最終更新日 2025-06-11

江村親家

「江村親家」の画像

江村親家の生涯と武勲:長宗我部氏を支えた「小備後」の実像

序論:江村親家、その時代と位置づけ

江村親家の概要と本報告書の目的

江村親家(えむら ちかいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、土佐国の戦国大名・長宗我部氏に仕えた武将である 1 。本報告書は、現存する史料に基づき、江村親家の出自、武将としての生涯、その人物像や関連する逸話、そして彼の子孫に至るまでを詳細に検討し、その実像を明らかにすることを目的とする。ユーザーより提供された、親家が長宗我部家臣であり、吉田重俊の次男、江村親政の婿養子として「小備後」と呼ばれ、勇名を馳せたという概要を基点とし、さらに深く掘り下げていく。

戦国時代の土佐と長宗我部氏の台頭

江村親家が生きた時代は、土佐国において長宗我部国親、そしてその子元親の二代にわたり、長宗我部氏が急速に勢力を拡大し、土佐国内の統一を果たし、さらには四国制覇へと乗り出す激動の時代であった 2 。この目まぐるしい情勢の変化と、それに伴う数多の合戦が、親家の活躍の舞台となった。長宗我部氏の飛躍は、親家のような有能な家臣たちの働きによって支えられた側面が大きい。

本報告書で扱う範囲と構成の概説

本報告書では、まず江村親家の出自と家系を明らかにし、次に武将としての具体的な戦歴と功績を辿る。続いて、逸話や評価を通じてその人物像に迫り、最後に晩年と死、そして子孫である江村親俊の動向について触れる。各部においては、関連する史料を提示し、その記述から読み取れる事柄を考察していく。

第一部:出自と家系

実父・吉田重俊(大備後)とその一族

江村親家の実父は、長宗我部国親・元親の二代にわたって仕えた重臣、吉田備後守重俊である 1 。重俊は智勇に優れた武将として知られ、特に永禄12年(1569年)の安芸国虎討伐戦においては、一族の吉田孝俊と共に奇計を用いて安芸軍を敗走させ、籠城した安芸軍を計略によって内部崩壊に導くなど、長宗我部氏の土佐統一に多大な貢献を果たした 2 。その官途名から「大備後」と称され、長宗我部家中で重きをなした 4 。この呼称は、後に息子である親家が「小備後」と呼ばれる直接的な背景となる。

吉田氏は土佐国の有力な国人領主の一つであり、長岡郡吉田(現在の南国市岡豊町吉田)に吉田城を構えていた 4 。長宗我部氏の勢力拡大において、吉田一族は軍事的に重要な役割を担い、多くの合戦に参加している 2

吉田重俊が「智勇」の将、すなわち知謀と武勇を兼ね備えた将帥として評価されているのに対し 4 、息子の親家は特にその「剛勇」、戦場における直接的な武勇が際立って伝えられることが多い 1 。これは、父子がそれぞれ異なる強みを発揮し、長宗我部家の軍事力を多角的に支えていた可能性を示唆している。一族として「智勇」の評価がありつつも、重俊は戦略的な側面で、親家は戦術的な実行力で、それぞれ家中に貢献したと考えられる。これは、長宗我部家臣団が多様な才能を持つ人材を適材適所で活用していたことの現れとも言えよう。

江村家への養子入りと「小備後」

江村親家は、同じく長宗我部氏の家臣であった江村親政の娘を娶り、その婿養子となった 1 。これにより、親家は江村氏の名跡を継ぐこととなる。江村氏は、長宗我部氏の初代当主である長宗我部能俊の三男・宗貞が江村郷(現在の南国市岡豊町小篭付近か)に分知され、江村氏を称したことに始まるとされる古い家系である 7 。江村氏は小篭土居(江村土居とも)を拠点としていたと伝えられる 7

実父である吉田重俊が備後守を称していたため、親家も同じく備後守を名乗った。しかし、父と区別するために、親家は「小備後」と通称された 1 。この「小備後」という呼称は、単に父子を区別するための便宜的なものであったに留まらず、より深い意味合いを含んでいたと考えられる。実父「大備後」重俊は、長宗我部家中で赫々たる武功を挙げた重臣であり、その名は広く知られていた。その息子である親家が、父と同じ官途名を名乗るにあたり「小」の字を冠されたことは、父の武名と実績を背景にしたものであり、親家に対する周囲の期待と、彼が父の武名を継ぐ者であるという認識の現れであったと言えよう。戦国時代において、親子が同じ官途名を名乗り、大小で区別する例は他の武家にも見られ、これは後継者としての位置づけや、父に次ぐ実力者であることを示す場合がある。親家自身も、後述するように若くしてその武勇を知られていたことを考慮すると、「小備後」という呼称は、父の威光を受け継ぎつつも、独自の武勇によって江村家、そして吉田家の名をさらに高めるであろうという、周囲からの期待が込められたものであった可能性が高い。

吉田重俊(大備後)と江村親家(小備後)の比較

特徴

吉田重俊(大備後)

江村親家(小備後)

主な評価

智勇に優れる 2

勇猛果敢、剛勇 1

官途名

備後守 4

備後守 1

主な功績

安芸国虎討伐での奇計など 2

雪ヶ峰城での一騎討ち、伊予への援軍など 1

主君からの評価

長宗我部国親・元親に仕え重用される 2

一条兼定からその勇を賞される 1

この比較からも、父・重俊が戦略的な知謀にも長けた将であったのに対し、息子・親家は特に戦場での直接的な武勇においてその名を轟かせたことがうかがえる。

第二部:武将としての生涯

長宗我部元親への臣従と土佐統一への貢献

江村親家は、長宗我部氏が土佐国内の統一を進める過程で、他の吉田一族の者たちと同様に、主君・長宗我部元親のために力を尽くした 1 。元親による土佐平定戦において、親家は主力部隊の一翼を担い、各地の合戦で武功を挙げたと考えられる。

特に、土佐中部の有力国人であった土佐山田氏との戦いにおいては、親家の活躍が際立っている 1 。その中でも雪ヶ峰城(ゆきがみねじょう)の戦い(山田城攻防戦とも)は、親家の武勇を象徴する戦いの一つである。この戦いで親家は、山田氏方の武将・山田長秀を一騎討ちにて討ち取ったと記録されている 1 。ただし、別の史料では、この時親家が討ち取ったのは山田監物(かんもつ)であるという記述も見られる 8 。また、談議所城主であった山田監物長秀が江村親家との戦いで討ち死にしたとの伝承もあり 9 、山田長秀と山田監物が同一人物である可能性も考えられる。

討ち取った相手の具体的な名前に若干の揺れが見られるものの、この雪ヶ峰城の戦いにおける親家の一騎討ちによる勝利は、単に個人の武勇を示すに留まらず、戦局に大きな影響を与えたと考えられる。敵方の有力武将を直接打ち破ることは、敵軍の士気を著しく低下させ、味方の士気を大いに高める効果がある。実際に、山田監物が討たれたことにより山田勢は総崩れになったとの記述もあり 8 、親家の行動が戦況を長宗我部氏有利へと傾ける上で、決定的な役割を果たした可能性が高い。これは、親家が単なる一兵卒ではなく、戦局を左右しうる「主力」としての働きを期待され、またそれに応えていたことの証左と言えよう。

伊予・土佐一条氏との戦い

江村親家の武名は土佐国内に留まらず、隣国伊予における軍事行動でも発揮された。永禄9年(1566年)、伊予国三間郷(現在の愛媛県宇和島市三間町)が、伊予の有力水軍である来島氏や平岡氏によって攻められた際、当時土佐国の国司であった一条康定は長宗我部元親に救援を要請した。元親はこの要請に応じ、親家を救援軍の将として派遣している 1 。これは、長宗我部氏が土佐国内の平定を進めつつ、徐々にその影響力を隣国へと拡大しようとしていた初期の軍事行動の一つであり、親家はその先兵として重要な役割を担ったことを示している。

さらに、永禄11年(1568年)には、土佐一条氏が伊予の有力国人である西園寺実充(さねみつ)を攻撃した際にも、親家は元親の命により援軍として参加した 1 。この戦いにおける親家の活躍は目覚ましく、土佐一条氏当主の一条兼定から、その武勇を称えられ、鎧と太刀を拝領したと伝えられる 1 。特にこの時、兼定は親家に対し「汝が勇は篠塚重広(しのづか しげひろ、南北朝時代の著名な勇将)にも勝る」と最大級の賛辞を送ったとされる 1 。この評価は、親家の武勇が主君である元親だけでなく、同盟関係にあった一条氏からも高く認められていたことを如実に物語っている。

一条兼定からのこの称賛は、単に親家個人の武勇を認める言葉であると同時に、より多角的な意味合いを含んでいたと考えられる。当時、土佐国司として名目上は長宗我部氏よりも上位の立場にあった一条氏が、その家臣である親家の働きを古の勇将に比肩するとまで称賛したことは、長宗我部氏が提供する軍事力の質、特にその中核を成す武将たちの能力の高さを一条氏が認識したことを意味する。これは、当時の長宗我部氏と一条氏との間の力関係や、相互の認識を考察する上で非常に示唆的である。長宗我部氏の軍事力が、一条氏にとって無視できない、あるいは頼りにせざるを得ないレベルに達していたことを示していると言えよう。後の天正2年(1574年)に元親が一条兼定を豊後に追放し、土佐の実権を完全に掌握する 3 ことを考えると、この永禄年間の協力関係と相互評価は、その後の両者の力関係の劇的な変化を理解する上で、興味深い前史として位置づけられる。

家老としての役割

江村親家は、その武功により長宗我部家中で重きをなしただけでなく、家老職も務めたと記録されている 1 。家老職は、藩主の補佐役として、領国経営や軍事指揮など、多岐にわたる重要な職務を担う役職である。親家が家老職にあったという事実は、彼が単なる一武将としてだけでなく、長宗我部家の運営にもある程度関与する立場にあったことを示している。

ただし、親家の具体的な行政手腕や政治的活動に関する詳細な記録は、現在のところ乏しい。彼の名が史料に登場するのは、主に合戦における武勇伝が中心である。このことから、親家が家老として期待された役割は、その卓越した武勇と吉田一族という有力な出自を背景とした、軍事面における重鎮としての働きが主であった可能性が高い。戦時における軍議への参加、部隊指揮、戦略立案への関与などが、彼の家老としての主な職務であったと推測される。戦国時代の家老は、平時の領国経営能力もさることながら、戦時における軍事指導者としての資質が極めて重要であった。親家の「小備後」としての武名と数々の戦功を考えれば、軍事に関する家老としての役割を元親から強く期待されていたと考えるのが自然であろう。『土佐物語』のような軍記物語は、その性質上、華々しい武勇伝が強調されやすく、地道な内政面での記録が残りにくい傾向があることも考慮に入れる必要があるが、現存する史料からは、親家の家老としての職務は軍事面に大きな比重があったと判断される。

江村親家 主要関連年表

年代(和暦)

出来事

関連史料

生年不明

吉田重俊の子として誕生

1

不明

江村親政の養子となる

1

不明

土佐山田氏との戦い(雪ヶ峰城の戦い)で山田長秀(または監物)を一騎討ちで破る

1

永禄9年(1566年)

伊予三間郷へ援軍として派遣される

1

永禄11年(1568年)

土佐一条氏の西園寺実充攻めに援軍として参加、一条兼定より感状と武具を拝領

1

不明

家老職を務める

1

天正年間(1573年~1592年)

病死

1

この年表は、江村親家の武将としてのキャリアを概観するものであるが、彼の生涯には不明な点も多く、今後の研究による新たな発見が期待される。

第三部:人物像と逸話

勇猛さを示す逸話

江村親家の人物像を語る上で最も際立つのは、その並外れた勇猛さである。前述した一条兼定による「汝が勇は篠塚重広にも勝る」という評価は 1 、親家の武勇が同時代において客観的に見ても特筆すべきものであったことを示している。また、雪ヶ峰城の戦いにおける一騎討ちの勝利も 1 、個人の武勇が戦局に影響を与えた顕著な例と言えよう。

名刀「五輪切」と化け物退治の伝説

親家の勇猛さを象徴する逸話として、名刀「五輪切(ごりんぎり)」にまつわる伝説が伝えられている。これは、親家がまだ少年の頃、道に現れた化け物をこの刀で退治したというものである 1 。この「五輪切」は二尺一寸(約63.6cm)の小刀であったとされ、後に長宗我部元親の嫡男であり、将来を嘱望されていた長宗我部信親に献上された 1

「五輪切」の逸話、特に化け物退治という内容は、親家の武勇が人間離れしたものであったことを象徴し、彼に英雄的な性格を付与するための物語的要素が色濃く反映されていると考えられる。古来より、英雄や豪傑が妖怪や化け物を退治するという話型は、その人物の超人的な力を示すためによく用いられる手法である 11 。この逸話が語り継がれること自体が、親家が当時の人々から並外れた武勇の持ち主と見なされていた証左となる。

さらに、この霊験あらたかな刀が、元親が最も期待をかけていた嫡男・信親に献上されたという事実は重要である 10 。これは単に名刀が譲渡されたという物理的な意味合いだけでなく、親家の持つ武勇や忠誠心といった精神的な価値、あるいは武運そのものを信親に託し、継承させたいという願いが込められていた可能性がある。特に『土佐物語』のような軍記物語は、教訓的な意味合いや英雄譚を好んで収録する傾向があるため 13 、この「五輪切」の逸話もそうした文脈の中で、長宗我部家の武威を高め、家臣の忠義を称揚する物語として語られたのであろう。

長宗我部元親の初陣に関する逸話

長宗我部元親の初陣である戸の本合戦(永禄3年、1560年)に際して、江村親家(史料では「江村親家備後」と記載)が元親の参戦に反対したという逸話が『四国の覇者 長宗我部元親』などの文献に見られる 14 。当時、元親は「姫若子」と揶揄されるほど柔弱な印象を持たれており、この江村備後は、元親を日頃からやや侮っており、「若、お気持はわかり申しますが先陣は危険過ぎます。お止め下され」と、その身を案じるというよりは、力量を危ぶむ形で反対したと描かれている。

この「江村親家備後」が、本稿で扱っている江村親家(小備後)本人を指すのか、あるいはその養父である江村親政か、はたまた実父の吉田重俊(大備後)が何らかの形で江村姓を名乗っていた時期があったのか、史料の記述だけでは完全に断定することは難しい。しかし、通称「備後」を名乗り、江村姓で登場することから、江村親家本人である可能性は十分に考えられる。もしこの逸話の江村備後が親家本人であるとすれば、当初は若き主君の器量を測りかねていた古参の武将が、初陣での元親の豹変ぶり(「鬼若子」と称されるほどの勇猛さ)を目の当たりにし、その後、元親の成長と類稀なる武才を認めて忠誠を深めていくという、主従関係のドラマ性を補強する役割を担うことになる。この逸話は、元親の「姫若子」から「鬼若子」への劇的な変貌という、長宗我部元親の英雄譚における重要な転換点の一部であり、親家がその歴史的瞬間に立ち会い、あるいはその変貌を促す一因となった人物として描かれているならば、彼の人物理解に一層の深みが加わる。

第四部:晩年と死、そして子孫

死没

江村親家の晩年や死に関する記録は非常に限られている。史料によれば、天正年間(1573年~1592年)に病死したとされているが 1 、その正確な没年や具体的な死因、墓所の所在地などについての詳細は、現在のところ確認されていない。

親家の活躍が主に長宗我部氏による土佐統一期(永禄年間から天正初期)に集中しており、その後の四国平定戦や豊臣政権下での長宗我部氏の動向の中で、親家の大きな事績が伝えられていないことが、晩年の記録の少なさの一因かもしれない。例えば、長宗我部家にとって大きな転換点となった天正14年(1586年)の戸次川の戦いなど、重要な戦いに親家の名が見当たらないことは 10 、その時点までに既に病没していたか、あるいは何らかの理由で軍事の第一線からは退いていた可能性を示唆している。記録が少ないこと自体が、彼の活動期間や家中での役割の変遷を推測する上で、間接的な手がかりとなり得る。

子・江村親俊(孫左衛門)

江村親家の武名は、その子息にも受け継がれた。親家の子として、江村孫左衛門親俊(えむら まござえもん ちかとし)がいたことが確認されている 16 。親俊も父・親家同様、長宗我部元親に仕え、その家臣として活動した 16

親俊の事績として特筆すべきは、天正10年(1582年)に阿波国の一宮城(徳島県徳島市)の守備を任されたことである 16 。これは、長宗我部氏が阿波方面へ勢力を拡大していく上で重要な拠点であり、その守将を任されたことは、親俊が元親から一定の信頼を得ていたことを示している。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国攻め(四国の役)が始まると、親俊は谷忠澄(たに ただずみ)らと共に一宮城に籠城し、羽柴秀長率いる豊臣軍の攻撃に抵抗したが、衆寡敵せず開城した 16 。長宗我部氏が豊臣氏に降伏した後、元親の三男である津野親忠が人質として京都の伏見へ赴く際には、親俊もこれに随行したと記録されている 16

さらに親俊は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも長宗我部軍の一員として従軍し、朝鮮半島へ渡海した。その中で、慶長の役における晋州城攻防戦(第二次晋州城の戦い、1597年)で武功を挙げ、その功績により1500石の知行を与えられたという 16

親家の死後も、息子の親俊が長宗我部家に仕え続け、四国攻めや朝鮮出兵といった重要な局面で役割を果たし、特に朝鮮で武功を立てて加増を受けていることは、江村家が長宗我部家臣団の中でその地位を維持し、主家に対して忠誠を尽くしたことを明確に示している。親俊の活躍は、父・親家の武勇の血筋が受け継がれたことをうかがわせる。長宗我部氏が関ヶ原の戦い後に改易されて以降の江村氏の動向については詳らかではないが、少なくとも元親の存命中は、親俊によって江村家の家名は保たれていたと言える。

第五部:史料に見る江村親家

主要史料の概観

江村親家に関する記述が見られる主要な史料としては、江戸時代に成立した軍記物語である『土佐物語』が挙げられる 13 。その他、断片的ではあるが、『元親記』や『土佐国編年紀事略』といった記録にも、親家に関連する可能性のある情報が含まれていることが示唆される 10 。現代において編纂された各種人名事典や、Wikipediaのようなオンラインリソースは、これらの二次史料や研究成果をまとめたものとして、親家の概要を把握する上で参考となる 1

『土佐物語』における記述とその特徴

『土佐物語』は、土佐藩の馬廻役であった吉田孝世によって宝永5年(1708年)に成立した、長宗我部氏の興亡を描いた全20巻(異本あり)の軍記物語である 13 。江村親家の武勇伝、例えば雪ヶ峰城での一騎討ち、一条兼定からの称賛、そして名刀「五輪切」の化け物退治伝説といった逸話の多くは、『土佐物語』に拠っているか、あるいは同書において詳細に描かれていると考えられる。

しかしながら、『土佐物語』はその性質上、史実を忠実に記録した歴史書というよりは、文学的な脚色や教訓的な要素を多く含む物語としての側面が強い。本文中には、大鬼といった怪異が登場したり、文禄の役において大蛇が現れるといった、史実とは考えにくい記述も見られる 13 。また、長宗我部元親の官位について、史実では死後に贈られた正五位であるところを、慶長4年(1599年)に正四位になったと記すなど、事実誤認も含まれている 13

こうした点から、『土佐物語』は、近世の儒学者であり土佐藩の歴史編纂にも関わった谷秦山(たに じんざん)などからも、その内容の信頼性について疑問が呈されており、現代の歴史研究者の間でも、一次史料としての評価は高くないとされる 13

したがって、『土佐物語』は江村親家の人物像、特にその勇猛果敢なイメージを後世に伝える上で非常に重要な情報源ではあるものの、その記述を利用する際には、軍記物語特有の性格、すなわち史実と創作が混在している可能性を常に念頭に置き、批判的な吟味を行う必要がある。親家の英雄的なイメージは、『土佐物語』による脚色の影響を強く受けて形成された可能性があることを理解しておくことが肝要である。例えば、「五輪切」による化け物退治のような逸話は、史実そのものというよりは、親家の並外れた武勇を際立たせ、読者の興味を引くための物語的要素が強いと考えるべきであろう。『土佐物語』を通じて形成された「勇将・江村親家」のイメージは、後世の評価に大きな影響を与えたと考えられるが、その全てを無批判に受け入れることはできない。

その他の史料と記録の断片性

江村親家に関する一次史料、すなわち同時代に作成された信頼性の高い記録は、残念ながら極めて限定的であると言わざるを得ない。例えば、長宗我部氏の分国法である『長宗我部氏掟書』(通称「元親百箇条」)には、長宗我部氏の軍制を特徴づけるとされる「一領具足」に関する直接的な記述は見られないといった指摘もあり 13 、親家の具体的な役職や軍団内での位置づけを一次史料から明確にすることは難しい。

また、親家の知行地(所領)に関する具体的な記録も、長宗我部氏が行った検地に関する史料群である『長宗我部地検帳』などから、現時点では明確に見出すことは困難である 18 。彼の正確な生没年が不明であること 1 、墓所の所在地が伝わっていないことなど、親家の生涯に関する基本的な情報すら断片的であり、その全貌を詳細に把握するには史料的な限界が存在する。

結論:江村親家の歴史的意義

長宗我部氏における役割の再評価

江村親家は、その卓越した武勇をもって、主君・長宗我部元親による土佐国統一事業、そしてそれに続く四国各地への勢力拡大の初期段階において、多大な貢献を果たした武将であった。実父・吉田重俊が「大備後」と称されたのに対し、親家が「小備後」と呼ばれたことは、父の武名を継承しつつも、独自の武勲によって長宗我部家臣団の中で確固たる地位を築いていたことを示唆している。彼の存在は、長宗我部氏の軍事力を支える上で不可欠なものであったと言えよう。

武勇の将としての記憶

雪ヶ峰城における一騎討ち、伊予国への援軍派遣とその戦功、土佐国司・一条兼定からの「篠塚重広にも勝る」という最大級の賛辞、そして名刀「五輪切」を用いた化け物退治の伝説は、江村親家が類稀なる武勇の持ち主として、当時の人々、そして後世に強く記憶されたことを物語っている。これらの逸話は、彼の勇猛さを鮮烈に印象づけるものであり、特に『土佐物語』などの軍記物語を通じて語り継がれる中で、ある種の英雄的なイメージが付与されていった側面も否定できない。

史料的限界と今後の課題

江村親家の生涯を詳細に再構築する上では、史料的な制約が大きいと言わざるを得ない。正確な生没年や晩年の具体的な活動内容、家老としての政治的手腕などについては、現存する史料が乏しく、不明な点が多く残されている。特に、『土佐物語』のような二次史料に多くを依存せざるを得ない現状では、その記述の史実性について慎重な検討が求められる。

しかしながら、断片的な記録や逸話の中からも、江村親家が長宗我部氏の躍進を最前線で支えた重要な武将の一人であり、その武名は土佐の戦国史に確かな足跡を残したと結論づけることができる。今後の新たな一次史料の発見や、関連史料の再検討、考古学的調査の進展などによって、江村親家の実像がより詳細に明らかになることが期待される。

引用文献

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