本報告書は、播磨赤穂藩の初代藩主である池田政綱(いけだ まさつな)について、その出自、赤穂藩立藩の経緯、藩主としての短い治世とその意義、そして早逝が後世に与えた影響を、現存する史料に基づき詳細に明らかにすることを目的とします。ご依頼主様よりご提供いただきました概要、すなわち池田輝政の五男であり、母は徳川家康の娘・督姫であること、兄・忠継の死去に際して3万5千石を分与され播磨赤穂藩を立藩し、藩政の基礎を固めたものの若くして死去したという点を基礎としつつ、より多角的な視点から政綱の実像に迫ります。
池田政綱が生きた時代は、慶長10年(1605年)の生誕から寛永8年(1631年)の死去まで、まさに江戸幕府による全国支配体制が確立していく過渡期にあたります。慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣終結をもって「元和偃武(げんなえんぶ)」が成り 1 、世は武力による統治から法と秩序による安定へと大きく舵を切ろうとしていました。このような時代において、大名家は幕藩体制下での家格の維持と藩経営の安定化という、新たな課題に直面していました。
政綱は、姫路52万石を領し「西国将軍」とまで称された池田輝政(いけだ てるまさ)を父とし 2 、徳川家康の次女である督姫(とくひめ)を母として 3 誕生しました。輝政の五男であり 3 、多くの兄弟姉妹を持つ中で、将来は分家を創設し、池田一門の繁栄の一翼を担うことが期待される立場にありました。
政綱の生涯を考察する上で、彼が徳川家康の外孫という極めて特別な血筋を持っていた事実は看過できません。この事実は、彼が松平姓を下賜されるといった厚遇や 4 、嗣子なく死去したにも関わらず弟の輝興(てるおき)による家督相続が認められるなど 4 、その生涯の重要な局面で有利に作用したと考えられます。一方で、赤穂藩立藩後の藩邸整備や検地の実施といった行動は 5 、江戸時代初期に新たに藩を興した他の多くの大名に見られる、典型的な藩政基盤確立のための定石とも言えるものでした。この「徳川家との血縁という特殊性」と「新興藩主としての普遍的な行動」の組み合わせこそが、政綱の短い治世とその歴史的意義を理解する上での鍵となります。徳川家との血縁は、単に名誉や格式の問題に留まらず、藩の存続可能性を高める実質的な政治的資源として機能したと見ることができます。特に、嗣子なき死は通常、改易という厳しい処分に繋がる可能性が高い中で、弟・輝興への相続が比較的円滑に行われた背景には、この血縁関係が幕府の判断に大きな影響を与えたと推察されます。江戸幕府初期における大名家の成立と存続には、藩主個人の実力や実績もさることながら、幕府、特に徳川将軍家との関係性の深さが極めて重要な要素であったことを、政綱の事例は示唆しています。
父である池田輝政(永禄7年~慶長18年、1564年~1613年)は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕え、特に関ヶ原の戦いにおける功績により播磨姫路52万石を領する大大名へと昇りつめ、「姫路宰相」あるいは「西国将軍」などと称されました 2 。輝政が築き上げた池田家の威勢と広大な所領は、政綱を含む彼の子たちの将来を大きく左右する基盤となりました。
母である督姫(永禄8年~元和元年、1565年~1615年)は、徳川家康の次女として誕生しました。はじめ小田原の北条氏直に嫁ぎましたが、北条氏滅亡と氏直の死後、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉の計らいにより池田輝政に再嫁しました 3 。輝政との間には、政綱のほか、忠継(ただつぐ)、忠雄(ただかつ)、輝澄(てるずみ)、輝興(てるおき)の男子、そして千姫(せんひめ、茶々姫とも)、振姫(ふりひめ)の女子を儲けています 3 。督姫は自身が輝政との間にもうけた子供たちを深く愛したと伝えられており 7 、政綱もまた、そのような母の庇護のもとで成長したと考えられます。
池田政綱は、慶長10年(1605年)、播磨姫路城において輝政の五男として誕生しました 4 。幼名は岩松(いわまつ)と伝えられています 3 。
政綱が徳川家康の直系の外孫であるという事実は、彼の生涯を通じて極めて重要な意味を持ち続けました。これは単なる血の繋がりを超え、幕藩体制下における彼の政治的立場を規定する要素となりました。
その最も象徴的な出来事が、慶長16年(1611年)、政綱がわずか7歳の時に外祖父である徳川家康から松平の姓を下賜されたことです 4 。松平姓は徳川一門に連なる者や、特に功績のあった譜代大名などに与えられるものであり、これを輝政の子である政綱が拝領したことは、彼が徳川家にとって特別な存在であることを内外に示すものでした。徳川家康が、外孫である幼少の政綱に対し、松平姓を与えるという異例の措置を取った背景には、池田家の中でも特に督姫が生んだ男子たちを優遇し、徳川幕府への忠誠心を高めるとともに、他の外様大名に対する牽制、あるいは親藩に準じるような特別な家としての位置づけを意図した可能性が考えられます。池田輝政の死(慶長18年、1613年)のわずか2年前というこのタイミングも重要であり、輝政亡き後の広大な池田領の分割相続や、池田一族の将来を見据えた家康による布石の一つであったとも推察されます。事実、輝政の死後、督姫所生の子たちが重要な藩の藩主となったり、新たに藩を興したりする過程には、家康の意向が強く働いたとされています。督姫自身が元和元年(1615年)2月に死去しており 7 、その直後に忠継の遺領分与が行われ、政綱が赤穂藩を立藩しています。母方の祖父である家康からの松平姓下賜は、母亡き後の政綱たち兄弟の将来を保障する意味合いも含まれていたのかもしれません。江戸幕府初期における大名統制策として、婚姻政策や血縁関係の重視に加え、松平姓のような称号の付与が、大名の序列化や幕府への求心力強化のために巧みに用いられていたことを、この事例は示しています。
池田輝政には側室も含め多くの子女がいましたが、政綱の同母兄弟としては、長兄の忠継(慶長4年(1599年)生、備前岡山藩主となるも早世)、次兄の忠雄(慶長7年(1602年)生、淡路由良藩主を経て岡山藩主)、三兄の輝澄(慶長9年(1604年)生、播磨山崎藩主)、そして弟の輝興(慶長16年(1611年)生、播磨平福藩主を経て赤穂藩2代藩主)がいました 3 。また、同母姉妹には千姫(茶々姫、京極高広室)と振姫(伊達忠宗室)がいます 3 。これらの兄弟、特に藩の創設や継承に直接関わることになる忠継、忠雄、そして輝興との関係は、政綱の人生において決定的な影響を及ぼすことになります。
池田政綱の血縁的背景、特に徳川家との直接的な繋がりと、赤穂藩の成立やその後の継承に深く関わった兄弟関係を理解するため、以下に簡略な系図を示します。
徳川家康
│
督姫 (次女)
┝━━━━━━ 池田輝政
│
┌──────┬──────┬───┴───┬──────┬──────┐
池田忠継 池田忠雄 池田輝澄 池田政綱 池田輝興 千姫(茶々姫) 振姫
(岡山藩主) (岡山藩主) (山崎藩主) (赤穂藩初代) (赤穂藩2代) (京極高広室) (伊達忠宗室)
(早世)
この系図は、政綱が徳川将軍家の外孫という高い身分にあったこと、そして多くの兄弟、特に赤穂藩の成立や継承に直接関わる兄や弟がいたことを視覚的に示しています。このような複雑な家族関係と、それが彼の政治的地位に与えた影響を理解する一助となるでしょう。
赤穂藩立藩の直接的な契機は、元和元年(1615年)2月、政綱の長兄にあたる備前岡山藩主・池田忠継が、疱瘡のため17歳という若さで死去したことでした 4 。忠継には嗣子がいませんでした 9 。
忠継の死後、岡山藩38万石は、弟で当時淡路洲本6万石の藩主であった池田忠雄が相続しました 6 。その際、忠雄は母・督姫(同年2月に死去しており、法号は良正院)の遺領分という名目で、忠継の遺領の中から10万石を抽出し、これを弟の輝澄、政綱、輝興の3人に分与しました 6 。
この分与により、池田政綱は播磨国赤穂郡において3万5千石を与えられ、ここに新たに赤穂藩が立藩されることになりました 4 。
この時、三兄の輝澄は播磨山崎藩に3万8千石 12 、弟の輝興は播磨佐用郡平福藩に2万5千石をそれぞれ分与されており 6 、政綱の3万5千石という石高は、これらの兄弟とのバランスの中で決定されたものと考えられます。忠継の急逝という事態に対し、池田家の広大な所領は、幕府の承認のもと、兄弟間で再編されました。史料 6 にある「母・良正院の遺領分のうち3万5000石を分知され」という記述は重要です。良正院(督姫)は忠継が亡くなる直前の元和元年2月4日に姫路城で死去しており 7 、この分知が、あたかも母の遺産を分配するような形で行われたことを示唆しています。これは、督姫が生前に自身の子たちの将来について何らかの意向(例えば化粧料の分配など)を示しており、それが忠雄によって実行された、あるいは幕府がそのような形で采配した可能性を示します。徳川家康の娘である督姫の存在が、その死後においても彼女の子たちの処遇に大きな影響を与えたと考えられ、単なる兄弟間の遺領分割ではなく、幕府の強い意向が働いた結果であると推察されます。督姫は我が子への愛情が深かったとされ 7 、彼女の子供たちがそれぞれ独立した大名として取り立てられることは、彼女の願いであったかもしれません。その遺志が、このような分知の形で実現したとも解釈できます。江戸初期における大名家の分家創設や領地再編には、幕府の厳格な管理と承認が不可欠であり、その過程においては、当事者間の力関係だけでなく、母方の実家(この場合は徳川将軍家)の影響力や、故人の遺志といった要素も複雑に絡み合っていたことをこの事例は示しています。
元和元年(1615年)、池田政綱は播磨国赤穂郡に入り、正式に赤穂藩が成立しました 4 。時に政綱は数え11歳でした。
一部の史料 5 には「池田(松平)政綱が平福(佐用)から赤穂に入封する」との記述が見られます。しかし、平福藩2万5千石の藩主となったのは弟の輝興であり 13 、政綱自身が平福藩主であったわけではありません。この記述は、政綱が赤穂に入封するにあたり、地理的に近い佐用郡平福(弟・輝興の所領)を一時的な拠点としたか、あるいは赤穂藩の領地が佐用郡方面の旧領から新たに編成されたことを示唆している可能性があります。あるいは、単にその方面から赤穂へ移動したという事実を記したものであるとも考えられます。いずれにせよ、政綱の正式な所領は赤穂3万5千石でした。
池田政綱の治世は16年間と短いものでしたが、複数の史料において「藩政の基礎を固めた」と評価されています 4 。この評価を裏付ける具体的な施策として、以下の点が挙げられます。
まず、 藩邸(陣屋)の整備 です。赤穂入封直後の元和元年(1615年)、政綱は藩の政務を執り行う拠点となる藩邸(陣屋)の改築に着手しました。具体的には、大書院、広間、玄関、敷台、土蔵などを新たに築いたと記録されています 5 。これは、藩主の権威を領内に示すとともに、実務的な統治機構の物理的基盤を整備する上で不可欠な事業でした。
次に、 城の改修 です。当時の赤穂の城は、本格的な近世城郭ではなく、「加里屋城」とも呼ばれた掻上城(かきあげじょう、土塁や堀で囲まれた簡素な城)程度の規模であったと考えられます。政綱の時代には、この城に対しても小規模な改築が行われたとされています 16 。大規模な改修は後の浅野氏の時代を待たねばなりませんが、池田氏の時代にも防衛拠点としての一定の整備が試みられていたことが窺えます。
そして、最も重要な施策の一つが 検地の実施 です。藩財政の根幹である年貢収取体制を確立するためには、領内の石高を正確に把握する検地の実施が不可欠でした。政綱は元和元年(1615年)に「赤穂検地」と呼ばれる検地を実施しています 5 。入封後間もない時期の検地は、新たな領主として領内の実態を迅速に把握し、支配権を確立しようとした意図の表れと言えます。さらに、寛永2年(1625年)にも検地が行われた記録があり、この時のものとされる『塩屋村検地帳』や『真殿村検地帳』といった史料が現存しています 5 。これは、一度きりの調査に終わらず、継続的に領内把握と税制基盤の整備に努めていたことを示す重要な証拠です。
政綱は赤穂藩主となった時、わずか11歳でした。この若さで藩邸整備や検地といった藩政の根幹に関わる重要事業を次々と実施できた背景には、幼い藩主を補佐する有能な家臣団の存在が不可欠であったと考えられます。池田輝政の旧臣の中から、経験豊かで実務能力の高い家臣が選抜され、赤穂藩の家老や奉行として配属された可能性が高いと推測されます。史料 17 には「輝政死去の後、これらの家臣団が分割されている」との記述があり、政綱の赤穂藩にもそうした家臣が付けられたと考えられます。加えて、外祖父である徳川家康の威光や、本家筋にあたる岡山藩主の兄・忠雄などからの後見や支援体制も、若き政綱の藩政運営を円滑に進める上で大きな助けとなったことでしょう。藩邸の具体的な施設名(大書院、広間、玄関、敷台、土蔵)が記録されていることは 5 、単なる形式的な整備ではなく、実務的な統治機能を持つ拠点を計画的に構築したことを示しており、これは家臣団の専門的な知識や経験が反映された結果と考えられます。江戸時代初期の藩の成立期において、藩主が若年であったとしても、質の高い家臣団と、幕府や本家からの適切なサポートがあれば、比較的短期間のうちに安定した統治基盤を確立することが可能であったことを示す事例と言えます。
赤穂の特産品として全国的に知られる塩は、主に浅野氏の時代に大規模な塩田開発が進められ、全盛期を迎えたとされています 6 。しかし、その萌芽が池田政綱の治世下にあった可能性を示唆する史料が存在します。
赤穂市内に残る記録として、寛永3年(1626年)、すなわち政綱の治世中期に、姫路藩から赤穂に移り住んだ人物が塩田開発に着手し、これが「赤穂の製塩の基となった」と記された墓碑があることが指摘されています 18 。
この記述が事実であれば、政綱の統治下で、後の赤穂藩の財政を支えることになる塩業の基礎が築かれ始めたことになります。政綱自身が塩田開発を直接奨励したかどうかの記録は現時点では確認できませんが、少なくとも彼の治世において、こうした新たな産業の動きが許容され、あるいは間接的に支援される環境があったことは重要です。これは、政綱の「藩政の基礎を固めた」という評価に、経済的な側面からの新たな光を当てるものと言えるでしょう。寛永3年(1626年)に塩田開発が始まったとされるこの時期、赤穂藩は立藩から約10年が経過し、初期の混乱も収まりつつあったと考えられます。3万5千石という赤穂藩の石高は、決して大きなものではなく、藩財政の安定と強化は常に重要な課題であったはずです。塩業は、適切な技術と立地条件が揃えば、将来的に大きな収益を生む可能性を秘めた産業です。赤穂の海岸が製塩に適した地理的条件(遠浅の海、千種川がもたらす良質の砂、日照など)を備えていたことは、当時から認識されていた可能性があります。藩として、このような有望な産業の芽を摘むことなく、むしろその発展を黙認、あるいは何らかの形で支援したとしても不思議ではありません。政綱自身はその後の発展を見ることなく早逝しましたが、この時期に始まった動きが、後の浅野氏による大規模な塩田開発と「赤穂塩」ブランド確立の素地となった可能性は十分に考えられます。姫路藩から人物が移住して開発に着手したという点 18 は、当時の先進的な製塩技術が、池田家の旧本拠地であった姫路方面から導入された可能性を示唆しており、興味深い点です。小藩における殖産興業の初期段階の事例として注目されます。藩主の直接的な指示や大規模な投資がなくとも、領民の自発的な活動や外部からの技術導入が、結果として将来の藩の主要産業へと繋がっていくケースが存在したことを示しています。
政綱の治世下であった元和4年(1618年)、当時の社会状況を垣間見せる「本多忠政の家臣・稲垣平馬事件」という出来事が記録されています 4 。
この事件の具体的な内容や経緯については、提供された資料からは残念ながら詳らかにすることはできません。しかし、「世情不安の中で」 4 という記述が付されていることから、当時の赤穂藩領内、あるいはその周辺地域において、何らかの騒動や不穏な動きが存在したことを示唆しています。
本多忠政は当時、隣接する姫路藩の藩主であり、徳川家康の娘婿(督姫の姉・熊姫の夫)という有力な大名でした。その家臣が関与した事件であるとすれば、小藩である赤穂藩にとっては、その処理に慎重な対応が求められた可能性があります。元和4年(1618年)は、大坂の陣(1615年)終結からわずか3年後であり、世情にはまだ戦国時代の気風が色濃く残り、武士たちの間での些細なことから起こる紛争や、主家を失った浪人の問題なども各地で散見された時期でした。姫路藩主・本多忠政は、池田家とは姻戚関係(政綱の母・督姫の義兄にあたる)にありましたが、大藩の家臣が隣接する小藩で問題を起こした場合、その処理は非常にデリケートなものとなります。事件の詳細は不明ながら、もし赤穂藩領内で姫路藩士による何らかの不法行為や紛争が発生したとすれば、当時14歳の藩主であった政綱(とその家臣団)の統治能力や、近隣の大藩との外交手腕が試される機会となった可能性があります。この事件の処理を誤れば、姫路藩との関係が悪化するだけでなく、幕府からの評価にも影響しかねません。逆に、適切に処理できれば、若年ながらも藩を治める能力があることを示すことにも繋がったかもしれません。江戸時代初期においては、幕府による統制が強化されつつあったとはいえ、大名領間の紛争や家臣間のトラブルは依然として存在し、特に小藩にとっては、そうした事件への対応が藩の存続にも関わる重要な課題であったことを示唆しています。
池田政綱は、元和9年(1623年)7月19日、19歳(数え年)にして従五位下(じゅごいのげ)に叙され、右京大夫(うきょうのだいぶ)に任じられました 4 。これは、大名として幕府から公的な地位と格式を認められたことを意味します。右京大夫という官職は、朝廷の武官を統括する右京職の長官であり、池田家では父・輝政も一時この官職を称したことがあり、一定の家格を示すものでした。
さらに、寛永3年(1626年)には、22歳で従四位下(じゅしいのげ)に昇進しています 4 。これは、当時の大名の昇進としては異例の早さと言っても過言ではなく、政綱が徳川家康の直系の外孫であるという出自が大きく影響した結果であると考えられます。従四位下は、通常、国主格の大名やそれに準じる高い家格を持つ者に与えられる官位であり、3万5千石という比較的小規模な藩の藩主としては破格の待遇でした。
政綱が若年にして、通常では考えられないほどの速さで官位を昇進した背景には、彼個人の能力や実績に対する評価というよりも、彼の血筋(徳川家康の外孫)と、彼が属する池田家、特に母・督姫が生んだ男子たちの系統に対する江戸幕府の特別な厚遇策の一環であったと強く推察されます。幕府としては、徳川将軍家に近い血縁を持つ大名を厚遇し、高い官位を与えることで、その忠誠心を確保するとともに、他の大名に対する幕府の権威を示し、幕藩体制の安定化を図るという政治的な狙いがあったと考えられます。史料 19 によれば、政綱の兄である池田輝澄(播磨山崎藩主)も従四位下侍従に、また、後に政綱の跡を継ぐ弟の池田輝興も赤穂藩主となってから従四位下に叙任されたとあり、督姫所生の男子たちが総じて高い官位を得ていたことが窺えます。これは、彼らに対する幕府の一貫した優遇方針が存在したことを示唆しています。江戸時代初期の武家官位制度が、単なる名誉や序列を示すだけでなく、大名の家格や幕府との関係性を可視化する重要な政治的ツールとして機能していたことを示しています。また、血縁という要素が、時には石高という実質的な領地規模を超えるほどの待遇や影響力をもたらす要因となり得たことを、政綱の事例は明確に示しています。
藩政の基礎を着実に固め、これから本格的な藩主としての手腕を発揮することが期待されていた矢先、池田政綱は寛永8年(1631年)7月29日、27歳(数え年)という若さでこの世を去りました 4 。
その死因について、現存する資料には具体的な病名などの記述は見当たりません。しかし、若くしての死去であることから、何らかの病に倒れた可能性が高いと考えられます。
政綱の墓所は、岡山県岡山市中区国富にある少林寺と伝えられています 4 。戒名は雲龍院殿涼軸蔭公大居士(うんりゅういんでんりょうじくいんこうだいこじ)とされています 4 。
政綱には、その短い生涯の間に世継ぎとなる男子がいませんでした 4 。当時の武家社会の厳格な掟によれば、藩主が正室の子や幕府に届け出た養子などの正式な後継者(嗣子)なく死去した場合、その藩は無嗣を理由として改易(かいえき、領地没収・家名断絶)となるのが原則でした。
そのため、政綱の死によって、成立からわずか16年の赤穂藩は、無嗣改易という最大の危機に直面することになりました 4 。
しかし、赤穂池田家は断絶を免れました。幕府は特別の計らいをもって、政綱の同母弟であり、当時播磨国佐用郡平福藩2万5千石の藩主であった池田輝興(てるおき)に、赤穂藩3万5千石の家督を相続することを認めました 4 。
これにより、赤穂藩は池田家の治世下で存続することになり、輝興が2代目の藩主となりました。政綱は正嫡の男子なく死去したため、当時の基準では改易処分となっても何ら不思議ではない状況でした。しかし、結果として弟の輝興が、平福藩から赤穂藩へと、あたかも栄転するかのように家督を継承しました。この異例とも言える円滑な相続の背景には、政綱および輝興が徳川家康の直系の外孫であるという、極めて強力な血縁的背景が、幕府の最終的な判断に決定的に有利に作用したと強く推察されます。史料 19 には「徳川家康の外孫にあたるため、幕命で特別に池田輝興が赤穂藩主となることが許されました」と、その理由が明確に記されています。輝興は自身の所領であった平福2万5千石を手放し、石高の多い赤穂3万5千石を継承しています。これは、単に空席となった藩を埋めるという以上の、池田家(特に督姫の系統)に対する幕府の配慮があったことを示唆しています。江戸幕府初期における大名家の改易と存続の判断には、幕府の政策や大名統制の必要性に加え、当該大名家の家格や血縁、特に将軍家との関係性の深さが、時に決定的な影響力を持ったことを示す典型的な事例と言えます。赤穂池田家は、この徳川家との強い繋がりによって、一度は断絶の危機に瀕しながらも存続を許されたのです。
なお、2代藩主となった輝興は、赤穂藩のさらなる整備を進めましたが 5 、後に正保2年(1645年)に突如として正室や侍女を殺害するという「正保赤穂事件」を起こし、改易されることになります 5 。これにより、池田家による赤穂支配は終わりを告げ、赤穂藩は浅野長直の入部に至ります。
池田政綱の赤穂藩主としての治世は、元和元年(1615年)から寛永8年(1631年)までのわずか16年間に過ぎず、その手腕を十分に発揮する前に27歳という若さで世を去りました。しかし、この短い期間において、彼は藩庁となる藩邸の整備 5 、複数回にわたる検地の実施による領内把握と税制基盤の確立 5 、小規模ながらも城の改修 16 など、初代藩主として藩政の初期基盤を固めるための重要な施策を次々と実行しました。これらの実績は、彼の「藩政の基礎を固めた」という評価 4 を十分に裏付けるものです。
また、彼の治世下である寛永3年(1626年)に、後の赤穂の主要産業となる塩田開発の端緒が開かれた可能性が史料から示唆されている点 18 は、政綱の治績を評価する上で見逃せない重要な側面です。彼自身がその後の発展を見ることはありませんでしたが、この時期の動きが、後の赤穂藩の経済的繁栄の礎の一つとなった可能性を秘めています。
池田政綱の生涯を振り返るとき、彼が徳川家康の外孫であったという出自が、その運命にいかに大きな影響を与えたかを改めて認識させられます。幼少期における松平姓の下賜 4 、異例とも言える早さでの官位昇進 4 、そして何よりも、嗣子なく死去したにも関わらず、弟・輝興による円滑な家督相続が認められたこと 4 は、その典型と言えるでしょう。
これは、江戸時代初期の幕藩体制下において、大名家の序列や存続が、幕府との関係性、とりわけ将軍家との血縁によって大きく左右された実態を示す好個の事例です。政綱の存在そのものが、この時代の武家社会における血縁の重要性を物語っています。
池田政綱は、赤穂藩の歴史において、その初代藩主として名を刻むべき人物です。若くして世を去ったため、その後の赤穂藩の劇的な展開(浅野氏による塩田開発の全盛や元禄赤穂事件など)に直接関与することはありませんでした。しかし、彼が築いた藩政の初期基盤の上に、その後の歴史が積み重ねられていったと評価することができます。
今後の研究課題としては、まず、元和4年(1618年)に発生したとされる「本多忠政家臣・稲垣平馬事件」の具体的な内容とその影響を明らかにすることが挙げられます。また、政綱時代の赤穂藩家臣団の具体的な構成や、各家臣が藩政において果たした役割についても、より詳細な調査が望まれます。さらに、寛永3年(1626年)に始まったとされる塩田開発に対して、政綱や藩が具体的にどの程度関与し、支援したのかという点も、赤穂の産業史を考える上で重要なテーマです。岡山大学附属図書館が所蔵する池田家文庫 20 などには、これらの点を解明する手がかりとなる未調査の史料が眠っている可能性も否定できず、今後の研究の進展が期待されます。
年代(和暦) |
西暦 |
出来事 |
典拠例 |
慶長10年 |
1605 |
姫路城にて誕生。父は池田輝政、母は督姫(徳川家康次女)。幼名は岩松。 |
3 |
慶長16年 |
1611 |
外祖父・徳川家康より松平の姓を下賜される。 |
4 |
元和元年 |
1615 |
長兄・池田忠継(岡山藩主)の死去に伴い、その遺領から3万5千石を分与され、播磨国赤穂藩を立藩。赤穂に入封し、藩邸(陣屋)を改築。また、領内検地(赤穂検地)を実施。 |
5 |
元和4年 |
1618 |
本多忠政(姫路藩主)の家臣・稲垣平馬が関わる事件が発生。 |
4 |
元和9年7月19日 |
1623 |
従五位下に叙され、右京大夫に任官。 |
4 |
寛永2年 |
1625 |
再度、領内検地を実施(塩屋村・真殿村等の検地帳が現存)。 |
5 |
寛永3年 |
1626 |
従四位下に昇進。この年、赤穂において塩田開発が始まったとの伝承あり(姫路からの移住者による)。 |
4 |
寛永8年7月29日 |
1631 |
死去。享年27(数え年)。嗣子なし。墓所は岡山市中区国富の少林寺。戒名は雲龍院殿涼軸蔭公大居士。 |
4 |