戦国時代の末期、日本の東北地方、特に陸奥国中部は、中央の政治動向とは一線を画した独自の権力構造の下にあった。この地を支配したのは、鎌倉時代以来の名門、葛西氏である。しかし、葛西氏の統治は、織田信長や豊臣秀吉といった戦国大名が築き上げた中央集権的な支配体制とは大きく異なっていた。その実態は、葛西惣領家を盟主としながらも、領域内に多くの有力な国人領主を抱える、いわば連合体的な性格を色濃く帯びていたのである 1 。
この葛西氏の家臣団の中でも、ひときわ強大な力を有し、特異な地位を占めていたのが、本報告書の主題である柏山明吉が率いた柏山一族であった。柏山氏は、胆沢郡(現在の岩手県奥州市および金ケ崎町一帯)の惣領職を務め、その広大な所領を実質的に支配していた 2 。その勢力は「家中屈指の軍事力」と評されるほどであり、単なる一重臣の域を遥かに超えていた 2 。
この事実を裏付ける史料として、康永元年(1342年)の石塔義房の書状が挙げられる。この書状において、柏山氏は主家である葛西氏を介さず、直接書状を受け取っている 4 。これは、南北朝の時代から既に、柏山氏が葛西惣領家とは別に、半ば独立した領主としての権威と実力を行使していたことを明確に示している。彼らはまさに、葛西領という「国」の中に存在する、もう一つの「国」であった。
このような強力な国人の存在は、一見すると葛西氏の勢力の源泉であるように見える。しかし、その実、この統治構造には深刻な脆弱性が内包されていた。柏山氏をはじめとする有力国人の自律性があまりにも高いため、葛西惣領家の求心力がわずかでも低下すれば、領内は容易に分裂や内紛の危機に瀕するのである。主家と重臣の間に常に存在するこの種の緊張関係こそが、後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐への不参陣という致命的な判断ミスを招き、葛西氏全体の没落へと繋がる遠因となった。本報告書は、この激動の時代に「国の中の国」を率いた武将、柏山明吉の生涯と、彼の一族が辿った興亡の軌跡を、史料に基づき徹底的に解明するものである。
柏山氏が如何にして胆沢の地に強大な勢力を築き上げたのかを理解するためには、まずその出自を巡る複雑な伝承を解き明かす必要がある。史料には複数の、時には相互に矛盾する系譜が記録されており、これらは一族の歴史と自己認識の変遷を物語っている。
柏山氏のルーツについては、主に三つの系統の説が存在する。
これらの説の乱立は、単なる記録の混乱や散逸として片付けるべきではない。むしろ、これは戦国時代の武家が、自らの支配の正統性を補強するために、より権威ある血筋(例えば、武家の棟梁たる桓武平氏や、主家との繋がりを示す千葉氏)に自らを接続しようとした「系譜の創造」の過程そのものを映し出している。在地に根を張る一豪族であった可能性が高いものの、時代の政治状況や一族の立場に応じて、自らの出自を戦略的に「編集」していった歴史がそこにはあったと推察される。この視点に立つことで、矛盾して見える史料群を単なる「誤り」として排除するのではなく、それらが生まれた歴史的背景ごと深く理解することが可能となる。
表1:柏山氏出自に関する諸説の比較 |
説の名称 |
奥州千葉氏説 |
桓武平氏説(平兼盛子孫説) |
桓武平氏説(平資盛子孫説) |
在地豪族説(奥州藤原氏・清原氏系譜) |
在地豪族説(その他) |
主な内容 |
葛西氏重臣の千葉清胤が祖とされ、その子孫が胆沢郡を領して柏山氏を称した。 |
平兼盛の子・亀千代が源義家より所領を得て「水沢殿」と称したのが始まりとされる。 |
平家滅亡後、平資盛の子・資元が奥州へ落ち延び、葛西清重の庇護の下で再興した。 |
元は奥州藤原氏や清原氏の一族で、安倍氏の故地に拠点を置いた在地勢力。 |
他の奥州千葉氏とは別系統で、上毛野氏の流れを汲む現地の古族の末裔。 |
典拠となる史料 |
4 |
6 |
6 |
4 |
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説が持つ歴史的意味 |
主家・葛西氏との古くからの関係性を強調し、家臣団内での地位を正当化する意図が見られる。 |
源氏の棟梁・源義家との直接的な繋がりを主張することで、一族の権威を高めようとする意図。 |
悲劇の名門・平家の子孫という物語性を帯び、源氏の代官たる葛西氏による庇護という形で、支配の正統性を劇的に演出する。 |
奥州藤原氏以来の、この地の正統な支配者であることを示唆する。在地性が強く、外部から来た葛西氏とは異なる権威の源泉を持つことを示す。 |
葛西家臣団という枠組みに収まらない、独立した勢力としての歴史的背景を強調する。 |
出自の謎と同様に、柏山氏の権勢を象徴するのが、その本拠地である大林城(別名:柏山館、百岡城)である 4 。この城は、現在の岩手県胆沢郡金ケ崎町に位置し、南に胆沢川、北に永沢川が流れる天然の要害に築かれていた 6 。この地は、南に広がる胆沢扇状地と北の六原扇状地を一望できる戦略的要衝であり、中世を通じて胆沢地方一帯を支配する柏山氏の政治・軍事の中心地として機能した 3 。城の起源は古く、前九年の役における安倍氏の砦に由来するという伝承も残っており 4 、この地が古くから軍事的に重要視されていたことを物語っている。
史料上にその名が明確に現れる柏山明吉の時代、柏山氏はその権勢の頂点を迎える。彼は、錯綜する出自の伝承を束ねるかのように、胆沢郡の惣領職として揺るぎない支配を確立し、その武威は葛西領内のみならず、周辺勢力にまで鳴り響いていた。
明吉は、葛西氏の家臣という立場にありながら、胆沢郡一帯を実質的に統治する領主であった 2 。その人物像について、後世の軍記物や小説的な史料ではあるが、示唆に富む記述が残されている。例えば、隣接する斯波氏との緊張関係の中で、ある武将が明吉を評して「隙の無い剛直な武人」と語る場面がある 10 。これは、彼が単に武勇に優れるだけでなく、油断なく領国経営にあたる、厳格で威厳に満ちた統治者であったことを窺わせる。このような評価が他家の武将によってなされている点からも、明吉の威勢が国境を越えて広く認識されていたことがわかる。彼の統治下で、柏山氏は葛西家中にありながらも、独自の判断で軍事行動を起こせるほどの強大な力を保持していた。
しかし、この強大な権力者であった明吉の家庭は、後の悲劇の種を宿していた。史料を総合的に分析すると、明吉には少なくとも四人の息子がいたことが確認できる。彼らの存在と関係性が、明吉の死後、一族の運命を大きく左右することになる。
これらの息子たちは、それぞれ分家を立てるなどして柏山一族の勢力圏内に配置されていたと考えられる。三男が「小山」を、四男が「折居」を名乗っているのは、彼らがその地を治める分家の当主であったことを示している 13 。
ここに、一つの歴史的力学が働く。明吉という「隙の無い剛直な武人」の強力なリーダーシップは、彼が存命の間は一族を強固に束ねる力となった。しかし、このような独裁的ともいえる指導者の死は、しばしば深刻な権力闘争を引き起こす。明吉が後継者指名や権力の委譲を円滑に進めていなかったのか、あるいは息子たちの間に燻る野心や対立を、その剛直さゆえに力で抑えつけていただけであったのか。いずれにせよ、彼の強権的な統治は、結果として息子たちの間に鬱積した不満や権力欲を増幅させ、彼の死という権力の真空状態が生まれた途端、それらが一気に噴出する危険な土壌を作り上げてしまった可能性は極めて高い。明吉の偉大さが、皮肉にも一族崩壊の序曲となったのである。
柏山明吉という偉大な当主を失った後、彼が築き上げた権勢は脆くも崩れ去る。残された息子たちの間で繰り広げられた骨肉の争いは、単なる家督相続を巡るいさかいに留まらず、家中を二分し、ついには自滅へと向かう破滅的な内紛へと発展した。この一連の内部抗争こそ、柏山一族の運命を決定づけた、最大の悲劇であった。
明吉の没後、間もなくして柏山家は深刻な内紛に見舞われる。天正9年(1581年)春、嫡男とされる明国と、次男の明宗との間で、家督の座を巡る激しい争いが勃発した 11 。この争いは単なる兄弟間の対立ではなく、三男の小山九郎明長と四男の折居宮内明胤も巻き込む、一族全体を揺るがす大事件であった 12 。
この内紛の具体的な経緯や勝敗に関する詳細な記録は乏しい。しかし、この家督争いが、これまで一枚岩と思われていた柏山一族の結束に、最初の、そして致命的な亀裂を入れたことは間違いない。惣領家の権威は失墜し、兄弟たちは互いに不信と憎悪を募らせていった。この時に生まれた亀裂が、数年後にさらに深刻な事件を引き起こす伏線となる。
家督争いから数年後、柏山家の内部崩壊を象徴する、さらに衝撃的な事件が発生する。天正16年(1588年)頃、柏山家の家老職を務める重臣、三田刑部少輔義広(みたぎょうぶのしょうよしひろ)が、自らが仕えるべき主家である柏山氏によって攻められ、滅ぼされるという前代未聞の事態に至ったのである 12 。
三田刑部は、筑紫国から馳せ参じたとされる柏山氏譜代の重臣の一族であり、家中で大きな影響力を持っていた 4 。元亀2年(1571年)には磐井郡で発生した一揆を鎮圧し、主家のために奔走するなど、その忠勤と実力は高く評価されていた 15 。そのような重臣を、主家が自らの手で攻め滅ぼすという行為は、通常の主従関係では到底考えられない異常事態であった。
さらに驚くべきは、この暴挙を主導したのが、惣領家の当主(明国あるいは明宗)ではなく、明吉の息子たち、すなわち三男の小山九郎と四男の折居宮内であったと、史料が具体的に名指ししている点である 14 。これは、柏山惣領家の統制が完全に崩壊し、当主の命令を無視して、弟たちが独自の判断で軍事行動を起こし、家中最高の重臣を殺害するに至ったことを意味する。
この一連の内紛は、もはや単なる兄弟喧嘩や権力闘争という言葉では説明できない。それは、柏山氏という一つの統治システムの完全な崩壊であった。家督を巡る争いは惣領家の権威を地に落とし、重臣の殺害は家中秩序そのものを破壊した。指揮系統は乱れ、家臣団は分裂し、一族は互いに疑心暗鬼に陥った。この内部からの腐敗と崩壊こそが、天正18年(1590年)に日本全土を覆う「天下統一」という巨大な政治的圧力に、柏山氏が組織として全く対応できなかった直接的な原因であると断定できる。彼らは外敵によって滅ぼされる以前に、既に内側から自壊していたのである。
表2:柏山明吉の子と柏山家の内紛 |
続柄 |
嫡男 |
次男 |
三男 |
四男 |
氏名(分家名) |
柏山 明国 |
柏山 明宗 |
小山 九郎 明長 |
折居 宮内 明胤(明久) |
内紛への関与 |
天正9年(1581年)、弟・明宗と家督を争う。 |
天正9年(1581年)、兄・明国と家督を争う。後に葛西・大崎一揆の総大将の一人とされる。 |
天正9年の家督争いに関与。天正16年頃、弟・明胤と共に家老・三田刑部を殺害。 |
天正9年の家督争いに関与。天正16年頃、兄・九郎と共に家老・三田刑部を殺害。後に葛西・大崎一揆の総帥の一人とされる。 |
典拠史料 |
11 |
2 |
12 |
12 |
備考 |
家督争い後の動向は不明。 |
葛西氏滅亡後も活動。その子・明助は南部氏に仕官。 |
三田刑部殺害後の動向は不明。 |
三田刑部殺害後、一揆の指導者として活動したとされる。 |
天正年間を通じて内部崩壊を続けた柏山氏と、その主家である葛西氏に、時代の激流が容赦なく襲いかかる。京都を拠点に天下統一事業を推し進める豊臣秀吉の存在は、奥州の静かなる「国々」の運命を根底から覆すものであった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を討つべく、全国の大名に小田原への参陣を命じた。これは、秀吉への服従を誓う儀式であり、これに応じないことはすなわち、天下人への反逆を意味した。しかし、葛西氏当主・葛西晴信は、この小田原に参陣しなかった 13 。その理由として、柏山氏をはじめとする家中の内紛が深刻で、領国外へ大軍を動員できる状態ではなかったことや、伊達政宗の支配下にあり独自の判断が難しかったことなどが挙げられる 18 。
理由が何であれ、結果は致命的であった。秀吉は小田原不参を咎め、葛西氏の全領地没収、すなわち改易を断行した 13 。これにより、鎌倉以来400年にわたって奥州に君臨した名門・葛西氏は大名としての歴史に幕を閉じ、その最大の重臣であった柏山氏もまた、主家と運命を共にし、その広大な所領を一夜にして失うこととなった 8 。
葛西・大崎両氏の旧領は、新たに秀吉の家臣である木村吉清・清久親子に与えられた 18 。しかし、木村氏による性急な検地や過酷な統治は、所領を失った旧家臣団や領民の激しい反発を招く。同年10月、ついに不満は爆発し、旧葛西・大崎領全域で大規模な反乱、すなわち「葛西・大崎一揆」が勃発した 18 。
この一揆において、旧葛西家臣団の中核であった柏山一族が指導的な役割を果たしたことは、多くの史料が一致して示すところである。しかし、その「総大将」が誰であったかについては、史料によって記述が錯綜しており、一揆の実態を解明する上で最大の論点となっている。
この指導者を巡る情報の錯綜は、単なる記録の誤りとは考えにくい。家督を争い、重臣を殺害するほどの深刻な対立関係にあった兄弟が、改易されたからといって突如として一枚岩となり、統一された指揮系統の下で反乱を指導したとは到底考えられない。
むしろ、これらの矛盾した記述は、葛西・大崎一揆の実態が、単一の指導者に率いられた「統一された反乱」ではなく、旧領内に存在した複数の勢力が、それぞれの思惑で蜂起した「多頭型の一揆」であったことを強く示唆している。すなわち、柏山明宗が率いる集団と、過激な行動で知られる折居明久が率いる集団が、それぞれ別個に、あるいは緩やかに連携しながら、新領主・木村氏に対して抵抗運動を展開したと見るべきである。柏山一族の内部対立は、改易という共通の危機に直面してもなお解消されることなく、一揆という最後の抵抗の場面にまで持ち越されていた。この根深い分裂こそが、一揆が最終的に伊達政宗や蒲生氏郷ら秀吉の派遣した鎮圧軍によって打ち破られる一因ともなったのである。
葛西・大崎一揆の鎮圧は、奥州における中世的権力の完全な終焉を意味した。豊臣政権、そして続く徳川の世へと時代が大きく転換する中で、かつて胆沢の地に覇を唱えた柏山一族もまた、歴史の奔流に呑み込まれ、その流転の道を歩むことになる。
一揆の指導者の一人と目された柏山明宗の子・明助(あきすけ)は、父の代までの宿敵であった南部氏に仕えるという、生き残りを賭けた道を選んだ 19 。天正18年(1590年)に主家・葛西氏が滅亡した後、南部信直に召し抱えられた明助は、その武才を遺憾なく発揮する。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに呼応して旧和賀領で発生した岩崎一揆(和賀一揆)の鎮圧において、明助は目覚ましい戦功を挙げた。この功績により、彼は1000石の知行と花巻の岩崎城代という要職を与えられ、南部家中で譜代の老臣と並ぶほどの重用を受けた 19 。滅びた家の出身でありながら、敵方であった大名家で自らの実力によって高い地位を築いた明助の生涯は、個人の才覚が時代を切り拓く可能性を示した稀有な例と言える。
しかし、この明助の活躍も、柏山氏嫡流の血脈を未来へ繋ぐことにはならなかった。寛永元年(1624年)、明助は47歳でこの世を去る 19 。その死を巡っては、彼の武才と影響力を危険視した主君・南部利直による毒殺であったという不穏な説も伝えられている 17 。真偽は定かではないが、このような説が生まれること自体が、彼の立場がいかに危ういものであったかを物語っている。
そして、明助の死後、柏山家にはさらなる悲劇が襲う。明助の子・明通(あきみち)は家督を継いだものの、幼くして病弱であり、父の死と同年の寛永4年(1627年)12月に夭折。世継ぎはなく、柏山家の嫡流はここに無嗣断絶となり、その家名は歴史の表舞台から完全に姿を消した 20 。
柏山明吉の時代に栄華を極め、その死後に内紛で自壊し、天下統一の波に呑まれて没落、そして最後は生き残りをかけた子孫の奮闘も虚しく、血の宿命の中に消えていった柏山一族。その興亡の物語は、単なる一地方豪族の盛衰史に留まらない。それは、戦国という旧秩序が崩壊し、近世という新秩序が形成される巨大な時代の転換期において、武士たちが如何に生き、如何に滅んでいったかを示す一つの典型である。内なる宿痾によって自らの力を削ぎ、外部からの巨大な圧力に対応できずに滅び去った柏山氏の悲劇は、戦国乱世の厳しさと、血と土地に縛られた武家の宿命を、今に伝えている。