最終更新日 2025-07-14

松平信綱

松平信綱は「知恵伊豆」と称された江戸初期の老中。家光の側近として幕政を主導し、参勤交代の制度化、島原の乱鎮圧、明暦の大火復興を指揮。
松平信綱

松平信綱 ― 徳川の泰平を設計した「知恵伊豆」の全貌

序章:知恵伊豆、その実像を求めて

松平信綱(まつだいらのぶつな)。江戸時代初期、3代将軍・徳川家光、4代将軍・家綱の治世において、老中として幕政の中枢を担った人物である。彼の名は、その卓越した才気と機知に富んだ逸話の数々から、「知恵伊豆」という異名と共に語り継がれてきた 1 。この呼称は、彼の官位であった「伊豆守(いずのかみ)」と、知恵が泉のごとく湧き出る様をかけた「知恵出づ」に由来する 3 。しかし、彼の本質を単なる「知恵者」や「切れ者」という言葉で捉えることは、その功績の全貌を見誤ることになる。松平信綱とは、徳川幕府という巨大な統治機構の草創期において、最も重要な「制度設計者」であり、国家の存亡を揺るがす幾多の危機に対処した「最高危機管理責任者」であった。

彼の生きた時代は、戦国の遺風がいまだ色濃く残る武断政治から、法と制度による文治政治へと移行する、まさに日本の歴史における大きな過渡期であった。この激動の時代にあって、信綱は一方では島原の乱において12万の大軍を率いて反乱を徹底的に鎮圧する「武」の側面を見せ 5 、他方では寛永の大飢饉や明暦の大火に際して民衆の救済を最優先する「文」の政策を断行した 7 。この両極端ともいえる対応は、彼が特定の思想に固執するのではなく、国家の安定と存続という至上命題のために、あらゆる手段を冷静に、かつ合理的に選択する究極のプラグマティスト(実用主義者)であったことを示している。彼の「知恵」とは、小手先の頓智ではなく、時代の変化を読み、状況の本質を見抜き、最も効果的な解決策を導き出す、冷徹なまでの先見性と合理性に裏打ちされた国家統治の技術そのものであった。

本報告書は、松平信綱にまつわる数多の逸話や記録を丹念に検証し、その背後にある彼の政治思想、行政手腕、そして人間としての多面的な実像に深く迫ることを目的とする。彼の生涯を追うことは、徳川幕藩体制がいかにして確立され、250年にわたる泰平の世の礎がどのように築かれたのかを解き明かす旅でもある。

第一章:出自と立身 ― 将軍家光の懐刀へ

松平信綱 年譜

信綱の生涯は、一介の代官の子から幕府の中枢を担う老中へと駆け上がった、驚異的な立身出世の物語である。そのキャリアは、徳川幕府が直面した数々の重大事件と密接に結びついており、彼の経歴を辿ることは、そのまま江戸初期の政治史を概観することに等しい。

和暦(西暦)

年齢

主要な出来事・役職

官位・石高

典拠

慶長元年(1596)

1

大河内久綱の長男として武蔵国に誕生

1

慶長6年(1601)

6

叔父・松平正綱の養子となる

1

慶長9年(1604)

9

徳川家光の小姓となる

月俸3口

1

元和9年(1623)

28

小姓組番頭に就任。家光の将軍宣下の上洛に従う

従五位下伊豆守、800石

1

寛永4年(1627)

32

大名に列する

1万石

2

寛永10年(1633)

38

老中に就任。武蔵国忍藩主となる

3万石

1

寛永11年(1634)

39

「老中・若年寄職務定則」を制定

従四位下

1

寛永12年(1635)

40

武家諸法度「寛永令」発布に関与し、参勤交代を制度化

11

寛永14年(1637)

42

島原の乱、幕府軍総大将として出陣

1

寛永16年(1639)

44

島原の乱鎮圧の功により武蔵国川越藩主となる

6万石

1

寛永19年(1642)

47

寛永の大飢饉、飢饉奉行として対策にあたる

8

正保4年(1647)

52

加増される

7万5千石

2

慶安4年(1651)

56

家光死去。慶安の変(由井正雪の乱)を処理

2

承応4年(1655)

60

野火止用水を開削

2

明暦3年(1657)

62

明暦の大火、江戸復興の指揮を執る

1

寛文2年(1662)

67

老中在職中に病没

1

第一節:大河内氏の血脈と松平家への養子入り

松平信綱は、慶長元年(1596年)、徳川家の家臣で代官を務めていた大河内久綱(おおこうちひさつな)の長男として、武蔵国で生を受けた 1 。大河内氏は、摂津源氏の名将・源頼政の孫である顕綱を祖とすると称する、由緒ある武家の家系であった 10 。しかし、信綱の父・久綱の身分は幕府直轄地の代官であり、将軍に直接仕える旗本の中でも、その家格は決して高いものではなかった。

この出自が、信綱の生涯最初の、そして最も重要な決断を促すことになる。慶長6年(1601年)、信綱はわずか6歳にして、叔父にあたる松平正綱(まつだいらまさつな)の養子となることを自ら願い出たという逸話が残されている 1 。正綱は家康の側近として仕える有力な旗本であり、その養子となることは、将来の立身出世への道を大きく開くものであった。伝承によれば、幼い信綱(当時は三十郎と名乗っていた)は正綱のもとを一人で訪れ、「私は代官の子で口惜しい。恐れながら名字が欲しいので養子にしてほしい」と直談判したという。正綱がその理由を尋ねると、「私の本名(大河内)では御上の近習を勤めることは叶い難い。何卒養子になれば、お側近くで御奉公できるかもしれない」と答えたとされる 11

この逸話が史実であるとすれば、信綱の驚くべき早熟さと、武家社会の力学を的確に理解する洞察力には驚嘆せざるを得ない。6歳の少年が、自らの家格の限界を認識し、キャリアアップのための具体的な戦略として「松平」の姓を求めるという行動は、常軌を逸している。彼は、実父の「代官」という地位と、叔父の「将軍側近」という地位の間に存在する決定的な差を理解し、より高いステージへ上がるための最も有効な手段として養子縁組を選択したのである。この行動は、彼の知恵が単なる学問や機転に留まらず、自己のキャリアパスを冷静に設計し、目的達成のために最適な手段を講じる「戦略的思考」に根差していることを物語っている。松平信綱の輝かしい生涯は、この幼き日の野心的な「選択」から、その幕を開けたのであった。

第二節:家光の小姓から老中へ ― 信頼の確立と権力の中枢へ

松平の姓を得た信綱の願いは、間もなく現実のものとなる。慶長9年(1604年)、2代将軍・徳川秀忠の嫡男であり、後の3代将軍となる竹千代(家光)が誕生すると、信綱は9歳でその小姓に抜擢された 1 。ここから、彼の生涯を決定づける主君・家光との絶対的な主従関係が築かれていく。

二人の絆を象徴する有名な逸話が「雀の巣」の話である。ある時、幼い家光が父・秀忠の寝殿の軒に作られた雀の雛を欲しがった。主君の望みを叶えるべく、信綱は夜を待って屋根に登ったが、誤って庭に落ち、秀忠に見つかってしまう。「誰の指図か」と厳しく詰問されても、信綱は頑として「自分が欲しくて参りました」と答え、決して家光の名を明かさなかった。秀忠は事情を察しながらも、その強情さを試すかのように信綱を大きな袋に入れて柱に括りつけた。翌朝、再び同じ問いを発しても信綱の答えは変わらなかった。その揺るぎない忠誠心に感心した秀忠は信綱を許し、妻の江(ごう)に対して「信綱がこのまま成長すれば、家光のまたとない忠臣となろう」と語ったと伝えられる 1 。この一件は、主君の過ちやわがままであっても、その責任を一身に引き受け、決して主君を裏切らないという、信綱の生涯を貫く忠義の姿勢を決定づけた。

信綱の価値は、その忠誠心だけに留まらなかった。彼の機知と才覚は、家光の無理難題を次々と解決していった。家光が「限りなく長い糸の長さを、今すぐ測れ」と命じた際、他の小姓が途方に暮れる中、信綱は「まず十尋(約18メートル)だけ糸を切り、その重さを量ります。次に残りの糸全ての重さを量り、それが十尋分の重さの何倍になるかを計算すれば、全体の長さがわかります」と提案した。当時の武士にとって計算は商人の仕事と見なされがちであったが、信綱は実用的な知識を駆使して問題を解決してみせた 4 。また、家光が「2時間以内に能舞台を造れ」と命じた際には、通常は乾燥に1週間かかる白土壁の代わりに、材木で組んだ骨組みに白壁に見せかけた布を張るという奇策で、見事に要求に応えたという 4

これらの逸話が示すように、信綱は家光にとって、自らの意を最もよく汲み、いかなる困難な要求にも知恵と工夫で応えてくれる、まさに「最高の家臣」であった。彼は、家光の気まぐれや権威の誇示といった個人的な欲求を、完璧な忠誠心と実務能力で満たし続けた。この過程で築かれた家光からの絶対的な信頼こそが、信綱の異例の出世を支える最大の権力基盤となったのである。

元和9年(1623年)、家光の将軍宣下に伴う上洛に従い、28歳で小姓組番頭に就任、従五位下伊豆守に叙任される 1 。その後も加増を重ね、寛永4年(1627年)には1万石の大名となり、ついに寛永10年(1633年)、38歳という若さで老中に就任、武蔵国忍(おし)藩3万石の藩主となり、名実ともに幕政の中枢を担う存在となった 1 。家光は信綱を深く寵愛し、後に「わが右の手は讃岐(大老・酒井忠勝)、左の手は伊豆(信綱)である」と語り、その両腕として幕府の確立に尽くした功績を讃えた 11 。また、「伊豆守のごとき者を今一人持ったならば、何の心配も無いのだが」とまで言わしめたことからも 3 、二人の信頼関係の深さが窺える。

第二章:幕政の設計者 ― 寛永の治と制度構築

老中に就任した信綱は、家光の信頼を背景に、徳川幕府の統治システムを盤石にするための制度設計にその手腕を振るう。彼が中心となって進めた政策は、武断政治から文治政治への移行を決定づけ、その後200年以上にわたる「徳川の泰平」の礎を築いた。

第一節:武家諸法度「寛永令」と参勤交代の制度化

寛永期における幕政の最大の成果の一つが、全国の大名を統制する基本法である「武家諸法度」の改訂である。寛永12年(1635年)、家光の名の下に発布されたこの新しい武家諸法度は、通称「寛永令」と呼ばれ、信綱はその策定に関わった中心人物の一人であった 11

この寛永令の最も重要な点が、「参勤交代」の制度化であった 15 。それまでも慣例として行われていた大名の江戸出仕を、初めて法令として明文化し、外様大名を含むすべての大名に対し、原則として1年おきに江戸と国元を行き来することを義務付けたのである 17 。さらに、大名の妻子は人質として江戸に常住させることが定められた。

この制度の直接的な目的は、諸大名に江戸と国元の二重生活を強いることで莫大な経済的負担を課し、その財力を削いで軍事力を弱体化させ、幕府への謀反の意志を根底から断ち切ることにあった 17 。しかし、信綱らが描いた構想は、単なる大名統制策に留まるものではなかった。参勤交代は、結果として江戸を中心とした全国的な政治・経済・文化の一元化を促す、壮大な国家改造計画としての側面を持っていた。

全国から江戸へ向かう大名行列は、五街道をはじめとする全国の交通網の整備を飛躍的に進展させた。人々の往来と物流が活性化し、江戸は名実ともに日本の中心となった。諸大名が江戸に広大な屋敷を構え、多くの家臣や御用商人を伴って生活することで、江戸は爆発的な人口増加を遂げ、世界有数の巨大都市へと発展した。また、地方の特産物や文化が江戸に集積される一方で、江戸で洗練された文化や情報が全国に伝播するハブとなり、日本全体の文化的な均質化と発展に大きく寄与した。

信綱は、これに先立つ寛永11年(1634年)に「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を、寛永12年(1635年)には寺社奉行、勘定頭、大目付といった主要な役職の職制を定め、幕府の行政機構を機能的に体系化した 1 。これらの制度改革と参勤交代の制度化は、いわば車の両輪であった。強固な中央行政機構と、大名を物理的・経済的に中央に結びつけるシステムを組み合わせることで、徳川の支配は武力に依存する段階から、「制度」によって天下を統治する新たな時代へと移行したのである。信綱は、その壮大な国家システムの設計者として、歴史にその名を刻むことになった。

第二節:寛永の大飢饉 ― 経済政策と民政家としての手腕

信綱の知恵が、武家社会の統制だけでなく、民衆の生活や国家経済という、より広範な領域で試される機会が訪れる。寛永19年(1642年)頃から、長雨、洪水、旱魃、虫害などが全国で相次ぎ、日本は「寛永の大飢饉」と呼ばれる未曾有の食糧危機に見舞われた。

事態を重く見た将軍家光は、幕府が総力を挙げてこの国難に対処することを決意。信綱は、茶人としても名高い小堀遠州らと共に、対策の責任者である「飢饉奉行」に任じられた 8 。しかし、当初、信綱自身も百姓の実情には疎く、有効な対策を打ち出せずに苦慮した。幕閣の議論は空転し、現場の代官たちからは「今ごろ夫食を貸し付けても遅い」「現場を無視した議論はやめてほしい」といった厳しい批判に晒される 8 。この手痛い経験が、信綱を将軍の側近から、国家経済と民衆の生活に直接責任を負う「行政家」へと脱皮させる転換点となった。

現場の声に耳を傾けた信綱らは、現実的な対策へと大きく舵を切る。まず、酒造の制限や、米以外の穀物を原料とする素麺や饅頭の製造禁止、さらには嗜好品である煙草や木綿の作付けを禁じるなど、徹底した倹約令を発布し、食糧の消費を抑制した 8 。同時に、幕府が保有する蔵米を江戸市場に大量に放出することで米価の高騰を抑え、飢えに苦しむ人々のために土木事業(普請)を起こして日当として米を支給する救済策も実施した 8

数ある対策の中でも、信綱の民政家としての手腕を最も象徴するのが、寛永20年(1643年)2月に発布された「田畑永代売買禁令」である 8 。これは、飢饉に乗じて資金力のある富農や商人が、生活に困窮した貧農から安値で田畑を買い叩き、土地を独占することを禁じる法令であった。農民が土地を失い小作人に転落することは、幕府の税収基盤である本百姓体制の崩壊に直結する。信綱は、この禁令によって土地の寡占化を防ぎ、幕藩体制の社会経済的基盤そのものを守ろうとしたのである。これは単なる一時的な救済策ではなく、国家の根幹を維持するための明確な政治目的を持った、極めて重要な経済介入であった。

この飢饉との戦いを通じて、信綱は、天下普請などの幕府の政策が農民に与える過酷な負担を痛感し、為政者の務めが民衆の生活の安定にあることを骨身に染みて学んだ 8 。主君への忠誠というミクロな視点から、国家社会全体の安定というマクロな視点へ。信綱の政治思想はこの時に大きく深化し、彼の「知恵」は、これ以降、民政と経済の分野でより一層、深く鋭く発揮されることとなる。

第三章:国家存亡の危機管理 ― 「知恵伊豆」の本領

幕藩体制の確立期は、平穏な時代ではなかった。大規模な反乱、幕府転覆の陰謀、そして未曾有の大災害。これらの国家的な危機に際して、松平信綱はその真価を遺憾なく発揮する。彼の危機管理能力は、徳川の治世を盤石なものにする上で決定的な役割を果たした。

第一節:島原の乱 ― 乱世の終焉を告げる総大将

寛永14年(1637年)、九州の島原半島と天草諸島において、キリシタン弾圧と過酷な年貢の取り立てに耐えかねた農民らによる大規模な一揆、いわゆる「島原の乱」が勃発した。天草四郎時貞を指導者として蜂起した一揆勢は3万7千人に達し、廃城となっていた原城に立てこもった。

幕府が最初に派遣した討伐軍の上使(総大将)・板倉重昌は、功を焦るあまり準備不足のまま総攻撃を仕掛け、一揆勢の激しい抵抗の前にまさかの討死を遂げる 19 。譜代大名である総大将の戦死は幕府の権威を大きく揺るがす一大事であった。この危機的状況を収拾すべく、白羽の矢が立てられたのが老中・松平信綱であった。

信綱は、九州諸藩から動員した12万を超える大軍の総大将として現地に赴いた 1 。彼の指揮は、板倉重昌のような武力一辺倒の戦いとは一線を画す、合理的かつ多角的なものであった。それは、兵站、心理、情報、政治を巧みに組み合わせた、近代的な「総力戦」の様相を呈していた。

第一に、信綱は強攻策を徹底して避けた。味方の損害を最小限に抑え、確実に勝利を収めるため、原城を完全に包囲し、兵糧の補給路を断つ「兵糧攻め(干殺し)」を基本戦略とした 5

第二に、巧みな心理戦を展開した。信綱は、長崎・平戸のオランダ商館長に協力を要請し、オランダ船に海上から原城への艦砲射撃を行わせた 5 。この砲撃の軍事的な効果は限定的だったとされるが、その真の狙いは、同じキリスト教国であるポルトガルやスペインからの援軍を期待していた一揆勢の希望を打ち砕くことにあった 6 。異国の船が味方ではなく敵として現れたことは、一揆勢の士気に深刻な打撃を与えた。

第三に、徹底した情報収集を行った。忍者を城内に潜入させる試みは、方言が分からず失敗に終わったが 6 、信綱は別の方法で城内の情報を掴む。捕らえた一揆勢の遺体の胃の内容物を調べさせ、彼らが海藻などを食べて飢えをしのいでいることを確認し、兵糧が尽きかけていることを科学的に分析したのである 6

兵糧が尽き、一揆勢が衰弱しきったことを見極めた信綱は、寛永15年(1638年)2月、ついに総攻撃の命令を下す。二日間にわたる激戦の末、原城は陥落し、天草四郎をはじめとする一揆勢は女子供に至るまでほぼ全員が殺害され、乱は鎮圧された 5

信綱の冷徹な知恵は、戦後処理においても発揮された。彼は、この大乱の根本的な原因が、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主(天草領主)・寺沢広高の悪政にあったと断定。松倉勝家は、大名としては極めて異例の「斬首刑」に処され、寺沢広高も領地を没収された 5 。これは単なる懲罰ではない。「領主の悪政は大規模な反乱を招き、幕府の統治を揺るがす」という因果関係を幕府が公式に認め、領主の責任を天下に明確にした画期的な政治的メッセージであった。これにより、全国の大名に善政を強く促すという、将来の安定統治を見据えた布石を打ったのである。島原の乱の鎮圧は、戦国時代から続いた大規模な内乱の時代に、事実上の終止符を打つ出来事となった。

第二節:慶安の変 ― 陰謀を制する情報戦と政治的謀略

家光の治世が終わりを告げ、慶安4年(1651年)にわずか11歳の家綱が4代将軍に就任すると、幕府の足元を揺るがす新たな危機が訪れる。将軍の代替わりという政情不安の隙を突き、軍学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)が、関ヶ原の戦い以降の改易で巷にあふれた浪人たちの不満を吸収し、幕府転覆を企てたのである。これが「慶安の変(由井正雪の乱)」である 23

計画は、槍の名手である丸橋忠弥(まるばしちゅうや)らが江戸市中で火事を起こして混乱させ、江戸城を占拠。時を同じくして由井正雪が駿府で、金井半兵衛が大坂で挙兵するという、壮大なものであった 24 。しかし、この計画は実行に移される直前に、一味であった奥村八左衛門らの密告によって幕府に露見する 24

通報を受けた信綱の対応は、迅速かつ的確であった。彼は直ちに江戸の丸橋忠弥を捕縛させると同時に、駿府の町奉行に指令を飛ばし、旅籠に滞在していた由井正雪を包囲。追い詰められた正雪は自害し、計画は未遂に終わった 23

しかし、この事件の真相は、単なる密告による発覚という単純なものではなかった可能性が高い。事件の処理過程を詳しく見ると、信綱の「知恵」が持つ、冷徹で権謀術数的な側面が浮かび上がってくる。信綱は、島原の乱の経験から浪人の危険性を熟知しており、以前から不満分子のカリスマとなりつつあった由井正雪の動向を危険視し、その軍学塾「張孔堂」に多くの密偵を潜入させていたとされる 24 。つまり、信綱は密告がある以前から、計画の全容をほぼ把握していたと考えられるのである。

ではなぜ、即座に捕縛しなかったのか。ここに、信綱のもう一つの狙いがあったとする説が存在する。それは、この反乱計画を利用して、かねてより幕政に批判的であった御三家の重鎮、紀州藩主・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)を政治的に失脚させることであった 26 。頼宣は家康の実子という絶大な権威を持つ一方で、その存在は幕閣にとって煙たいものであった。信綱は、正雪が頼宣と接触していた事実を掴んだ上で、あえて計画を泳がせ、頼宣の関与を疑わせる状況を意図的に作り出したのではないか。事実、捕らえられた正雪の仲間が「我らは紀州様の家来である」と叫んだという記録もあり、事件後、頼宣が直接罰せられることはなかったものの、その政治的影響力は大きく削がれることになった 26

慶安の変の処理は、信綱が単に危機を防ぐだけの能吏ではないことを示している。彼は、危機を巧みに「利用」して政敵を排除し、幕府の権力基盤をより一層強固にするという、高度な政治的ゲームを仕掛けることのできる、マキャベリストとしての一面をも併せ持っていた。彼の知恵は、幕府の安泰のためならば、非情な謀略さえも厭わない鋭利な刃であった。

第三節:明暦の大火 ― 江戸復興の陣頭指揮

信綱のキャリアの集大成ともいえる危機管理能力が発揮されたのが、明暦3年(1657年)に発生した「明暦の大火(振袖火事)」である。江戸市中の6割以上、そして徳川の権威の象徴であった江戸城天守閣までもが灰燼に帰したこの未曾有の大災害は、幕府の統治能力そのものを問うものであった 2

この国家的な混乱の渦中にあって、老中首座であった信綱の判断は、迅速かつ大局的であった。

第一に、彼は人命と社会秩序の維持を最優先した。火災直後、信綱は自らの独断で、諸大名の参勤交代を一時的に免除し、江戸に滞在している大名やその家臣たちに帰国を促した。これは、被災して食糧供給が不安定になった江戸の人口を意図的に減らし、食糧危機とそれに伴う治安の悪化を防ぐための、極めて的確な判断であった。この前例のない独断に対し、御三家の紀州頼宣が「幕府の重要事項を合議もせずに決めた」と非難した際、信綱は「このような非常時に合議していては時機を逸します。もしこの決定に落ち度があれば、その責任は全て私が負う覚悟です」と毅然として答え、頼宣を感嘆させたと伝えられている 1

第二に、巧みな経済政策で江戸の経済パニックを防いだ。信綱はまず、幕府の備蓄米を被災者に惜しみなく放出することで、民心の安定を図った。同時に、米価の高騰を見越した商人による米の買い占めが横行することを見抜き、先手を打った。彼は、幕府が保有する金銀を放出し、旗本や御家人に通常の倍額に相当する救済金を与えた上で、「市中で落ち着いた価格の米を、幕府がその倍の値で買い上げる」という驚くべき布告を出したのである 7 。これにより、米を売れば大儲けができると考えた全国の商人たちが、我先にと江戸へ米を運び込んだ。結果として江戸市中には米が溢れ、米価は安定し、復興に必要な食糧が潤沢に確保された。市場原理を逆手に取った、見事な経済手腕であった。

第三に、彼は江戸の未来を見据えた復興計画を主導した。将軍補佐役であった保科正之と共に、信綱は焼失した江戸城天守閣の再建を棚上げするという画期的な決断を下す。そして、天守再建に充てられるはずだった莫大な費用を、すべて市中の復興と、将来の防災を考慮した都市計画に振り向けたのである 1 。これは、幕府の権威の象徴である建造物よりも、民衆の生活再建を優先するという、為政者としてのあるべき姿を示したものであった。この大火を教訓として、江戸の町は道幅が広げられ、火除地が設けられるなど、近代的な防災都市へと生まれ変わるが、その礎を築いたのは、信綱と正之のこの英断であった 29

明暦の大火における信綱の対応には、彼のキャリアを通じて培われた全ての要素が凝縮されている。主君と国家のためなら責任を恐れない覚悟、寛永の大飢饉で学んだ経済と民政への深い理解、そして何よりも、徳川の治世の基盤が巨大な城ではなく、安寧な民の生活にあることを見抜いていた大局観。彼は、最大の危機を、江戸を再生させる最大の好機へと転換させたのである。

第四章:領主としての顔 ― 川越藩と武蔵野開発

幕政の中枢で多忙を極める信綱であったが、彼は同時に一藩の領主でもあった。彼の行政手腕は、国家レベルの政策だけでなく、自らの領地である川越藩の経営においても遺憾なく発揮され、その後の地域の発展に大きな遺産を残した。

第一節:「小江戸」川越の基盤構築

寛永16年(1639年)、島原の乱鎮圧の功績により、信綱は武蔵国忍藩から川越藩6万石(後に7万5千石に加増)へと移封された 1 。川越は江戸の北方を守る軍事的な要衝であり、その藩主には幕府の重臣が任じられるのが常であった。

信綱は着任早々、藩政の抜本的な改革に着手する。前年の川越大火で大きな被害を受けていた城郭を修築・拡張し、城下町の区画整理(町割)を断行。商業地区として「十ヶ町」、寺社の門前町として「四門前町」を整備し、計画的な都市基盤を築いた 2 。さらに、江戸と川越を結ぶ物流の大動脈として新河岸川の舟運を開設し、川越街道を整備することで、経済的な結びつきを強化した 1 。また、荒川や入間川の治水事業に力を注いで水害を防ぎ、慶安元年(1648年)には領内総検地を実施して、公正な年貢徴収の基礎を固めるなど、農業政策にも注力した 2

これらの多岐にわたる政策によって、川越藩の藩政は盤石なものとなり、川越は江戸の文化や物資が流入する北関東の経済的中心地として大いに繁栄した。今日、「小江戸」と称される川越の町の礎は、まさしく藩主・松平信綱によって築かれたのである 11

第二節:野火止用水 ― 不毛の地を潤した大事業

信綱の領主としての最大の功績として挙げられるのが、「野火止用水(のびどめようすい)」の開削である。これは、彼の公(幕政)と私(藩政)の立場を巧みに連携させた、公私一体の戦略的事業であった。

承応2年(1653年)、江戸の急激な人口増加による水不足を解消するため、幕府は多摩川から江戸市中へ水を引く「玉川上水」の開削を決定。この国家的な大事業の総奉行に任命されたのが、老中である信綱であった 32 。工事は難航したが、信綱は家臣の安松金右衛門(やすまつきんえもん)ら土木技術に長けた人材を投入し、見事に完成へと導いた 32

信綱はこの「公」の事業における功績を、巧みに「私」の利益へと結びつけた。彼は、玉川上水完成の功績を認められ、幕府から特別に、その上水から自らの領地である川越藩領内へ水を分ける許可を得たのである 32 。幕府の基幹インフラである上水を私領に引くことは極めて異例のことであり、これは老中としての信綱の絶大な政治力なくしては実現不可能なことであった。

この特権を得た信綱は、承応4年(1655年)、直ちに行動に移る。当時、彼の領地の一部であった武蔵野台地北部の野火止一帯は、水利に乏しい不毛の地であった。信綱は、この地を豊かな農地に変えるため、玉川上水から分水する全長約24キロメートルにも及ぶ用水路の開削を命じた。これが「野火止用水」であり、領民からは信綱の名にちなんで「伊豆殿堀(いずどのぼり)」とも呼ばれた 9

工事は家臣の安松金右衛門が普請奉行を務め、わずか40日という驚異的な速さで完成したと記録されている 32 。この用水の完成により、野火止台地の新田開発は飛躍的に進んだ。信綱は計画的に農民を入植させて新たな村々(野火止村、西堀村など)を創設し、彼らの生活用水と農業用水を確保した 32

野火止用水の開削は、単なる土木事業ではない。それは、信綱が幕府の老中としての「公」の権力と、一藩の領主としての「私」の経営者感覚を併せ持ち、両者を巧みに連動させて相乗効果を生み出す、極めて高度な政治家・経営者であったことを示す不朽のモニュメントである。

第五章:人物像の多角的考察 ― 同時代人の評価と逸話から

松平信綱とは、いかなる人物であったのか。彼の業績を追うだけでは見えてこない人間的な側面に光を当てるため、同時代人による評価や、彼の性格を物語る数々の逸話を多角的に考察する。

第一節:「才あれど徳なし」か ― 信綱の人間性と政治哲学

信綱の抜きん出た才気は、同時代人から畏敬と、時には警戒の念をもって見られていた。幕府の大老であった酒井忠勝は、信綱を評して「伊豆守と知恵比べなどするはおろか。あれは人間というものではない」と語ったとされ、その常人離れした知力に舌を巻いている 11 。また、僚友であった老中・阿部忠秋も「何事によらず信綱が言うことは速い。自分などはあれこれ迷っているうちに、信綱はすでに料簡のうちにある」と、その判断の速さと的確さを認めている 11

しかしその一方で、信綱は「才あれど徳なし」と評され、人望は必ずしも厚くはなかったとも伝えられる 11 。その背景には、彼の徹底した合理主義と、幕府という「システム」の安定を最優先する、時に非情とも映る姿勢があった。万治3年(1660年)、同僚であった老中・堀田正盛の子である堀田正信が、信綱らの幕政を「民を苦しめている」と公然と批判し、無断で領地に帰るという事件が起きた。信綱はこれを幕府への反逆とみなし、堀田正信を改易(領地没収)という厳しい処分に処している 11 。個人の情や理想よりも、幕府の秩序と権威の維持を優先する、彼の冷徹な一面が垣間見える。

信綱自身の政治哲学を端的に示す言葉が残っている。彼は政治の要諦について問われた際、「重箱を摺子木で洗うようなのがよい」と答えたという。漆塗りの重箱を、太いすりこぎで洗っても隅々の汚れは取れない。しかし、隅々まで完璧にきれいにしようとすれば(=厳しく取り締まりすぎれば)、かえって重箱そのものを傷つけてしまう。つまり、統治とはある程度の不完全さや「遊び」を許容するものであり、完璧を求めてシステム全体を毀損してはならない、という極めて現実主義的な統治術を示している 11

彼の私生活も、その公人としての姿勢を反映していた。信綱は下戸で酒を嗜まず、当時武士の嗜みとされた茶の湯や歌会、囲碁、将棋といった遊興にもほとんど興味を示さなかった 11 。彼の最大の楽しみは、政務の合間に、心を許した者たちと政治について問答を交わすことであったという。個人的な人間関係の構築よりも、政務という公務に全精力を注ぎ込む彼の姿は、他者から見れば「人間味に欠ける」「冷たい」と映ったかもしれない。

したがって、「才あれど徳なし」という評価は、信綱の人間性の欠如を指すというよりは、彼の「徳」の尺度が、当時の武士社会が一般的にもっていた情や面子といった価値観とは異なり、より近代的・官僚的な「システムの効率と安定」という「公の徳」に向けられていたことの裏返しと解釈すべきであろう。

第二節:鼎の脚、僚友、そして政敵 ― 酒井忠勝、阿部忠秋、保科正之との関係

信綱の人物像は、彼と共に家光・家綱政権を支えた僚友達との比較によって、より一層鮮明に浮かび上がる。家光・家綱時代の幕政の安定は、決して信綱一人の力によるものではなく、異なる個性と能力を持つ人材が絶妙なバランスで機能した「チーム」の成果であった。

酒井忠勝 は、徳川譜代の名門出身で、家光政権下では大老を務めた重鎮である。家光からは信綱と共に「両腕」と評されるほどの信頼を得ていたが 11 、その一方で信綱の突出した才気を「人間ではない」と評するなど、警戒心も抱いていた 12 。出羽庄内藩のお家騒動では、藩内の対立する派閥がそれぞれ忠勝と信綱を後ろ盾として争うなど、二人の間には政治的な緊張関係も存在した 37

阿部忠秋 は、信綱と同じく小姓から老中にまで昇進し、生涯の僚友として幕政を支えた人物である。数々の逸話において、忠秋は信綱とは対照的な人物として描かれる。例えば、家光が鴨狩りの際に町人の魚屋から蛤を断りなく使った時、信綱が「上様のお役に立ったのだから代金は不要」と言ったのに対し、忠秋は「商人の僅かな稼ぎを奪うことは政道の名折れである」と反論し、代金を支払わせたという 38 。また、移転を拒む寺の僧侶を説得する際、理詰めで迫る信綱が失敗した後、忠秋が「では、罰として移転を命じる」という頓智で承諾させた話も有名である 38 。これらの逸話は、信綱が合理性や幕府の権威を重んじるのに対し、忠秋が人間的な情理や民衆の視点を大切にする、温厚で実直な人柄であったことを示している。二人は互いの欠点を補い合い、時に信綱の冷徹な判断のブレーキ役を忠秋が務めることで、幕政のバランスを保っていた 38

保科正之 は、2代将軍秀忠の隠し子であり、家光の異母弟という特別な立場にあった。家光の死に際して、幼い家綱の後見を託された彼は、絶大な権威をもって幕政を支えた。信綱と正之は、特に民政重視の姿勢で固く結びついていた。明暦の大火後の復興において、江戸城天守の再建よりも民衆の救済を優先するという歴史的な決断を下すことができたのは、正之の将軍家との血縁的権威と、信綱の卓越した実務能力が一体となったからこそであった 7

このように見ていくと、家光・家綱政権の成功は、信綱というカミソリのような「知」、忠秋という人情に通じた「仁」、そして正之という絶対的な「権威」が、見事に組み合わさった結果であったことがわかる。信綱は孤高の天才ではなく、優れた同僚との相互作用の中で、幕府という巨大な組織を動かした、最高のチームプレイヤーの一人でもあったのだ。

終章:遺産とその後 ― 大河内松平家の行く末

寛文2年(1662年)3月16日、松平信綱は老中在職のまま、67年の生涯に幕を閉じた 1 。死を悟った彼は、老中の同僚である阿部忠秋に嫡子・輝綱の後事を託したという 11 。そして、一つの遺言を残した。それは、生前に主君である家光や家綱から拝領した親書や感状の数々を、「後の人が読むと問題が起こるかもしれない」という理由で、必ず焼却し、その灰を埋めるようにというものであった 12 。自らの功績の証をこの世から消してでも、幕府の将来にいささかの波風も立てまいとする、彼の最後の行動であった。個人的な名誉や記録よりも、組織の安寧と秘密を優先する。それは、生涯を幕府という「公」に捧げた、究極の官僚精神の表れであった。

松平信綱が残した最大の遺産は、彼が設計し、築き上げた「幕藩体制というシステム」そのものである。彼が制度化した参勤交代、整備した幕府の職制、そして危機管理の中で示した民政重視の政治哲学は、その後200年以上にわたって続く徳川の泰平の時代を支える根幹となった。

彼が一代で興した大河内松平家は、信綱が築いた盤石な基盤の上に、幕末まで譜代の名門として繁栄を続けた。長男の輝綱は、父とは対照的に火器や天文学の研究に没頭する学者肌の人物であったが 41 、その子の信祝(のぶとき)は祖父と同じく老中に就任し、8代将軍・吉宗の享保の改革を支えた 41 。その後も、信綱の直系である三河吉田藩主家からは、寛政の改革で活躍した松平信明をはじめ、幕末までに4人の老中が輩出された 43 。また、信綱の子らが興した分家(上野高崎藩、上総大多喜藩)からも老中格が任命されるなど、一族は幕政において重要な役割を担い続けた 44

彼らが代々幕府の要職に就くことができたのは、初代・信綱が築いた家格や財産だけでなく、「幕府への奉公こそが、自らの家を安泰にする最善の道である」という、彼の生き様そのものが、子孫への無言の教えとして家風に受け継がれたからに他ならない。明治維新後、一族は松平姓から本来の大河内姓に復し、華族(子爵)に列せられ、その血脈は現代にまで続いている 10

松平信綱の生涯は、一個人の知恵と才覚、そして揺るぎない意志が、いかにして国家の形を創り、時代の流れを決定づけ、一族の運命を導くことができるかという、壮大な歴史の物語である。彼が遺した「知恵」の数々は、今なお、組織のリーダーシップや危機管理の要諦を我々に問いかけている。

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