本報告書は、戦国時代後期の常陸国にその名を刻んだ武将、江戸重通の生涯と、彼を取り巻く歴史的環境を、現存する諸資料に基づいて多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。江戸氏の出自から水戸城主としての活動、佐竹氏との関係、そしてその没落に至る過程を詳細に追うことで、戦国末期における地方領主の生き様と、天下統一という大きな時代のうねりの中で翻弄される様を描き出す。
江戸重通は、常陸国水戸城を拠点とした常陸江戸氏の最後の当主として知られる 1 。佐竹氏の勢力拡大、そして豊臣秀吉による天下統一事業という激動の時代にあって、一地方領主としていかに自家の存続を図ろうとし、そして何故没落に至ったのか。本報告書では、これらの問いを考察し、江戸重通という武将の歴史的意義を明らかにしていく。
江戸重通は弘治元年(1555年)に誕生したとされている 1 。幼名は愛千代丸、あるいは宮房丸とも伝えられ、通称は彦五郎であった 1 。後に但馬守に任官したとされるが、この「彦五郎」という名や「但馬守」という官途は、江戸氏がまだ那珂氏を称していた頃から、その当主が代々名乗る慣わしとなっていた可能性も指摘されている 3 。これは、江戸氏の家系内における伝統や格式を物語るものであろう。
重通の父は江戸通政である 1 。永禄7年(1564年)に祖父とされる江戸忠通が死去し、さらに永禄10年(1567年)には父・通政が病弱のため死去したことにより、重通はわずか13歳という若さで家督を相続することとなった 1 。この相次ぐ肉親との死別は、若き重通にとって試練の日々であったと推察され 1 、その後の彼の人間形成や政治判断に少なからぬ影響を与えたと考えられる。若年での家督相続は、一般的に当主の権力基盤の脆弱性を招きやすく、家臣団の統制や対外政策において困難を伴うことが多い。重通の場合も、例えば「江戸ノ四殿」と称された谷田部通胤、篠原和泉守通知、神生遠江守通朝、江戸(御宿)信濃守通澄といった重臣たちの補佐を受けながら領国経営にあたったと見られるが 4 、同時に彼ら有力家臣の意向に左右される側面も否定できない。こうした状況は、後の佐竹氏との関係や、天下分け目の小田原征伐における難しい決断にも影響を及ぼした可能性が考えられる。
常陸江戸氏は、藤原秀郷の後裔とされ、元は常陸国那珂郡川辺郷を拠点とした川野辺氏の支流である那珂氏の傍流にあたる 2 。那珂氏は那珂川東岸の下江戸(現在の茨城県那珂市下江戸付近)を拠点とし、後に江戸氏を名乗るようになった 7 。その後、桜川流域の河和田(現在の水戸市河和田町)へ進出し、江戸通房の代に至り、馬場大掾氏から水戸の地を奪取し、水戸城を居城としたと伝えられている 7 。
戦国期の関東には、同じく「江戸氏」を称する武蔵江戸氏が存在したが、こちらは桓武平氏秩父氏の流れを汲み、江戸重継を祖とする氏族であり、常陸江戸氏とはその出自を異にする 5 。この両江戸氏の区別は、当時の関東における諸氏族の勢力分布や複雑な同盟・敵対関係を理解する上で極めて重要である。
表1:常陸江戸氏と武蔵江戸氏の比較
項目 |
常陸江戸氏 |
武蔵江戸氏 |
出自(祖先) |
藤原秀郷流那珂氏 |
桓武平氏秩父氏流 |
姓 |
藤原姓 |
平姓 |
本拠地 |
常陸国水戸(現・茨城県水戸市) |
武蔵国江戸郷(現・東京都千代田区・中央区付近) |
主な活動時期 |
南北朝時代~戦国時代 |
平安時代末期~戦国時代 |
代表的人物 |
江戸通房、江戸重通 |
江戸重継、江戸重長 |
備考 |
那珂氏より分立。水戸城を拠点に常陸で勢力を持つ |
鎌倉幕府御家人。後北条氏、徳川氏に仕え喜多見氏と改称 |
(出典: 2 に基づき作成)
常陸江戸氏が藤原姓であったことは、同じ常陸国内に勢力を有した源姓の佐竹氏や平姓の大掾氏といった他の有力氏族との関係において、一定の意義を持ったと考えられる。中世武家社会において、姓や家格は個々の武家のアイデンティティや政治的立場を規定する重要な要素であった。藤原秀郷流という出自は、坂東武士の中でも由緒あるものと認識されており、これが佐竹氏(源氏)との関係において、江戸氏が一定の対等意識を保持する一因となった可能性や、逆に佐竹氏側からの警戒心を招いた可能性も否定できない。常陸国内の諸勢力が複雑に鼎立する中で 9 、江戸氏の出自は、その外交戦略や勢力拡大の試みに影響を与えたであろう。
水戸城は、元来、馬場氏の城館であり馬場城と呼ばれていたが、戦国時代に入り江戸氏がこれを奪取して居城として以降、水戸城と称されるようになった 10 。江戸氏は、初代通房による水戸占拠から重通の代に至るまで、約160年間にわたり水戸城主としてこの地を支配した 11 。この江戸氏の時代は、水戸が都市としての性格を帯び始めるとともに、地域文化が花開いた時期でもあったと評価されている 11 。
江戸氏時代の水戸城の縄張り(城郭の設計)は、後の本丸となる「内城」、家臣団の屋敷地などがあったとされる「宿城」、そして「浄光寺」という寺院を含む三つの区画で構成されていたと伝えられている 12 。この縄張りは、単なる軍事拠点としてだけでなく、政治、経済、そして信仰の中心地としての水戸城の多面的な機能を示唆している。江戸氏の支配下で、水戸城は常陸中央部における一大拠点として発展し、その勢力は鹿島郡や行方郡にまで及んだとされ 1 、これは常陸国における佐竹氏に次ぐ第二の勢力へと成長したことを示している。
領国経営において、那珂川や涸沼といった水系を利用した水運は、物資の輸送や経済活動にとって極めて重要な要素であった。水戸城の立地は、この水運を掌握・管理する上でも戦略的に有利な位置にあり 13 、これが江戸氏の経済的基盤を支え、南方への勢力拡大を可能にした一因と考えられる。
江戸重通は、常陸国内における勢力伸張に留まらず、中央政権との繋がりも模索していた形跡がうかがえる。特に、織田信長と直接交渉を持ったとされ、その実力は大名並みであったと評価されている 1 。これは、重通が中央の政治動向に敏感であり、独自の外交ルートを駆使して自家の地位向上を図ろうとしていたことを示唆する。
その一方で、天正3年(1575年)、江戸氏が保護していた真言宗の僧侶に対して、朝廷が定めた僧侶の服装規定に反する絹衣の着用を許可したことが問題視され、正親町天皇と織田信長から問責の使者が派遣されるという事件も起こっている 1 。この一件は、当時の宗教統制や身分秩序に対する江戸氏の独自の見解、あるいは中央権力に対する一定の自立志向の現れと解釈することができる。しかしながら、これは中央政権との間に摩擦を生じさせる危険性もはらんでおり、重通の治世における外交的判断の難しさを物語っている。この事件が、後の豊臣政権下における江戸氏の立場に何らかの影響を与えた可能性も否定できない。豊臣政権は織田信長の政策を継承する側面も持ち合わせており、この時点で江戸氏が中央政権にとって注意すべき存在と認識されたとすれば、後の佐竹氏による水戸城攻撃を豊臣政権が容認する遠因の一つとなった可能性も考慮すべきであろう。
江戸重通の時代、常陸国において最大の勢力を誇ったのは佐竹氏であった。重通は、関東に勢力を拡大する小田原北条氏の侵攻に対抗するため、佐竹義重に半従属の形で協力関係を結んでいたとされる 2 。元服に際して、義重から「重」の一字を与えられ「重通」と名乗ったという説もあり 2 、これは両者の間に一定の主従関係、あるいは同盟関係が存在したことを示唆する。しかし、その関係は単純なものではなく、「佐竹氏の傘下に属しつつも常陸第2の勢力に成長」 1 と評されるように、江戸氏は佐竹氏にとって単なる従属勢力ではなく、潜在的な競争相手ともなり得る存在であった。
佐竹氏は常陸統一を目指す過程で、国内の有力国人領主たちを自らの支配体制下に組み込もうとしており、実力を有する江戸氏はその中でも特に警戒すべき対象と見なされていたと考えられる 6 。江戸氏は佐竹氏の重臣として守護代の地位を得ることもあったが 6 、その実力は佐竹氏にとって常に注意を払うべきものであった。この「半従属」という関係は、軍事動員の要請や外交方針において、江戸氏がどの程度の自律性を保持し得たのか、また、佐竹氏側からの懐柔策と江戸氏側の戦略的臣従の思惑が交錯する、きわめて流動的で緊張をはらんだものであったと推察される。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、関東に覇を唱えた小田原北条氏に対し、惣無事令違反を名目に大軍を派遣した(小田原征伐) 14 。この戦役は、関東地方の勢力図を一変させる歴史的な転換点となった。秀吉の圧倒的な軍事力の前に、関東・奥羽の多くの大名たちは対応を迫られ、北条氏の動向が注目された 14 。
この天下分け目の情勢において、江戸重通は北条氏側に与したとされている 16 。これに対し、佐竹義重・義宣父子は逸早く豊臣方に参陣し、秀吉から常陸一国の支配を公認されるという、対照的な動きを見せた 14 。
重通が北条氏への加担という、結果的に命運を左右する決断を下した背景には、複数の要因が考えられる。長年にわたる佐竹氏との緊張関係の中で、関東最大の勢力であった北条氏と結ぶことで佐竹氏に対抗しようとした可能性。あるいは、北条氏との地理的な近接性や、これまでの何らかの同盟関係、さらには豊臣政権の強大な支配力に対する認識の甘さや情報収集の限界があった可能性も否定できない。当時の関東の諸勢力にとって、小田原征伐はまさに生き残りを賭けた選択を迫られるものであり、江戸重通の決断は、他の常陸国人衆の動向と比較することで、その意味合いがより明確になる。
表2:小田原征伐における常陸国主要勢力の動向
勢力名 |
当主 |
小田原征伐時の対応 |
結果 |
江戸氏 |
江戸重通 |
北条方加担 |
改易、水戸城失陥 |
佐竹氏 |
佐竹義宣 |
豊臣方参陣 |
所領安堵、常陸支配の公認 |
大掾氏 |
大掾清幹 |
不参加(北条方と見なされる) |
佐竹氏により滅亡 |
鹿島氏 |
鹿島清秀 |
不参加(北条方と見なされる) |
佐竹氏により没落 |
小田氏 |
小田氏治 |
不参加(佐竹氏と交戦) |
改易 |
結城氏 |
結城晴朝 |
豊臣方参陣 |
所領安堵 |
(出典: 14 などに基づき作成)
この表が示すように、豊臣秀吉の「仕置」は厳格であり、秀吉に恭順の意を示さなかった勢力の多くは改易や滅亡の道を辿った。江戸重通の選択は、結果として江戸氏をその窮地に追い込むことになったのである。
小田原征伐が豊臣方の勝利に終わり、北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉から常陸一国の支配権を認められた佐竹義宣(及び父・義重)は、その権威を背景に常陸国内の平定に乗り出した 14 。天正18年(1590年)12月、佐竹氏は江戸重通に対し、本拠地である水戸城の明け渡しを要求した 2 。これは、佐竹氏が常陸支配の新たな拠点として水戸城を重視していたことの現れであり 6 、江戸氏にとっては到底受け入れ難い要求であった。重通がこれを拒否したため、両者の武力衝突は避けられない事態となった 6 。
佐竹軍による水戸城攻撃は、佐竹義宣が上洛中であったため、父の佐竹義重が総指揮を執ったと伝えられている 10 。驚くべきことに、堅固とされた水戸城はわずか二日間の戦闘で落城したとされる 10 。この迅速な陥落の背景には、いくつかの要因が考えられる。まず、小田原参陣を経て豊臣政権の後ろ盾を得た佐竹軍の士気と兵力が、北条方に加担して敗北した江戸氏を圧倒していた可能性が高い。また、江戸氏内部において、当主重通の小田原での判断に対する不満や、佐竹氏への恭順を主張する勢力が存在し、城内の結束が乱れていた可能性も否定できない。 20 で示唆されるような、佐竹氏の勢力圏内に存在した半独立的な領主たちが、この局面で江戸氏を見限り、佐竹氏に与したというシナリオも考えられる。さらに、後述する「神生の乱」の影響で、江戸氏の軍事力が著しく低下していた可能性も考慮に入れる必要がある。
水戸城を追われた江戸重通は、かねてより姻戚関係にあった下総国結城(現在の茨城県結城市)の領主、結城晴朝のもとへ落ち延びた 1 。一方、佐竹軍は水戸城を占拠した後、南下して府中城(現在の茨城県石岡市)に拠る大掾氏をも滅ぼし、常陸国内における支配権を確固たるものとしていった 2 。
江戸重通が水戸城を失った背景には、単なる武力衝突だけでなく、佐竹氏側による周到な謀略が存在したとする説がある。特に、豊臣政権の中枢にあった石田三成と佐竹義宣らが策謀を巡らし、江戸氏を排除しようとしたという見方である 1 。
『水戸市史』などの記述を引用した資料によれば、石田三成が関与したとされる下知状の信憑性については疑問視する向きもあるものの 18 、佐竹氏による常陸統一が豊臣政権の強力な支持を背景として推進されたという大局的な見解は広く受け入れられている 18 。これは、江戸氏の滅亡が単なる地方勢力間の抗争の結果ではなく、豊臣政権による全国統一と新たな支配体制構築の一環として位置づけられるべき事件であったことを示唆している。豊臣政権は、小田原征伐後の関東地方の「仕置」において、自らに協力的、あるいは従順な大名を重用し、敵対的、あるいは非協力的な勢力を徹底的に排除する方針を採った。佐竹氏による江戸氏攻撃は、まさにこの「仕置」の一環であり、その実務を石田三成のような豊臣政権の官僚が担ったとしても何ら不自然ではない。したがって、江戸氏の滅亡は、中央政権の明確な意向によってもたらされたという側面を強く持つと言えるだろう。
水戸城を失い、領国を追われた江戸重通が頼ったのは、下総国の有力な戦国大名である結城晴朝であった 1 。重通と晴朝の間には、緊密な姻戚関係が存在した。重通の妻が晴朝の縁者であったとされ、ある資料では晴朝の「娘」 1 、別の資料では「妹」 1 と記述されており、情報に若干の錯綜が見られる。しかし、 19 および 19 の記述によれば、晴朝は自身の妹を江戸重通に嫁がせ、さらに重通の娘である鶴子を養女として迎え、後に自身の養子である結城秀康(徳川家康の次男)に嫁がせたとされており、二重の強固な姻戚関係で結ばれていた可能性が高い。
結城晴朝自身は、天正18年(1590年)の小田原征伐に豊臣方として参陣しており 14 、豊臣政権に恭順の意を示していた。そのような立場にありながら、豊臣政権に敵対したと見なされた江戸重通を庇護したことは、晴朝にとって一定のリスクを伴う行為であったはずである。この庇護が実現した背景には、前述のような深い姻戚関係に加え、晴朝自身の器量や、あるいは豊臣秀吉や徳川家康との間に何らかの政治的配慮が働いた可能性も考えられる。
結城氏のもとに身を寄せた江戸重通は、結城晴朝の養子であり、後に越前福井藩の初代藩主となる結城秀康から厚遇されたと伝えられている 6 。しかし、故郷常陸を追われた重通の失意は深かったであろう。
その最期については、慶長3年(1598年)3月1日(西暦4月6日)に結城の地で死去したとされ、享年は44歳であった 1 。ただし、異説として同年10月1日死去、享年43歳とする記録も存在する 2 。
江戸重通とその一族、家臣たちの終焉の地を伝える貴重な史跡が、現在の茨城県結城市小田林に残されている。ここには、江戸重通をはじめとする江戸氏関係者の供養碑が存在し 6 、水戸を追われた彼らがこの地で最期を迎えたことを物語っている。これらの供養碑がいつ、誰によって、どのような意図で建立されたのか、その詳細な経緯は今後の研究課題であるが、主君と共に最後まで運命を共にした家臣たちも併せて供養されている点は、江戸氏家臣団の忠誠心や、結城の地における彼らの境遇を偲ばせる。これらの石碑群は、江戸氏の歴史の終幕を静かに伝え、後世にその記憶を継承する役割を果たしている。
江戸重通の代で常陸江戸氏が水戸城を失い、事実上滅亡に至った要因は、単一のものではなく、複数の要素が複雑に絡み合った結果と見るべきである。
江戸氏は、戦国時代を通じて勢力を伸張させ、佐竹氏に次ぐ常陸第二の勢力と目されるまでに成長した 1 。しかし、佐竹氏が常陸統一に向けて広域的な領国支配体制を構築しようとする中で、江戸氏のような半独立的な国人領主の存在は、佐竹氏にとって次第に障害となっていった。佐竹氏の勢力圏内には、江戸氏以外にも同様の立場にある領主が複数存在し、佐竹氏はこれらの勢力を自らの支配下に組み込むか、あるいは排除する必要に迫られていた 20 。江戸氏の勢力基盤は水戸周辺に限定されており、佐竹氏のような国全体の支配構造を確立するには至らなかった点が、その限界であったと言える。
豊臣秀吉が発令した「惣無事令」は、大名間の私的な戦闘行為を禁じ、紛争解決の権能を中央政権に集中させることを目的としたものであった 15 。この命令は、戦国時代を通じて続いてきた地方分権的な状況を打破し、中央集権的な支配体制を確立するための重要な布石であった。小田原征伐において、江戸重通が北条氏に加担したことは、この「惣無事令」の趣旨に明確に反する行動と見なされ、豊臣政権による処罰の対象となる十分な理由となった。
佐竹氏は、豊臣政権という強大な後ろ盾を得て、長年の懸案であった常陸国内の統一事業を強力に推進した 14 。佐竹義重は「奥州一統」を自負するほど、その勢力拡大に自信を深めていた 22 。この戦略において、水戸城は那珂川水運の結節点であり、常陸中央部を抑える要衝として、極めて重要な拠点であった 6 。したがって、佐竹氏にとって江戸氏を排除し水戸城を掌握することは、常陸統一を完成させる上で不可欠なプロセスであり、ある意味では既定路線であった可能性が高い。江戸氏の抵抗は、この大きな流れに抗うものであった。
江戸重通の治世末期、天正17年(1589年)頃に「神生の乱の終末」があったと『水戸市史』は記している 3 。この「神生」という名は、江戸氏の重臣である神生遠江守通朝の名にも見られることから 4 、この内乱が江戸氏一族あるいは家臣団内部の深刻な対立であった可能性を示唆する。このような内部紛争は、領主権力の著しい弱体化を招き、外部勢力からの攻撃に対する抵抗力を大きく削ぐ要因となる。神生の乱の具体的な内容や規模、江戸氏に与えた影響については史料的な制約から不明な点が多いものの、これが江戸氏の内部結束を乱し、佐竹氏による水戸城攻撃を容易にした一因となった可能性は十分に考えられる。佐竹氏がこの内紛に乗じて、あるいは内紛を助長する形で、江戸氏攻撃の好機と捉えたとしても不思議ではない。
以上のように、江戸氏の滅亡は、江戸重通個人の戦略的判断の誤り(小田原征伐における北条方加担)のみならず、豊臣政権による中央集権化政策の推進、佐竹氏の常陸統一への強い意志と巧みな戦略、そして江戸氏内部に潜んでいたかもしれない脆弱性(神生の乱など)といった、国内外の複数の要因が複合的に作用した結果であると言える。戦国時代の多くの武将や大名家がそうであったように、一つの判断ミスや内外の環境変化が、瞬く間に勢力の存亡を左右する厳しい現実がそこにはあった 23 。
天正18年(1590年)に水戸城を失い、当主江戸重通も慶長3年(1598年)に客死したことで、常陸国における大名としての江戸氏は終焉を迎えた。しかし、江戸氏の血脈が完全に途絶えたわけではなかった。
一部の江戸氏一族は、重通を庇護した結城晴朝の養子である結城秀康に仕えたと伝えられている。この系統は、後に結城氏が越前福井藩主となると、それに従って越前に移り、主君である結城松平家(福井松平家)に仕え続けた。その過程で「水戸氏」と改称したともされる 5 。旧領である水戸を氏とすることは、故郷への望郷の念の現れか、あるいは過去の江戸氏としての歴史と一定の区切りをつけ、新たな主君のもとで再出発する意志の表明であったのかもしれない。
また、別の系統として、江戸氏の庶流の子孫が、かつての宿敵であった佐竹氏に仕えたという記録も存在する 5 。佐竹氏は慶長7年(1602年)に出羽国秋田へ転封となるが、この江戸氏子孫もそれに従い秋田へ移住し、その後も江戸氏を称し続けたとされる。かつての敵方に仕えるという選択は、戦国乱世の終焉期において、家の存続を第一に考えた結果であったろう。
これらの江戸氏の子孫たちが、新たな主君のもとでどのような道を歩んだのか、旧領回復の夢を抱き続けたのか、あるいは新たな土地で武士として、あるいは帰農してどのように生きたのか、その詳細な動向については断片的な情報しか残されていない。しかし、これらの事例は、戦国時代に敗れた氏族が、様々な形で命脈を保ち、近世社会へと移行していった多様な生き残り戦略の一端を示している。
江戸重通の生涯は、戦国時代末期から安土桃山時代という、日本史上未曾有の変革期を生きた一地方領主の苦闘と悲哀を象徴している。織田信長、豊臣秀吉といった強大な中央権力の台頭と、佐竹氏のような地域内有力大名の勢力拡大という二重の圧力の中で、重通は自家の存続と勢力維持のために様々な戦略を駆使した。織田信長との直接交渉を試みたり 1 、結城氏との間に重層的な姻戚関係を築いたりする 1 など、外交努力を重ね、一時は鹿島・行方両郡にまで勢力を伸長させる 1 など、その手腕には見るべきものがあった。
しかし、最終的には豊臣秀吉による小田原征伐という、時代の大きな転換点において、北条氏に与するという戦略的判断が、江戸氏の運命を決定づけることとなった。この決断は、当時の関東の複雑な政治状況や、佐竹氏との長年の対立関係、そして中央政権の動向に対する情報分析など、様々な要素を考慮した上でのものであったろうが、結果として裏目に出た。彼の生涯は、中央集権化の巨大な波に抗しきれず、歴史の舞台から姿を消していった数多の戦国地方領主たちの姿と重なる。
江戸重通の事績とその結末は、現代に生きる我々に対してもいくつかの普遍的な教訓を示唆している。第一に、激動の時代においては、正確な情報収集能力と、時勢を的確に読み解く洞察力が極めて重要であるということ。第二に、いかに困難な状況下にあっても、生き残りのためには柔軟な思考と、時には痛みを伴う決断を下す勇気が必要であるということである。
また、地域史研究の観点からは、江戸氏のような特定の地域に根差した勢力の興亡を詳細に追究することが、戦国時代の多様な地域社会の実態や、天下統一という大きな歴史のうねりが地方に与えた具体的な影響を明らかにする上で不可欠である。江戸重通という一武将の生涯を通じて、戦国乱世の複雑さと、そこに生きた人々の苦悩や葛藤に思いを馳せることは、歴史を学ぶ意義の一つと言えるだろう。彼の名は、水戸という地の歴史、そして戦国時代という時代の記憶の中に、深く刻まれているのである。