本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて陸奥国にその名を刻んだ武将、氏家吉継(うじいえ よしつぐ)について、現存する史料情報を基に多角的な調査を行い、その生涯と活動の実像を明らかにすることを目的とする。利用者より提供された「大崎家臣。岩出山城主。大崎内乱の際には伊場野惣八郎と結び、反主流派の中心人物として活動した。主家の没落後は伊達政宗に仕えたが、間もなく病没した」との概要を初期情報として認識し、これを基点としてより深く、詳細な分析を試みる。
氏家吉継が生きた時代は、中央の政治的権威が著しく低下し、日本各地で有力な戦国大名が群雄割拠する動乱の世であった。特に彼が活動の拠点とした陸奥国北部は、奥州探題として名門の血を引く大崎氏が勢力を保持していたものの、その支配体制は必ずしも盤石ではなく、伊達氏、最上氏、葛西氏といった周辺の有力大名との複雑な力関係の中にあった。このような背景の下、氏家吉継は大崎氏の重臣として、そして岩出山城主として、激動の時代を生き抜くこととなる。
本報告書では、氏家吉継の出自と彼が属した奥州氏家氏の成り立ち、大崎家臣としての彼の具体的な立場と役割、大崎氏の命運を大きく左右した大崎内乱(大崎合戦)への関与の経緯とその中での彼の行動、そして主家滅亡後の伊達政宗との関係、さらにはその最期に至るまでを、史料に基づいて詳細に追跡する。特に、大崎内乱における彼の立場や行動の背景、そしてそれが大崎氏の歴史にどのような影響を与えたのかという点を重点的に考察し、氏家吉継という一人の武将の生涯を通じて、戦国末期の奥羽地方の動態を浮き彫りにすることを目指す。
氏家吉継の人物像を理解する上で、まず彼が属した奥州氏家氏の歴史的背景を把握することが不可欠である。奥州氏家氏は、その起源を関東地方に持ち、奥州探題斯波氏(後の大崎氏)の陸奥下向に伴い、同地で勢力を築いた武家であった。
奥州氏家氏は、下野国を発祥とする宇都宮氏の庶流と伝えられている 1 。具体的には、宇都宮朝綱の子である公頼が下野国芳賀郡氏家郷(現在の栃木県さくら市氏家)に配され、その地名に因んで「氏家」を称したことに始まるとされる 2 。この関東における起源は、後の奥州進出の前提となる。
氏家氏の奥州への進出は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての出来事であった。氏家経朝の甥にあたる氏家重定が越中国(現在の富山県)に移り、その後、建武4年(1337年)あるいは文和2年(1353年)に、斯波家兼(しば いえかね、後の大崎氏の祖)が奥州管領(後に奥州探題)として陸奥国へ下向する際に、その執事として随行したとされる 2 。この事実は、奥州氏家氏が、奥州統治のために下向した斯波氏(大崎氏)と極めて初期の段階から深い主従関係にあったことを示しており、氏家氏が大崎家中で重臣としての地位を確立する基盤となった。
奥州における氏家氏の拠点となったのが、岩出山城(当初は岩手沢城とも称された)である。この城の築城に関しては諸説あり、応永年間(1394年~1428年)に氏家直益 3 、あるいは氏家詮継 4 、または単に氏家弾正 2 によって築かれたと伝えられている。いずれにせよ、この岩出山城は以降、奥州氏家氏の勢力基盤として機能した。
氏家吉継は、この奥州氏家氏の第12代当主とされている 1 。彼の父は氏家隆継(うじいえ たかつぐ)であった 1 。これにより、吉継が奥州における名門武家の家督を継承した人物であったことが確認できる。
なお、史料中には西美濃三人衆の一人である氏家直元(卜全)の三男として「氏家吉継」なる人物の記述も存在するが 6 、活動時期や地域が本報告書の対象である大崎家臣の氏家吉継とは明らかに異なるため、両者は別人であると判断される。このような混同を避けることは、対象人物を正確に特定する上で重要である。
奥州氏家氏は、代々大崎氏の重臣として、主家を支える重要な役割を担ってきた 4 。大崎氏が戦国時代初期において、奥州でも有数の戦国大名として勢力を拡大していく過程で、氏家氏もその軍事力や政治力の一翼を担ったと考えられる。
しかしながら、大崎氏と氏家氏の関係は、常に従順な主従関係であったわけではない。大崎氏の家中では、時代が下るにつれて笠原氏など他の重臣の勢力が増大するなどの内部的な権力闘争も存在し、時には氏家氏が主家である大崎氏に対して反旗を翻すこともあった。例えば、天文3年(1534年)には、氏家直益(前述の岩出山城築城者とされる人物の一人)が大崎義直に対して反乱を起こし、岩出山城に籠城した末に降伏するという事件も記録されている 2 。
このような歴史的背景は、奥州氏家氏が単に大崎氏に従属するだけの存在ではなく、岩出山城を拠点とする一定の自立性を有し、時には主家の意向に逆らってでも自家の利益や立場を守ろうとする有力な国人領主としての側面も持っていたことを示唆している。戦国時代の主従関係の流動性を考慮すれば、有力な家臣が主家の状況や自身の判断に基づいて自立的な行動を取ることは決して珍しいことではなかった。氏家吉継の後半生における行動も、こうした奥州氏家氏が置かれてきた歴史的な立場や、主家との緊張関係を含む複雑な関係性を背景に理解する必要があるだろう。また、宇都宮氏庶流という出自は、単なる名目上のものに留まらず、他の関東武士団との潜在的な連携の可能性や、氏家氏自身の家格に対する意識にも影響を与えた可能性が考えられる。これは、後の伊達政宗のような新興勢力との交渉における吉継の態度や自負心の背景となった要素の一つかもしれない。
氏家吉継は、父・氏家隆継の隠居に伴い家督を相続し 1 、陸奥国岩出山城主として、また奥州氏家氏の当主として、大崎氏の領国経営と軍事において中心的な役割を担った 1 。岩出山城が地理的にも軍事的にも要衝であったことを考えれば、その城主である吉継が大崎家中で相当な実力者であったことは想像に難くない。
大崎氏の当主・大崎義隆の政権下において、氏家吉継は「執事」として家政の中枢を担っていたとされる 7 。戦国期における「執事」という役職は、単なる重臣の一人というよりも、家中の庶務や財政、時には軍事指揮に至るまで、主君を補佐して家政全般を統括する筆頭家老格の地位を示す場合が多い。このことから、吉継が大崎氏内部で非常に大きな権力と影響力を持っていたことが窺える。
さらに注目すべきは、吉継が長年にわたり伊達氏と大崎氏との間の関係維持に尽力した人物として評価されている点である 9 。これは、彼が単なる武辺一辺倒の武将ではなく、複雑な外交交渉にも長けた人物であったことを示唆している。当時の奥羽地方は、伊達氏、最上氏、葛西氏、そして大崎氏といった諸勢力が複雑に入り乱れており、各大名家は生き残りをかけて合従連衡を繰り返していた。そのような状況下で、隣接する有力大名である伊達氏との関係を調整する役割は、極めて重要であったと言える。この外交家としての経験と、それを通じて培われた伊達氏側との人脈や信頼関係(あるいはその逆の緊張関係)が、後に彼が大崎内乱(大崎合戦)において伊達政宗に支援を求めるという行動に出る伏線となった可能性は高い。
しかしながら、家中における吉継のこのような権力集中と影響力の大きさは、一方で、主君である大崎義隆や他の重臣たちとの間に軋轢や緊張関係を生む素地となった可能性も否定できない。特に、主君の統制力が弱まっていた場合、有力家臣の台頭は主家にとって脅威と見なされることもあった。後に詳述する大崎内乱の勃発には、こうした大崎氏内部の権力構造の歪みや、吉継の立場を快く思わない勢力との対立が深く関わっていたと推測される。
天正年間後半、大崎氏の領国を揺るがす大規模な内乱、いわゆる大崎合戦が勃発する。この内乱は、氏家吉継の運命、そして大崎氏の将来に決定的な影響を与えることとなった。
大崎内乱の発端については、複数の要因が指摘されている。一つには、大崎義隆の寵童(近習の少年)たちを巡る個人的な争いが、家中全体の深刻な内紛へと拡大したという説がある 9 。具体的には、義隆の近習であった伊場野惣八郎(いばの そうはちろう)と新井田刑部(にいだ ぎょうぶ、名は隆景とも)が、義隆の寵愛を巡って対立したことがきっかけとされる 11 。史料 12 によれば、この対立において、新井田刑部が氏家吉継を頼ったことから、吉継もこの争いに巻き込まれる形となった。
しかし、事態は単純な寵童間の争いに留まらなかった。やがて、大崎氏の執事として重きをなしていた氏家吉継自身と、新井田刑部(あるいは新井田隆景)との間に対立が生じる 1 。この対立の具体的な原因については諸説あるが、大崎氏内部の主導権争いや、吉継の権勢に対する他の家臣団の反発などが背景にあったと考えられる。
仙台藩の編纂した史書『貞山公治家記録』によれば、この内紛に乗じて新井田刑部らが氏家吉継を討伐し、さらには主君である大崎義隆に切腹を強要しようと画策し、そのために伊達政宗に加勢を求めたとされる 13 。しかし、この謀反の計画を事前に察知した氏家吉継の動きにより、義隆は新井田刑部を自身の領地である新井田に引き籠もるよう命じた。ところが、新井田刑部はこれに従うふりをして義隆を新井田城へ連行し、逆に主君を幽閉するに至った。新井田城に集結した新井田派の家臣たちは、一致して氏家吉継の討伐を義隆に迫った。追い詰められた義隆は、氏家討伐を決定。これを知った氏家吉継は、名生城(のうじょう、大崎氏の本拠)にいた義隆の妻子を人質として岩出山城に確保し、伊達政宗に対して大崎領の併呑を促す書状を送ったという 13 。
一方で、より一般的に流布している説としては、大崎義隆が氏家吉継に対して切腹を命じたため、追い詰められた吉継が伊達政宗に救援を要請した、というものである 9 。いずれにしても、天正15年(1587年)末には、氏家吉継は伊達政宗と内通し、これが伊達氏による大崎領への軍事介入、すなわち大崎合戦の直接的な引き金となった 1 。
利用者より提供された情報にある「伊場野惣八郎と結び、反主流派の中心人物として活動した」という点については、史料 12 の記述と照らし合わせると、やや異なる様相が浮かび上がる。同史料では、伊場野惣八郎は新井田刑部と対立する義隆の「寵童」として登場し、この両者の争いが内乱の一因とされている。そして、新井田刑部が氏家吉継を頼ったとある。このことから、吉継は当初、新井田刑部に近い立場にあったか、あるいは新井田刑部から支援を求められる存在であった可能性が考えられる。伊場野惣八郎と吉継が直接的に「結んだ」という明確な記述は現時点では確認し難く、むしろ伊場野・新井田という寵臣間の対立構造に吉継が巻き込まれ、やがて吉継自身が義隆や反吉継派との主要な対立軸へと転化していったと解釈するのが、史料の記述からはより自然であるように思われる。
氏家吉継からの救援要請(あるいは内通)を受けた伊達政宗は、これを大崎領への勢力拡大の好機と捉えた。天正16年(1588年)1月、政宗は大崎氏の内紛鎮圧を名目として、叔父である留守政景(るす まさかげ)や泉田重光(いずみだ しげみつ)らを大将とし、浜田景隆を陣代とする軍勢を大崎領へ派遣した 9 。政宗自身はこの時、福島方面の情勢もあって米沢を動かず、直接出陣はしていない 12 。
伊達軍は当初、志田郡松山の遠藤高康の居城である千石城に集結し、そこから大崎氏の防衛拠点の一つである中新田城の攻略を目指した 12 。これに対し、大崎義隆方は中新田城を拠点として籠城戦を展開した 9 。
しかし、伊達軍の進撃は思わぬ障害に直面する。大崎義隆の弟・義康を養子に迎えていた黒川氏の当主・黒川晴氏(くろかわ はるうじ)が、当初の予想に反して大崎方に与し、伊達軍から離反したのである 1 。この黒川晴氏の寝返りにより、伊達軍は同年2月、中新田城攻略に失敗し、大きな損害を被って敗退した(大崎合戦における「中新田の戦い」)。泉田重光や長江勝景(ながえ かつかげ)といった伊達方の将兵は退路を断たれ、新沼城(にいぬまじょう)に籠城を余儀なくされ、最終的には人質を差し出すことで辛うじて開城、撤退するという屈辱的な結果となった 12 。
この伊達軍の敗北により、氏家吉継は一時的に孤立状態に陥った。しかし、彼はなおも伊達方との連携を諦めず、新沼城に籠城する伊達勢に対して兵糧を送り届けるなど、困難な状況下での支援を継続したと伝えられている 12 。この行動は、吉継の伊達氏に対する強い期待と、彼の困難な状況における実行力を示すものと言える。
この大崎合戦の長期化と複雑化には、周辺勢力も深く関与した。伊達政宗の伯父であり、大崎義隆の室の父でもある最上義光(もがみ よしあき)は、大崎氏と伊達氏の間に立って調停工作を試みた 9 。また、政宗の母であり義光の妹である義姫(よしひめ、保春院、お東の方とも)も、息子と兄の対立を憂慮し、和平のために積極的に動いたとされる 12 。
最終的に、天正16年(1588年)7月頃には、伊達氏と最上氏の間で和議が成立し、それに伴い大崎氏と伊達氏の間でも一時的な和睦が成立した。氏家吉継もこの和睦によって大崎氏に帰参を許され、再び大崎氏の家臣という立場に戻ることになった 1 。しかし、一度は主家に反旗を翻し、外部勢力を引き入れた吉継に対する大崎家中での風当たりは強く、その立場は依然として不安定なままであった 12 。
大崎合戦は、伊達政宗にとっては、直接的な軍事的勝利を得ることはできず、むしろ手痛い敗北を喫した戦いであった。しかし、この内乱は大崎氏の内部対立を決定的に深刻化させ、その国力を著しく疲弊させる結果をもたらした。大崎義隆の指導力は大きく揺らぎ、家臣団の分裂は修復困難なレベルに達した。
氏家吉継は一時的に大崎氏に帰参したものの、家中での彼の立場は悪化の一途を辿った。天正17年(1589年)には、年頭の挨拶を名目に米沢の伊達政宗のもとへ出仕するなど、公然と伊達氏への傾斜を強めていく 12 。これは、もはや大崎氏内部での自身の安全と将来を確保できないと判断した吉継が、伊達政宗に活路を求めようとした行動と解釈できる。
同年4月には、大崎義隆と伊達政宗の間で再び講和が成立するが、その内容は「大崎領内での伊達の軍事行動の自由を認める」「大崎は最上との同盟を破棄する」「大崎は氏家一派に対して手出しをしない」といったものであり、実質的に大崎氏が伊達氏に従属することを意味する、伊達氏に一方的に有利なものであった 12 。これは、大崎合戦を通じて大崎氏がいかに弱体化したか、そして伊達政宗がいかに巧みにその状況を利用して影響力を拡大したかを示すものである。
大崎内乱は、単なる大崎氏一家中の家臣間の勢力争いに留まるものではなかった。それは、主君・大崎義隆の統制力の低下、氏家吉継をはじめとする有力家臣の自立志向、伊達政宗や最上義光といった外部勢力の巧みな介入、さらには寵童を巡る個人的な感情のもつれといった要素が複雑に絡み合った、多層的な紛争であったと言える。特に、伊達氏側の史料である『貞山公治家記録』が、政宗の軍事介入の正当性を強調する側面を持つ可能性については、史料批判的な視点を持って解釈する必要がある。例えば、同記録が新井田刑部側が先に政宗に援助を求めたと記述している点 13 は、政宗の行動を「要請に応じたもの」と見せる効果を狙ったものである可能性も考慮すべきである。
氏家吉継の戦略的な判断は、内乱の展開と共に変化していった。当初は家中の対立に巻き込まれる形で関与した可能性もあるが 12 、やがて自らが排除の対象とされるに至り(義隆が吉継に切腹を命じたという説 9 もある)、伊達政宗という強力な外部勢力を引き込むことで、自らの生き残りを図ろうとした。これは極めて危険な賭けであったが、当時の彼の置かれた状況を考えれば、他に有効な選択肢は限られていたのかもしれない。
表1:大崎内乱(大崎合戦)主要関係者と動向
氏名 |
所属・立場(内乱最盛期) |
主な動向 |
備考 |
氏家吉継 |
大崎氏執事、岩出山城主 |
新井田刑部と対立、伊達政宗に救援要請・内通。伊達軍敗退後も支援継続。一時大崎氏と和睦するも、伊達氏への傾斜を強める 1 。 |
本報告書の中心人物。 |
大崎義隆 |
大崎氏当主 |
家中統制に苦慮。新井田刑部に幽閉される。氏家吉継討伐を命令。伊達・最上との間で翻弄され、最終的に伊達氏に有利な講和を結ぶ 12 。 |
大崎氏最後の領主。 |
新井田刑部(隆景) |
大崎氏家臣 |
氏家吉継と対立。義隆を幽閉し、吉継討伐を迫る。『貞山公治家記録』では伊達政宗に加勢を求めたとされる 13 。 |
内乱の主要な当事者の一人。 |
伊場野惣八郎 |
大崎義隆近習 |
新井田刑部と義隆の寵愛を巡り対立。この争いが内乱の一因となる 11 。 |
義隆の寵童。 |
伊達政宗 |
伊達氏当主 |
氏家吉継の内通に応じ大崎氏に軍事介入。黒川晴氏の離反で敗北するも、外交を通じて大崎氏への影響力を強める 9 。 |
当時、急速に勢力を拡大していた。 |
黒川晴氏 |
黒川氏当主 |
当初伊達方かと思われたが、大崎方に寝返り、伊達軍敗北の大きな要因となる。後に伊達氏と和睦し旗下に復帰 12 。 |
大崎義隆の弟・義康を養子としていた。 |
最上義光 |
最上氏当主 |
伊達政宗の伯父。大崎氏・伊達氏間の調停を行う。大崎氏への影響力も保持 9 。 |
大崎義隆の正室の父。 |
留守政景 |
伊達氏一門、重臣 |
大崎合戦における伊達軍の総大将の一人。中新田での敗戦を経験 9 。 |
伊達政宗の叔父。 |
泉田重光 |
伊達氏家臣 |
大崎合戦における伊達軍の将。中新田敗戦後、新沼城に籠城し人質となる 9 。 |
|
この表は、大崎内乱がいかに多くの人物の思惑と行動が絡み合って展開したかを示している。氏家吉継の行動も、こうした複雑な人間関係と権力構造の中で理解されるべきである。
大崎内乱(大崎合戦)は、大崎氏の国力を著しく疲弊させ、その後の運命に暗い影を落とした。氏家吉継もまた、この激動の中で新たな道を模索することになる。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして小田原北条氏を攻めた(小田原征伐)。この際、秀吉は全国の諸大名に小田原への参陣を命じたが、大崎義隆はこれに応じなかった。この不参陣を理由として、大崎氏は秀吉による奥州仕置によって改易され、ここに名門大崎氏は戦国大名としての歴史を閉じることとなった 1 。大崎合戦による内部崩壊と国力低下、そして中央政権の動向に対する認識の甘さが、大崎氏滅亡の直接的な原因であったと言える。
主家である大崎氏が滅亡したことにより、氏家吉継の立場も宙に浮くこととなった。彼は最終的に、長年にわたり関係を築き、また大崎内乱の際には支援を求めた伊達政宗に仕える道を選んだ 1 。これは、大崎合戦以来の経緯を考えれば、彼にとって最も現実的かつ自然な選択であったと言えよう。
伊達政宗の家臣となってからの氏家吉継の具体的な活動については、残念ながら詳細な記録は乏しい。利用者提供の概要にもあるように、伊達氏に仕えてから「間もなく病没した」とされている 4 。
吉継の死没年に関しては、いくつかの説が存在し、確定には至っていない。
通説としては、天正19年5月21日(西暦1591年7月11日)に死去したとされている 1。
しかしながら、これとは異なる説も有力である。それは、天正18年(1590年)5月にすでに死去していたとするもので、その根拠として、伊達政宗が小田原征伐の陣中(天正18年4月~7月)で吉継の死を知り、小成田重長(こなりた しげなが)を岩出山城の城代として派遣したという記録が存在するためである 1。
この死没年の異説は、氏家吉継の最期を考える上で非常に重要な意味を持つ。もし天正18年5月没説が正しいとすれば、吉継は主家・大崎氏の正式な滅亡(奥州仕置による改易は同年7月から8月頃)を見ることなく、また、伊達政宗の家臣としての新たな人生をほとんど送ることもなく亡くなったことになる。これは、彼の波乱に満ちた生涯の終幕を、より一層悲劇的なものとして印象付ける。激動の時代の転換点を目前にしながら、その結末を見届けられなかったということになるからである。
氏家吉継の死により、彼の嫡流は一旦途絶えたとされている 4 。しかし、奥州氏家氏の家名そのものが完全に消滅したわけではなかった。江戸時代に入ると、吉継の娘(冨田守実の室となったとされる 1 )の子孫、あるいは一族の女性が嫁いだ先の子が氏家氏を再興し、仙台藩伊達氏の家臣として1850石の知行を得て、明治維新まで家名を存続させたと伝えられている 4 。これは、戦国武家の家が、たとえ嫡流が途絶えても、女系や分家を通じて存続していく一つの事例と言える。
興味深いのは、氏家吉継が長年拠点とし、守り抜こうとした岩出山城のその後の運命である。吉継の死後、そして大崎氏の滅亡後、天正19年(1591年)に伊達政宗は豊臣秀吉の命により米沢から旧大崎・葛西領に移封され、この岩出山城を新たな本拠地とした 17 。政宗は慶長8年(1603年)に仙台城へ移るまでの12年間、岩出山城を居城とし、城下町の整備も行った。結果的に、吉継がその生涯をかけて関わった城は、彼が最後に頼った伊達政宗の手に渡り、伊達氏の新たな拠点として発展を遂げることになったのである。これは、戦国時代の無常と、歴史の皮肉な巡り合わせを示す一例と言えるかもしれない。
表2:氏家吉継 略年表
年代 |
主な出来事(氏家吉継関連) |
関連人物 |
典拠史料例 |
生年不詳 |
氏家隆継の子として誕生。 |
氏家隆継 |
1 |
時期不詳 |
父・隆継の隠居により家督相続、岩出山城主となる。大崎義隆の執事として活動。 |
氏家隆継、大崎義隆 |
1 |
天正15年(1587年)末 |
大崎内乱深刻化。新井田隆景(刑部)と対立し、伊達政宗に内通・救援要請。 |
新井田隆景、大崎義隆、伊達政宗 |
1 |
天正16年(1588年) |
大崎合戦勃発。伊達軍、黒川晴氏の離反により中新田で敗北。吉継、孤立しつつも伊達方を支援。最上義光らの調停により一時和睦、大崎氏に帰参。 |
伊達政宗、大崎義隆、黒川晴氏、最上義光 |
9 |
天正17年(1589年) |
米沢の伊達政宗のもとへ出仕。大崎義隆と伊達政宗の間で、伊達氏に有利な内容の講和成立。 |
伊達政宗、大崎義隆 |
12 |
天正18年(1590年) |
小田原征伐。大崎義隆不参陣により、奥州仕置で大崎氏改易・滅亡。氏家吉継、伊達政宗に臣従。 |
豊臣秀吉、大崎義隆、伊達政宗 |
1 |
天正18年(1590年)5月説 |
(異説)死去。伊達政宗、小田原陣中で吉継の死を知り、小成田重長を岩出山城代に派遣。 |
伊達政宗、小成田重長 |
1 |
天正19年(1591年)5月21日 |
(通説)死去。 |
|
4 |
江戸時代 |
吉継の娘の子孫らが氏家氏を再興し、仙台藩士として存続。 |
冨田守実(吉継の娘婿) |
1 |
この略年表は、氏家吉継の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。特に死没年に関する異説の存在は、彼の最期を巡る研究上の重要な論点であり、今後の史料発見による解明が期待される。
氏家吉継の生涯を総括すると、彼は奥州探題大崎氏の重臣として、また岩出山城主として、戦国末期の混乱した陸奥国において地域の安定と自家の存続に努めようとしたが、主家である大崎氏の内部紛争と、伊達氏や最上氏といった外部勢力の台頭、そして豊臣政権による天下統一という時代の大きなうねりの中で翻弄され、最終的には伊達政宗に活路を見出そうとした人物であったと評価できる。
大崎内乱(大崎合戦)における彼の役割は、単に主家に対する反乱者として一面的に捉えるべきではない。主君・大崎義隆の統率力の低下、家臣団内部の深刻な対立、そして周辺勢力の圧迫という複雑な状況下で、彼は自らの立場と岩出山城という勢力基盤を守るために、外部勢力である伊達政宗との連携という選択肢を取らざるを得なかった側面がある。彼の行動が大崎氏の衰退を早めた一因となったことは否定できないが、それは彼一人の責任に帰せられるものではなく、大崎氏自身が抱えていた構造的な問題と、戦国時代末期の東北地方が置かれていた厳しい現実が複合的に作用した結果であったと言えよう。
歴史的に見れば、氏家吉継の生涯は、戦国時代末期における地方の有力国人領主が、中央政権の再編という大きな時代の変化と、伊達政宗に代表される新興勢力の急速な台頭という地域的な力学の中で、いかにして生き残りを図ろうとしたかを示す具体的な事例として重要である。彼の選択と行動は、結果として大崎氏の滅亡を早め、伊達氏の勢力拡大を助ける形となったが、それは戦国乱世の非情な現実を映し出している。
後世への影響としては、氏家吉継の嫡流は途絶えたものの、彼の血筋は女系などを通じて伊達藩士・氏家氏として存続し 4 、彼が生きた時代の記憶が完全に歴史の闇に葬り去られることはなかった。
しかしながら、氏家吉継に関しては、現存する史料の制約から不明な点も依然として多い。特に伊達政宗に仕えてからの具体的な動向や、その最期の詳細については、さらなる史料の発見と研究が待たれるところである。また、天正18年没説と天正19年没説が存在する死没年の確定も、彼の生涯を正確に理解する上で重要な課題として残されている。これらの点が解明されることにより、戦国末期の奥羽地方史における氏家吉継の評価は、より一層深まるものと期待される。