本報告書は、日本の戦国時代、伊予国(現在の愛媛県)を治めた守護大名・河野氏の事実上最後の当主である河野通宣(こうの みちのぶ)の生涯を主題とする。彼は大永2年(1522年)に生まれ、天正9年(1581年)に没した人物であり、父は河野弾正少弼通直、兄は晴通である。
特に留意すべきは、同時代に同姓同名の人物が存在することである。本報告書が対象とする通宣とは別に、河野教通の子で永正16年(1519年)に没した河野弾正少弼通宣が存在する。両者は系譜上も活躍した時代も明確に異なるため、本報告書では、兄・晴通の跡を継いで河野氏の家督を相続した通宣(1522年生)に焦点を絞り、その事績を詳細に検討する。
通宣が歴史の表舞台に登場した16世紀半ば、伊予国は深刻な分裂状態にあった。鎌倉時代以来の名門守護である河野氏の権威は、長年の内紛と外部勢力の介入によって大きく揺らいでいた。国内では、中予の宇都宮氏や南予の西園寺氏といった国人領主が独自の勢力を保ち、河野氏の支配は盤石とは程遠い状況であった。さらに国外からは、西に中国地方の覇権をめぐり争う大内氏、そして後にその地位を継承する毛利氏、東には畿内の細川氏、南からは土佐国を統一し四国全土に覇を唱えんとする長宗我部氏という、強大な戦国大名からの圧力が絶えず加えられていた。
通宣の治世は、まさに旧来の守護大名体制が崩壊し、実力主義に基づく新たな秩序が形成される戦国時代の最も激しい動乱期と完全に重なっている。彼の生涯は、この時代の荒波に翻弄され、名門の看板を背負いながらも、内憂外患の中で家名の存続に苦慮し続けた、一人の戦国大名の苦闘の記録そのものであった。
河野通宣は、大永2年(1522年)、伊予国守護・河野通直(弾正少弼)の次男として、本拠地である湯築城で生を受けた。父・通直の時代、河野氏は依然として伊予国における名目上の最高権力者であったが、その実態は、有力な国人領主や、瀬戸内海の制海権を握る村上氏・来島氏といった水軍勢力との連合政権に近いものであった。
通宣の兄には、嫡男として家督を継ぐことが定められていた晴通がいた。晴通は、室町幕府第12代将軍・足利義晴から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け「晴通」と名乗っており、これは中央政権との繋がりを保ち、自らの権威を少しでも高めようとする当時の守護大名に共通の戦略であった。次男であった通宣は、当初、家督を継ぐ立場にはなく、その少年期に関する具体的な記録は乏しい。しかし、兄を支える一族の一員として、戦国乱世の伊予で武将としての教育を受けていたことは想像に難くない。
平穏とは言えないまでも、定められた秩序の中で進むはずであった河野家の継承計画は、天文19年(1550年)に突如として崩壊する。当主であった兄・晴通が、病によって若くしてこの世を去ったのである。この予期せぬ事態により、当時29歳であった弟の通宣が、急遽、河野家の家督を相続することとなった。
この家督相続の経緯は、通宣のその後の治世に決定的な影を落とすことになる。戦国時代において、当主の急死による代替わりは、権力の空白を生み出し、家臣団の動揺や内部抗争を誘発する最大の危機の一つであった。計画的な権力移譲ではなく、突発的な事故への対応という形で当主となった通宣の権力基盤は、その出発点からして極めて脆弱であったと言わざるを得ない。十分な準備期間もなく、また家中の有力者たちからの広範な支持を取り付ける時間的余裕もなかったであろう。この構造的な弱点が、彼の治世を通じて繰り返される家臣の離反や、外部勢力の介入を容易にする遠因となった。彼の苦難に満ちた統治は、この予期せぬ家督相続の瞬間から、すでに運命づけられていたのである。
通宣が家督を継いでからわずか4年後の天文23年(1554年)、彼の権力基盤の脆弱性を象徴する事件が発生する。河野氏の被官(家臣)であり、予州大野郷(現在の松山市大野地区周辺)を治めていた領主・大野利直(史料によっては直之とも)が、主家に対して公然と反旗を翻したのである。
この謀反は、単なる一国人の反乱に留まらない。それは、通宣の当主としての権威が、家臣団の隅々にまで浸透していないことの何よりの証左であった。兄・晴通の急死という混乱に乗じて家督を継いだ新当主の力量を見定めようとする動きは、家中の様々な勢力の間に存在したであろう。大野利直の挙兵は、そうした当主軽視の風潮が、ついに表面化した最初の、そして最も深刻な事件であった。河野家内部の統制が、すでに失われつつあることを内外に示す結果となった。
謀反の報に接した通宣は、これを鎮圧すべく、本拠地の湯築城から自ら出陣した。彼は、大野利直が立てこもる大野山城を攻撃し、反乱を力で鎮圧しようと試みた。しかし、この戦いにおいて、通宣が単独で反乱を鎮圧できなかった事実は極めて重要である。
この合戦の帰趨を決したのは、河野本家の軍事力ではなく、瀬戸内海にその名を轟かせていた伊予水軍の将たちの支援であった。具体的には、来島城主の来島通康や、能島を本拠とする村上水軍の一族である村上通康といった、半ば独立した勢力である水軍衆の協力が不可欠だったのである。彼らの強力な軍事力を得て、通宣はようやく大野氏の反乱を鎮圧することに成功した。
この大野合戦の鎮圧は、一見すれば通宣が当主としての威厳を示したかに見える。しかし、その内実を深く考察すると、全く異なる側面が浮かび上がってくる。それは、河野宗家の権力構造が、もはや絶対的なものではなく、有力家臣との連合体に依存しなければ存立し得ないほどに変化していたという事実である。特に、独自の海軍力を持ち、瀬戸内海の交易利権を握る来島・村上といった水軍勢力は、単なる家臣というよりも、対等な同盟者に近い存在となっていた。陸地における一国人の反乱すら、彼らの協力なくしては鎮圧できないという現実は、河野本家の直轄軍事力が著しく低下していたことを物語っている。
この権力構造の変化は、主君が家臣に一方的に「命令」する古典的な主従関係から、主君が有力家臣に「協力要請」を行い、その見返りとして所領安堵などの恩賞を与えるという、より水平的で契約的な関係への移行を示唆している。通宣の立場は絶対的な支配者ではなく、常に有力家臣の動向に左右される、危うい連合体の盟主に過ぎなかった。この構造こそが、後に毛利氏や長宗我部氏といった強大な外部勢力が介入した際に、家臣たちが比較的容易に主家を裏切り、より強い勢力へと鞍替えする行動を可能にする土壌となったのである。
分類 |
人物名 |
通宣との関係 |
備考 |
一門 |
河野通直 |
父 |
通宣の先代当主 |
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河野晴通 |
兄 |
早世したため通宣が家督相続 |
家臣団 |
来島通康 |
主従・協力 |
大野合戦で通宣を支援した伊予水軍の将 |
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村上通康 |
主従・協力 |
大野合戦で通宣を支援した伊予水軍の将 |
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大野利直 |
主従 → 敵対 |
大野合戦で通宣に謀反 |
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大野直昌 |
主従 → 離反 |
利直の子か。後に長宗我部方へ寝返る |
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来島通総 |
主従 → 離反 |
通康の子。後に長宗我部方へ寝返る |
外部勢力 |
宇都宮豊綱 |
敵対 |
伊予国内の宿敵 |
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毛利元就 |
従属的同盟 |
宇都宮氏対抗のため支援を要請 |
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小早川隆景 |
従属的同盟 |
毛利元就の三男。伊予の国政に介入 |
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長宗我部元親 |
敵対 |
土佐の戦国大名。伊予へ侵攻 |
大野合戦で内部の結束の脆さを露呈した河野氏であったが、その翌年の弘治元年(1555年)、西国全体の勢力図を塗り替える一大事件が起こる。安芸国(現在の広島県西部)の厳島において、毛利元就が周防国(現在の山口県東部)の大大名・大内義長の重臣であった陶晴賢を奇襲によって破った「厳島の戦い」である。この勝利により、毛利氏は大内氏の勢力を駆逐し、中国地方の新たな覇者として急速に台頭した。瀬戸内海を挟んで伊予と向かい合う地に、巨大な権力が誕生した瞬間であり、伊予を巡る地政学的なパワーバランスは劇的に変化した。
この新たな情勢を、通宣は自らが抱える問題の解決に利用しようと考えた。彼の長年の宿敵は、伊予国内に勢力を張る宇都宮豊綱であった。自家の軍事力だけでは宇都宮氏を完全に屈服させることが困難であると判断した通宣は、中国地方の新たな覇者となった毛利元就に接近し、宇都宮氏討伐のための支援を要請した。
この要請に対し、毛利元就は迅速に応えた。彼は、自らの三男であり、伊予に近い備後国(現在の広島県東部)を拠点とする小早川家の当主となっていた小早川隆景を総大将とする援軍を、瀬戸内海を渡って伊予へと派遣した。毛利氏の強力な軍事力を得た河野軍は、宇都宮氏を圧倒し、一時的にその勢力を大きく削ぐことに成功する。目先の脅威を排除するという点において、通宣の外交戦略は成功したかに見えた。
しかし、毛利氏の支援は、河野氏にとって諸刃の剣であった。小早川隆景は、単なる援軍の将として伊予に留まらなかった。彼は、河野氏を助けるという名目の下に、伊予の国政そのものに深く介入し始めたのである。その最も顕著な例が、隆景自身が伊予国内において、河野氏の頭越しに独自の文書(書状)を発給し、現地の武士や寺社に命令を下すようになったことである。これは、伊予国の統治権が、本来の領主である河野氏から、事実上、小早川隆景へと移譲されつつあることを示す動かぬ証拠であった。
このプロセスは、戦国時代の小勢力が大勢力に庇護を求めた際に陥りがちな典型的なパターンであった。通宣が選択した毛利氏との同盟は、短期的な脅威(宇都宮氏)を排除するための合理的な判断であったが、長期的には自らの首を絞める「毒杯」を呷るに等しい行為だったのである。毛利氏の戦略は、河野氏を「保護」するという名分を掲げつつ、その内政と軍事の全権を段階的に掌握し、伊予国を対四国、さらには対九州戦略の重要な橋頭堡として実質的に支配することにあった。
通宣は、自らが招き入れた「番人」によって、自家の主権を内側から静かに、しかし着実に解体されていった。河野氏は毛利氏の軍事力に依存するあまり、その独立性を急速に失い、事実上の従属国、あるいは傀儡政権へと転落していく。彼はもはや伊予国の主ではなく、毛利氏の伊予支配を円滑に進めるための現地代行者の役割を担わされる存在となっていた。
毛利氏への従属によってかろうじて命脈を保っていた河野氏であったが、天正年間(1573年〜)に入ると、南から新たな、そしてより直接的な脅威が迫ることになる。土佐国(現在の高知県)を完全に統一した長宗我部元親が、「四国統一」という壮大な目標を掲げ、伊予への侵攻を本格化させたのである。これにより、北の毛利氏に従属し、南の長宗我部氏と対峙するという、極めて困難な二正面作戦を強いられることになった。
長宗我部軍の猛攻に対し、もはや独力での抵抗が不可能な通宣は、唯一の頼みの綱である庇護者の毛利氏に繰り返し援軍を要請した。毛利輝元(元就の孫)と小早川隆景は、この要請に応じ、実際に伊予へ援軍を派遣し、長宗我部軍と交戦した。時には長宗我部軍を撃退し、一時的に失地を回復することもあったが、その支援はあくまで限定的なものであった。
この状況は、通宣と河野氏を悲劇的な立場へと追い込んだ。毛利氏の視点から見れば、伊予の河野氏は、西から織田信長の勢力が迫る中、四国方面の脅威である長宗我部氏の勢いを削ぐための「防波堤」であり、貴重な戦力を消耗させるための「緩衝地帯」としての戦略的価値が最大であった。したがって、毛利氏は河野氏が完全に滅亡して長宗我部氏の勢力が瀬戸内海に直接及ぶ事態は避けたいものの、自軍に大きな損害を出してまで、積極的に河野氏を救済する意図は薄かったと推察される。
この毛利氏の戦略的都合は、最前線で戦う河野家の家臣たちには痛いほど理解できた。頼みの綱である毛利の支援は不十分かつ断続的であり、将来性が見込めない。一方で、眼前に迫る長宗我部元親の力は圧倒的かつ現実的な脅威であった。この状況下で、河野家の家臣たちは、自らの家と所領を守るための、極めて合理的な生存戦略を選択する。それは、沈みゆく泥船である河野氏を見限り、新たな強者である長宗我部氏になびくことであった。
その結果、かつて大野合戦で通宣を助けた来島通康の子・来島通総(後の来島道之)や、大野利直の子(あるいは一族)である大野直昌といった、河野家の中核を担うべき重臣たちまでもが、次々と長宗我部方に寝返るという事態が発生した。通宣は、庇護者であるはずの毛利氏の戦略的都合と、生き残りを図る家臣たちの現実的判断の狭間で、完全に孤立無援の状態に追い込まれていった。彼の権威の失墜は、もはや誰の目にも明らかであった。
家臣団の離反が相次ぎ、領土の大半を長宗我部氏に切り取られた通宣に残されたのは、本拠地である湯築城とその周辺のみであった。天正9年(1581年)、長宗我部元親は伊予平定の総仕上げとして、大軍を率いて湯築城を完全に包囲した。城内の兵力は乏しく、外部からの援軍も期待できない状況で、もはや独力での抗戦は不可能であった。
万策尽きた通宣は、ついに降伏を決断する。この降伏交渉の仲介役を務めたのは、皮肉にも、彼の庇護者であった毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊であった。これは、降伏交渉の主導権が、当事者である河野氏や長宗我部氏ではなく、毛利氏の掌中にあったことを示している。恵瓊の仲介のもと、通宣は長宗我部元親に降伏し、先祖代々の居城であった湯築城を開城した。
降伏後、通宣の身柄は長宗我部氏に引き渡されることなく、毛利方の小早川隆景の元へと送られた。これは、通宣が伊予国内に留まることが、たとえ無力化された存在であっても、旧臣たちの心を結びつけ、将来の反乱の火種となりかねないという、新支配者たち(長宗我部氏と、その背後で影響力を行使する毛利氏)の政治的判断によるものであった。彼は事実上の亡命者として伊予国を追われ、隆景の領地である備後国沼隈郡(現在の広島県福山市周辺)へと移送された。
そして、湯築城を開城した同年の天正9年(1581年)9月1日、通宣は移送先の備後国にて、その波乱に満ちた生涯を閉じた。公式な記録では「病死」とされている。享年60であった。
この死は、様々な憶測を呼ぶ。降伏直後に、実質的な監視者である小早川隆景の領地で亡くなったという状況は、暗殺の可能性を完全に否定させるものではない。しかし、その死因が自然死であったか否かにかかわらず、より重要なのは、彼の死が持つ政治的な意味である。通宣の死は、伊予における旧秩序の完全な終焉を象徴する出来事であった。彼を伊予から追放し、自らの管理下で死なせることは、小早川隆景にとって、伊予国内に残る旧河野勢力の最後の期待を断ち切り、自らの支配を正当化するための最終的な仕上げであったと言える。通宣の死は、一個人の死であると同時に、鎌倉時代から400年以上にわたって伊予に君臨した名門・伊予河野氏という「制度」の死でもあった。
通宣の死をもって、守護大名としての伊予河野氏は事実上滅亡した。その後の伊予は、一時的に長宗我部元親の支配下に置かれたが、それも長くは続かなかった。天正13年(1585年)、天下統一を進める豊臣秀吉が四国平定に乗り出し、長宗我部氏は降伏。その結果、伊予国は、通宣の治世を通じて介入を続けてきた小早川隆景に正式に与えられた。これは、通宣の生涯を通じて進行した毛利氏による伊予支配の、最終的な帰結であった。
河野氏の旧臣たちの多くは、主家滅亡後、新たな領主となった小早川氏や、その後の藤堂高虎、加藤嘉明といった大名家に仕官し、武士として生きる道を探った。通宣の生涯は、時代の大きなうねりの中で、名門という過去の栄光を守ろうとしながらも、内憂外患に抗しきれず、ついには家を滅ぼしてしまった悲劇の当主の物語として、今日に伝えられている。
西暦 (和暦) |
河野通宣と河野家の動向 |
国内外の主要な出来事 |
1522 (大永2) |
河野通直の子として誕生。 |
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1543 (天文12) |
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種子島に鉄砲伝来。 |
1550 (天文19) |
兄・晴通の早世により、家督を相続。 |
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1554 (天文23) |
家臣・大野利直が謀反(大野合戦)。来島・村上水軍の支援で鎮圧。 |
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1555 (弘治元) |
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毛利元就、厳島の戦いで陶晴賢を破る。 |
1560 (永禄3) |
- |
桶狭間の戦い。 |
1564 (永禄7) |
宇都宮豊綱に対抗するため、毛利氏に援軍を要請。小早川隆景が伊予に介入。 |
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1568 (永禄11) |
- |
織田信長、足利義昭を奉じて上洛。 |
1573 (天正元) |
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室町幕府滅亡。 |
1575 (天正3) |
長宗我部元親の伊予侵攻が本格化。 |
長篠の戦い。 |
1579 (天正7) |
家臣の来島通総が長宗我部方に寝返る。 |
- |
1580 (天正8) |
家臣の大野直昌が長宗我部方に寝返る。 |
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1581 (天正9) |
長宗我部軍に湯築城を包囲され、降伏・開城。備後国へ移送される。 |
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1581 (天正9) |
9月1日、備後国沼隈郡にて死去(享年60)。伊予河野氏、事実上滅亡。 |
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1582 (天正10) |
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本能寺の変。 |
1585 (天正13) |
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豊臣秀吉による四国平定。伊予は小早川隆景の所領となる。 |