美濃の国人領主・東常慶は、古今伝授の家系に生まれ、武力と文化を兼ね備えた人物。斎藤道三の台頭や朝倉氏の侵攻に抗うも、家臣遠藤氏の裏切りにより滅亡。
戦国時代の美濃国にその名を刻む東常慶(とう つねよし)は、単なる一地方の領主として片付けることのできない、時代の矛盾と相克を体現した人物である。郡上東氏第11代当主として、約300年にわたり郡上地方を治めた名門の血を受け継いだ常慶の生涯(生年不詳 - 1559年)は、奇しくも「美濃の蝮」と恐れられた斎藤道三が下克上によって国を盗る過程と完全に重なる 1 。彼は、歌道の至宝「古今伝授」を継承する文化的な権威と、国人衆を率いて軍馬や鉄砲の取引にも関与したとされる武将としての側面を併せ持つ、複雑な人物であった 4 。
本報告書は、東常慶の生涯を、その出自である名門東氏の遺産から、領主としての具体的な統治、そして一族の悲劇的な末路に至るまでを多角的に検証し、その実像に迫るものである。常慶の物語は、世襲的権威が実力主義の前にいかに脆く、文化的威信が武力によっていかに覆されるかという、戦国時代の中核をなすテーマを映し出す。彼の栄光と没落は、斎藤道三という巨大な存在の影で、自らの領国を守るために外部勢力(越前朝倉氏)と戦い、内部の裏切り(家臣遠藤氏)によって滅び去った地方権力の典型的な悲劇であり、戦国史のミクロコスモスとして、深い洞察を与えてくれる。彼の統治は、旧来の守護・国人階級が直面した権力構造の崩壊という、16世紀日本の根源的な変化を理解する上で、極めて重要な事例と言えよう。
第1表:東常慶 関連略年表
年代(和暦) |
出来事 |
主要人物 |
典拠・意義 |
承久3 (1221) |
承久の乱の功により、東胤行が美濃国山田庄の地頭職を得る。郡上東氏の始まり。 |
東胤行 |
7 |
文明3 (1471) |
東常縁が連歌師・宗祇に「古今伝授」を行う。東氏の文化的権威が最高潮に達する。 |
東常縁、宗祇 |
5 |
不明(15世紀末頃) |
東常慶、東常和の子として誕生。家督継承前は「野田左近太夫」を名乗る。 |
東常慶、東常和 |
1 |
天文9 (1540) |
8月、越前朝倉孝景の侵攻を受ける。9月、篠脇城にてこれを撃退するも城は多大な損害を被る。 |
東常慶、朝倉孝景 |
5 |
天文9 (1540) |
和田五郎左衛門を篠脇城に誘い出し、遠藤盛数・胤縁兄弟に暗殺させ、和田氏を滅ぼす。 |
東常慶、遠藤盛数 |
10 |
天文10 (1541) |
阿千葉城主・鷲見貞保を討伐し、自害に追い込む。郡上北部の鷲見氏を滅ぼす。 |
東常慶、鷲見貞保 |
10 |
天文10 (1541) |
篠脇城を放棄し、新たに東殿山城(赤谷山城)を築城。郡上の防衛拠点を移す。 |
東常慶 |
10 |
天文18 (1549) |
嫡男・常堯が飛騨の帰雲城主・内ヶ島氏の娘と婚姻。飛騨との同盟関係を構築。 |
東常堯、内ヶ島氏理 |
12 |
天文21 (1552) |
斎藤道三が美濃守護・土岐頼芸を追放し、美濃国主となる。 |
斎藤道三、土岐頼芸 |
13 |
永禄2 (1559) |
8月1日、嫡男・常堯が遠藤胤縁を鉄砲で暗殺。これが東氏滅亡の引き金となる。 |
東常堯、遠藤胤縁 |
6 |
永禄2 (1559) |
8月24日、遠藤盛数との赤谷山の合戦に敗北。東常慶は戦死し、郡上東氏は滅亡する。 |
東常慶、遠藤盛数 |
1 |
天正13 (1585) |
11月29日、天正大地震により帰雲城が山津波で埋没。逃亡していた東常堯も死亡し、東氏の嫡流は断絶。 |
東常堯 |
16 |
東常慶が背負った遺産を理解するためには、まず彼の一族、郡上東氏の出自と権威の源泉を解き明かす必要がある。東氏は、鎌倉幕府創設の功臣である千葉介常胤の六男、東六郎大夫胤頼を始祖とする桓武平氏の名門である 18 。胤頼は下総国東庄(現在の千葉県東庄町)を領したことから「東」を姓とし、その読みは「ひがし」ではなく「とう」と称された 5 。彼は武勇のみならず和歌などの文芸にも通じ、父・常胤の官位を超える従五位下に叙せられるなど、早くから文化的素養の高い一族としての性格を帯びていた 8 。
この東国武士団が美濃国に根を下ろす契機となったのが、承久3年(1221年)の承久の乱である。三代当主・東胤行が幕府方として戦功を挙げ、その恩賞として美濃国郡上郡山田庄の地頭職を与えられた 7 。これは、鎌倉幕府が西国の支配を固めるために、信頼の厚い東国御家人を戦略的に配置した典型例であり、東氏はこれ以降、下総の本領と美濃の二つに拠点を有することとなる。郡上においては、篠脇城を拠点とし、約300年にわたる支配体制を築き上げた 8 。
胤頼の子・重胤は将軍・源実朝の近習として和歌の才能を認められ、さらにその子・胤行も藤原定家の子・為家の門で歌を学ぶなど、東氏は代々武門の誉れと歌道の家柄という二つのアイデンティティを両立させてきた 5 。この文武両道の伝統こそが、東氏を単なる地方豪族の域を超えた存在たらしめ、後の文化的権威の礎となったのである。
郡上東氏の名声を決定的なものにしたのが、常慶の祖父にあたる東常縁(とう つねより)の存在である。室町時代中期、応仁の乱で京の都が荒廃し、公家社会がその機能を失う中、常縁は歌人として当代随一の名声を得ていた。彼は、勅撰和歌集『古今和歌集』の解釈の秘伝である「古今伝授」を継承する唯一の人物と見なされていた 8 。
その文化的権威を象徴する出来事が、文明3年(1471年)に起こる。当代きっての連歌師であった飯尾宗祇が、古今伝授を求めてはるばる美濃の篠脇城に常縁を訪ねたのである 5 。戦乱の京を離れ、地方の武将に教えを乞うというこの逸話は、当時の東氏がいかに中央の文化人から尊敬を集めていたかを示している。常縁が宗祇を見送った際に歌を詠んだとされる泉は、現在「宗祇水(そうぎすい)」として国の名勝に指定されており、この歴史的な出会いを今に伝えている 5 。
この古今伝授は、単なる文学的行為にとどまらない。それは東氏に、武力や経済力とは質の異なる、極めて高度な政治的・戦略的価値をもたらした。古今伝授の宗家であるという事実は、東氏を京都の朝廷や幕府、さらには他の守護大名との関係において、特別な地位に押し上げた。常慶にとって、この祖父の威光は、一族の誇りの源泉であると同時に、戦国の荒波を乗り越えるにはあまりにも重い遺産であった。彼の治世において、この文化的権威が、勃興しつつあった実力主義の論理といかに衝突し、あるいは利用されようとしたのかを考察することは、常慶という人物を理解する上で不可欠である。彼は、歌道の家の当主として、そして乱世の武将として、二つの顔を持つことを宿命づけられていたのである。
東常慶は、古今伝授の家の優雅な後継者というイメージとは裏腹に、その治世の始まりにおいて極めて冷徹な戦国領主としての一面を見せている。家督を継ぐ以前、彼は父・常和や祖父・常縁と同様に、一門の野田氏を継いで「野田左近太夫」と称していた 1 。これは東氏一族内での計画的な後継者育成システムが存在したことを示唆している。
郡上全体の支配者となった常慶は、自らの権力を絶対的なものにするため、領内の潜在的な対抗勢力の排除に乗り出す。その最初の標的となったのが、小多良郷を拠点に勢力を伸ばしていた和田氏であった。天文9年(1540年)、常慶は和田五郎左衛門の台頭を危険視し、外戚であり家臣であった遠藤胤縁(たねちか)・盛数(もりかず)兄弟と共謀する 10 。彼は「篠脇城修理の相談」と偽って五郎左衛門を城に誘い出し、待ち構えていた遠藤兄弟の手によって暗殺させた。そして、和田一族が報復の軍議を整える間もなく、その本拠を急襲し、一族を根絶やしにしたのである 10 。
翌天文10年(1541年)には、郡上北部に古くから勢力を持っていた阿千葉城主・鷲見貞保が常慶の命令に背いたとして、討伐軍を起こす。抵抗も虚しく、貞保は自害に追い込まれ、鷲見氏もまた歴史から姿を消した 10 。
これらの行動は、常慶が単なる伝統的権威に安住するのではなく、謀略と武力を用いて領国一円支配を確立しようとした、典型的な戦国期の領主であったことを明確に示している。しかし、この権力構築の過程には、後の悲劇につながる構造的な問題が内包されていた。常慶は、自らの手足として遠藤氏を重用し、敵対勢力の排除という「汚れ仕事」を彼らに担わせた。これにより、常慶は郡上における絶対的な支配者となったが、その一方で、遠藤氏に軍事的な経験と功績、そしてそれに伴う発言力を与えることになった。自らの権力を固めるために振るった剣が、皮肉にも自らを滅ぼす刃を研ぎ澄ませていたのである。この力関係の歪みこそが、東氏滅亡の遠因となった。
常慶の治世は、内部の権力闘争のみならず、隣国からの侵略という外部の脅威にも晒されていた。特に、北に隣接する越前国の雄・朝倉氏との攻防は、彼の軍事指揮官としての能力を試す試練であった。
天文9年(1540年)8月、朝倉孝景の軍勢が郡上領内に侵攻した 10 。この時、常慶の娘婿であった石徹白源三郎が朝倉軍に道案内を強要されたが、彼は密かに弟を使者として常慶に急報させた。家臣の遠藤兄弟の進言を受け入れた常慶は決戦を決意し、居城である篠脇城に籠城する。9月3日、攻め寄せる朝倉軍に対し、常慶は城の急峻な地形を利用して巨大な岩石を放射状の竪堀から投下するという奇策でこれを撃退した 5 。この戦術は見事に成功したが、自らの城にも著しい損害を与えるという、まさに諸刃の剣であった。
翌天文10年(1541年)、城の修復もままならない中、朝倉軍が再び侵攻の気配を見せる。この危機に際し、常慶は軍事力だけでなく、宗教勢力の動員という手段を講じた。彼は大島(現在の郡上市白鳥町)の安養寺に救援を要請し、寺は1000人もの武装した信徒を動員。彼らは美濃・越前の国境である油坂峠に布陣し、常慶自身の軍が直接交戦することなく、朝倉軍の侵攻を阻止することに成功した 10 。
二度にわたる朝倉氏の侵攻を退けた経験は、常慶に郡上の防衛戦略を根本から見直させる契機となった。彼は篠脇城が防衛拠点として不十分かつ脆弱であると判断し、これを放棄。同天文10年、より戦略的に優位な赤谷山に新たな拠点として東殿山城(とうどのやまじょう)を築城し、嫡男の常堯にその守備を任せた 10 。この一連の対応は、常慶が状況に応じて柔軟な戦略を立て、軍事、外交、築城術を駆使して領国を防衛する、有能な戦国領主であったことを物語っている。
常慶が郡上において内外の敵と戦っていた頃、美濃の中心部では歴史的な大変動が進行していた。斎藤道三が主家である土岐氏を乗っ取り、下克上によって美濃国主の座に上り詰めたのである 2 。天文21年(1552年)に守護・土岐頼芸を追放し、道三が名実ともに美濃の支配者となった時 13 、郡上という辺境に位置する常慶は、この「蝮」といかに向き合うかという極めて難しい舵取りを迫られた。
現存する史料からは、常慶が道三の直接的な家臣となったことを示す証拠は見当たらない。彼は道三の権力基盤である稲葉山城(後の岐阜城)から地理的に離れた郡上において、独立した国人領主としての地位を維持しようと努めたと考えられる。しかし、完全に無視することは不可能であり、常慶は婚姻政策を通じて道三との関係を巧みに調整していた。
その鍵となるのが、常慶の娘の存在である。彼女はまず、常慶の有力家臣である遠藤盛数の正室となった 15 。そして、盛数が常慶を滅ぼして郡上の新たな支配者となった後、彼女は斎藤家の重臣である長井道利の正室として嫁いでいる 10 。長井道利は道三の腹心であり、この再婚は単なる個人の縁組ではない。
この一連の流れは、戦国時代の政略結婚の冷徹な実態を浮き彫りにする。遠藤盛数が主君を討って郡上を奪取した後、その支配を正当化し、美濃国主である斎藤氏の承認を得る必要があった。斎藤氏(道三、あるいはその息子の義龍)の側からすれば、郡上を確実に支配下に置くため、信頼できる家臣(長井道利)と現地の新支配者(遠藤盛数)を姻戚関係で結びつけることは極めて有効な手段であった。常慶の娘を長井道利に嫁がせることで、旧領主・東氏の伝統的権威を象徴的に継承し、遠藤氏による新体制を斎藤氏が公認するという、二重の政治的効果を狙ったものと考えられる。常慶は死してなお、その血筋が勝者たちの権力安定のための道具として利用されたのである。これは、彼が最後まで斎藤道三の直接支配を免れようと抗った結果の、皮肉な結末であった。
東常慶が、朝倉氏の侵攻を退け、斎藤道三の圧力をかわしながら独立を保ち、さらには新城の築城といった大事業を成し遂げ得た背景には、彼の領国経営手腕と、それを支える強固な経済基盤があったと推察される。山間地である郡上では、年貢米による収入には限界があったはずであり、常慶は多様な財源を確保していたと考えられる。
ユーザーの指摘にもある鉄砲については、永禄2年(1559年)の遠藤胤縁暗殺事件で実際に使用されており、この時点で郡上にもたらされていたことは確実である 6 。美濃国は刀剣の産地として名高い関の鍛冶集団を擁し、高度な金属加工技術の土壌があった 25 。1543年の鉄砲伝来以降、堺や根来、国友などで生産が本格化すると、交易路を通じて各地に拡散した 27 。美濃・越前・飛騨を結ぶ交通の要衝に位置する郡上は、この新たな兵器の流通に関与し、利益を得ていた可能性が高い。
また、軍馬の取引も重要な収入源であっただろう。郡上は、戦国武将に高く評価された木曽馬の産地である木曽地域と地理的に近く、その交易を管理・課税することで富を蓄積したと考えられる 29 。
さらに注目すべきは、隣接する飛騨国との関係である。常慶は嫡男・常堯を、飛騨の帰雲城主・内ヶ島氏の娘と結婚させている 12 。内ヶ島氏は領内の金山・銀山経営によって莫大な富を築いたことで知られており 17 、この婚姻同盟は、単なる軍事的な結びつきだけでなく、鉱物資源の交易や利益の分配といった経済的な目的を伴っていた可能性が極めて高い。
これらの状況証拠は、常慶が単なる封建領主ではなく、交易路と天然資源を掌握する戦略的な経済活動家であったことを示唆している。彼の政治的・軍事的な自立は、こうした多様な経済ポートフォリオによって財政的に裏付けられていたのである。斎藤道三が楽市楽座によって城下町を発展させたように 32 、常慶もまた、自らのやり方で領国の富国強兵を実践していたと言えよう。
祖父・常縁の威光や、自身の苛烈な武将としての一面が強調されがちだが、東常慶は名門の当主として、文化的な活動も疎かにしなかった。彼は、武人であると同時に、歌道や宗教を重んじる教養人でもあった。
その文化的な側面をうかがわせるのが、同族の歌人・東素山との交流である。『東素山消息』という書簡集から、常慶が素山と和歌を通じたやり取りをしていたことが確認されている 4 。これは、彼が個人的にも和歌の嗜みを持っていたこと、そして一族の文化的ネットワークを維持していたことを示している。
また、常慶は領内の宗教的権威者としても振る舞っていた。現存する『東常慶安堵状』という古文書には、彼が明光房という宗教施設に対して、その所領や諸権利を保障する旨が記されている 4 。文書には常慶自身の花押(署名)が記されており、彼が領内の寺社や宗教者に対して、法的・経済的な保護を与えるパトロンとしての役割を果たしていたことがわかる。東一族は、藤原俊成の女の筆と伝わる『古今和歌集』の写本を所有し、それを寺社に寄進するなど、代々文化遺産の保護者でもあった 4 。
このような文化的活動は、単なる趣味や教養の披露にとどまらない。それは領民の信仰心を集め、地域の秩序を安定させ、そして何よりも「古今伝授の家」としての東氏の権威を内外に示すための、重要な統治行為の一環であった。常慶は、剣と筆、武力と文化という二つの要素を巧みに使い分けることで、乱世における自らの支配を正当化し、強化しようとしていたのである。
東常慶が築き上げた郡上支配は、外部からの脅威ではなく、内部の亀裂によって崩壊した。その中心にいたのが、嫡男の東七郎常堯(とう しちろう つねたか)であった 8 。
常慶の治世において、家臣である遠藤氏は和田氏や鷲見氏の討伐で功を挙げ、主君の右腕として着実にその影響力を増大させていた 6 。この遠藤氏の台頭は、次期当主である常堯にとって、自らの地位を脅かす潜在的な脅威と映った。史料は、常堯が遠藤氏の勢威を快く思わず、嫉妬と警戒心を募らせていたことを示唆している 6 。これは、有能で主君の信頼が厚い家臣と、それを疎む後継者との間に生じる、封建社会における典型的な権力闘争の構図であった。父・常慶が築いた権力構造そのものが、息子・常堯の猜疑心を生み、一族を破滅へと導く時限爆弾となっていたのである。
常堯の遠藤氏に対する不信感は、永禄2年(1559年)8月1日、ついに最悪の形で爆発する。この日、常堯は遠藤盛数の兄である遠藤胤縁を、八朔の祝いを口実に東殿山城へと招き寄せた 6 。
そして、登城してきた胤縁を、家臣の長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺するという暴挙に出たのである 6 。正々堂々とした合戦や決闘ではなく、祝宴にかこつけた騙し討ち、それも当時最新鋭の兵器である鉄砲を用いた暗殺という手段は、武士の道義にもとる「悪逆非道」な行為と見なされた 34 。この一発の銃声が、郡上東氏三百年余の歴史に終止符を打つ、破局への引き金となった。常堯のこの短慮な行動は、父・常慶が長年かけて築き上げてきた領内の微妙なパワーバランスを、回復不可能なまでに破壊してしまったのである。
兄・胤縁が謀殺されたとの報せを受けた遠藤盛数は、即座に弔い合戦の兵を挙げた。千余の兵を率いた盛数は、東殿山城の対岸にある八幡山(現在の郡上八幡城跡)に陣を構え、主家である東氏に公然と反旗を翻した 6 。
この時、当主である常慶がどのような立場にあったかについては、史料によって見方が分かれる。一般的には、常慶は息子の暴走に巻き込まれ、不本意ながらも盛数と戦わざるを得なかったとされる 6 。しかし、一部の記録には、常堯が家督を狙って兵を挙げようとしたため、常慶が盛数に命じて常堯を討たせた、という正反対の記述も存在する 9 。この説に従えば、常慶は「悪逆非道」な息子よりも、有能な娘婿である盛数を後継者として考えていた可能性すら浮上する。
真相は、常慶、常堯、そして遠藤氏の三者間での複雑な権力闘争であった可能性が高い。いずれにせよ、結果として東氏一族は、盛数が率いる復讐の軍勢と全面対決することになった。赤谷山を舞台とした戦いは10日間に及び、永禄2年8月24日、ついに東殿山城は落城。この戦いの最中、郡上東氏第11代当主・東常慶は命を落とした 1 。自らが築いた城で、自らが育てた家臣によって滅ぼされるという、戦国時代の非情さを象徴する最期であった。
東常慶の死と東殿山城の落城により、美濃国における郡上東氏の支配は完全に終焉した。勝利した遠藤盛数は、東氏の旧領と権力を掌握し、郡上の新たな支配者となった 8 。彼は後に郡上八幡城を築き、その子孫は織田信長、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に与して功を挙げた。その結果、江戸時代には郡上八幡藩主となり、大名として幕末まで家名を存続させることに成功する 9 。
一方、一族崩壊の原因を作った東常堯は、落城の混乱に乗じて城を脱出し、妻の実家である飛騨の帰雲城主・内ヶ島氏を頼って落ち延びた 12 。しかし、彼の運命にはさらなる悲劇が待ち受けていた。天正13年(1585年)11月29日、マグニチュード8クラスと推定される天正大地震が発生。この巨大地震は、帰雲城の背後にそびえる山の山体崩壊を引き起こし、巨大な山津波が城と城下町を瞬時に飲み込んだ 16 。
この天災により、内ヶ島一族は滅亡し、そこに身を寄せていた東常堯もまた、土砂の下に生き埋めとなり、その生涯を終えた 16 。父を死に追いやり、一族を滅亡させた男の最期は、人の手によるものではなく、天変地異によるものであった。これにより、郡上東氏の嫡流は完全に途絶え、その歴史は悲劇のうちに幕を閉じたのである。
東常慶は、戦国時代という激動の時代が生んだ、複雑かつ多面的な人物であった。彼は、祖父・常縁から受け継いだ「古今伝授の家」という文化的権威を背負う一方、謀略と武力を用いて領内の対抗勢力を排除し、権力基盤を固める冷徹な現実主義者でもあった。越前朝倉氏の度重なる侵攻を知略と外交手腕で退けた有能な軍事指揮官であり、美濃を席巻した斎藤道三の圧力下で、巧みな婚姻政策を駆使して自領の独立を維持しようとした、したたかな政治家でもあった。
しかし、彼の物語は、最終的に戦国時代の典型的な悲劇として帰結する。外部からの脅威を巧みに管理することには成功したものの、足元である一族の内部から崩壊したのである。自らが権力強化のために重用した家臣団(遠藤氏)の台頭と、その勢力に脅威を感じた嫡男・常堯の暴走という、自らが作り出した権力構造の内部矛盾が、最終的に彼自身を滅ぼした。
東常慶の生涯は、中世以来の伝統的な権威がいかにして下克上の激しい波に飲み込まれていったかを示す、痛烈なケーススタディである。彼は、時代の変化に適応しようと奮闘した有能な領主であったが、最終的には内部の裏切りという、戦国時代を象徴する力学によって打ち破られた。彼は、旧時代の秩序が崩壊し、新たな価値観が生まれる過渡期を生きた、最後の伝統的領主の一人であり、その栄光と悲劇は、戦国史に深い教訓を刻んでいる。