本報告書は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を84年の長寿をもって生き抜き、一族を存続させた近江の国人領主、朽木元綱の生涯を包括的に解明することを目的とします。彼の行動は、しばしば「裏切り」という言葉で単純化されますが、本稿ではその決断の背景にある地政学的要因、一族の歴史的立場、そして彼自身の現実主義的な生存戦略を多角的に分析し、その歴史的評価を再検討します。織田信長の窮地を救い、関ヶ原の戦いでは西軍から東軍へ寝返るなど、歴史の転換点において重要な役割を果たした元綱の生涯を追うことは、天下統一の大きな潮流の陰で、地方の小領主がいかにして存続を図ったかという、戦国時代のもう一つの側面を浮き彫りにするものです。
朽木元綱の行動原理を理解するためには、彼が背負っていた「朽木氏」という家の歴史と、その本拠地「朽木谷」が持つ特異な価値を深く理解することが不可欠です。これらは、彼の決断の根底に流れる思想と戦略の源泉となりました。
朽木氏の出自は、近江国に強大な勢力を誇った宇多源氏佐々木氏に遡ります 1 。鎌倉時代、承久の乱における功績により、佐々木信綱は近江国高島郡朽木荘の地頭職を幕府から与えられました 3 。その後、信綱の曾孫にあたる義綱がこの地を継承し、地名に由来する「朽木」を姓としたのが、朽木氏の始まりです 4 。
朽木氏は、宗家である高島氏や他の分家と共に「高島七党」と称される有力な武士団を形成し、高島郡において確固たる地位を築きました 2 。しかし、朽木氏を特徴づけるのは、単なる地方の国人領主という側面に留まりません。室町時代を通じて、彼らは足利将軍家に直接仕える「奉公衆」としての役割を担い、中央政権と密接な関係を維持しました 6 。
その結びつきの強さは、歴代当主が将軍から偏諱(名前の一字)を授かっている事実からも明らかです。元綱の祖父・稙綱は10代将軍足利義稙から、父・晴綱は12代将軍足利義晴から、そして元綱の弟たちである藤綱と輝孝は13代将軍足利義輝(義藤)から、それぞれ一字を拝領しています 4 。これは、朽木氏が将軍家から特別な信頼を寄せられた側近であったことを示しており、この「将軍家の直臣」という立場は、朽木氏のアイデンティティと誇りの根幹をなす極めて重要な要素でした。この歴史的背景は、近江国内の勢力争いにおいて、朽木氏が六角氏や浅井氏といった周辺大名と一定の距離を保ち、独自の政治的立場を追求する根拠となったのです。彼らの忠誠の対象は、近江の特定の勢力ではなく、常に「天下の公権力」たる室町幕府に向けられていたと考えられます。
朽木氏の本拠地である朽木谷(現在の滋賀県高島市朽木地区)は、その石高以上に、地政学的な価値において特異な重要性を持っていました 11 。この地理的特性こそが、小領主であった朽木氏が戦国の世で大きな影響力を持ち得た最大の要因です。
朽木谷は、安曇川の上中流域に広がる山間の地であり 3 、若狭国の小浜と京の都を最短で結ぶ交通路、いわゆる「鯖街道」が谷を縦断していました 3 。これは、日本海からの海産物や物資が京都へ運ばれる大動脈であると同時に、北国の軍勢が都を目指す際の軍事的な要路でもありました。この「関所」とも言うべき地点を支配することは、経済的にも軍事的にも計り知れない価値を持っていたのです。また、古くから「朽木の杣」として知られる良質な木材の産地であり、その森林資源は京都の寺社仏閣の造営にも用いられるなど、経済基盤の一端を担っていました 3 。
この地理的重要性のゆえに、朽木谷は歴代の権力者から無視できない存在と見なされていました。特に室町時代後期、政争が激化し将軍の権威が揺らぐ中で、朽木谷は「将軍の避難所」という特別な役割を担うことになります。享禄元年(1528年)、管領細川氏との争いに敗れた12代将軍・足利義晴は、朽木稙綱を頼ってこの地に逃れ、3年余りにわたって滞在しました 3 。さらに、三好長慶の台頭によって京を追われた13代将軍・足利義輝(当時は義藤)も、天文22年(1553年)からと、その後の永禄元年(1558年)までの間、断続的に合計5年間も朽木谷に身を寄せ、この地から幕政を執りました 3 。
朽木氏は、岩神館を仮の御所として将軍に提供し、その滞在を支えました 3 。この時、将軍を慰めるために管領・細川高国が作庭したと伝わるのが、現在、興聖寺に残る旧秀隣寺庭園です 3 。小領主の居館が一時的に日本の政治の中心となったこの事実は、朽木氏が持つ政治的価値と、その本拠地である朽木谷の戦略的重要性を何よりも雄弁に物語っています。朽木元綱の生涯における数々の決断は、この土地が持つ「非対称な資産」をいかに活用し、一族の存続を図るかという視点から理解することができます。
父の早すぎる死、そして近江を舞台に繰り広げられる激しい覇権争いという困難な状況下で、若き朽木元綱は一族の舵取りを担うことになります。彼の初期の動向は、後の現実主義的な生存戦略の萌芽を示すものでした。
朽木元綱は天文18年(1549年)に生まれました 20 。しかし、そのわずか1年後の天文19年(1550年)、父である朽木晴綱が、朽木氏の本家筋にあたる高島氏との合戦で討死するという悲劇に見舞われます 8 。このため、元綱はわずか2歳という幼さで家督を継承することになりました。幼少期の元綱を誰が後見したかについて明確な記録は残っていませんが、一族の長老たちの補佐を受けながら、困難な船出を迎えたことは想像に難くありません 20 。
父・晴綱の死は、幕府への忠義を尽くした結果の戦死でした 8 。この出来事は、幼い元綱の心に、理想や名誉だけでは家を守り抜けないという戦国時代の冷厳な現実を深く刻み込んだ可能性があります。父の死という原体験が、後の元綱の、イデオロギーよりも一族の存続を最優先する徹底した現実主義を形成する一因となったと推察されます。
家督相続から間もない天文22年(1553年)、元綱は父の代に引き続き、三好長慶によって京を追われた13代将軍・足利義輝を朽木谷に迎え入れ、庇護しました 3 。数年に及ぶ将軍の滞在は、若き当主であった元綱にとって、中央政局の複雑な力学と、自らが治める朽木谷が持つ政治的な価値を肌で感じる貴重な経験となったはずです。この経験を通じて、彼は自らの家が近江の一国人であると同時に、天下の動向と直結する存在であることを強く認識したことでしょう。
元綱が当主となった頃の近江は、南半国を支配する守護・六角氏と、北半国で急速に台頭した浅井氏が激しい覇権争いを繰り広げる、まさに群雄割拠の時代でした 22 。朽木氏の領地は、地理的に両者の勢力圏の狭間に位置しており、極めて難しい舵取りを要求されました。
永禄9年(1566年)、北近江の浅井長政が高島郡へ軍事侵攻を行うと、元綱はこれに抵抗する術を持たず、人質を差し出してその軍門に降りました 21 。さらに永禄11年(1568年)12月には、浅井久政・長政父子との間で起請文(誓約書)を交わし、形式的な主従関係を結んでいます 21 。しかし、この従属はあくまで武力侵攻に対する一時的な屈服であり、朽木氏が伝統的に抱いてきた「幕府奉公衆」としての意識が揺らいだわけではありませんでした。
その証拠に、同永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を新たな将軍として奉じ、大軍を率いて上洛を果たすと、近江の情勢は一変します。元綱は、この新たな中央権力の出現を機に、即座に浅井氏との関係を清算する決断を下しました。信長に擁立された足利義昭は、元綱に対して朽木荘の本領を安堵する御教書を発しており 11 、元綱はこの時点で信長・義昭体制に帰順したことが明らかです。
この一連の動きは、元綱の行動原理を明確に示しています。彼にとって、近江国内の地域的な勢力関係よりも、京都の中央政権、すなわち「将軍家の正統」との繋がりこそが最優先事項でした。浅井氏への従属は生き残りのための方便であり、より正統な権威(足利義昭)を奉じる信長が現れた以上、そちらに仕えることは、父祖伝来の「幕府中心主義」に則った当然の選択だったのです。
朽木元綱の生涯は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人と深く関わる中で、幾度もの重大な決断を迫られました。それらの決断は、彼の名を歴史に刻むとともに、その評価を複雑なものにしています。
元亀元年(1570年)、朽木元綱は日本の歴史を左右する重大な局面に立たされます。織田信長が越前の朝倉義景討伐の途上、同盟者であったはずの義弟・浅井長政の裏切りに遭い、進退窮まったのです 27 。朝倉・浅井両軍による挟撃の危機に瀕した信長軍にとって、京へ生還するための唯一の道は、元綱が支配する朽木谷を突破する「朽木越え」しか残されていませんでした 27 。
信長の生死は、まさに元綱の判断一つにかかっていました。この時、信長は麾下の将であった松永久秀を交渉役として元綱のもとへ派遣します 21 。軍記物である『朝倉記』には、元綱が当初は信長を討ち取ることを考えたとの記述も見られますが、結果的に久秀の説得を受け入れ、信長の通過を許可しました 33 。そればかりか、元綱は信長一行を手厚くもてなし、自ら道案内を務めて京都までの撤退を助けたと『信長公記』は伝えています 31 。この決断が信長の命を救い、その後の天下統一事業を可能にしたことは間違いありません。
しかし、この「救国の功労者」とも言える元綱に対し、信長の評価は驚くほど低いものでした。信長政権下で元綱は、浅井氏の旧臣であった磯野員昌、その追放後は信長の甥である津田信澄の与力として配属されますが、天正7年(1579年)には何らかの不手際があったのか、代官職を罷免されるという処遇を受けています 2 。
この冷遇の背景には、信長と将軍・足利義昭との関係悪化があったと考えられます。元綱は、信長が奉じて上洛した義昭から本領を安堵された「幕府の臣」であり、その一族は代々将軍家を庇護してきた歴史を持ちます 25 。信長が義昭を追放し、旧来の室町幕府体制を解体して新たな支配体制を築き上げる過程で、義昭と関係の深かった朽木氏は、潜在的な不安要素、すなわち信長の支配体制に組み込みにくい「旧勢力」の象徴と見なされた可能性があります 34 。信長にとって、命の恩人であることよりも、自らの支配体制に対する忠誠度が測りかねる存在であることが、元綱を遠ざける理由となったのでしょう。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が横死すると、元綱は間髪を入れず、その後継者として頭角を現した羽柴(豊臣)秀吉に恭順の意を示します 7 。翌年の賤ヶ岳の戦いにおいても秀吉方に与し、朽木谷の地理的利点を活かして兵糧輸送などの後方支援に徹したと考えられています 20 。
この迅速な対応は功を奏し、信長政権下での不遇とは対照的に、秀吉は元綱を高く評価しました。秀吉は、出自の低い自らの権威を補完するため、朽木氏のような旧来の名家や、その土地に影響力を持つ国人領主を巧みに取り込み、政権の安定化を図りました。元綱は、その実務能力と地政学的な重要性を買われ、伊勢国安濃郡や本領である高島郡内の蔵入地(豊臣家の直轄領)の代官に任じられるなど、重要な役割を担いました 4 。
天正18年(1590年)には豊臣姓を下賜され、文禄4年(1595年)には高島郡内に約9203石の所領を正式に安堵されるなど、その地位は確固たるものとなります 21 。小田原征伐にも参陣しており 21 、文禄・慶長の役においても、詳細は不明ながら豊臣政権下の大名として何らかの軍役を果たしたと考えられます 20 。元綱にとって、自らの家の由緒や能力を正当に評価してくれる秀吉は、仕えやすい主君であり、その政権下で朽木家は安定した時期を迎えました。
豊臣秀吉の死後、天下の趨勢が徳川家康へと傾く中、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発します。この天下分け目の決戦において、朽木元綱は生涯で最も重大な、そして最も議論を呼ぶ決断を下すことになります。
当初、元綱は西軍として参陣しました。その理由としては、本拠地である近江が西軍の勢力圏内にあったこと、そして豊臣政権下で深い恩顧を受け、個人的な関係もあった大谷吉継の指揮下に組み込まれたことが挙げられます 35 。元綱は、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らと共に、西軍の重要拠点である松尾山の麓に布陣しました 37 。
しかしその一方で、元綱は東軍とも密かに通じていました。同じ近江出身の武将である藤堂高虎を通じて、事前に家康方へ内応する密約を交わしていたのです 2 。これは単なる日和見主義ではなく、どちらが勝利しても一族が生き残れるよう、周到に張り巡らされた「保険的戦略」でした。
合戦当日、戦況が膠着する中、松尾山に陣取る小早川秀秋が、徳川家康からの催促の鉄砲を合図に東軍への寝返りを決行します。この動きに呼応し、元綱、脇坂、小川、赤座の四将も一斉に東軍へと寝返り、それまで友軍であった大谷吉継の部隊の側面に襲いかかりました 7 。予期せぬ裏切りにより側面を突かれた大谷隊は壊滅し、これが西軍全体の総崩れの引き金となりました。元綱の寝返りは、関ヶ原の勝敗を決定づける上で極めて重要な一撃となったのです。
この寝返りに対する戦後の処遇については、歴史家の間でも見解が分かれています。
表1:関ヶ原合戦後における朽木元綱の処遇に関する諸説比較 |
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説 |
(A) 減封説 |
内容 |
約2万石の所領から9590石に減封された。 |
主な根拠史料・文献 |
江戸時代に成立した軍記物など 21 。寝返りの表明が遅れたことへの懲罰的措置と解釈。 |
説の妥当性に関する考察 |
2万石という石高は、豊臣政権下で代官として管理していた蔵入地の石高を含んだ数字であり、元綱自身の所領ではない可能性が高い。 |
以上の分析から、元綱の寝返りは衝動的なものではなく、藤堂高虎を介して事前に家康と調整された、計算ずくの行動であった可能性が極めて高いと言えます。それは、戦国末期の小領主が、激動の時代を乗り越え一族を存続させるために下した、冷徹なまでの現実主義的決断でした。
関ヶ原の戦いという最大の危機を乗り越えた朽木元綱は、新たに始まった徳川の世で、一族の永続的な繁栄の礎を築き上げ、その長い生涯を閉じました。
関ヶ原の合戦後、元綱は徳川家康、そして2代将軍・秀忠に仕えました 21 。その所領は9590石であり、1万石以上を領する大名の基準には満たなかったため、身分は旗本とされました。しかし、朽木家は鎌倉時代以来の名家であり、京都防衛の要衝である朽木谷を領するという特殊性を考慮され、大名に準じる格式を持つ「交代寄合」として別格の待遇を受けました 6 。これにより、朽木氏は江戸城への参勤も行い、その家格を保ち続けました。
元和2年(1616年)、家康の死を一つの区切りとしたのか、元綱は剃髪して「牧斎」と号し、隠居の身となります 11 。そして寛永9年(1632年)、故郷である朽木谷において、84歳という戦国武将としては稀に見る長寿を全うして亡くなりました 11 。
その死に際し、元綱は一族の未来を見据えた最後の、そして最も巧みな戦略を実行します。それは、自らの遺領9590石を、長男・宣綱に6470石、次男・友綱に2010石、三男・稙綱に1110石と、三人の息子に分割して相続させるというものでした 11 。この分知は、一つの家に権力と財産を集中させるリスクを避け、複数の家として存続を図る、極めて高度なリスク分散戦略でした。関ヶ原での寝返りという、徳川家から見れば「負い目」となりかねない過去を持つ朽木家にとって、これは家の安泰を確実にするための賢明な策であったと言えます。
元綱の分知戦略は、見事に成功を収めました。
長男・宣綱が継いだ本家は、先祖伝来の地である朽木谷を離れることなく、「谷朽木」と称され、交代寄合の家格を維持したまま幕末維新期まで存続しました 6 。これにより、朽木氏の血脈と伝統は本拠地において守られました。
次男・友綱の家系も「万木朽木」と称し、旗本として存続しました 11 。
そして、特筆すべきは三男・稙綱の家系です。稙綱は3代将軍・徳川家光の側近として出仕し、その才能と忠勤を高く評価されました。彼は若年寄にまで出世し、加増を重ねて大名に列します。最終的にその子孫は、3万2千石を領する丹波福知山藩主となり、廃藩置県まで13代にわたって続きました 6 。
元綱の戦略は、本家が先祖の地を守って家の存続という「リスク管理」を担い、一方で才覚ある分家が幕府の中枢で活躍し、家全体の地位向上という「アップサイドの追求」を目指すという、見事な二正面作戦でした。結果として、近江の一国人に過ぎなかった朽木家は、旗本の本家と大名の分家を擁する名門として、江戸時代を通じて繁栄を享受することになったのです。
元綱の晩年は、徳川秀忠の御咄衆(おはなししゅう)に加えられるなど、幕府からも一定の敬意を払われ、穏やかなものであったと伝えられています 11 。84年にわたる彼の生涯は、日本の歴史が中世から近世へと大きく転換する、まさにその激動の時代そのものを体現するものでした 20 。
元綱の墓は、一族の菩提寺である滋賀県高島市朽木岩瀬の興聖寺にあります 3 。この寺は、かつて彼の祖父や父が将軍・足利義晴や義輝を庇護した岩神館の跡地に建っており 3 、朽木氏と足利将軍家との深い歴史的関係、そしてその歴史の延長線上に生きた元綱の生涯を静かに今に伝えています。
朽木元綱は、単なる「裏切り者」や「日和見主義者」といった一面的な評価では到底捉えきれない、複雑で多面的な人物です。彼の生涯を貫く行動原理は、鎌倉時代から続く「幕府奉公衆」としての家の伝統と、京都近郊の要衝を支配する国人領主としての地政学的な現実との間で、常に一族の生存と繁栄のための最適解を模索し続ける、徹底した現実主義にありました。
彼の決断の根底にあったのは、特定の主君への忠誠心というよりも、自らの一族と、父祖から受け継いだ「朽木」という土地を守り抜くという、より根源的で強固な目的意識でした。金ヶ崎で信長の命を救った決断も、関ヶ原で西軍を裏切った決断も、その時々の「天下の公権力」を見極め、それに順応することで家の存続を図るという、一貫した戦略に基づいていたと解釈できます。
信長に冷遇され、秀吉に重用され、そして家康に内通して関ヶ原の戦いを乗り切った彼の生涯は、中世的な価値観が崩壊し、新たな近世的秩序が形成される戦国乱世の移行期を、一人の小領主がいかにして非凡な知恵と卓越した決断力で生き抜いたかを示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディと言えるでしょう。彼の選択は、結果として朽木家を江戸時代を通じて存続させ、さらには分家を大名にまで押し上げるという輝かしい成果をもたらしました。その意味において、朽木元綱は、自らの家に課せられた使命を完璧に全うした、稀代の戦略家であり、紛れもなく成功した領主であったと結論づけることができます。