本報告書は、江戸時代前期の大名、朽木稙綱(くつき たねつな、慶長10年-万治3年)の生涯と功績を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。父・朽木元綱の戦国期における動向という「遺産」を背景に持ちながらも、稙綱自身が如何にして徳川幕府の中枢で地位を築き、旗本から譜代大名へと家格を上昇させ、後世に続く福知山藩朽木家の「藩祖」となったのか。その過程を、幕政における役割、閨閥戦略、藩主としての治績を通じて詳細に分析する。
本報告書の分析を進めるにあたり、最も重要な留意点は、同姓同名の人物との明確な区別である。本報告書で扱う朽木稙綱は、関ヶ原の戦いで知られる朽木元綱の三男である。一方で、戦国時代に室町幕府の奉公衆として活躍した「朽木稙綱(朽木材秀の子)」は、本報告書の対象人物の祖父の世代にあたる全くの別人である 1 。両者の混同は、朽木家の歴史を理解する上でしばしば混乱を招くため、冒頭でその経歴を比較し、相違点を明確にする。
表1:二人の「朽木稙綱」の比較
項目 |
朽木稙綱(本報告書の対象) |
朽木稙綱(戦国武将) |
生没年 |
慶長10年(1605年)~万治3年(1661年) |
生没年不詳 |
時代 |
江戸時代前期 |
戦国時代 |
父 |
朽木元綱 6 |
朽木材秀 1 |
主君 |
徳川家光、徳川家綱 6 |
足利義晴、足利義輝 4 |
主な役職・功績 |
江戸幕府若年寄、奏者番 6 。下野鹿沼藩主、常陸土浦藩主となり、福知山藩朽木家の藩祖となる 6 。 |
室町幕府の内談衆、御供衆 3 。戦乱を逃れた将軍・足利義晴、義輝親子を朽木谷に保護した 5 。 |
子 |
稙昌(福知山藩2代藩主)、則綱(旗本)など 6 |
晴綱(朽木元綱の父)、藤綱など 1 |
この表が示す通り、両者は活躍した時代も役割も全く異なる。本報告書は、前者の江戸時代前期の大名・朽木稙綱に焦点を絞り、その実像に迫るものである。
朽木稙綱の生涯を理解するためには、まず彼の出自である朽木家が戦国乱世をいかに生き抜き、徳川の世を迎えたかという背景を把握することが不可欠である。
朽木氏は、宇多源氏佐々木氏の一流であり、鎌倉時代に近江国高島郡朽木荘(現在の滋賀県高島市朽木)の地頭職を得たことに始まる名家である 12 。地理的に京都に近く、若狭と京を結ぶ交通の要衝に位置したことから、朽木氏は早くから中央政権と深い関わりを持った 4 。室町時代には足利将軍家に奉公衆として仕え、戦乱の際には将軍・足利義晴や義輝が朽木谷に避難するなど、将軍家から厚い信頼を寄せられていた 4 。この「将軍家を保護した」という由緒は、朽木家の家格を物語る重要な歴史的背景であった。
稙綱の父・元綱(1549年~1632年)は、激動の戦国時代を生き抜いた武将であり、その二つの大きな決断が、江戸時代における朽木家の運命を決定づけた。
第一の決断は、元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の退き口」である。朝倉義景討伐の途上で同盟者であった浅井長政に裏切られ、絶体絶命の窮地に陥った織田信長に対し、元綱は松永久秀らの説得を受け入れ、自領である朽木谷を通過する信長の撤退路(朽木越え)を確保し、これを支援した 16 。この功績により、元綱は信長の信頼を得て、織田政権下でその地位を保全することに成功した。
第二の決断は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける寝返りである。当初、元綱は石田三成に呼応して西軍に属し、大谷吉継の指揮下で中山道を抑える陣を敷いていた 19 。しかし、東軍の藤堂高虎らによる執拗な調略を受け、徳川家康への内応を決意する 16 。本戦の火蓋が切られると、松尾山に布陣していた小早川秀秋の寝返りに呼応し、脇坂安治、小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に転じた。そして、側面から大谷吉継隊に猛攻を加え、西軍の陣形を崩壊させる決定的な一因となったのである 9 。
関ヶ原での功績により、朽木元綱は戦後、徳川家康から本領を安堵された。しかし、その処遇は元綱が期待したものではなかった。戦前の所領であった約2万5千石から、9590石余へと大幅に減封されたのである 14 。この日和見的とも取れる土壇場での寝返りは、家康からの完全な信頼を得るには至らず、むしろ懲罰的な意味合いを含む結果となった。
この減封が、稙綱の人生の出発点を規定することになる。寛永9年(1632年)に元綱が没すると、その遺領9590石は、長男・宣綱が6470石、次男・友綱が2010石、そして三男である稙綱が1110石を分知される形で分割相続された 12 。この結果、1万石に満たない朽木家の本家(宣綱の系統)は、大名の地位を失い、交代寄合という上級旗本の身分に甘んじることとなった 9 。
父・元綱の代の「不完全な功績」は、一族の家格を低下させた。しかし、この逆境こそが、三男であった稙綱に新たな道を切り開かせる要因となった。本家が大名としての地位を失う一方で、将軍の側近として幕府に出仕した稙綱が、後に自らの力で大名へと駆け上がり、本家を凌駕していくという「逆転劇」の幕開けであった。この現象は、江戸初期の幕府権力が、旧来の家柄や長子相続といった伝統的価値観以上に、「将軍個人への忠誠と近さ」を重視したことを示す象徴的な事例と言える。
父・元綱が築いた戦国の遺産は、稙綱にとって栄光と同時に桎梏でもあった。しかし彼は、父とは異なる舞台、すなわち徳川幕府の中枢で、自らの道を切り拓いていく。
元和4年(1618年)、稙綱は14歳で三代将軍となる徳川家光に仕え始めた 5 。父・元綱がまだ存命であり、朽木家が旗本として新たな体制下での存続を図る中、三男である稙綱の幕府への出仕は、一族の将来を左右する重要な一手であった。
稙綱は、着実に将軍側近としての地位を固めていく。寛永8年(1631年)には小姓組番頭に、同10年(1633年)には書院番頭に任命された 6 。これらはいずれも将軍を間近で警護し、その身辺に仕える極めて重要な役職であり、就任には将軍からの深い信頼が不可欠であった。この経歴は、稙綱が勤勉実直に務めを果たし、若き将軍・家光の厚い信任を得ていたことを明確に示している。
稙綱のキャリアにおける最初の頂点は、寛永12年(1635年)に訪れる。この年、彼は若年寄(当時は「六人衆」と呼称)に抜擢された 6 。若年寄は、幕政の最高意思決定機関である老中に次ぐ重職であり、その職務は全国の旗本・御家人の統括、将軍家の家政、江戸城内の諸役人の監督など、多岐にわたった 24 。
老中が諸大名や朝廷との関係といった幕府の対外的な「国政」を担ったのに対し、若年寄は将軍直属の武力・行政組織を掌握する、いわば徳川家の「内政」を担う心臓部であった。この職に就いたことで、稙綱は自らの兄たちが属する「旗本」全体を管理・統制する立場に立った。これは、朽木家内部の序列が公の場で完全に逆転したことを意味し、大名への道を開く決定的な一歩となった。
稙綱の栄達は、徳川家光が確立した側近政治の典型例と言える。家光は、父祖以来の譜代大名だけでなく、自らが近習として見出し、抜擢した人物を幕閣の中枢に据えることで、将軍親政体制を強化し、幕府の権力基盤を盤石なものとした。稙綱は、父の代からの家柄というよりも、自身の能力と家光個人への忠誠心によって引き上げられた、まさに「家光政権の申し子」であった。彼の栄進の軌跡は、家光の治世における人事政策と権力構造を理解する上で、格好の事例を提供している。
稙綱の目覚ましい出世の背景には、個人の能力や将軍の信任に加え、極めて戦略的な二つの婚姻関係、すなわち「閨閥」の力が大きく作用していた。江戸初期の武家社会において、婚姻は単なる家と家の結びつきに留まらず、政治的地位を左右する重要な要素だったのである。
稙綱の最初の正室は、稲葉正成の娘であった 6 。この縁組の持つ政治的価値は計り知れない。稲葉正成の継室こそ、三代将軍・家光の乳母として大奥に君臨し、幕政に絶大な影響力を行使した春日局(斎藤利三の娘)だったのである 29 。これにより、稙綱は春日局の義理の息子という、将軍家の中枢に直結する極めて有利な立場を手に入れた。家光の幼少期から最も身近に仕えた春日局との関係は、将軍の「内廷」における最も強力なパイプであり、幕政の中枢への道を切り開く上で、他の何物にも代えがたい後ろ盾となったことは想像に難くない。
正室の死後、稙綱は継室として長寿院を迎える。彼女は上野国高崎藩主であった安藤重長の養女であり、実父は旗本の志水忠宗であった 6 。安藤重長は、寺社奉行などの要職を歴任した幕府の重鎮であり、譜代大名の中でも有力な存在であった 32 。この縁組は、稙綱を既存の有力譜代大名のネットワークに深く組み込み、幕閣内での彼の地位をより一層盤石なものにした。
これら二つの戦略的な婚姻は、稙綱の栄進を強力に後押しした。春日局との関係が将軍家への直接的な影響力をもたらし、安藤家との関係が幕閣内での安定した地位を保障した。稙綱の生涯は、江戸初期の武家社会において、個人の能力や忠誠心と同様に、あるいはそれ以上に「閨閥」が政治的成功の鍵であったことを如実に物語っている。それは、徳川の治世が単なる武断政治から、複雑な人間関係と姻戚関係によって支えられる、より洗練された統治体制へと移行していく過渡期の様相を映し出す、貴重なケーススタディなのである。
将軍側近としての信頼と強力な閨閥を背景に、朽木稙綱は旗本の三男という立場から、着実に大名への道を歩んでいく。
稙綱のキャリアは、父・元綱の遺領分知による1110石と、将軍家光からの加増による3000石、合計4110石の旗本として本格的に始まった 23 。若年寄就任の翌年である寛永13年(1636年)、彼は加増を受けてついに1万石の大名となり、兄の宗家とは別に、近江国に自らの藩(朽木藩)を立藩した 6 。
彼の栄進はここで留まらなかった。寛永16年(1639年)には1万石を加増され2万石に、正保4年(1647年)にはさらに5千石を加増され、下野国鹿沼藩2万5千石の藩主へと栄転する 6 。そして慶安2年(1649年)、若年寄を辞すると同時に5千石を加増され、合計3万石をもって常陸国土浦藩へ転封となり、後に丹波福知山へと続く朽木家の初代藩主となった 5 。この一連の経歴は、将軍家光からの信頼がいかに厚かったかを物語っている。
表2:朽木稙綱の経歴と石高の変遷
年代(西暦・和暦) |
役職 |
石高 |
藩 |
1618年(元和4年) |
徳川家光に出仕 |
- |
- |
1631年(寛永8年) |
小姓組番頭 |
3,000石(加増後) |
旗本 |
1632年(寛永9年) |
父の遺領を分知 |
4,110石 |
旗本 |
1635年(寛永12年) |
若年寄 |
4,110石 |
旗本 |
1636年(寛永13年) |
(若年寄在任) |
10,000石 |
近江朽木藩主 |
1639年(寛永16年) |
(若年寄在任) |
20,000石 |
(加増) |
1647年(正保4年) |
(若年寄在任) |
25,000石 |
下野鹿沼藩主 |
1649年(慶安2年) |
若年寄を免ぜられる |
30,000石 |
常陸土浦藩主 |
1652年(承応元年) |
奏者番 |
30,000石 |
常陸土浦藩主 |
慶安2年(1649年)から万治3年(1661年)に没するまでの約12年間、稙綱は土浦藩主として領国経営にあたった。彼の治績として特筆すべきは、城郭の整備と領内支配の基礎固めである。
城郭整備
最大の功績は、明暦2年(1656年)に行った土浦城の本丸櫓門の改築である 37。彼は本丸の楼門を、瓦葺入母屋造りの堅固な櫓門へと改築した。この門は二階に時刻を知らせるための大太鼓が置かれたことから「太鼓櫓」とも呼ばれ、城下の象徴となった 37。この櫓門は、江戸時代前期の城郭建築の遺構として関東地方に唯一現存するものであり、歴史的価値が極めて高い 37。この事業は、藩主としての権威を示し、藩の政治的中心地としての城の威容を整える重要なものであった。
領内経営
稙綱は、藩の財政基盤を固めるため、慶安3年(1650年)に領内の一部で検地を実施した記録が残っている 43。これは、領地の生産力を正確に把握し、年貢徴収の基礎を確立するための、藩政の根幹をなす施策であった。
一方で、収集された資料からは、稙綱が大規模な治水事業や新田開発に着手したという具体的な記述は見当たらない。これは彼の怠慢を示すものではなく、その立場を反映した結果と考えられる。稙綱は若年寄や奏者番といった幕府の要職を歴任し、江戸に常駐する「定府大名」であったため、その活動の中心は江戸の幕政にあった。そのため、国元である土浦での藩政においては、長期的な視点を要する大規模開発よりも、城郭の整備や検地の実施といった、領国支配の根幹を早急に固める事業を優先したと推察される。彼の治世は、後任の土屋数直らによる本格的な開発への道筋をつける、土浦藩の基礎固めの時代であったと位置づけられる。
朽木稙綱の人物像は、断片的な記録や逸話から垣間見ることができる。それらは、彼が単なる幸運な出世頭ではなく、幕府の重臣として確固たる信頼を得ていたことを示唆している。
稙綱の幕閣における重要性を示す逸話として、キリシタンの詮議(尋問)への列席が挙げられる。寛永16年(1639年)頃、幕府によって捕らえられたキリシタンの司祭に対する尋問が行われた際、稙綱は、高名な禅僧であり将軍の師でもあった沢庵宗彭、そして剣術指南役で大目付の柳生宗矩といった幕府首脳と共に、その場に列席している 45 。この事実は、稙綱が単なる将軍の側近に留まらず、幕府の根幹に関わる宗教政策や思想統制といった機微に触れる重要案件に、陪席を許されるほどの信頼を得ていたことを物語る貴重な証言である。
慶安2年(1649年)2月19日、稙綱は若年寄の職を免ぜられた 6 。この罷免の理由は史料からは明らかではないが、懲罰的な意味合いではなかった可能性が高い。なぜなら、罷免と同日に土浦3万石への加増転封という栄典が与えられているからである。これは、将軍家光の治世末期から四代将軍・家綱の治世初期にかけて行われた幕閣内の人事再編の一環であり、稙綱の役割が変化したことを示すものと考えられる。事実、彼はその3年後の承応元年(1652年)には、大名の殿中儀礼などを司る奏者番に任じられており、幕政の中枢から完全に排除されたわけではなかった 5 。
稙綱の死後、その墓所や菩提寺に関する情報は複数の場所に点在しており、近世大名の死生観や家のあり方を考察する上で興味深い。
これらの情報から、近世大名家が、一族の永続性を祈念する全国的な聖地(高野山)、幕府への奉公の拠点であり政治的ステータスを示す場(江戸の菩提寺)、そして領民との結びつきを示す場(国元の菩提寺)として、複数の寺院と複合的な関係を築いていたことがわかる。
朽木稙綱の最大の功績は、単に一代で出世を遂げたこと以上に、幕末まで続く譜代大名家の確固たる礎を築いたことにある。彼は、丹波福知山藩朽木家の「藩祖」として、後世に大きな影響を残した。
万治3年(1660年)に稙綱が56歳で死去すると、その家督は長男の稙昌(たねまさ)が継いだ 6 。稙昌は父の遺志を継ぎ、寛文7年(1667年)に奏者番に任じられるなど、幕府への忠勤に励んだ 11 。そして寛文9年(1669年)、稙昌は2千石の加増を受け、合計3万2千石で丹波国福知山藩へと移封された 8 。
これにより、稙綱が創始した大名家は、福知山の地に根を下ろし、以後13代、約200年間にわたって同地を治め、明治維新に至るまで譜代大名家として存続したのである 9 。旗本に甘んじた本家とは対照的に、稙綱の血筋は安定した大名家として家名を後世に伝えた。
稙綱は、福知山藩朽木家代々の当主から「藩祖」として深く崇敬された 55 。その敬意の象徴が、福知山城内に鎮座する「朝暉(あさひ)神社」である。この神社は、文政7年(1824年)、11代藩主・朽木綱條(つなえだ)が、藩祖である稙綱の霊を祀るために、城南の地に創建したことに始まる 35 。後に神社は福知山城の本丸跡に移され、現在も城の鎮守として大切に祀られている。祭神としての稙綱には「豊盤命(とよいわのみこと)」という神号が与えられている 55 。
稙綱が築いた安定した藩経営の基盤は、後代に優れた文化人が輩出される土壌ともなった。その代表格が、8代藩主・朽木昌綱(まさつな、1750年~1802年)である。昌綱は、大槻玄沢や杉田玄白ら当代一流の蘭学者と交流し、自らも西洋の知識に深く通じた「蘭癖大名」としてその名を馳せた 59 。彼は、当時最も権威ある世界地理書と評された『泰西輿地図説』や、日本で初めて西洋の古銭を紹介した『西洋銭譜』といった画期的な著作を刊行し、日本の洋学研究に大きな足跡を残した 8 。稙綱が確立した大名家としての安定がなければ、このような学術的・文化的な活動は困難であっただろう。
朽木稙綱とその一族に関する歴史は、今なお多くの史料によって辿ることができる。江戸幕府が編纂した公式の系譜集である『寛政重修諸家譜』にはその詳細な家系が記録されている 23 。また、国立公文書館には鎌倉時代から続く『朽木家古文書』が所蔵され、国の重要文化財に指定されている 64 。さらに、福知山市には藩政時代の記録である『丹波国福知山藩朽木家文書』が伝わっており、これらの史料は、稙綱とその一族に関するさらなる詳細な研究の可能性を秘めている 54 。
朽木稙綱の生涯を総括すると、彼は戦国武将の父・元綱が残した「関ヶ原での寝返り」という功罪両面を持つ政治的遺産を巧みに乗りこなし、自らは三代将軍・徳川家光の忠実な側近官僚として新たなキャリアを切り開いた人物であった。彼の成功は、個人的な才覚や勤勉さに加え、将軍乳母・春日局や有力譜代大名との閨閥を最大限に活用した、極めて戦略的なものであったと言える。
稙綱の歴史的評価は、戦国武将のような派手な武功によってではなく、幕府官僚としての堅実な務め、藩主としての安定した統治、そして巧みな政略によって、旗本に甘んじた本家を尻目に自らの家系を大名へと押し上げた点にある。その生涯は、もはや武力のみに依存しない、新たな時代の出世の形を体現している。彼は、戦国の遺風から脱却し、幕藩体制という新たな秩序の中で、忠誠と実務能力、そして政治的バランス感覚を武器に家名を高めた。まさしく、徳川の治世が安定期に入ったことを象徴する、近世における「譜代大名」の理想的な典型の一人として、高く評価されるべき人物である。彼が築いた礎の上に、福知山藩朽木家は二百年の長きにわたり存続し、文化の華を咲かせたのである。