武田信義は甲斐源氏の棟梁。源頼朝と並び立つ独立勢力として挙兵し、富士川の戦いで活躍。頼朝の警戒を受け嫡男を誅殺され、失意のうちに没するが、武田信玄の祖として後世に名を残す。
平安時代末期、日本の政治と社会は大きな転換点を迎えていた。中央では、保元・平治の乱を経て平氏一門が権力の頂点に立ち、武家政権の礎を築きつつあった 1 。しかし、その強権的な支配は、旧来の貴族社会のみならず、地方で着実に力を蓄えていた他の武士団との間に深刻な軋轢を生み出していた。この中央の権力闘争と連動するように、地方武士団は自立化の傾向を強め、独自の勢力圏を形成していく。武田信義が生きたのは、まさにこのような旧体制が崩壊し、新たな秩序が生まれる激動の時代であった。
信義が本拠とした甲斐国(現在の山梨県)は、京都と東国を結ぶ交通の要衝にありながら、四方を山々に囲まれた盆地という地理的特性から、中央の支配が及びにくく、独自の武士文化が育まれやすい環境にあった 2 。この地における経済基盤は、荘園と牧(まき)であった 3 。特に、古代より「甲斐の黒駒」と称される名馬の産地として知られ、朝廷に馬を献上する勅旨牧が置かれるなど、馬産は甲斐国の経済と軍事力を支える重要な要素であった 5 。この軍事戦略上、極めて価値の高い資源を掌握していたことが、後に甲斐源氏が強力な武士団として台頭する大きな要因となる 7 。
この甲斐の地に根を下ろしたのが、清和源氏の一流、甲斐源氏である。その祖は、八幡太郎義家の弟として名高い新羅三郎義光に遡る 8 。この血筋は、武田氏が源氏の中でも嫡流に近い、極めて格式の高い家柄であったことを示している。義光の子・源義清と、その子・清光は、常陸国武田郷(現在の茨城県ひたちなか市)での紛争が原因で、甲斐国に配流されたと伝えられる 10 。この「配流」という不遇な始まりが、結果として甲斐源氏発展の礎を築くことになった。父・源清光は、逸見光長、武田信義、加賀美遠光、安田義定といった多くの子らを甲斐盆地各地の要衝に配置し、それぞれを名字の祖とすることで、甲斐国内に広範な勢力網を築き上げた 10 。
武田信義の血統には、源氏の名門としての「権威」と、中央政界から追われた「配流者」の子孫としての「反骨精神」という二重性が内包されていた。この特性は、後の源頼朝との関係において、強力な同盟者でありながらも、常に潜在的な競争相手と見なされる要因となった。彼が頼朝と対等であろうとした背景には、単なる自負心だけでなく、「新羅三郎義光の曾孫」という、頼朝(義家の玄孫)に匹敵する血統的権威が存在したのである。同時に、祖先が中央から追われた経緯は、中央の権力に安易に従属しない独立志向を育んだ可能性があり、この二つの要素が彼の行動原理を理解する上で重要な鍵となる。
武田信義は、大治3年(1128年)8月15日、甲斐源氏の棟梁・源清光の次男として生を受けた 12 。母は駿河国手越宿(現在の静岡市駿河区)の遊女であったと伝えられている 9 。彼の出自で特筆すべきは、兄の逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれたという点である。『尊卑分脈』によれば、光長が巳の刻(午前9時から11時頃)に、信義が午の刻(午前11時から13時頃)に誕生したと記されている 9 。
通常であれば先に生まれた光長が嫡男として家督を継ぐはずであるが、武田宗家の家督は後に生まれた信義が継承した。この背景には、当時の双子の兄姉の決定方法が一律ではなく、後から生まれた方を兄としたり、体が大きい方を兄としたりする慣習が地域によって存在した可能性が指摘されている 17 。しかし、より本質的には、父・清光による戦略的な勢力分割の意図が働いていたと考えるべきであろう。甲府盆地北西部の重要拠点である逸見荘を光長に、それに隣接する武田荘を信義に継がせることで、この地域一帯の支配を盤石にする狙いがあったと推察される 18 。この配置は、一族の力を一か所に集中させるのではなく、面的に支配領域を確保する戦略であり、後の甲斐源氏の勢力構造を決定づけた。
保延6年(1140年)、信義は13歳で武田八幡宮において元服の儀式を執り行った。幼名であった龍光丸、あるいは勝千代から、武田太郎信義と名を改めた 8 。この元服は、単なる一個人の成人儀礼にとどまらず、武田氏の歴史における画期的な出来事であった。これ以降、武田八幡宮は甲斐武田氏代々の氏神として篤く信仰され、武田氏発祥の象徴的な聖地としての地位を確立していくことになる 9 。信義が武田荘を本拠とし、「武田」の名字を名乗ったことから、彼が実質的な武田氏の初代当主と見なされている 9 。
信義が家督を継いだ後も、父・清光の戦略は引き継がれた。信義の兄弟である加賀美遠光は巨摩郡加賀美荘、安田義定は山梨郡安田郷を本拠とし、それぞれが支族の祖となった 10 。さらに信義の子である一条忠頼や板垣兼信らも甲斐国内の要地に拠点を構え、甲斐源氏は血縁を基盤とする緩やかな連合体として形成されていった 1 。
この「緩やかな連合体」という組織構造は、甲斐源氏の強みであると同時に、その後の運命を決定づける弱点ともなった。平時においては、各支族がそれぞれの所領で自立性を保ちながら勢力を拡大する上で有効に機能した。しかし、源平争乱という未曽有の動乱期を迎え、源頼朝という強力な求心力を持つ指導者が登場すると、この構造は致命的な脆弱性を露呈する。一門が必ずしも一枚岩で行動せず、各支族が独自の判断で頼朝や木曽義仲といった外部勢力と結びつくことが可能であったため、棟梁である信義は一門全体を完全に統制することができなかった。この組織的欠陥こそが、後に頼朝による巧みな分断工作を許し、甲斐源氏が没落する最大の要因となったのである。
治承4年(1180年)、平氏政権打倒を掲げた後白河法皇の皇子・以仁王の令旨が諸国の源氏に伝えられると、全国で反平氏の狼煙が上がった。武田信義も同年4月頃にはこの令旨を拝受し、8月下旬には甲斐国で挙兵したと推測されている 1 。この動きは、伊豆で源頼朝が挙兵した同年8月23日とほぼ同時期か、あるいはそれ以前のことであり、信義が頼朝の指揮下に入って行動したのではなく、独立した勢力として独自の判断で決起したことを明確に示している。
この事実は、当時の都の貴族たちの認識からも裏付けられる。公卿・中山忠親の日記『山槐記』の同年9月7日条には、上野国の新田義重からの注進として「義朝子(頼朝)伊豆を領す。武田太郎(信義)甲斐国を領す」と記されている 9 。これは、中央政界において、頼朝と信義が関東と甲信地方で並び立つ二大源氏勢力として認識されていたことを物語る貴重な記録である。甲斐源氏は、頼朝の関東、木曽義仲の北陸と並び、源平争乱における「第三の源氏」とも言うべき独自の地位を占めていたのである 1 。
同年10月、平氏が派遣した大軍と源氏勢力が駿河国で対峙した富士川の合戦は、源平争乱初期の戦局を決定づけた重要な戦いであった。この合戦の主役が誰であったかについては、史料によって記述が大きく異なる。
鎌倉幕府の公式史書である『吾妻鏡』は、源頼朝を総大将とし、甲斐源氏はそれに合流した一軍勢として描いている 9 。しかし、これは幕府成立後に、頼朝を源氏唯一の棟梁として正当化する目的で編纂された歴史観が色濃く反映された結果である可能性が高い。
一方、同じ時代の公卿・九条兼実の日記『玉葉』は、全く異なる情勢を伝えている。そこでは、富士川で平家軍と対峙した源氏軍の総指揮官は武田信義であり、その兵力は2万騎から4万騎に及んだと記されている 26 。平家軍が戦わずして敗走するきっかけとなった有名な「水鳥の羽音」の逸話も、一説には、信義率いる甲斐源氏の部隊が平家軍の背後を突くために富士川の浅瀬を渡った際、その物音に驚いた水鳥が一斉に飛び立ったために起きたとされている 29 。これらの記録は、『吾妻鏡』が描く頼朝中心の史観とは異なり、富士川の合戦における実質的な主役が武田信義率いる甲斐源氏であったことを強く示唆している。
合戦後、信義は駿河国を実力で占拠し、頼朝から駿河守護に任じられた 9 。しかし、これも実態としては、頼朝が信義の功績と実効支配を追認した形であったと考えるのが妥当であろう。
挙兵当初、信義と頼朝の関係は、平家打倒という共通の目的を持つ対等な「同盟関係」であった 1 。しかし、甲斐源氏内部では、信義の弟である安田義定が木曽義仲の上洛軍に参加するなど、各支族が独自の外交を展開しており、信義の統制は完全ではなかった 1 。
この力関係が決定的に変化したのは、寿永2年(1183年)10月のことである。頼朝は、都で乱暴を働き後白河法皇と対立した木曽義仲の追討を大義名分として、朝廷から東海道・東山道における支配権を公的に認める宣旨(寿永二年十月宣旨)を獲得した 1 。これにより、頼朝は単なる一武将から、東国における公的な支配者へとその地位を高めた。この時点で、信義と頼朝の力関係は逆転し、対等な同盟関係は徐々に主従関係へと変質していく。その後の義仲追討戦(宇治川の戦い)や、続く平家追討の戦いにおいて、甲斐源氏は頼朝の指揮下にある一軍として参戦することになるのである。
信義率いる甲斐源氏は、一時は天下三分の形勢の一角を占めるほどの勢力を誇った。しかし、彼らは頼朝のように「鎌倉」という新たな政治拠点を創設して東国武士を組織化する政治構想も、義仲のように電撃的に入京して中央政界を掌握する機動性も持ち合わせていなかった。結果として、地理的にも政治的にも頼朝と義仲の間に挟まれ、両者の争いの中で主体性を失い、最終的に頼朝の巨大な政治力の中に吸収されていった。それは、信義が卓越した軍事指導者ではあったものの、あくまで甲斐という地方の枠組みに根差した「棟梁」であり、その限界を超えることができなかったことを示している。
平家との戦いが終局に向かうにつれ、源頼朝の関心は、外敵の打倒から内なる権力基盤の確立へと移っていった。その過程で、彼が最も警戒したのは、自らと同じ源氏の血を引きながらも、強大な軍事力と独立性を保持する同族たちであった。中でも、武田信義率いる甲斐源氏は、その筆頭と見なされた 8 。
頼朝による甲斐源氏への圧力は、養和元年(1181年)に顕在化する。後白河法皇が信義に対して頼朝追討の院宣を下した、という風聞が流れたのである 12 。この噂の真偽は定かではないが、頼朝はこの機を逃さなかった。信義は鎌倉に召喚され、謀反の意思がないことを証明するため、子々孫々に至るまで頼朝に背かない旨を記した起請文(誓約書)を提出させられるという屈辱を強いられた 14 。この一件により、信義の政治的地位は著しく低下し、実力で獲得した駿河守護の職も、頼朝の義父である北条時政へと交代させられた 1 。これは、頼朝が信義の力を削ぎ、その勢力圏を自らの支配体制に組み込もうとする明確な意思表示であった。
頼朝の甲斐源氏に対する切り崩し工作は、さらに冷徹な形で実行される。元暦元年(1184年)6月、信義の嫡男であり、木曽義仲追討などでも軍功を挙げていた一条忠頼が、鎌倉の御所へ呼び出された 24 。
『吾妻鏡』によれば、その誅殺の理由は「威勢を振るうあまり、世を乱す志を抱いているとの噂が立ったため、武衛(頼朝)がこれを察知された」というものであった 24 。頼朝は忠頼を宴席に招くと、工藤祐経をはじめとする御家人たちに命じ、その場で忠頼を謀殺させた 24 。この事件は、甲斐源氏の勢力を根底から覆す決定的な打撃となった。武勇に優れ、次代の棟梁と目されていた忠頼を失ったことで、甲斐源氏は一大独立勢力から、鎌倉幕府に仕える一御家人へとその地位を転落させられたのである 8 。
この悲劇は、後世にも深い爪痕を残した。忠頼の妻は、夫の死を悼み、その霊を慰めるために甲斐国・一条小山の居館を仏堂とした。これが後の甲府の名刹・一蓮寺の起源になったと伝えられている 34 。
忠頼の誅殺は、頼朝による計画的な甲斐源氏粛清の序章に過ぎなかった。次なる標的は、信義の弟(一説には叔父)であり、遠江守護として大きな力を持っていた安田義定であった 30 。頼朝は忠頼の時と同様の、計算された手法を用いた。建久4年(1193年)、まず義定の子・義資を、院の女房に艶書(恋文)を送ったという罪で処刑した 38 。そして、この事件に連座させる形で義定の所領を没収し、遠江守護職を解任。翌建久5年(1194年)、追い打ちをかけるように謀反の嫌疑をかけ、義定を誅殺したのである 1 。この二段階にわたる粛清の手法は、標的の力を削ぎ、周囲の反発を抑えながら目的を達成する、頼朝の冷徹な政治的計算を如実に示している。
一方で、頼朝は甲斐源氏の全てを敵に回したわけではなかった。彼は巧みな「飴と鞭」の使い分けにより、一門の内部から分断を図った。信義の弟である加賀美遠光や、信義の五男・武田信光は、早くから頼朝に恭順の意を示し、その見返りとして幕府内で重用された 1 。特に加賀美遠光は、娘の大弐局が頼朝の子である頼家・実朝兄弟の養育係に任じられるなど、頼朝と極めて深い関係を築き、信濃守に任官した 19 。その子孫からは、後に信濃の名族となる小笠原氏や、奥州の雄となる南部氏が分出している 1 。
信義が嫡男を殺されても沈黙を守り、反旗を翻すことができなかった背景には、この巧みな分断統治があった。弟の加賀美遠光や実子の信光までもが頼朝側に取り込まれ、一門内での支持基盤を完全に失っていた信義は、もはや孤立無援の状態に追い込まれていたのである 14 。頼朝は、甲斐源氏という強大な勢力を「外から攻め滅ぼす」のではなく、「内から切り崩し、無力化する」という、より高度な政治戦略を成功させたのであった。
頼朝による甲斐源氏への「分断統治」戦略を視覚的に示すため、以下に主要人物の動向をまとめる。恭順派の厚遇と独立志向派の粛清を対比することで、甲斐源氏の没落が体系的な政治工作の結果であったことが明らかになる。
人物名 |
信義との関係 |
治承・寿永の乱における立場 |
末路 |
関連史料 |
武田信義 |
本人 |
甲斐源氏棟梁、当初は独立勢力 |
嫡男誅殺後、失意のうちに病没 |
8 |
一条忠頼 |
嫡男 |
信義と共に甲斐源氏の中核 |
鎌倉にて頼朝の命で謀殺 |
24 |
安田義定 |
弟(または叔父) |
当初は義仲に与力、後に頼朝に従う |
頼朝により子と共に誅殺 |
1 |
加賀美遠光 |
弟(または叔父) |
親頼朝派 |
幕府内で厚遇、信濃守に任官 |
19 |
武田信光 |
五男 |
親頼朝派 |
家督を継承、安芸守護に任官 |
19 |
逸見光長 |
異母兄(双子) |
不明瞭(平家討伐に参加か) |
活躍は伝わらず、子孫は存続 |
18 |
嫡男・一条忠頼の非業の死は、武田信義の心身に計り知れない打撃を与えた。これにより、甲斐源氏の組織的な力は大きく削がれ、信義自身も政治の表舞台から完全に身を引くこととなった 8 。かつては頼朝と並び称された源氏の棟梁も、今や鎌倉幕府に仕える一介の御家人という地位に甘んじるほかなく、その後の活動に関する記録は歴史上からほとんど姿を消す 12 。彼は失意のうちに、武田氏発祥の地である甲斐の本拠地へと戻り、静かな隠棲生活を送ったと伝えられている 8 。
文治2年(1186年)3月9日、武田信義はその波乱の生涯を閉じた。享年59であった 12 。一説には、最後まで息子・忠頼にかけられた謀反の嫌疑が晴れることのないまま、無念の内に亡くなったとされる 19 。信義の死は、単なる一個人の死ではなく、頼朝や義仲と並び立つ独立勢力としての甲斐源氏が、名実ともに終焉を迎えたことを象徴する出来事であった。彼の死をもって、源氏内部の熾烈な権力闘争は完全に終結し、頼朝を絶対的な頂点とする鎌倉の武家政権の秩序が確立されたのである。
信義の亡骸は、彼が篤く信仰し、再興したとされる鳳凰山願成寺(現在の山梨県韮崎市)に葬られた。この寺は信義の菩提寺となり、境内には今なお、信義の墓と伝えられる荘厳な鎌倉様式の五輪塔(韮崎市指定文化財)が静かに佇んでいる 8 。また、寺に伝わる本尊の木造阿弥陀如来及び両脇侍像(国指定重要文化財)は、信義がその権勢の絶頂期に寄進したものとされ、彼の生前の栄華を今に伝えている 47 。
中央の歴史からその功績を半ば抹消された信義であったが、彼の故郷である甲斐の地では、その威光は伝説となって語り継がれた。その最も有名なものが、鎮西八郎為朝との邂逅譚である。
武田八幡宮の境内社である為朝神社には、次のような伝説が残されている。保元の乱に敗れ、伊豆大島へ流罪となったはずの源氏の猛将・源為朝が、実は島を脱出し、鬼を二匹引き連れて甲斐国へ逃れてきた。そして、信義の人徳と勢力を頼り、その庇護のもとで「武田為朝」と名乗って暮らした、というものである 20 。
この物語は史実ではない。しかし、このような伝説が生まれ、語り継がれたこと自体が重要である。それは、頼朝との権力闘争に敗れた後も、武田氏とその領民たちが、自らの祖先である信義を「源氏一門の不遇の英雄(為朝)ですら頼るほどの器量と勢力を持った大人物」として記憶し、その権威を再構築しようとした試みの現れに他ならない。頼朝にこそ敗れたが、我々の祖は本来これほどの人物であった、という一族の誇りと正当性を補強する精神的な支えとして、この伝説は機能したのである。
武田信義は、源平争乱の初期段階において、紛れもなく歴史の主役の一人であった。彼は源頼朝と並び立つ源氏の有力な棟梁として、いち早く反平氏の兵を挙げ、富士川の合戦では中核となって勝利を収め、東国における源氏の優位を決定づけた 9 。その功績なくして、頼朝のその後の躍進はあり得なかったかもしれない。
しかし、彼の歴史的役割には明確な限界も存在した。強大な軍事力を擁しながらも、それを新しい時代の政治体制構築へと結びつける、頼朝のような壮大なビジョンと組織力を欠いていた点である。彼の視線は最後まで甲斐という本拠地と、血縁で結ばれた一門という枠組みに留まり、全国的な政治構想を推し進める頼朝の前に、その独立性は徐々に侵食され、ついには排除されるに至った。信義の生涯は、鎌倉幕府という新たな秩序が形成される過程で、必然的に生じた「統合と排除」の論理を、その一身に体現した悲劇であったと言える。
信義の晩年は失意のうちに終わったが、彼の血脈が絶えることはなかった。頼朝に恭順の意を示した五男・信光の系統が、武田氏の嫡流として存続を許されたのである 19 。信光は承久の乱で功を挙げ、安芸守護職を得るなど、鎌倉御家人として確固たる地位を築いた 43 。この血脈は、鎌倉・室町時代を通じて甲斐守護職を世襲し、幾多の困難を乗り越えながら家名を保ち続けた 10 。
そして、信義の死から約400年の時を経た戦国時代、この家系から「戦国最強」と謳われる武田信玄が登場する 22 。信玄の時代、武田軍の出陣に際して行われた「御旗・楯無、御照覧あれ」という儀式は、新羅三郎義光以来の伝統と、信義から始まる甲斐源氏の棟梁としての誇りを象徴するものであった 56 。これは、信義が単なる過去の人物ではなく、戦国武田氏のアイデンティティの根幹をなす「偉大なる祖」として、子孫から深く尊崇されていたことを示している。
ここに歴史の皮肉がある。鎌倉幕府を創設した頼朝の源氏嫡流は、わずか三代で断絶した。一方で、その頼朝によって滅亡の淵に立たされた信義の家系は、戦国時代に天下を窺うほどの劇的な「再興」を遂げたのである。
武田信義という人物には、二つの異なる歴史的評価、すなわち「記憶」が並存している。一つは、『吾妻鏡』に代表される中央の公式史観における「頼朝に敗れた地方豪族」という記憶である。もう一つは、甲斐の地に残る史跡や伝承、そして後の武田氏の自己認識の中に生き続ける「武田氏の偉大なる始祖」という記憶である。
現在の山梨県韮崎市には、信義が館を構えたと伝わる武田信義館跡 57 、元服を遂げた武田八幡宮 20 、そして彼が眠る菩提寺・願成寺 45 など、信義の生涯を物語る史跡が数多く点在している。これらの史跡や、為朝伝説のような豊かな伝承は、中央の歴史からは半ば忘れ去られた信義が、地元甲斐においては郷土の英雄として、時代を超えて永く記憶され続けてきた何よりの証左である。
この二つの記憶の相克と並存を理解することこそが、武田信義という人物の多層的な歴史像を正しく捉える上で不可欠である。彼は、源平の動乱期における源氏の勝利に不可欠な貢献をしながらも、鎌倉という新たな武家社会の秩序形成の過程で淘汰されていった、時代の転換点を象徴する人物として、日本史にその名を刻んでいる。