 。この城は、現在の阿仏房妙宣寺(みょうせんじ)の境内地にあたる 3 。平山城に分類され、周囲には空堀や土塁といった防御施設が巡らされていた。現在でも妙宣寺の境内には、城の遺構が良好な状態で残されており、往時の姿を偲ぶことができる 3 。特に、国の重要文化財である五重塔が建つ曲輪と主郭の間には、明確な堀跡が確認でき、惣領家の本拠としての規模と格式を物語っている 6 。
越後の上杉氏と佐渡本間氏の関係は、上杉謙信の時代までは比較的穏やかなものであった。謙信は佐渡の直接支配には乗り出さず、代わりに鶴子銀山や西三川砂金山といった佐渡の鉱山から産出される金銀を上納させることで、緩やかな従属関係を維持していた 14 。この関係は、上杉氏にとっては軍資金の確保、本間氏にとっては越後の強大な軍事力を背景とした権威の安定という、双方にとって利益のあるものだったと考えられる 14 。
しかし、謙信が没し、その跡を甥の上杉景勝が継ぐと、状況は一変する。折しも中央では豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階を迎えており、景勝も秀吉に臣従していた。秀吉は、自らの権勢を支える財源として、佐渡の金銀に強い関心を示した 15 。景勝にとって、佐渡を完全に掌握し、その富を秀吉に献上することは、豊臣政権下での自らの地位を確固たるものにするための喫緊の課題となったのである。もはや、本間氏による間接的な支配を許容する余地はなく、佐渡の直接支配へと舵が切られた。
天正17年(1589年)6月、上杉景勝はついに佐渡侵攻を開始した。上杉軍は直江兼続を総大将とし、大軍を率いて佐渡へと上陸する 1 。この侵攻を容易にしたのが、本間氏の内部事情であった。上杉軍は、かねてより内通していた沢根城主・本間左馬助高次(さわねじょうしゅ・ほんまさまのすけたかつぐ)の手引きによって、抵抗を受けることなく島への上陸に成功したとされる 16 。
上陸した上杉軍に対し、佐渡の本間一族は結束して当たることができなかった。最も強硬に抵抗したのは、河原田城主の本間佐渡守高統(かわらだじょうしゅ・ほんまさどのかみたかつな)と、羽茂城主の本間対馬守高貞(はもちじょうしゅ・ほんまつしまのかみたかさだ、高茂とも)であった 1 。河原田城では激しい攻防戦が繰り広げられたが、高統とその一族は討死し、城は陥落した 9 。続いて上杉軍は、佐渡平定の最後の拠点となった羽茂城へと殺到する。高貞もまた最後まで抵抗したが、衆寡敵せず、城は落ち、高貞は捕らえられ殺害された 1 。こうして、惣領家を凌ぐほどの勢力を誇った河原田・羽茂の両本間氏は、歴史の舞台から姿を消したのである。
上杉軍による佐渡平定という未曾有の国難に際し、惣領家の当主である本間憲泰は、一体どのような行動を取ったのか。この点をめぐっては、史料によって記述が大きく異なり、彼の生涯における最大の謎となっている。
憲泰とその子・大炊介(おおいのすけ)の動向について、現存する記録は矛盾に満ちている。その錯綜した状況を整理すると、以下の表のようになる。
史料・文献 |
本間憲泰(信濃守)の動向 |
本間大炊介(子)の動向 |
『戦国人名事典』『戦国佐渡国人名辞典』など 9 |
上杉方(樋口兼続勢)に従い、河原田高統勢と戦い戦功を挙げる。 |
(別項にて)河原田高統を支援し、樋口兼続勢と戦い討死。 |
『上杉氏と佐渡』(bungetsu.obunko.com)の記述 20 |
「本間大炊介憲泰」として、雑田城陥落時に自刃したとされる。(名前と官途が混同) |
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『日本の城郭あとあるき』(kojousi.sakura.ne.jp)の記述 13 |
上杉氏に従属したが、城は破却され、越後へ移された。 |
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この表が示すように、一方では憲泰が上杉方に協力して戦功を挙げたとされ、もう一方ではその子・大炊介が反上杉方として戦死したと記録されている。さらに、軍記物などでは憲泰自身が自刃したかのような記述も見られ、情報が著しく混乱していることがわかる。
『戦国人名事典』や『戦国佐渡国人名辞典』といった文献に記された「協力説」は、最も具体的な記述を持つものの一つである 9 。これによれば、憲泰は上杉軍の総大将である樋口兼続(後の直江兼続)の軍勢に加わり、同じ本間一族である河原田高統の軍勢と戦い、戦功を挙げたとされる。
この行動は、当時の憲泰が置かれた立場を考慮すると、極めて現実的な選択であったと解釈できる。前述の通り、雑太惣領家の権威は失墜し、河原田・羽茂といった分家の勢力に圧迫されていた。憲泰にとって、圧倒的な軍事力を有する上杉氏の侵攻は、脅威であると同時に、長年のライバルであった分家勢力を排除し、惣領家としての権威を回復するための千載一遇の好機と映った可能性がある。強大な外部勢力の力を借りて内部の政敵を排除するという手法は、戦国時代の勢力争いにおいて決して珍しいものではない。生き残りをかけた、冷徹な政治判断であったと言えるだろう。
一方で、一部の軍記物やウェブサイトに見られる「雑田城陥落、自刃」という記述は、史実の誤認や混同から生じた可能性が高い 20 。これらの記録では、憲泰の名前と、その子である「大炊介」の官途が混同され、「本間大炊介憲泰」という一人の人物として語られている。しかし、より信頼性の高い人名辞典などでは、憲泰(信濃守)と大炊介は明確に父子として区別されており、討死したのは子の「雑太大炊介」であったとされている 9 。したがって、憲泰が雑太城で自刃したという説は、父子の逸話が入り混じって生まれた後世の創作か、あるいは誤伝であると考えるのが妥当であろう。
ここで最も深く考察すべきは、父・憲泰が上杉方に協力し、子・大炊介が反上杉方として戦死したという、一見して矛盾する記録である 9 。これは単なる史料の混乱として片付けるべきではない。むしろ、この父子の異なる行動こそが、滅亡の淵に立たされた本間惣領家の苦悩と、絶望的な生存戦略を物語っている可能性がある。
戦国時代の弱小勢力が生き残りをかけて用いた戦略の一つに、「両属策(りょうぞくさく)」がある。これは、対立する二つの強大勢力に対し、一族の者をそれぞれに味方させることで、どちらが勝利しても家名を存続させようとする非情な賭けである。憲泰父子の行動は、この両属策の一つの発露と見なすことができるのではないか。
すなわち、当主である父・憲泰は、圧倒的な上杉軍に恭順の意を示すことで、まず「雑太本間氏」という家名の存続を図る。一方で、子の大炊介は、河原田氏など他の本間一族との長年の関係や義理から、反上杉方として戦陣に立つ。もし上杉が勝てば、協力した父・憲泰によって家は安泰となる。万が一、本間一族が奇跡的に上杉軍を撃退できれば、抵抗して戦った子・大炊介が惣領家を継ぐ。これは、どちらに転んでも血脈だけは残そうという、究極の選択であった。この解釈に立てば、父子の行動の矛盾は、一族が分裂し、もはや統一した行動を取ることすら叶わなくなった本間惣領家の、悲劇的な実像を浮き彫りにする。
天正17年(1589年)の佐渡平定後、上杉景勝は速やかに戦後処理に着手した。抵抗した河原田氏、羽茂氏は滅ぼされ、その所領は没収された。そして、惣領家の本拠であった雑太城もまた、その役割を終えることとなる。城は破却され、その跡地は上杉軍の総大将であった直江兼続によって、日蓮宗の寺院・妙宣寺に寄進された 3 。これは、本間氏による支配の象徴を物理的に解体し、佐渡が新たな支配者の下に入ったことを島内外に示す、明確な政治的ジェスチャーであった。
そして、当主であった本間憲泰は、佐渡の所領をすべて没収され、対岸の越後国へと移されることになった 9 。これは、単に敗者を本拠地から引き離すという懲罰的な意味合いだけではない。上杉景勝のような近世大名にとって、旧来の国人領主を解体し、自らの家臣団に直接組み込むことは、領国支配を安定させるための重要な政策であった。憲泰は、鎌倉時代から続く佐渡の領主としての地位を失ったが、同時に「上杉家臣」という新たな身分を得たのである。徹底抗戦の末に一族もろとも滅ぼされた羽茂・河原田の両本間氏とは一線を画すこの処遇は、佐渡攻めにおける彼の「協力」が、上杉方から一定の評価を受けた結果であったことを示唆している。
越後に移った後の憲泰の具体的な動向を示す直接的な史料は乏しい。しかし、彼が仕えた上杉家は、その後も激動の時代を歩むことになる。慶長3年(1598年)、上杉景勝は豊臣秀吉の命により、越後から会津120万石へと移封(国替え)された 7 。さらに、関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601年)には徳川家康によって出羽国米沢30万石へと大減封される 7 。
憲泰がこれらの主家の移転に帯同したかどうかは定かではないが、同じく佐渡から上杉家臣となった潟上氏の例などを見ると 18 、彼もまた上杉家臣団の一員として、主家と運命を共にし、会津、そして米沢へと移り住んだ可能性は高い。今後の研究課題としては、米沢藩の分限帳(家臣名簿)や関連文書の中に、本間信濃守、あるいはその子孫の名が見出せるかどうかの調査が待たれる 25 。故郷を追われ、異郷の地を転々としながら、かつての佐渡国主は上杉家の一家臣として、静かに後半生を送ったのであろう。
本間憲泰がその生涯を閉じたのは、江戸時代に入った元和9年(1623年)のことである 2 。彼の死地がどこであったかは不明だが、注目すべきはその最期である。彼の墓は、遠く離れた米沢の地ではなく、故郷・佐渡にある惣領家の菩提寺・大蓮寺に築かれている 2 。
この事実は、極めて示唆に富んでいる。これは、憲泰自身が生前に故郷への埋葬を強く望んだか、あるいは彼の死後、その子孫(雑太本間氏の嫡流は「中興本間家」として江戸時代も存続したと伝わる 2 )が遺骨を故郷に持ち帰り、先祖代々の墓所に葬ったことを意味する。いずれにせよ、領主としての地位を失い、異郷の地で生涯を終えた武将の魂が、最終的に故郷の土に還ったのである。この事実は、彼の生涯の終わりに、深い哀愁と、自らのルーツである「佐渡本間氏惣領」というアイデンティティへの強い思慕を物語っている。
本間憲泰の生涯を総括すると、彼は、鎌倉時代から続いた名門の終焉という、歴史の大きな転換点に立ち会った悲劇の当主であったと言える。彼が家督を継いだ時点で、本間一族の結束は既に失われ、強大な分家勢力に押される弱体化した惣領家を率いるという、極めて困難な立場に置かれていた。
そのような中で直面した上杉氏による侵攻という未曾有の国難に対し、彼が取ったとされる行動は、一見すると矛盾に満ちている。しかし、それは単なる混乱や裏切りではなく、滅亡を避けるための、極めて現実的かつ冷徹な政治判断の表れであった。父子で敵味方に分かれるという非情な選択さえ厭わなかった可能性は、彼が家名の存続という一点にかけて、あらゆる可能性を模索したことを示している。
彼の決断は、結果として佐渡の支配権を完全に失うことにつながった。しかしその一方で、徹底抗戦の道を選び滅亡した他の分家とは異なり、雑太本間氏の血脈を江戸時代以降も存続させることに成功した。これは、戦国の世を生き抜くという観点から見れば、一つの「勝利」の形であったとも評価できよう。
本間憲泰は、特定の戦で華々しい武功を挙げた英雄ではない。しかし、彼は衰退する一族の運命を一身に背負い、歴史の巨大なうねりの中で、苦渋に満ちた決断を下し続けた。その生涯は、中央の政権再編の波にのまれた地方豪族の末路を象徴しており、佐渡本間氏という一大勢力の終焉をその身をもって体現した、歴史に深く名を刻むべき人物である。