信濃国伊那谷の南部に位置する市田郷(現在の長野県下伊那郡高森町)に、約500年の長きにわたり根を張った一族がいた。松岡氏である。戦国時代の激動の中で、彼らは巧みな生存戦略を駆使して家名を保ったが、天下統一の最終局面で歴史の表舞台から姿を消すこととなる。本報告書は、特に武田氏滅亡後の当主として史料に名を残す松岡頼貞という人物を中心に、松岡一族の起源からその終焉、そして彼らが残した歴史的遺産までを徹底的に調査し、その実像に迫るものである。
松岡氏の起源は、平安時代後期にまで遡る壮大な伝承に彩られている。それは、康平5年(1062年)に終結した「前九年の役」において、源頼義・義家親子に敗れた奥州の俘囚長・安倍貞任に連なるというものである。伝承によれば、貞任の次男であった仙千代という幼子が、乳母に抱かれて遠く信濃国伊那郡市田郷の牛牧村まで落ち延びた。その後、成長した仙千代は郷民に推されてこの地の地頭となり、「松岡平六郎貞則」と名乗って、初期の拠点とされる「松岡古城」に居を構えたのが、松岡氏の始まりであるとされている。
この伝承は、松岡氏の権威の源泉を理解する上で極めて重要である。しかし、歴史学的な観点からは、これが史実であると断定することは難しい。当時、民衆の間で英雄として絶大な人気を誇っていた安倍氏に自らの家系を結びつけることで、在地における支配の正当性を高めようとする、一種の権威付けであった可能性も指摘されている。松岡古城の跡地には、現在も樹齢千年とも伝わる巨大な夫婦杉がそびえ立ち、一族の歴史の古さを物語る象徴となっているが、その起源は伝説の霧の中に包まれている。
伝説の時代を経て、松岡氏が歴史の記録に明確に姿を現すのは、14世紀の南北朝時代である。この動乱期において、松岡氏は北朝方に属して活動した。天竜川を挟んで東岸に拠る南朝方勢力に対抗するため、彼らは従来の松岡古城よりもさらに防御機能に優れた、段丘上の要害に新たな城を築いた。これが、後世まで一族の本拠地となる「松岡城」(松岡本城)であると考えられている。
室町時代に入ると、松岡氏は信濃国守護であった小笠原氏の有力な配下として、その地位を確固たるものにしていく。応永7年(1400年)に信濃の国人衆が守護・小笠原長秀に対して起こした反乱である「大塔合戦」では、「松岡次郎」なる人物が小笠原方として参陣した記録が残る。さらに、永享12年(1440年)に関東で勃発した「結城合戦」にも、幕府方として「松岡新左衛門尉」が参陣しており、松岡氏が単なる伊那谷の在地領主にとどまらず、信濃守護の軍事行動を通じて中央の動乱にも関与する存在であったことがうかがえる。
松岡氏にとって大きな転機となったのは、15世紀後半の文明・明応年間(1469年~1501年)であった。この時期、宗家である小笠原氏が内紛によって著しく衰退すると、松岡氏はその支配の空白を突く形で急速に台頭する。彼らは座光寺氏、宮崎氏、竜口氏といった市田郷周辺の国人衆を次々と傘下に組み入れ、下伊那地方において抜きん出た勢力を誇る有力国人へと躍り出たのである。
この一族の発展の背景には、巧みな権威の構築があったと考えられる。在地領主としての支配を正当化するために、彼らは二重の権威を利用した。一つは、信濃守護・小笠原氏という「公的な権威」に従属することで得られる地位。もう一つは、古の英雄・安倍貞任に連なるという「神話的な権威」である。史実としての主従関係と、伝説としての高貴な出自を組み合わせることで、松岡氏は周辺の国人衆に対する優位性を確立し、500年にわたる伊那谷での支配の礎を築き上げたのである。
戦国時代の松岡氏の歴史を追う上で、最も大きな障壁となるのが、一族の当主の名が史料によって異なり、著しい混乱が見られる点である。特に、武田氏の支配下から徳川氏による改易に至るまでの激動の時代において、「頼貞(よりさだ)」「貞正(さだまさ)」「貞利(さだとし)」という複数の名が当主として現れる。これらの人物が同一人物なのか、それとも別人なのかを特定することは、松岡氏の行動を正確に理解するための不可欠な作業である。
各史料に登場する松岡氏の当主について、その名と事績を整理すると以下のようになる。
これらの史料を時系列に沿って整理すると、16世紀初頭の当主が貞正、天正10年(1582年)時点の当主が頼貞、そして天正13年(1585年)から改易までの当主が貞利であったという、世代交代があった可能性が最も高いと考えられる。頼貞と貞利が親子や兄弟であったのか、あるいは頼貞が後に貞利と改名した同一人物であったのか、現存する史料のみで断定することは困難である。しかし、武田氏滅亡から本能寺の変、そして徳川体制への移行という目まぐるしい情勢の変化の中で、松岡氏内部で当主の交代や改名が行われたとしても不思議ではない。この名前の混乱自体が、当時の松岡氏が置かれていた不安定な状況を反映しているとも言える。
この複雑な人物関係を整理するため、以下に主要人物と関連事項を時系列でまとめた表を提示する。
西暦/和暦 |
想定される当主名(諱・官途名) |
主要な出来事 |
関連人物・勢力 |
典拠史料ID |
c.1513/永正10 |
松岡貞正(右衛門大夫) |
菩提寺・松源寺を創建(開基)。 |
文叔瑞郁(実弟、開山) |
|
c.1545/天文14 |
松岡氏当主(貞利か?) |
井伊直親(亀之丞)の庇護を開始。 |
今川義元、井伊直平 |
|
1554/天文23 |
松岡氏当主 |
武田信玄の伊那侵攻に対し降伏、臣従。 |
武田信玄、小笠原信定、知久頼元 |
|
1582/天正10 |
松岡頼貞(兵部大輔) |
武田氏滅亡。織田信長に臣従し本領安堵。 |
織田信忠、毛利秀頼 |
|
1583/天正11 |
松岡貞利 |
家臣に知行を与える(座光寺氏関連文書)。 |
今牧八郎右衛門 |
|
1585/天正13 |
松岡貞利(右衛門佐) |
徳川から離反した小笠原貞慶に同調し高遠城攻めを企図。 |
徳川家康、小笠原貞慶、菅沼定利、座光寺為時 |
|
1588/天正16 |
松岡貞利 |
謀反の疑いで徳川家康により改易、所領没収。 |
徳川家康、井伊直政 |
|
この名前の混在は、単なる記録の誤りや散逸だけが原因ではない。それぞれの史料が成立した背景と目的の違いに起因すると考えられる。すなわち、
このように、異なる主体が、異なる文脈と目的(公的安堵、事件の顛末、宗教的由緒)で記録を残した結果、それぞれの文脈で重要とされた人物名が後世に伝わり、やがて混同、あるいは集約されていった可能性が高い。この分析は、単に人物を特定する試みにとどまらず、戦国期の地方領主に関する情報が、いかに多様な形で記録され、伝達されていったかという、歴史記述そのもののあり方を浮き彫りにする。本報告書では、以降、出来事の年代に応じて最も確実性の高い当主名を記すが、この背景にある複雑さを常に念頭に置くものとする。
16世紀半ば、信濃国は甲斐の武田信玄による侵攻を受け、未曾有の動乱期に突入した。伊那谷の有力国人であった松岡氏は、この激動の時代を生き抜くため、大国の狭間で巧みな生存戦略を展開していく。それは、時には強者に屈し、時には遠方の勢力と密かな絆を結び、そして時には時代の変化に素早く適応するという、中小領主ならではの現実的かつ柔軟な対応であった。
天文23年(1554年)、武田信玄は自ら大軍を率いて伊那郡への本格的な侵攻を開始した。武田軍の圧倒的な軍事力の前に、伊那の国人衆は次々と屈していく。松岡氏の近隣に位置する鈴岡城の小笠原信定や、神之峯城の知久頼元といった有力者たちが抵抗の末に城を落とされる様子を目の当たりにした松岡氏は、無益な抵抗は一族の滅亡を招くだけであると判断し、戦わずして武田の軍門に降った。
しかし、その臣従は当初、盤石なものではなかった。その後、知久氏らが再び神之峯城に籠城して武田に反旗を翻すと、松岡氏も一時これに同調する動きを見せた。これは、長年続いた伊那の独立性を守ろうとする国人衆の意地と、武田支配への反発が渦巻いていたことを示している。だが、神之峯城が武田軍の猛攻の前に再び陥落すると、松岡氏はもはや抵抗は不可能であると悟り、改めて信玄に降伏。結果として所領の安堵を勝ち取った。
武田氏の配下となった松岡氏は、「50騎」の軍役を課せられたと記録されている。戦国時代の軍制において、1騎の武者には通常4~5名の従卒(足軽など)が付属するため、これは有事の際におよそ200名から250名規模の兵力を動員する義務を負っていたことを意味する。この兵力は、伊那衆の中でも屈指の規模であり、松岡氏が武田家臣団の中で、山県昌景などの有力武将の与力として、決して小さくない軍事的位置を占めていたことを示している。彼らの選択は、独立を失う代わりに、強大な武田軍団の一員として家の存続を図るという、戦国国人の典型的な生存戦略であった。
武田氏への臣従と並行して、松岡氏は遠江国(現在の静岡県西部)の井伊氏との間に、一族の運命を左右するほどの深い関係を築いていた。天文14年(1545年)、遠江の領主・今川義元の讒言により父・井伊直満を殺害され、自らも9歳で命を狙われる身となった井伊家の嫡男・亀之丞(後の井伊直親)が、信濃の松岡氏を頼って落ち延びてきたのである 1 。
この危険極まりない亡命者の庇護がなぜ実現したのか。その背景には、単なる同情や武士の情けを超えた、明確な繋がりがあった。それは「法縁(ほうえん)」、すなわち仏法上の縁である。松岡氏の菩提寺・松源寺を開山した文叔瑞郁禅師は、松岡氏12代当主・貞正の実弟であった。そして、この文叔瑞郁禅師は、井伊家の菩提寺である龍潭寺の住職・南渓瑞聞の師でもあったのだ。この師弟関係を通じて結ばれた禅宗寺院のネットワークが、亀之丞の逃亡ルートとなり、松岡氏による庇護を可能にしたのである。
亀之丞は、松岡氏の居城・松岡城の麓にある松源寺に身を隠し、成人するまでの約10年間をこの地で過ごした。その間、松岡氏の当主(史料によっては貞利とされる)は彼を厚く遇し、松岡城の武士たちに武芸や弓術の稽古をつけさせるなど、将来の井伊家当主としてふさわしい教育を施した 1 。
この行為は、松岡氏にとって極めてリスクの高い政治的判断であった。当時、東海地方に覇を唱える今川氏の追手をかくまうことは、発覚すれば自領が侵攻され、一族が滅亡しかねない危険な賭けであった。それでも彼らがこれを実行したのは、それが単なる人道支援ではなく、没落した名家の嫡男に対する一種の「政治的投資」であったからに他ならない。もし将来、亀之丞が井伊家を再興することに成功すれば、松岡氏はその最大の恩人として、遠江の有力国人と強力な政治的パイプを築くことができる。この長期的視点に立った戦略的判断と、それによって培われた井伊氏との「絆」が、約40年後、松岡氏が最大の危機に瀕した際に、予期せぬ形で彼らを救うことになるのである。
天正10年(1582年)、戦国史を揺るがす大事件が起こる。織田信長による甲州征伐である。織田信忠を総大将とする大軍が伊那谷に侵攻すると、28年間にわたって信濃を支配した武田氏の体制は、あっけなく崩壊した。この時、松岡城主であった松岡頼貞は、武田方として最後まで抵抗するという道を選ばなかった。彼は他の多くの伊那衆と同様、織田軍の圧倒的な力を前にして、いち早く織田方に投降。これにより、所領を安堵され、家の存続に成功する。この過程で、松岡城の近傍である市田郷では、武田方の残存勢力と織田方の先鋒・森長可との間で戦闘が発生し、松源寺を含む多くの寺社が兵火によって焼失するという犠牲も払っている。
しかし、織田による支配も長くは続かなかった。同年6月2日、京都で「本能寺の変」が勃発し、織田信長が横死。信濃国は再び主を失い、徳川、上杉、北条の三つ巴による草刈り場と化す(天正壬午の乱)。この政治的空白地帯の中で、最終的に伊那郡を勢力圏に収めたのは徳川家康であった。この新たな支配者の登場に対し、松岡氏(この頃には当主は貞利に代わっていたと見られる)は、家康に忠誠を誓う誓紙を提出して臣従。織田体制下と同様、徳川氏からも所領を安堵されることに成功した。
武田から織田へ、そして織田から徳川へ。このわずか1年の間に繰り返された主家の乗り換えは、松岡氏の変わり身の早さを示すと同時に、大国の動向を冷静に見極め、常に勝ち馬に乗ることで生き残りを図るという、戦国期の国人領主のしたたかな処世術を如実に物語っている。
天正壬午の乱を経て徳川家康の支配下に入り、一時は安泰かに見えた松岡氏であったが、天下統一へと向かう時代の大きなうねりは、彼らに最後の、そして最も過酷な試練を与えることになる。長年の経験で培われたはずの政治的嗅覚の、ほんの僅かな狂いが、500年続いた一族の歴史に終止符を打つ、致命的な判断ミスを招いたのである。
家康が信濃を平定した後も、国内の情勢は依然として流動的であった。北には越後の上杉景勝、東には小田原の北条氏直が勢力を保ち、そして西からは、織田信長の後継者として急速に台頭する羽柴(豊臣)秀吉が、天下統一への野心を露わにしていた。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで家康と秀吉が直接対決した後、両者の対立は膠着状態に陥り、全国の武将たちは、徳川につくか、豊臣につくかの難しい選択を迫られていた。
この緊張状態が頂点に達したのが、天正13年(1585年)である。これまで家康に従っていた信濃の名門・小笠原氏の当主、小笠原貞慶が、突如として徳川から離反し、豊臣方へ寝返るという重大事件が発生した。この政治的地殻変動が、伊那谷の小領主であった松岡氏の運命を大きく揺さぶることになる。
豊臣方への恭順の意を示す手土産として、小笠原貞慶は徳川方の重要拠点であった高遠城を攻撃した。この時、松岡城主・松岡貞利は、あろうことかこの小笠原氏の動きに同調し、徳川方の高遠城を攻めるべく、自ら兵を率いて出陣するという挙に出たのである。
この行動は、松岡氏にとって致命的な判断ミスであった。その動機が何であったのか、正確に知ることは難しい。かつて松岡氏が仕えた信濃守護家の末裔である小笠原氏への旧恩や義理立てがあったのかもしれない。あるいは、全国的な情勢を見て、もはや徳川の時代は終わり、豊臣の天下が到来すると見越した、新たな覇者への賭けであった可能性も考えられる。いずれにせよ、徳川家康に誓紙を提出して臣従を誓ったわずか数年後のこの裏切り行為は、彼の運命を決定づけた。
小笠原貞慶による高遠城攻めは、城主・保科正直の頑強な抵抗にあって失敗に終わる。その報を受けた松岡貞利は、勝ち目なしと見て、城に到着する前に慌てて兵を引き返した。しかし、時すでに遅かった。この謀反の企ての一部始終を、松岡氏の家臣であった座光"光"寺次郎右衛門為時(為真とも)が、徳川方が伊那郡の郡代として置いていた知久平城主・菅沼定利に密告していたのである。
この密告は、単なる家臣個人の裏切り行為として片付けることはできない。それは、松岡氏という主家の権威が、もはや家臣団を完全に掌握できていないほどに失墜していたことの証左であった。座光寺氏は、元々は松岡氏の傘下にあった国人であるが、戦国末期の流動的な主従関係の中で、もはや松岡氏を絶対的な主君とは見なしていなかった。彼らは、滅びゆく可能性のある主君と運命を共にするよりも、新たな支配者である徳川方に恩を売ることで、自らの家の存続と将来の発展を図るという、極めて現実的な選択をしたのである。事実、座光寺氏はこの功績が認められ、後に大名(山吹藩主)へと出世しており、彼らの判断が結果的に「正しかった」ことを示している。
密告を受けた菅沼定利は、直ちに松岡貞利を捕縛し、駿府の徳川家康のもとへ送った。そして天正16年(1588年)、貞利には正式に謀反の罪による改易が申し渡され、所領は全て没収された。平安時代から約500年、伊那谷に君臨し続けた名族・松岡氏の歴史は、ここで完全に幕を閉じた。
所領を失い、一族断絶の危機に瀕した松岡貞利であったが、ここで思わぬところから救いの手が差し伸べられる。徳川四天王の一人として、家康の側近中の側近となっていた井伊直政である。直政は、かつて父・直親(亀之丞)が命を狙われ、松岡氏にかくまわれて九死に一生を得た恩義を忘れていなかった。彼は父が受けた恩に報いようと、主君家康に対し、貞利の助命を必死に嘆願したのである。
直政の嘆願は聞き入れられ、貞利は死罪を免れた。その後、彼は井伊家に身柄を預けられ、直政が関ヶ原の戦いの功績で近江佐和山(後の彦根)18万石の大名となると、その家臣として召し抱えられ、500石の知行を与えられたという。約40年前、松岡氏が危険を冒して行った「政治的投資」が、巡り巡って一族の完全な断絶を防ぎ、その血脈をかろうじて未来へと繋ぐという、数奇で劇的な結末を迎えたのである。
松岡氏500年の興亡の舞台となったのが、本拠地である松岡城である。この城は、単なる軍事施設ではなく、一族の政治、経済、そして信仰の中心地として機能した複合的な拠点であった。近年の研究や発掘調査によって、その具体的な姿が明らかになりつつある。
松岡城は、天竜川の西岸に広がる河岸段丘の先端、標高約560メートルの地点に築かれた平山城である。東側は間ヶ沢、南側は銚子ヶ洞と呼ばれる深い谷によって断崖絶壁となっており、自然の地形を最大限に利用した堅固な要害であった。
城の最大の特徴は、その縄張り(設計)にある。段丘の平坦部である西側からの攻撃に備えるため、主郭(本丸)から西へ向かって、直線的に郭(曲輪)を配置する「連郭式」と呼ばれる典型的な構造を採用している。主郭と二の郭の間にある「一の堀」を筆頭に、「五の堀」に至るまで、巨大な空堀によって各郭が明確に区画されており、その規模と保存状態の良さは、長野県内の中世城郭の中でも屈指のものと評価されている。
主郭は東西95メートル、南北80メートルほどの広大な平坦地で、西側には敵の侵入を防ぐための土塁が、南側の崖沿いには帯郭や横堀といった防御施設が設けられている。各郭を繋ぐ通路には虎口(出入り口)が巧みに配置され、敵が容易に主郭へ到達できないよう、厳重な防御態勢が敷かれていたことがうかがえる。
1990年(平成2年)から始まった町の公園整備事業に伴い、松岡城跡では数次にわたる発掘調査が実施された。この調査は、城の構造だけでなく、そこで暮らした松岡一族の生活の実態を明らかにする上で、貴重な知見をもたらした。
主郭の発掘調査では、礎石(建物の基礎となる石)を持つ建物跡が5棟も発見された。これは、松岡城が単なる戦時の籠城施設ではなく、平時においても城主とその一族が恒常的に居住する「館」としての性格を強く持っていたことを示している。
また、郭を分断する堀の底からは、膨大な量の遺物が出土した。13世紀から16世紀にかけての中国産の青磁碗や天目茶碗、国産の常滑焼や中津川窯の甕・すり鉢といった多種多様な陶磁器は、松岡氏が広域の流通網と接点を持ち、比較的豊かな文化的生活を送っていたことを物語る。さらに、銅鍋や石臼、内耳土器といった日常雑器も多数見つかっており、城内での活発な生活の様子が目に浮かぶようである。
特筆すべきは、城の最も外側に位置する五の郭で、鍛冶工房跡と考えられる遺構が発見されたことである。焼けた土の塊や、鍛冶に用いる送風管「鞴(ふいご)の羽口」、鉄を精錬した際に出る不純物「鉄滓」などが出土したことから、城内で武器や農具などの鉄製品を生産していた可能性が高い。これは、松岡氏が自領の経済を支える手工業生産をも城内で管理していたことを示唆している。
松岡城の構造を考える上で、菩提寺である松源寺の存在は欠かせない。現在の松源寺は、城の五の郭の跡地に建てられている。これは、領主の政治・軍事拠点である城と、その精神的支柱である寺院が、物理的にも密接不可分な関係にあったことを示している。もともと松源寺は別の場所にあったが、天正10年(1582年)の兵火で焼失した後、松岡氏が改易となり城が廃された江戸時代初期に、城跡を守る形で現在地に移転再建されたと伝えられている。
これらの考古学的、構造的な知見を総合すると、松岡城は単なる「砦」という言葉では捉えきれない、多機能な複合拠点であったことがわかる。そこは、一族の 政治の中心 (主君の居館)、 軍事の中心 (堅固な防御施設)、 経済の中心 (手工業生産)、 文化・生活の中心 (高級陶磁器に代表される豊かな暮らし)、そして 宗教の中心 (菩提寺の存在)という、松岡氏の領国支配に必要なあらゆる機能を備えた「社会経済センター」だったのである。城の遺構と遺物は、松岡一族という地方領主の権力のあり方、生活水準、そして世界観までをも、現代の我々に雄弁に語りかけてくれる。
信濃伊那谷に500年の長きにわたり君臨した松岡氏、そしてその最後の時代を率いた松岡頼貞や貞利といった当主たちの歴史は、戦国という時代の本質を多角的に映し出す、貴重な事例である。
松岡氏の興亡の軌跡は、戦国期における中規模国人領主の典型的な姿そのものであった。彼らは、守護・小笠原氏の衰退に乗じて勢力を拡大し、武田信玄という強大な勢力の前には現実的に臣従し、織田、徳川と支配者が変わるたびに巧みに乗り換えて生き残りを図った。その姿は、歴史の教科書に名を連ねる大名たちの華々しい戦いの陰で、数多の地方領主たちが繰り広げた、必死の生存競争の縮図と言える。
その中で、松岡頼貞や松岡貞利といった当主たちは、歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼らの取った一つの行動が、歴史の歯車を大きく動かすきっかけとなった事実は見逃せない。それは、井伊直親の庇護である。この一見、地方の小領主による人道的な行為が、巡り巡って後の徳川四天王の一人・井伊直政の誕生を可能にし、日本の近世史に大きな影響を与えた。そして皮肉にも、その恩義が、自らが犯した致命的な判断ミスによって改易された際、一族の血脈をかろうじて繋ぎ止めるという結果をもたらした。この事実は、歴史のダイナミズムにおいて、決して大きくはない「一つの歯車」がいかに重要な役割を果たしうるかを示している。
最終的に松岡氏は、豊臣・徳川という新たな天下人の前で、時代の変化に対応しきれず、一つの判断ミスによってその歴史に幕を下ろした。しかし、彼らが伊那谷に残した足跡は、決して消え去ってはいない。本拠であった松岡城跡は、現在、地域住民に親しまれる史跡公園として美しく整備され、その空堀や土塁は往時の姿を今に伝えている。城跡の一角には、一族の500年の歴史を偲ぶ慰霊碑も建立された。
歴史の中に埋もれた一族の物語は、戦国時代という時代の過酷さと、その中で繰り広げられた人間ドラマの豊かさを、現代の我々に静かに語りかけている。松岡頼貞という一人の武将の探求は、信濃の一地方に根付いた一族の壮大な興亡史へと繋がり、歴史とは勝者だけで作られるものではないという、普遍的な真理を改めて教えてくれるのである。