戦国時代の出羽国、特に庄内地方は、中央の政治的影響力が間接的にしか及ばない辺境の地であり、在地領主たちの力が色濃く残る地域であった。この地では、大宝寺(武藤)氏、来次氏、土佐林氏、砂越氏といった四大豪族が長らく割拠していたが、やがて大宝寺氏がその勢力を伸張させ、地域に覇を唱えるに至った 1 。しかし、その支配は盤石ではなく、北に安東氏、東に最上氏、南には越後の上杉氏という強力な戦国大名に三方を囲まれ、常に外部からの介入と内部の離反という二重の圧力に晒される、緊張をはらんだ地政学的状況下に置かれていた。
この庄内地方に君臨した大宝寺氏は、鎌倉時代以来の地頭職を起源とする名門武家であった 2 。しかし、その権力構造は、当主による絶対的な支配というよりも、地域の有力国人衆との連合体に近い性格を帯びていた。そのため、当主の力量や求心力が揺らげば、家中の内紛や国人衆の離反が容易に発生するという、構造的な脆弱性を内包していたのである 3 。
このような下剋上の気風が渦巻く庄内史の転換点に、一人の武将が登場する。その名を前森蔵人、後の東禅寺義長である。天文13年(1544年)に生を受けた彼は 4 、当初は大宝寺氏に仕える一介の家臣であった 5 。その出自は詳らかではないが、一説には最上地方の出身とも伝えられており 7 、このことは後の最上義光との緊密な連携を理解する上で重要な示唆を与える。彼は土佐林禅棟らと共に、主君となる大宝寺義氏の家督相続に奔走した功臣の一人であり、そのキャリアの初期においては、主君から深く信頼される存在であったことが窺える 4 。
本報告書は、この東禅寺義長という人物の生涯を徹底的に追跡し、彼が主君を討ち、庄内の覇権を一時的に掌握し、そして壮絶な最期を遂げるまでの軌跡を明らかにすることを目的とする。彼の生涯は、戦国末期の東北地方における権力闘争の縮図であり、一地方領主の野望が、いかに大国の論理に翻弄されていったかを示す好個の事例である。
西暦(和暦) |
東禅寺義長(前森蔵人)の動向 |
大宝寺氏・上杉氏の動向 |
最上氏の動向 |
周辺情勢(伊達氏など) |
1544(天文13) |
誕生 4 |
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1571(元亀2) |
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大宝寺義氏、庄内をほぼ統一する 8 |
最上義光、家督を相続する 9 |
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1578(天正6) |
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上杉謙信が急死。大宝寺氏の後ろ盾が揺らぐ 1 |
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1583(天正11) |
最上義光と通じ、主君・義氏を謀殺。東禅寺義長と名乗る 4 |
大宝寺義氏、自害。弟の義興が跡を継ぐ 8 |
義長の謀叛を調略・支援する 7 |
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1587(天正15) |
最上軍と共に大宝寺義興を討ち、大宝寺氏の嫡流を絶つ 7 |
大宝寺義興、自害。養子の義勝は越後へ逃れる 11 |
庄内地方を実質的な支配下に収める 9 |
伊達政宗、大崎合戦に介入する 13 |
1588(天正16) |
十五里ヶ原の戦いで本庄繁長に敗れ、討死する 4 |
本庄繁長・義勝親子、庄内に侵攻し勝利。庄内を上杉領とする 11 |
大崎合戦で伊達政宗と対峙し、庄内に大規模な援軍を送れず 13 |
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前森蔵人、後の東禅寺義長の生涯は、主家である大宝寺氏、とりわけ当主・義氏との関係性によって大きく規定された。彼には東禅寺勝正(右馬頭)という弟がおり、この兄弟の連携が彼の活動の核となる 11 。当初、蔵人は主君からの信頼を得るため、あるいはその功績を認められ、大宝寺家と姻戚関係を結んだ。この点について、史料には「義氏の娘を娶る」 4 とする記述と、「義氏の妹婿であった」 5 とする記述が混在しており、正確な続柄は断定しがたい。しかし、いずれにせよ彼が大宝寺家の中枢に極めて近い姻戚者として、特別な地位を占めていたことは疑いようのない事実である。
この蜜月関係は、しかし、主君・大宝寺義氏の治世が進むにつれて徐々に変質していく。義氏は庄内統一を成し遂げた有能な武将であった一方で、その統治手法は苛烈を極め、やがて「悪屋形」と渾名されるほど人心の離反を招いた 8 。その悪政の具体例として、第一に、由利郡や最上郡への野心的な外征の繰り返しが挙げられる。これらの戦役は、領内の国人衆や領民に過大な軍役と経済的負担を強いるものであり、彼らの疲弊と不満は日増しに募っていった 5 。第二に、庄内において絶大な精神的権威を誇っていた羽黒山の別当職を弟の義興に譲ったことで、羽黒山の信徒たちの激しい反発を招いた 8 。これは、地域の精神的支柱を敵に回すに等しい危険な行為であった。そして第三に、最大の政治的・軍事的な後ろ盾であった越後の上杉謙信が天正6年(1578年)に急死すると、義氏の求心力は著しく低下し、家中の不満分子が公然と反旗を翻す土壌が形成されていったのである 1 。
こうした政治的・宗教的な対立に加え、両者の亀裂を決定的にしたのが経済的な利害の衝突であった。庄内平野の経済的動脈であり、日本海交易の拠点として莫大な富を生み出す酒田湊の利権を巡り、義氏と義長の対立は先鋭化したと記録されている 4 。これは、単なる主従間の感情的なもつれではなく、庄内の富の源泉を巡る深刻な経済闘争が根底にあったことを示唆している。
義長の謀叛は、単なる個人的な野心の発露と見るべきではない。それは、大宝寺義氏の度重なる外征、宗教勢力との不和、そして酒田湊の利権を巡る経済的収奪といった「悪政」によって引き起こされた、構造的な問題の必然的な帰結であった。義氏の政策は、庄内の有力国人衆、宗教勢力、商人といった地域のパワーエリート層の利益を著しく損なうものであり、広範な不満が渦巻いていた。義長は、これらの不満の受け皿となり、彼らを巧みに糾合することで、自らの謀叛を成功へと導いたのである。彼の行動は、彼一人の野心というよりも、大宝寺体制そのものが内部から崩壊していく過程で、その引き金を引く役割を果たしたと解釈できる。当初の「功臣と主君」という蜜月関係は、やがて「姻戚でありながら利害が対立する競争相手」へと変質した。この近しい関係性が、一度対立した際の憎悪をかえって増幅させ、修復不可能な亀裂を生んだと言えよう。
東禅寺義長の運命を大きく左右したのが、「出羽の驍将」と謳われた山形城主・最上義光の存在である。義光は、謀略と武勇を巧みに使い分け、出羽国の統一を目指して急速に勢力を拡大していた「虎将」であった 9 。彼は、庄内地方の戦略的価値、とりわけ酒田湊がもたらす経済力を高く評価し、その支配を長年にわたり企図していた 9 。義光の得意とした戦略は、正面からの軍事侵攻だけでなく、敵対勢力の内部に存在する不満分子に接触し、内側から切り崩していく調略であった 9 。大宝寺義氏の治世に不満を募らせていた東禅寺義長は、義光にとってまさに絶好の標的だったのである。義光は、鮭延秀綱といった家臣を通じて義長ら庄内の武将に離反を促す書状を送るなど、水面下で積極的に働きかけていた 1 。
そして天正11年(1583年)3月、機は熟した。義長は最上義光と密かに通じ、弟の勝正と共に反旗を翻したのである 4 。この謀叛には、来次氏秀や砂越次郎といった庄内の有力国人衆のほとんどが同調したことが記録されており 1 、いかに大宝寺義氏の支配が人心を失っていたかを如実に物語っている。義長軍は義氏の居城である尾浦城(大山城)を急襲。四方から火を放たれて完全に包囲された義氏は、なすすべなく裏山へと逃れた後、33歳の若さで自害して果てた 6 。
主君を討ち果たした前森蔵人は、名を「東禅寺義長」と改め、庄内の新たな支配者として名乗りを上げた 6 。一説には「氏永」と称した時期もある 4 。彼は、酒田湊に隣接する要衝・東禅寺城(後の亀ヶ崎城、酒田城)を本拠とし、庄内地方の支配権を掌握した 3 。しかし、この新たな政権は、最上義光の強力な後ろ盾によってかろうじて成立したものであり、義長はいわば庄内における最上氏の代理人というべき立場にあった 12 。
この一連の出来事は、単なる家中の内紛に留まるものではない。それは、庄内地方の支配権を巡る「最上氏 対 上杉氏」という、より大きな構図における代理戦争の幕開けであった。もともと大宝寺義氏は上杉謙信の後援を受けていたが 8 、謙信の死によってその力は弱体化していた。その隙を突く形で最上義光が介入し、反・義氏派の筆頭であった義長を支援してクーデターを成功させたのである 12 。これにより、庄内は親・最上派の義長が支配する地域へと転換した。この動きは、当然ながら上杉方の強い反発を招き、庄内は両大国の勢力が激突する最前線へと変貌していくことになる。義長は、その渦中で主体的に動いた下剋上の実行者であると同時に、大国の地政学的対立の奔流に翻弄される駒としての側面も併せ持っていた。
また、義長がこれほど多くの国人衆の支持を取り付けられた背景には、彼の巧みな政治的手腕があったと考えられる。彼は、義氏の「悪政」 7 という領内全体の共通認識を利用し、「暴君放伐」という大義名分を掲げることで、自らの謀叛を正当化したのであろう。これは戦国時代において謀叛を正当化するための常套手段であり、彼は国人衆の不満を巧みに束ねることで、クーデターを成功に導いた。しかし、この成功体験こそが、後に自らが同じ構図で滅びるという皮肉な結末を準備するものであった。
主君・大宝寺義氏を討ち、庄内の実権を握った東禅寺義長であったが、その前途は決して平坦ではなかった。義氏の死後、大宝寺氏の家督は弟の義興(丸岡兵庫)が継承 5 。義興は仇敵・義長に対抗するため、越後の上杉景勝配下の猛将・本庄繁長を頼った。そして、繁長の次男である千勝丸(後の大宝寺義勝)を養子に迎えるという手を打つ 11 。これにより、大宝寺氏の残存勢力は上杉氏という巨大な後ろ盾を得て、庄内奪還のための軍事的な体制を整えたのである。義長は、この大宝寺・上杉連合軍から「仇として狙われる」 4 存在となり、庄内は最上を後ろ盾とする東禅寺方と、上杉を後ろ盾とする大宝寺方に二分され、一触即発の内乱状態が続くことになった。
この膠着状態を打破すべく、義長は天正15年(1587年)10月、最上義光から大規模な軍事支援を受けて攻勢に出る。標的は、大宝寺義興が籠る尾浦城であった 7 。この戦いで尾浦城はついに落城し、義興は自害、あるいは捕縛された後に死去したと伝えられる 5 。この義興の死をもって、400年の歴史を誇った大宝寺(武藤)氏の嫡流は事実上、断絶した 7 。しかし、義興の養子・義勝は辛くも戦場を脱出し、実父である本庄繁長の待つ越後へと逃れ、復讐の機会を窺うこととなる 11 。
大宝寺氏の正統を完全に排除したことで、義長は名実ともに庄内の唯一の支配者となった。最上義光も、彼にこの地の統治を正式に委任した 4 。しかし、その支配基盤は驚くほど脆弱であった。皮肉なことに、義長は自らが庄内国人衆の支持を結集して成り上がったにもかかわらず、今度は自分が彼らの支持を繋ぎ止めることに失敗するのである。史料には「恩賞配分に対する不服などから、庄内の国人衆に反発された」 4 との記述があり、彼の政権が早くも内部から揺らぎ始めていたことを示している。自らのクーデターに協力した者たちへの論功行賞で躓いたことは、彼の統治者としての力量の限界を露呈するものであった。
義長の権力は、最上義光からの軍事支援という「外部からの力」に大きく依存しており、庄内内部の国人衆からの「内発的な支持」を確立することができなかった。これが、彼の政権が短命に終わった根本的な原因である。国人衆の協力を得て権力を奪取したものの、彼は彼らを対等なパートナーとして遇するのではなく、自身に従属する駒としか見なさなかった可能性が高い。その結果、頼みの綱である最上氏の支援が、最上氏自身の都合(例えば伊達氏との戦争)によって途絶えるというリスクが現実化した時、彼の支配は砂上の楼閣の如く崩れ去る運命にあった。
彼の生涯は、歴史の皮肉を体現している。すなわち、義長は、自らが大宝寺義氏に対して用いたのと同じ構図―外部勢力と結託した内部からの切り崩し―によって、自らも滅ぼされることになったのである。彼が成功した戦術は、(最上義光という外部勢力)+(義長ら内部の不満分子)→(大宝寺義氏政権の打倒)というものであった。そして彼が滅びた構図は、(上杉・本庄という外部勢力)+(恩賞に不満な国人衆という内部の不満分子)→(東禅寺義長政権の打倒)という、まさに相似形のものであった。彼は下剋上を成功させた戦術家ではあったが、その戦術がいつか自分自身に向けられる可能性を予見し、対策を講じることのできる戦略家ではなかったのである。
東禅寺義長の運命を決定づけた最後の戦いは、東北地方全体の覇権を巡る、より大きな角逐の渦中で勃発した。天正16年(1588年)、義長の後ろ盾である最上義光は、妹・義姫(伊達政宗の母)の実家である大崎氏の内紛を巡って伊達政宗と激しく対立。両者は大規模な軍事衝突(大崎合戦)に突入していた 9 。最上軍の主力が伊達方面に釘付けにされているこの状況を、上杉景勝は見逃さなかった。彼はこれを庄内奪還の千載一遇の好機と判断し、軍を動かしたのである 13 。
同年8月、上杉景勝の命を受けた本庄繁長と、父と共に再起を誓う大宝寺義勝の親子は、大軍を率いて越後から庄内へと侵攻を開始した 7 。迎え撃つ東禅寺義長・勝正兄弟は、最上家から急派された草刈虎之助らの援軍と共に布陣。両軍は、大宝寺氏のかつての居城・尾浦城下の十五里ヶ原で対峙した 11 。兵力については諸説あるものの、数では最上・東禅寺連合軍が優勢であったとも言われる 13 。しかし、この数字は、最上義光本体が来援できない状況を鑑みれば、実態よりも過大に伝えられている可能性が高い。
この戦いの勝敗を分けた決定的な要因は、本庄繁長の巧みな戦術にあった。第一に、彼は合戦に先立ち、周到な調略を行っていた。義長の支配に不満を抱いていた庄内の国人衆は、繁長の下工作に応じて次々と上杉方に内応したのである 4 。第二に、繁長は内応者の手引きによって、東禅寺軍の背後に部隊を回り込ませ、奇襲を敢行した 7 。これにより前後の敵から挟撃される形となった東禅寺軍は、たちまち総崩れとなった。
敗色が濃厚となる中、東禅寺兄弟は壮絶な最期を遂げる。兄・義長は乱戦の中、敵本陣を目指して突撃し、討死した 13 。その報を聞いた弟の勝正(右馬頭)は、悲憤に駆られ、単騎で本庄繁長の本陣へと突入した 13 。勝正の鬼気迫る一撃は繁長の兜を捉え、こめかみから耳の下まで切り割るほどの深手を負わせたと伝わる 11 。しかし、武運つたなく、繁長の側近らに取り囲まれ、その場で討ち取られた。享年43であった 7 。この時、勝正が佩用していた名刀「正宗」は、戦利品として繁長の手に渡り、後に「本庄正宗」として天下にその名を知られることとなる。この刀は、幾多の所有者を経て徳川将軍家の至宝となったが、第二次世界大戦後に連合国軍に接収された後、行方不明となっている 13 。
十五里ヶ原の戦いは、最上・東禅寺方の2500人以上が討死するという大敗に終わった 11 。急報に接した最上義光は、自ら軍を率いて六十里越街道を急行するが、時すでに遅く、道中で敗報を聞き、山形へ引き返さざるを得なかった 11 。この一戦の結果、東禅寺氏は滅亡。庄内地方は、慶長6年(1601年)の関ヶ原の戦いを経て最上氏の支配に復するまで、上杉氏の領土となった 13 。
この敗北は、単なる戦術的な失敗に留まらない。それは、より大きな戦略的文脈における必然的な帰結であった。義長が庄内国人衆の掌握に失敗していたという内政戦略の欠如が、繁長の調略を容易にした。そして何よりも、彼の運命が、彼自身ではコントロール不可能な、最上氏と伊達氏の対立という、より大きな権力闘争の力学に左右されてしまったことが決定的であった。彼は庄内という舞台の主役を演じているつもりだったかもしれないが、実際には最上・伊達・上杉という巨大な勢力が動かす大きな劇の一登場人物に過ぎなかったのである。一方で、弟・勝正の最期は、敗北の中にも武士としての意地と名誉を示そうとする、戦国武将の典型的な死生観を象徴している。彼の壮絶な死と「本庄正宗」の逸話は、物理的な勝敗とは別の次元で「名を残す」ことを重んじた武士の価値観を、今に色濃く伝えている。
東禅寺義長とは、一体どのような人物であったのか。彼の生涯を振り返ると、その人物像は多角的で、一言で評することは難しい。主君を討ち、その地位を簒奪した行為は、まさしく下剋上を体現した野心的な梟雄の姿である 6 。しかし同時に、最上義光という大国の調略に乗り、庄内を巡る大国間の争いの駒として利用され、最後は捨て石のように滅び去った姿は、自らの力だけでは時代の大きな奔流に抗えなかった「時代の徒花」の悲哀をも感じさせる 4 。
統治者としての彼に目を向ければ、その限界は明らかであった。庄内国人衆の支持を得て権力の座に就きながら、恩賞問題で彼らの反発を招いたことは 4 、軍事的な力量はあっても、利害を調整し人心を掌握する政治的な統治能力には欠けていたことを示唆している。彼は権力を奪取することはできたが、それを維持し、安定させることはできなかったのである。
しかし、彼の歴史的役割を過小評価するべきではない。彼の謀叛とそれに続く一連の争乱は、庄内地方における大宝寺氏の支配を終焉させ、最上氏、そして上杉氏という外部の強力な大名がこの地を直接支配する時代への転換点を創出した、重要な触媒であった。彼の行動がなければ、庄内史の展開は、また違った様相を呈していたであろう。
その記憶は、今も庄内の地に史跡として刻まれている。彼が姓の由来とし、本拠とした 東禅寺城跡 (山形県酒田市・亀ヶ崎城跡)は、現在、酒田東高等学校の敷地となっているが、往時を偲ばせる広大な土塁が残る 18 。彼が主君・義氏を攻め滅ぼした
尾浦城跡 (山形県鶴岡市・大山公園)は、公園として整備され、曲輪や空堀の遺構が確認できる 20 。そして、彼が兄弟と共に壮絶な最期を遂げた
十五里ヶ原古戦場 (山形県鶴岡市)は、県指定史跡として、弟・勝正の墓所や戦死者を弔う首塚が点在し、激戦の記憶を静かに今に伝えている 11 。
東禅寺義長は、戦国末期の東北という激動の舞台で、自らの野望を追い求めた一人の武将であった。彼は一時的に庄内の支配者となるという成功を収めたが、それはより大きな権力構造の変動の波に乗った、束の間の栄華に過ぎなかった。彼の生涯は、下剋上という時代のダイナミズムと、地方の国人領主が大国の論理に翻弄される非情さの両面を、我々に鮮烈に描き出している。歴史の主役ではなかったかもしれないが、彼の行動が庄内史の大きな転換点を引き起こしたことは紛れもない事実であり、その意味において記憶されるべき人物であると言えよう。