柘植宗家は伊賀の国人領主で、伊賀惣国一揆の中心人物。仁木氏を破り、天正伊賀の乱を生き抜き、徳川家康を助け旗本となった。
本報告書は、戦国時代に伊賀国で権勢を誇った国人領主「柘植宗家」について、その人物像と一族の歴史を、関連史料に基づき網羅的かつ詳細に解明することを目的とします。ご依頼主が既にご存知の「1516年から1613年頃に活躍した国人衆の頭領」という情報 [user_query] を基点としながらも、その枠を大きく超え、一族の出自から戦国期の動乱、そして江戸時代に至るまでの軌跡を多角的に検証します。
調査を進めるにあたり、まず「柘植宗家」という呼称が持つ多義性について明確にする必要があります。史料においてこの名は、二つの意味合いで用いられています。一つは、後に徳川家康の「神君伊賀越え」を助け旗本となる柘植清広の父、すなわち特定の個人を指す固有名詞としての用法です。もう一つは、『寛政重修諸家譜』などで見られるように、室町時代後期に伊賀守護・仁木氏と争った当主を指す、一族の惣領家当主としての総称的な用法です。この二重性を踏まえ、本報告書では特定の個人としての「宗家」の記録を追うと同時に、戦国乱世の中で柘植一族の権勢を象徴する存在としての「宗家」の役割を解き明かしていきます。
柘植氏の活動を理解するためには、当時の伊賀国が置かれた特殊な政治状況を把握することが不可欠です。室町時代を通じて、幕府が任命した守護大名の権威は伊賀の地には完全には及ばず、在地領主である国人衆が強固な自治体制を築いていました。特に「伊賀惣国一揆」に代表される合議制による統治形態は、伊賀の独立性を象徴するものであり、外部勢力の干渉を長らく許しませんでした。柘植一族は、この「惣国」体制の中で、伊賀北部に確固たる地盤を築いた最も有力な国人領主の一つであり、その動向は伊賀全体の歴史を左右するほどの重要性を持っていました。
本報告書は、以上の問題意識に基づき、第一章で柘植一族の出自と伊賀における勢力確立の過程を、第二章で守護仁木氏との抗争に見る下剋上の実態を、第三章で織田信長による「天正伊賀の乱」における一族の岐路と生存戦略を、第四章で鉄砲術に代表される一族の武芸と経済基盤を、そして第五章で徳川の世への移行と一族のその後を論じます。これにより、断片的な史料から、戦国という時代を生き抜いた国人領主「柘植宗家」とその一族の実像を立体的に再構築することを目指します。
戦国時代の伊賀国において、柘植氏が他の国人衆と一線を画す有力な存在となり得た背景には、その出自の権威付け、交通の要衝という地理的優位性、そして強固な一族連合の形成という三つの重要な要素がありました。これらが複合的に作用することで、柘植氏は室町時代中期には既に、伊賀北部に揺るぎない支配体制を確立していました。
柘植氏の出自については、桓武平氏に連なる名門であるという伝承が伝えられています。しかし、その具体的な系譜には諸説が存在します。『江戸系図』や『柘植系図』といった文献は、平高棟の流れを汲む平信実の子、宗清が伊賀に赴いて「柘植」を名乗ったとしていますが、この説は年代的に整合性が取れないという問題が指摘されています。
一方で、より信憑性が高いと考えられているのが、『尊卑分脈』に見られる平貞盛流の系譜です。こちらに登場する平家の家人であった右兵衛尉・宗清こそが、年代的にも状況的にも柘植氏の祖としてふさわしいとされています。戦国時代の武家が自らの正統性と権威を高めるため、由緒ある名門の系譜に自らを繋げようとすることは一般的であり、柘植氏の系譜に関する諸説も、こうした当時の社会状況を反映したものと考えられます。
また、一族のアイデンティティを象徴する物語として、『寛政重修諸家譜』には家号の由来譚が記されています。それによれば、平治の乱後に伊賀に隠れ住んでいた平宗清のもとに源頼朝から仕官の誘いがあった際、宗清は戯れに柘植の枝を地面に挿し、「もしこの枝が繁茂するならば、この地に留まろう」と言いました。翌年、その枝が見事に花を咲かせたため、宗清はこれを奇瑞として「柘植」を家号にしたと伝えられています。この伝承は、史実性とは別に、柘植一族と彼らが根を下ろした土地との深い精神的な結びつきを物語るものとして重要です。
柘植氏が本拠地とした伊賀国阿拝郡柘植郷は、単なる一地方ではありませんでした。東は伊勢の関宿へ、西は上野を経て大和へ、そして北は近江へと通じる街道が交差する、まさに交通の要衝でした。この地理的優位性は、人、物資、そして情報が集積する地であることを意味し、柘植氏の経済力と軍事力の源泉となったことは想像に難くありません。
柘植氏は、この地で孤立した勢力ではありませんでした。同族である日置氏、北村氏、福地氏と強固な連合体を形成し、これは「柘植三方」と呼ばれました。この連合は、単なる血縁集団に留まらず、周辺の敵対勢力に対抗し、地域支配を確固たるものにするための政治的・軍事的な同盟として機能していました。『満済准后日記』には、正長2年(1429年)の時点で「国人柘植三方」との記述が見られることから、室町時代の中期には既に、柘植氏を中心とする一大勢力が伊賀北部に形成されていたことがわかります。
彼らの活動は伊賀国内に限定されませんでした。長享元年(1487年)には、近江の守護大名である六角高頼と同盟を結び、伊勢の関氏と対立したという記録が残っています。これは、柘植氏が伊賀一国という枠を超え、近隣諸国の勢力争いに積極的に関与する広域的な視野と外交能力を持った、戦略的な国人領主であったことを明確に示しています。
このように、柘植氏は自らの出自を権威付けしつつ、地政学的な利点を最大限に活用し、強固な一族連合と巧みな外交戦略によって、戦国時代を迎える以前から伊賀国における支配的な地位を築き上げていたのです。
名前 |
関係・役職 |
主な動向・特記事項 |
典拠史料 |
柘植宗家 (つげ そうけ) |
柘植氏当主?、宗能・清広の父 |
伊賀守護・仁木氏と抗争。仁木義広を擁立したとの説あり。活動の詳細は不明な点が多い。 |
S1, S7, S14, S27, S30 |
柘植宗能 (つげ そうのう) |
宗家の子、清広の兄 |
父・宗家と共に仁木氏を討ち破る。 |
S1, S5, S7, S29, S30 |
柘植清広 (つげ きよひろ) |
宗家の子、通称:三之丞 |
徳川家康の「神君伊賀越え」を補佐し、旗本となる。威風流砲術の祖。 |
S1, S3, S5, S14, S28, S29 |
柘植保重 (つげ やすしげ) |
分家・福地氏出身、織田信雄家臣 |
第一次天正伊賀の乱にて、織田方として参戦し伊賀衆に討たれ戦死。 |
S2, S5, S12, S13, S19, S45 |
福地宗隆 (ふくち むねたか) |
柘植氏一門、保重の父 |
柘植一族の有力分家、福地氏の当主。 |
S2, S5, S45 |
福地伊予守 (ふくち いよのかみ) |
柘植氏一門 |
第二次天正伊賀の乱で織田軍の案内役を務める。乱後、伊賀衆の報復を受け落ち延びる。 |
S7, S11 |
戦国時代の伊賀国は、守護の権威が地に落ち、在地領主である国人衆が実権を掌握する「下剋上」の典型的な舞台でした。その中心にいたのが、柘植宗家とその一族です。彼らは、単に守護に反抗するだけでなく、武力でこれを排除し、さらには傀儡を立てて自らの権力を盤石にするという、より高度な政治戦略を実践しました。この時代は、伊賀における柘植氏の権勢が頂点に達した時期であり、伊賀が「惣国」として独自の自治を確立していく上で決定的な役割を果たしました。
室町幕府によって伊賀国の守護に任じられた仁木氏は、足利一門の名門でありながら、伊賀国内においてその支配力を確立することはできませんでした。その要因は複合的です。伊賀は古くから東大寺などの寺社領が複雑に入り組み、国人衆が各地に割拠していたため、外部からの統一的な支配が及びにくい土地柄でした。加えて、仁木氏の当主は京都に在住することが多く、守護代に統治を任せる体制でしたが、その在地における支配基盤は極めて脆弱でした。
この権力の空白を埋める形で台頭したのが、伊賀の国人衆による自治組織「伊賀惣国一揆」です。これは、特定の強力な大名による支配ではなく、地域の有力者たちが合議によって掟を定め、国を運営していくという、当時としては先進的な統治形態でした。彼らは平楽寺などを評定の場とし、地域の重要事を決定していました。柘植氏は、この惣国一揆の中でも特に有力な構成員として、伊賀の政治に大きな影響力を行使していたと考えられます。
国人衆の力が強まる中、守護仁木氏との衝突は避けられませんでした。その象徴的な事件が、『寛政重修諸家譜』などに記録されている、大永年間(1521年~1528年)の合戦です。室町幕府将軍・足利義稙は、一門の仁木兵部少輔を伊賀守護に任命しましたが、柘植一族はこれに従いませんでした。業を煮やした仁木兵部少輔が手勢を率いて柘植氏を攻めますが、柘植の「宗家」はこれを迎撃し、兵部少輔を射て敗走させたと伝えられています。その後、兵部少輔の子が再び攻め寄せますが、「宗家」とその子である宗能はこれも打ち破り、仁木軍を退けました。
この一連の出来事は、単なる局地的な戦闘の勝利以上の意味を持ちます。それは、地方の在地勢力である国人が、幕府という中央権力の代理人である守護を、公然と武力で排除できることを証明した、時代の転換点を示す事件でした。伊賀において、旧来の権威がもはや通用しないことを内外に知らしめたのです。
柘植氏の政治戦略は、守護の排除だけに留まりませんでした。一部の史料には、仁木氏の一族である仁木義広について、「被官の柘植宗家によって、伊勢守護に擁立されたといわれる」という注目すべき記述が存在します。これが事実であるとすれば、柘植宗家は守護を武力で打倒した後、自らがその地位に就くのではなく、自らの意のままに操れる人物を名目上の守護として擁立するという、極めて高度な政治手腕を発揮したことになります。
この手法には大きな利点がありました。自らが「守護」という地位に就けば、他の有力国人衆からの嫉妬や反発を招きかねません。しかし、既存の権威である仁木氏の血を引く者を名目上のトップに据えることで、対外的にも、また伊賀国内の他の国人衆に対しても体裁を整えることができます。実質的な権力は自らが握りつつ、形式上の権威を巧みに利用することで、支配の正統性を確保し、安定化を図ったのです。
この一連の動きから浮かび上がるのは、単なる武辺者ではない、伊賀の政治力学を熟知した戦略家としての「柘植宗家」の姿です。彼は武力と謀略を巧みに使い分け、旧来の権威を無力化し、自らが主導する新たな支配体制を伊賀の地に築き上げた、戦国初期の優れた政治家であったと評価できるでしょう。
天下統一を進める織田信長の巨大な力が伊賀に及んだ時、独立を誇った「惣国」は存亡の危機に立たされました。二度にわたる「天正伊賀の乱」は、伊賀の地を焦土に変え、国人衆による自治体制を完全に破壊しました。この激震の中で、有力国人であった柘植一族もまた、過酷な選択を迫られます。一族の中からは、織田方に与して伊賀衆と戦い命を落とす者、織田の大軍を前に内通して一族の存続を図る者、そして、時代の流れを冷静に見極め、次なる覇者への布石を打つ者など、異なる生存戦略が生まれました。天正伊賀の乱は、柘植一族にとって、戦国国人としての生き方を根本から問われる大きな分岐点となったのです。
天正6年(1578年)、伊賀の郷士・下山甲斐守が織田信長の次男・北畠信雄(織田信雄)を訪れ、伊賀攻略の手引きを申し出たことから、動乱の幕が上がります。これに乗じた信雄は、父・信長に無断で伊賀への侵攻を決定しました。天正7年(1579年)、信雄率いる8,000の軍勢が伊賀に攻め込みますが、伊賀衆はこれを迎え撃ちます。彼らは地の利を最大限に活かしたゲリラ戦を展開し、山陰からの弓や鉄砲による奇襲、夜襲を仕掛けて織田軍を翻弄しました。結果、織田軍は大敗を喫し、伊賀衆は見事な勝利を収めました。
しかし、この勝利の裏で、柘植一族には深刻な亀裂が生じていました。この戦いには、信雄の家臣として、柘植一族の分家である福地氏出身の柘植保重が織田方として参陣していたのです。保重は、撤退する織田軍の殿(しんがり)を務める最中、伊賀衆の植田光次によって討ち取られてしまいました。この報告を受けた信長は、信雄が無断で戦を起こしたこと、そして大敗を喫したことに加え、「大切な勇将」と評した保重を死なせたことに激怒し、「親子の縁を切る」とまで記した勘当状を送りつけるほどでした。この出来事は、巨大化する織田政権の前に、伊賀惣国一揆という共同体への帰属意識と、織田家臣としての立場という、二つの相反する論理が一族内に存在したことを象徴しています。
信雄の惨敗は、信長の怒りに火をつけました。2年後の天正9年(1581年)、信長は満を持して伊賀殲滅に乗り出します。信雄を総大将に、丹羽長秀、蒲生氏郷、滝川一益といった織田軍の主力を投入し、その総勢は4万とも10万ともいわれる大軍でした。対する伊賀衆はわずか9,000ほどであり、戦いの趨勢は始まる前から明らかでした。
織田軍は伊賀の各方面から一斉に侵攻し、抵抗する伊賀衆を圧倒的な物量で蹂躙します。城は次々と焼き落とされ、由緒ある寺社も灰燼に帰し、非戦闘員を含む3万人以上が犠牲になったとも伝えられる凄惨な「皆殺し」作戦が展開されました。
この絶望的な状況下で、柘植一族の中から織田方に内通する者が出ます。上柘植の福地伊予守をはじめとする福地氏の一族が、織田軍の道案内役を務めたのです。これは伊賀衆から見れば紛れもない「裏切り」行為でした。しかし、一族を根絶やしにさせないための苦渋の選択、あるいは、いずれ織田の支配下に入るのであれば、協力することで乱後の優位性を確保しようという、冷徹な計算があったとも考えられます。
一方で、この乱における柘植本家の当主であった柘植清広の具体的な動向は、史料上明らかではありません。しかし、彼はこの時点で既に、織田政権の有力者であった徳川家康に接近していたとされています。清広は、伊賀衆として抵抗することも、福地氏のように積極的に織田に与することもなく、静観の構えをとりながら、織田の支配という現実を受け入れ、その先の新たな権力構造を見据えて次なる布石を打っていたのです。
二度にわたる大乱の結果、数百年にわたって続いてきた伊賀の国人衆による自治体制「伊賀惣国一揆」は、完全に解体されました。伊賀は織田信雄らの所領として分割統治されることになります。
しかし、翌天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が横死すると、事態は再び動きます。信長の死を知った伊賀の残党は各地で蜂起し、織田方に与した者たちへの報復を開始しました。その標的となったのが福地氏であり、彼らの居城である福地城は攻撃を受け、一族は伊賀から落ち延びることを余儀なくされました。これは、天正伊賀の乱によって生まれた伊賀内部の亀裂がいかに深く、根強いものであったかを物語っています。
柘植一族は、この動乱の中で、保重の「抵抗と忠誠」、福地氏の「内通と迎合」、そして清広の「静観と布石」という、三者三様の道を選びました。それは、戦国末期の国人領主が、抗うことのできない巨大な統一権力に直面した際に取りうる、典型的な三つの反応パターンを体現していると言えるでしょう。そして、この現実的で冷徹な判断こそが、形は変われども一族が江戸時代まで存続できた最大の要因となったのです。
柘植一族が伊賀国において長年にわたり強大な影響力を維持できたのは、政治的・軍事的な手腕だけでなく、その力を支える経済基盤と、時代を先取りした先進的な武芸、特に鉄砲の運用能力にあったと考えられます。彼らは、伊賀衆という傭兵集団としての側面を持ちながら、交通の要衝という立地を活かして経済活動を行い、最新兵器である鉄砲をいち早く導入・習熟しました。そして、当主である柘植清広に至っては、独自の砲術流派を創始するほどの専門性を確立しました。柘植氏の強さは、鉄砲の「生産」ではなく、その効果的な「運用」にあったのです。
戦国時代の「伊賀衆」は、夜討ちや奇襲、潜入工作といったゲリラ戦を得意とする戦闘のプロフェッショナル集団として、周辺諸国の武将たちから広く認識されていました。彼らは特定の主君を持たず、依頼に応じて各地の合戦に参加する傭兵的な性格を持っており、その活躍は京都、奈良、和歌山など広範囲に及んでいます。こうした軍事サービスの提供は、柘植氏を含む伊賀国人衆にとって重要な収入源の一つであったと考えられます。
ご依頼主の予備知識にあった「軍馬や鉄砲を売買する者もいた」という点について、これを直接的に証明する詳細な記録は乏しいものの、その可能性は極めて高いと言えます。本拠地である柘植郷が伊勢・大和・近江を結ぶ交通の結節点であったことは、武具や兵糧といった軍需物資の交易に関与する上で絶好の条件でした。傭兵稼業による収入と、交易による利益。この二つが、柘植氏の経済力を支える両輪となっていたと推測されます。彼らは単なる在地領主ではなく、軍事と経済の両面に長けた事業者としての側面を併せ持っていたのです。
伊賀・甲賀地方は、鉄砲が伝来する以前から、火薬や火器を扱う「火術」に長けた土地柄でした。大陸からの渡来人の影響や、火薬の原料となる植物などが手に入りやすかったことから、独自の火術文化が育まれていました。この伝統的な技術的素地が、最新兵器である鉄砲を抵抗なく受け入れ、いち早く習熟することを可能にしたと考えられます。史料には、柘植家が火術を得意とする藤林氏や稲増氏といった一族と交流があったことも記されており、彼らが常に最新の軍事技術に関心を払っていたことがうかがえます。
ただし、伊賀は鉄砲の主要な生産地ではありませんでした。戦国時代の鉄砲生産は、堺、根来、近江の国友といった特定の地域に集中していました。したがって、柘植氏が用いた鉄砲は、これらの生産地から交易ルートを通じて入手されたものと考えるのが自然です。特に、紀州の根来や和泉の堺は伊賀から地理的に近く、交易関係を築くことは比較的容易であったでしょう。
柘植一族の中でも、鉄砲の扱いに極めて秀でていたのが、後に徳川旗本となる柘植清広(三之丞)です。彼は、単に鉄砲を戦の道具として使うだけでなく、その技術を体系化し、一つの武術流派として確立させるに至りました。
清広が創始した砲術は、「威風流」または「柘植流」と呼ばれています。現存する伝書によれば、これは忍術の一部としてではなく、独立した「武術としての鉄砲術」としてまとめられており、術技の目録とその詳細な解説が記されています。これは、単なる経験則の集積であった鉄砲の運用法を、理論と実践を伴う一つの「流派」へと昇華させたことを意味します。これにより、高度な技術の安定的な継承が可能になると同時に、「柘植流砲術」というブランドは、一族の軍事的な価値を内外に示す強力な看板となりました。
柘植氏は、戦国時代における技術革新の波に乗り、最新兵器を導入するだけでなく、それを地域の伝統技術と融合させ、独自の運用法を編み出し、さらには一つの流派として体系化することに成功しました。この先進性と専門性こそが、彼らが戦国の動乱を生き抜き、後の徳川政権下で重用される大きな要因となったのです。
天正伊賀の乱によって独立を失った伊賀の地と柘植一族。しかし、その歴史はそこで終わりませんでした。本能寺の変という天下の激動を好機と捉えた柘植清広の決断は、一族の運命を大きく転換させます。彼の功績により、柘植氏の宗家は戦国国人領主から江戸幕府の旗本へと華麗な転身を遂げ、近世を通じてその家名を保ちました。一方で、伊賀に残った一族や、分家からは日本文化を象徴する偉大な人物が輩出されるなど、柘植氏の血脈は多様な形で後世にその足跡を残していくことになります。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が横死した際、徳川家康はわずかな供回りと共に堺に滞在していました。京は明智光秀の軍勢に押さえられ、絶体絶命の危機に陥った家康は、最短ルートで本拠地の三河へ帰還するため、危険を承知で伊賀の山中を越える決断を下します。
この「神君伊賀越え」と呼ばれる決死の逃避行を成功に導いた立役者の一人が、柘植清広でした。天正伊賀の乱の頃から家康に接近していた清広は、服部半蔵ら伊賀者と共に家康一行の道案内と警護にあたりました。清広とその一族は、特に近江の信楽から伊勢国の白子に至るまでの最も危険な区間を担当し、無事に家康を送り届けたのです。これは、清広が時代の流れを見据えて打っていた布石が、最高の形で実を結んだ瞬間でした。家康にとって生涯最大の危機を救った恩は計り知れず、この功績が後の柘植家の運命を決定づけることになります。
この伊賀越えの際、家康一行が柘植の地にある徳永寺で休息したという伝承も残されています。その時の縁により、徳永寺は徳川家から葵の御紋の使用を許され、その瓦には今も紋が輝いています。この逸話は、柘植の地と徳川家の特別な関係を象
徴する物語として、後世まで語り継がれました。
伊賀越えの功績により、柘植清広は家康から絶大な信頼を得て、徳川家の家臣として取り立てられました。彼はその後の関ヶ原の戦いや大坂の陣においても、得意の鉄砲隊を率いて活躍し、その功により甲賀郡に300石の知行を与えられ、幕府の旗本となりました。これにより、柘植氏の本家は、独立性を失う代わりに、全国を統べる徳川政権の一員として安定した地位と所領を確保するという、戦国国人領主が目指した究極の目標の一つを達成したのです。清広は寛永6年(1629年)に90歳という長寿を全うし、その家系は江戸時代を通じて旗本として存続しました。
一方で、全ての柘植一族が清広と同じ道を歩んだわけではありませんでした。伊賀の地に残った一族の多くは、江戸時代に入ると伊賀・伊勢を治めた津藩主・藤堂氏に仕えることになります。その中には、藩士として直接召し抱えられた者もいましたが、多くは「無足人」という身分に置かれました。無足人とは、普段は農業に従事しながらも苗字帯刀を許され、非常時には武士として動員される半農半士の存在です。藤堂藩の史料には、柘植姓の者が伊賀者として禄を得ていた記録も見られます。同じ一族でありながら、時代の変化にどう対応したかによって、旗本と無足人という異なる運命を辿ったことは、戦国から近世への社会構造の大きな変化を如実に示しています。
柘植一族が歴史に残した影響は、武家の世界に留まりませんでした。最も特筆すべきは、日本文学史上不滅の巨星である俳聖・松尾芭蕉の存在です。芭蕉は、柘植氏の有力な支流であった福地氏から分かれ、姓を「松尾」と改めた一族の出身でした。戦乱の世が終わり、社会が安定したことで、武家の一門からも武芸以外の分野で才能を発揮する人物が現れる土壌が生まれました。武士としての道を絶たれた(あるいは選ばなかった)ことが、逆に芭蕉の文化的な才能を開花させる一因となったのかもしれません。
一族の歴史は、現代にも受け継がれています。昭和38年(1963年)には、子孫である柘植宗澄氏によって、全国の柘植姓のルーツを探る研究書『柘植姓の研究』が発表されるなど、自らの一族の歴史を明らかにしようとする試みもなされました。そして現在も、一族発祥の地である三重県伊賀市柘植には柘植姓を持つ人々が多く暮らし、地域の歴史民俗資料館では、松尾芭蕉らと共に、この地が育んだ歴史が大切に語り継がれています。
柘植一族の物語は、武力と謀略で独立を維持する「戦国の論理」から、主君への忠誠と奉公によって家名を保つ「近世の論理」へと移行する、時代の大きなうねりを体現しています。その多様な軌跡は、戦国の武士たちが時代の変化にどのように適応し、あるいは翻弄されていったかを、現代の我々に鮮やかに伝えてくれるのです。
本報告書で実施した徹底的な調査の結果、戦国時代の伊賀国人「柘植宗家」は、単一の人物像に収斂される存在ではないことが明らかになりました。この呼称は、柘植清広の父という特定の個人を指すと同時に、室町後期から戦国期にかけて伊賀国に独立と権勢を極めた柘植一族の当主、すなわち惣領家の存在そのものを象徴するものでした。特に「宗家」が活躍した時代、柘植氏は幕府任命の守護を武力で凌駕し、傀儡を擁立することで伊賀の政治を実質的に動かすほどの力を有していました。
個々の人物に関する詳細な伝記的記録は乏しいものの、一族全体の動向を追うことで、その指導者たちの人物像を再構築することが可能です。守護仁木氏との抗争に見られる下剋上を体現した戦略性、天正伊賀の乱という未曾有の国難において示された一族内での多様な生存戦略(抵抗、迎合、そして第三の道への布石)、そして本能寺の変後の混乱を好機として徳川家への臣従をいち早く果たした先見性。これら一連の動きは、柘植宗家から清広に至る指導者たちが、極めて現実的かつ戦略的な思考を持った優れた政治家であったことを物語っています。
柘植一族が辿った歴史は、戦国時代の国人領主の典型的な軌跡を示す、非常に興味深い事例と言えます。在地勢力としての台頭、下剋上による権力掌握、織田信長という巨大統一権力との衝突とそれに伴う共同体の崩壊、そして徳川幕府という新たな秩序への適応。この一連のプロセスは、伊賀という一地方の歴史に留まらず、日本社会全体が戦国乱世から近世の幕藩体制へと移行していく大きな構造変化を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれます。
最終的に、柘植一族は旗本としての家系を江戸時代を通じて存続させ、またその支流からは松尾芭蕉という日本文化を代表する巨人を輩出しました。武力と知謀で戦国を生き抜き、新たな時代には政治と文化の両面で歴史に名を刻んだ柘植氏。その発祥の地に今なお残る地名や家名は、彼らが歴史に残した多岐にわたる遺産の証左と言えるでしょう。断片的な史料をつなぎ合わせることで浮かび上がってきたのは、時代の激動を乗りこなし、したたかに、そして見事に生き抜いた国人領主一族の力強い姿でした。