桑山元晴(くわやま もとはる、永禄6年(1563年) - 元和6年7月20日(1620年8月18日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将である 1 。その名は一般的に「徳川家臣」あるいは「大和御所藩初代藩主」という肩書と共に語られることが多い 1 。しかし、この簡潔な紹介は、彼の生涯の複雑さと多面性の一端を捉えるに過ぎない。彼の人生の軌跡は、豊臣政権の中枢、とりわけ豊臣秀吉の弟である秀長の麾下(きか)に仕える重臣の子として始まり、主家の断絶を経て秀吉直臣となり、天下分け目の関ヶ原の戦いでは徳川方として武功を挙げ、最後は大坂の陣で旧主筋である豊臣家の滅亡に加担するという、まさに時代の激動を体現したものであった。
本報告書は、桑山元晴の生涯を単なる経歴の追跡に留めることなく、武将として、藩祖として、そして文化人としての彼の多面的な実像を、信頼性の高い史料に基づき、徹底的に解明することを目的とする。父・重晴の代からの桑山一族の興隆、豊臣政権下での活動、関ヶ原における一族を挙げた戦略的な決断、大和御所藩の創設と治績、そして古田織部門下の茶人としての風雅な一面まで、その生涯のあらゆる側面に光を当て、歴史の転換点を生き抜いた一人の武将の全体像を浮き彫りにする。
桑山元晴の生涯を理解する上で、その父である桑山重晴(しげはる)の存在は不可欠である。桑山氏の出自は尾張国海東郡と伝わるが、その詳細は必ずしも明確ではない 3 。一族が歴史の表舞台に確固たる地位を築くのは、大永4年(1524年)生まれの重晴の代からである 4 。
重晴は当初、織田信長の宿老であった丹羽長秀に仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどで武功を重ねた 3 。その勇名は、当時、近江長浜城主であった羽柴秀吉の知るところとなり、秀吉からの要請を受け、天正2年(1574年)頃からは秀吉の家臣として仕えることとなった 3 。この経緯は、重晴が単なる一武将ではなく、有力大名間でその能力が認められるほどの人材であったことを示している。
重晴のキャリアにおける大きな転機は、天正13年(1585年)、秀吉の弟・豊臣秀長が大和・和泉・紀伊三国にまたがる百万石規模の大名として大和郡山城に入った際に訪れる。重晴は秀長の付家老に抜擢され、紀伊和歌山城の城代として3万石を与えられた 3 。この時期、秀長の家臣団には藤堂高虎といった後の世に名を馳せる人物もおり、重晴は彼らと共に秀長政権の中核を担う存在であった。彼らは軍事のみならず、茶の湯などを通じた文化的サロンの一員でもあり、政治的・文化的に高度な集団を形成していた 9 。
さらに文禄4年(1595年)、関白豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられた際には、伏見城の大手門警備という重要な任務をこなし、その功績によって和泉国谷川に1万石を加増され、合計4万石の大名へと昇進した 4 。桑山家は、秀吉の弟という豊臣政権の「副王」ともいうべき秀長に仕えることで、政権中枢との強い結びつきを確立したのである。
桑山元晴は、父・重晴が織田・豊臣の間で武将としての評価を高めていた永禄6年(1563年)、桑山重晴の次男として尾張国で生を受けた 1 。通称を長兵衛といった 1 。彼には兄の一重(いちじゅう)、弟の貞晴(さだはる)がいた 1 。この弟・貞晴は後に「宗仙(そうせん)」と号し、兄とは別に茶人として名を成すことになる。
元晴が歴史の舞台に登場するのは、父が秀長の家老として和歌山城代となった天正13年(1585年)頃からである。彼は父と共に秀長に仕え、その家臣団の一員としてキャリアを開始した 3 。主君である秀長、そしてその養嗣子である秀保に仕える中で、元晴は青年期を過ごし、武将としての経験を積んでいった 1 。
この時期の桑山家は、豊臣政権、特に大和・紀伊に広大な勢力圏を持つ秀長政権の重要な支柱であり、元晴の青年期は、その安定した(しかし主家の浮沈に運命を左右される)環境の中で形成された。また、一族内での人間関係も複雑であり、後に元晴の跡を継ぐことになる次男も、弟と同名の「貞晴」である 1 。この事実は後世の記録においてしばしば混同を招くため、本報告書では弟を「貞晴(宗仙)」、元晴の跡を継いだ息子を「貞晴(加賀守)」と区別して記述する。この同名問題は、一族の人間関係を正確に把握する上で注意を要する点である。
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして開始した朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、桑山元晴にとっても初の本格的な国際戦への従軍となった。当時、彼は主君である豊臣秀保の家臣という立場であり、秀保軍の一員としてこの大規模な軍事行動に参加した 1 。
この遠征において、元晴は単独で部隊を率いたわけではない。父・重晴の嫡孫であり、元晴自身の甥にあたる桑山一晴(かずはる)が桑山家の惣領格として出陣しており、元晴は一晴と共に朝鮮半島へ渡り、各地を転戦したと記録されている 1 。
文禄の役における日本軍の陣立書には、九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治といった著名な水軍の将と共に、「水軍」のカテゴリーに「桑山一晴」および元晴の弟である「桑山貞晴(宗仙)」の名が確認できる 10 。これは、桑山一族が紀伊国を本拠とする大名として、水軍の編成と運用において重要な役割を担っていたことを示している。
元晴自身の名前はこれらの主要な陣立書に明記されていない。しかし、「甥・一晴と共に朝鮮に渡海して転戦」したという記述 1 から、彼が桑山家の部隊の中核として、一族を率いる一晴の指揮下で実戦に参加していたことは間違いない。当時の大名家における軍事行動では、家督継承者である惣領が公式な指揮官として名を連ね、その兄弟や一門が実戦部隊を補佐・指揮する形態が一般的であった。元晴もまた、そのような立場で甥を支え、一族として連携しながら海戦や沿岸部での作戦に従事したと推察される。
この時期、桑山家と他の大名家との関係性も垣間見える。例えば、後に築城の名手として知られる藤堂高虎の家臣団には、かつて桑山元晴に仕えていた人物がいた記録があり 12 、武将間での人材の流動があったことがわかる。さらに、元晴の娘は後に藤堂高虎の養女となり、岸和田藩主岡部宣勝に嫁いでいることから 13 、桑山家と藤堂家は単なる同僚以上の、深い姻戚関係で結ばれていた。
文禄3年(1594年)、元晴の主君であった豊臣秀保がわずか17歳で病死するという悲劇が起こる。これにより、秀長以来の大和豊臣家は後継者なく断絶した 1 。主家を失うことは、戦国時代の武士にとってキャリアの断絶、すなわち浪人となることを意味する最大の危機であった。
しかし、桑山家は父・重晴の長年の功績と一族の実力が豊臣政権中枢に高く評価されていたため、この危機を乗り越える。重晴と元晴は、豊臣秀吉の直臣として再編入されることになったのである 1 。これは、主家の浮沈に左右されながらも、個人の能力と一族の結束力によって新たな活路を見出すという、この時代の武士の生き残り戦略を象徴する出来事であった。
慶長元年(1596年)、父・重晴が剃髪し隠居するにあたり、元晴はその所領4万石のうち1万石を分与された 3 。これにより、彼は大和国御所を拠点とする大名となり、8,000石を領した 1 。そして慶長3年(1598年)8月、太閤秀吉がその波乱の生涯を閉じると、元晴は秀吉の遺物として名刀工・景則作の刀を受領している 1 。これは、彼が秀吉の直臣として、その死を看取るほどの近臣として認められていたことを示す確かな証左と言えよう。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の対立は急速に表面化し、慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とする西軍が激突する関ヶ原の戦いが勃発した。この天下分け目の決戦において、桑山一族は一貫して東軍に与するという、重大な政治的決断を下した 1 。
この決断の背景には、複数の要因が絡み合っていた。第一に、徳川家康からの直接的な働きかけがあった。家康は密使として山岡道阿弥を派遣し、西軍方の大名である増田長盛の所領を与えるという具体的な加増を約束しており、これが桑山家の心を動かす大きな誘因となった 5 。第二に、豊臣恩顧の大名でありながら、石田三成ら奉行衆に対して日頃から反感を抱いていたという側面も指摘されている 16 。多くの豊臣系武断派大名がそうであったように、桑山一族にとっても敵は豊臣秀頼ではなく、三成ら一部の奉行衆であった。
この一族としての決断に基づき、桑山家は極めて合理的かつ戦略的な役割分担を行った。家長である父・重晴と、その嫡孫で当主格の一晴は、本拠地である紀伊和歌山城の守備に専念し、西国における東軍の重要な拠点と後方の安全を確保する任を負った 5 。これにより、後顧の憂いを断った桑山元晴が、一族を代表して関ヶ原の本戦へと赴くことが可能となったのである。
一族の後方支援を背に、桑山元晴は関ヶ原の主戦場へと駒を進めた 8 。彼は東軍の主力部隊の一員として布陣し、西軍の中でも特に精強で知られた大谷吉継の部隊と正面から対峙した。
戦闘が始まると、元晴は目覚ましい働きを見せる。彼は自ら敵陣に斬り込み、大谷隊の「鉄砲組頭」を討ち取るという大きな武功を挙げたのである 1 。鉄砲組頭は、部隊の火力を司る重要な士官であり、これを直接討ち取ることは、単に首級を一つ挙げた以上の戦術的価値を持つ。敵部隊の指揮系統を混乱させ、その戦闘能力を大きく削ぐことに繋がるからである。この元晴の勇猛果敢な働きは、徳川家康からも高く賞賛され、戦後の論功行賞において彼の地位を確固たるものにする決定的な功績となった 8 。
関ヶ原の本戦が東軍の勝利に終わった後も、桑山一族の戦いは続いていた。和歌山城を守っていた重晴と一晴は、家康の命令を受け、なおも抵抗を続ける西軍方の堀内氏善が籠城する新宮城を攻撃し、これを降伏させている 15 。この一連の働きにより、桑山一族は本戦と紀伊国平定の両方で東軍の勝利に貢献したと評価され、戦後、所領は安堵された 15 。
ここで、一部の二次史料に見られる桑山一晴の動向に関する混乱について整理しておく必要がある。いくつかの旅行記などでは、一晴が「西軍から東軍に寝返った」という記述が見受けられる 7 。しかし、江戸幕府が編纂した公式の系譜である『寛政重修諸家譜』や、その他の信頼性の高い史料においては、桑山一族が一貫して東軍として行動したことが記されており、寝返りを示唆する記述は存在しない 20 。和歌山城の防衛や新宮城攻めといった具体的な行動も、東軍としての活動と完全に一致する 15 。したがって、「一晴寝返り説」は、後世の軍記物などが生んだ誤伝である可能性が極めて高いと結論付けられる。
桑山一族の関ヶ原における動向は、個々の武将の働きをまとめることで、その組織的な戦略性をより明確に理解することができる。
人物名 |
続柄 |
役職・立場 |
主な活動場所 |
具体的な役割・功績 |
桑山重晴 |
家長(隠居) |
総指揮官 |
和歌山城 |
一族の意思決定、後方支援の統括 5 |
桑山一晴 |
嫡孫(当主格) |
城代 |
和歌山城 |
本拠地の防衛、戦後の新宮城攻撃 15 |
桑山元晴 |
次男 |
実戦指揮官 |
関ヶ原(本戦) |
大谷吉継隊と交戦し、鉄砲組頭を討ち取る 1 |
桑山貞晴(宗仙) |
三男 |
不明 |
不明 |
大坂の陣には参陣しているが、関ヶ原での動向は不明 1 |
この表が示すように、桑山家の関ヶ原における行動は、場当たり的なものではなく、家康からの実利的な約束と、時流を見極めた政治的判断に基づき、一族全体で役割を分担して遂行された、周到な戦略であったことが窺える。
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、徳川家康による論功行賞が行われ、桑山元晴の運命も大きく動いた。戦後、父・重晴が正式に致仕(隠居)したことに伴い、桑山家が領有していた4万石の所領は分割されることになった。まず、桑山家の家督を継ぐ立場にあった甥の一晴が和歌山城と2万石を相続し、元晴には1万石が分与された 1 。
これに加えて、関ヶ原の本戦で大谷隊の鉄砲組頭を討ち取った武功が評価され、恩賞として大和国葛上郡内に2,000石余が新たに与えられた 1 。しかし、話はここで終わらない。父・重晴の隠居生活を支えるための「養老料」として、一晴が4,000石、元晴が2,000石をそれぞれ父に返上するという一族内の取り決めがなされた。その結果、元晴の手元に残ったのは1万石となり、彼はこの所領をもって大和国御所に陣屋を構え、ここに大和御所藩が正式に立藩されたのである 1 。この一連の石高の変動は、江戸時代初期の知行制度が、幕府による公的な裁定だけでなく、大名家内部の家父長制的な慣習にも大きく影響されていたことを示す好例である。
その後、慶長6年(1601年)に浅野幸長が37万6千石で紀伊国に入封したことに伴い、甥の一晴は和歌山城を明け渡し、大和国新庄に1万6,000石で移封となり、新たに大和新庄藩を立藩した 15 。これにより、大和国には叔父である元晴の御所藩と、甥である一晴の新庄藩という、二つの桑山家の藩が並立することになった。
御所藩主となった元晴の所領は、その後、予期せぬ形で拡大することになる。慶長11年(1606年)、父・重晴が83歳で死去した 4 。その広大な隠居料1万6,000石は、遺言に基づき、6,000石が元晴に、残りの1万石が元晴の長男である桑山清晴に与えられた。これにより清晴は和泉国谷川に陣屋を構え、谷川藩主となった 1 。
しかし、そのわずか3年後の慶長14年(1609年)、息子の清晴が幕府の勘気を被って蟄居を命じられ、谷川藩は改易処分となってしまう 1 。この時、没収された清晴の旧領1万石は、父である元晴の御所藩に編入されることになった。この結果、元晴の所領は最終的に2万6,380石余に達し、彼は大和国における有力な大名の一人となったのである 1 。
藩主となった元晴は、領国経営においてもその手腕を発揮した。彼の最も特筆すべき治績は、本拠地である御所の町づくりである。当時の御所地域は、葛城川を挟んで西側の商業地「西御所」と、東側の寺院を中心とする「東御所」という、二つの環濠集落が分立している状態であった。元晴は、これら二つの集落を一体の陣屋町として計画的に整備し、近世的な都市の基礎を築いたと伝えられている 8 。
彼の都市計画は、西御所を武家や商人が住む陣屋町として、東御所を円照寺を中心とする寺内町として、それぞれの機能を明確に分担させるというものであった 14 。このような、既存の宗教的・商業的中心地を巧みに取り込みながら城下町を形成する手法は、石山本願寺の跡地に大坂城を築いた豊臣秀吉をはじめとする豊臣系の大名によく見られる特徴である 14 。元晴が徳川の世になってもこの手法を用いたことは、彼が豊臣秀長の下で培った行政官僚としての経験と知識を、自らの藩政に活かしたことを示唆している。元晴が整備した町並みの骨格は、後の洪水による被害 27 を乗り越え、現在の奈良県御所市の歴史的景観の基礎となっている。
豊臣恩顧の大名であった桑山元晴にとって、徳川家への忠誠を最終的に証明する試金石となったのが、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて行われた大坂の陣であった。豊臣家との最終決戦が始まると、元晴はためらうことなく徳川方として参陣した 2 。
慶長19年の大坂冬の陣において、元晴はかつて豊臣秀長の下で同僚であった築城の名手・藤堂高虎の配下に加わり、大坂城の南方を固める天王寺口に布陣した 1 。旧知の将の指揮下に入ることで、円滑な連携を図ったものと考えられる。
翌元和元年の大坂夏の陣では、さらに積極的な役割を担う。彼は弟の貞晴(宗仙)と、甥で大和新庄藩主となっていた桑山一直(かずなお)を一族で率い、徳川譜代の猛将・水野勝成が率いる先鋒部隊に所属した。そして、大和方面から大坂城へ進軍する部隊の一翼を担ったのである 1 。
大坂夏の陣における最も激しい戦闘の一つとなった道明寺の戦い、そして最終決戦の場となった天王寺・岡山の戦いにおいて、桑山元晴は一族を率いて奮戦した。その戦いぶりは目覚ましく、敵兵の首を17も挙げるという、際立った武功を立てたと記録されている 1 。
この功績は幕府中枢に高く評価された。戦後、二代将軍・徳川秀忠が江戸へ凱旋する途中、元晴の功を労うためにわざわざ彼の邸宅を訪れたという逸話が残っている。その際、元晴と弟の貞晴(宗仙)は将軍の前で茶を点て、褒美として常陸国下妻(現在の茨城県下妻市)での鷹狩りを許されるという、破格の栄誉を与えられた 1 。
元晴の徳川家への奉公はこれで終わらなかった。大坂城落城後も、大和国などで抵抗を続ける豊臣方の残党を追討するため、高力忠房の指揮下に入り、最後の掃討作戦に従事している 1 。大坂の陣における一連の働きは、元晴が「元豊臣家臣」という過去を完全に清算し、徳川家の信頼篤い大名として、その地位を盤石なものにしたことを物語っている。将軍秀忠自らが元晴の邸宅を訪れたという事実は、彼の忠功が幕府に最大限に認められたことの何よりの証左であった。
桑山元晴は、戦場を駆け巡る猛将であると同時に、当代一流の文化人としての側面も持ち合わせていた。特に茶の湯の世界では、千利休亡き後の「天下一」と称された武将茶人・古田織部に師事し、その高弟の一人に数えられていた 1 。織部流は、武家社会に広く受け入れられた茶道であり、その門下であることは大名間の社交界における重要なステータスであった。
元晴の弟である貞晴(通称:小傳次、左近、法名:宗仙)もまた、兄とは別に高名な茶人であった。彼は千利休の子である千道安に学び、後にその茶風を片桐石州とその家臣に伝えた人物として茶道史に名を残している 32 。桑山家は兄弟そろって茶の湯に深く通じており、武辺だけでなく風流を重んじる家風であったことが窺える。
茶道の世界には、古田織部と「桑山左近」が犬猿の仲であったものの、細川忠興(三斎)が取り持った茶会をきっかけに和解したという有名な逸話が、茶書『久重日記』などに記されている 33 。この逸話は、茶席における機微や人間関係の妙を伝えるものとして広く知られている。
ここで注意すべきは、この逸話に登場する「桑山左近」が誰であるかという点である。諸史料を照合すると、この「左近」という通称は、元晴本人ではなく、彼の弟である貞晴(宗仙)を指していることが明らかである 29 。したがって、古田織部と不仲であったと伝えられるのは、元晴ではなく弟の貞晴(宗仙)であった。この事実を明確にすることで、元晴の人物像はより正確に浮かび上がる。彼は気性の激しい一面があったと伝わる弟とは異なり、師である織部と良好な関係を築き、大名間の社交を円滑に進める、穏当で洗練された文化人であった可能性が高い。
桑山元晴の文化人としての一面を最も象徴するのが、当代屈指の刀剣蒐集家であったことである。彼の審美眼は高く評価されており、そのコレクションには国宝や重要文化財に指定されるほどの逸品がいくつも含まれていた。この背景には、同じく茶人であった父・重晴の影響を受け、幼い頃から名物を見極める能力を培ってきたことがあるとされる 3 。
彼の所蔵品は、単なる武具や財産ではなく、彼の権威と文化的洗練度を示すものであった。これらの名刀は、元晴の死後や、後に述べる御所藩の改易に伴って桑山家の手を離れ、徳川将軍家や加賀前田家、紀州徳川家といった大々名の元へと渡っていった 3 。その来歴は、名物道具が人と時代を渡り歩く様を物語っている。
名称 |
種別 |
現在の文化財指定 |
逸話・来歴 |
桑山保昌 |
短刀 |
国宝 |
大和保昌派の作。「元亨二二年」(1322年)の年紀があり、鎌倉時代の作とわかる貴重な品。後に加賀前田家に伝来した 3 。 |
名物 上部当麻 |
短刀 |
重要美術品 |
元は「桑山当麻」と呼ばれた。元晴が近江大津で購入。改易後、紀州徳川家へ渡り、道具替えで尾張徳川家、さらに徳川将軍家へと伝来した 3 。 |
桑山光包 |
短刀 |
重要文化財 |
山城国の刀工・来光包の作。御所藩改易の際、弟の栄晴が徳川秀忠に献上し、旗本としての家名存続の一助となったとされる。後に前田家に下賜された 37 。 |
景則 |
刀 |
(指定不明) |
豊臣秀吉の死に際し、その遺物として元晴が拝領した刀 1 。 |
これらの名刀の存在は、桑山元晴が武功だけでなく、高い見識と財力を兼ね備えた、一流の大名であったことを雄弁に物語っている。
大坂の陣で徳川家への最後の奉公を果たし、武将としてのキャリアを全うした桑山元晴は、元和6年(1620年)7月20日、58年の生涯を閉じた 1 。戒名は禅渓院三叔紹玄。その墓所は、江戸の広徳寺(現在は東京都練馬区桜台)にある 1 。
彼の死後、大和御所藩の家督は、既に改易されていた長男・清晴に代わり、次男の貞晴(さだはる、通称:主殿、官位:加賀守)が継承した 1 。
しかし、桑山家には再び不運が訪れる。二代藩主となった貞晴(加賀守)は、父の跡を継いでからわずか9年後の寛永6年(1629年)、後継者となる男子がいないまま若くして死去してしまったのである 8 。
貞晴は死に際し、自らの弟である栄晴(よしはる)を末期養子(当主が危篤になってから迎える養子)として家を継がせ、家の断絶を回避しようと試みた。しかし、当時厳格に運用されていた武家諸法度の「末期養子の禁」により、この願いは江戸幕府に認められなかった 8 。
その結果、桑山元晴が関ヶ原の戦功によって築き上げた大和御所藩は、創設から2代、わずか約30年で改易となり、その所領2万6,000石余は全て幕府に没収されることとなった 8 。これは、大坂の陣で多大な功績を挙げた元晴の家ですら、法度の前には例外とされなかったという、江戸幕府初期の厳格な支配体制を象徴する出来事であった。
大名家としての御所藩は廃藩となったが、桑山家そのものが歴史から完全に姿を消したわけではなかった。幕府は、父・重晴や元晴が豊臣時代から徳川時代にかけて一貫して立ててきた功績を考慮し、桑山家の名跡存続を特別に許可したのである 8 。
これにより、家督を継ぐことができなかった弟の栄晴は、蔵米500俵取りの旗本として召し出され、桑山家の血脈を後世に伝える役割を担うことになった 8 。この家名存続の嘆願に際して、元晴が遺した名刀の一つである短刀「桑山光包」が、二代将軍・徳川秀忠に献上されたという説がある 37 。これが事実であれば、武功や経済力だけでなく、優れた文化的資産もまた、「家」を存続させるための重要な資源であったことを物語っている。
その後、栄晴の子である桑山直晴の代には加増を受け、桑山家は1,000石を知行する旗本として、幕末まで徳川の世に仕え続けた 8 。
桑山元晴の生涯は、歴史の教科書で主役として語られることは稀である。しかし、その軌跡を詳細に追うことで、戦国時代から江戸時代初期への巨大な転換期を、一人の武将がいかにして生き抜き、自らの家を存続させようとしたかという、リアルな姿が浮かび上がってくる。彼は、豊臣恩顧の大名という立場から、自らの武功と政治的判断、そして文化的素養を駆使して、徳川の世に巧みに適応し、新たな体制の中で確固たる地位を築いた。
武将としては、文禄・慶長の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣という、日本の歴史を画する三大合戦の全てに参加し、特に後の二つの戦いでは徳川方として決定的な武功を挙げた。その戦歴は、彼が一貫して高い軍事的能力を有していたことを証明している。
藩祖としては、初代大和御所藩主として、豊臣時代に培った都市計画の知識を活かし、領地の発展の基礎を築いた。その治世は二代で終わるという短いものであったが、地域の歴史に確かな足跡を残したことは間違いない。
そして文化人としては、古田織部門下の高弟として茶の湯を嗜み、当代屈指の刀剣蒐集家としてその名を馳せた。彼の風流を愛する一面は、単なる武辺者ではない、戦国武将の多面性を如実に示している。この文化的素養は、大名間の社交や幕府中枢との関係構築において、政治的な武器としても機能したであろう。
結論として、桑山元晴は、時代の激流の中で巧みに舵を取り、家の存続と発展を成し遂げた、極めて有能な武将であり、大名であったと言える。彼の生涯は、歴史の転換期における中堅大名の生存戦略と立身出世の普遍的な物語を我々に示してくれる。その意味で、彼はこの時代を理解するための、まさに「鍵となる人物」の一人として、再評価されるべき存在である。