本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて南部氏に仕えた武将、泉山政義(いずみやま まさよし)、後に石亀政義(いしがめ まさよし)と称した人物について、現存する資料に基づき、その出自、経歴、南部藩における役割、そして石亀氏継承の背景などを詳細に明らかにすることを目的とします。
ユーザー様からは、泉山政義が南部家臣であり、泉山古康の嫡男、主君南部信直の後室・慈照院の弟であること、後に石亀姓を名乗り、信直の義弟として南部藩重臣二十名に列したとの情報をいただいております。これらの情報を基点としつつ、提供された資料群を精査し、より多角的かつ詳細な人物像を提示します。
調査にあたっては、提供された資料( 1 ~ 3 、 1 ~ 4 )を網羅的に分析し、泉山政義に関する記述を抽出、整理統合しました。特に、彼の家族関係、南部信直・利直との関わり、石亀氏との関連性、そして南部藩内での具体的な活動に着目し、その実像に迫ります。
泉山政義は永禄3年(1560年)に生まれ、寛永6年(1629年)に70歳で没しました 1 。彼が生きた時代は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業が進み、関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が成立し、大名の配置転換や検地、城割など、近世的な支配体制が確立されていく激動の時期にあたります。北奥羽の雄であった南部氏もまた、この時代の大きなうねりの中で、戦国大名から近世大名へと変貌を遂げていきました。政義の生涯は、まさにこの南部氏の変革期と軌を一にしています。
政義の父は泉山古康(いずみやま ふるやす)と記録されています 1 。古康の娘、すなわち政義の姉にあたる慈照院(じしょういん)は、南部氏第26代当主・南部信直(なんぶ のぶなお)の後室となり、後の盛岡藩初代藩主となる南部利直(なんぶ としなお)の生母となりました 1 。この南部宗家との姻戚関係は、泉山家、そして政義自身の藩内における地位向上に極めて重要な意味を持ったと考えられます。
泉山古康に関しては、その五男として右馬之助政之(うまのすけ まさゆき)の名も見えます。政之は南部重直(なんぶ しげなお、利直の子で盛岡藩第2代藩主)の代に家督を相続しましたが、後に禄を収められて家は断絶したとされます。これは政義の兄弟の系統に関する情報であり、泉山家が複数の男子を抱えていたことを示しています。
泉山家は、婚姻政策を通じて南部家との結びつきを巧みに強化していた様子が窺えます。慈照院が南部宗家の信直に嫁ぎ、次代藩主・利直を生んだことは、泉山家が藩主家の外戚という極めて重要な立場を得たことを意味します。さらに、『南部直房公御家譜』によれば、泉山古康の別の娘、つまり右馬之助政之の姉であり政義のもう一人の姉にあたる女性が、後に八戸藩の藩祖となる中里数馬(なかさと かずま、南部直房(なんぶ なおふさ))の最初の妻であったと記されています。
南部信直は、一族内の対立や外部勢力との緊張関係の中で南部家の家督を相続し、その支配基盤を固めていく必要に迫られていました。このような状況下において、信頼できる姻戚を藩政の中枢や戦略的要地に配置することは、極めて有効な手段であったと考えられます。泉山家は、その忠誠心や能力を見込まれ、婚姻を通じて南部家との結びつきを深め、藩内における発言力を高めていったのでしょう。これは、政義が後に家老などの要職に抜擢される上で、非常に有利な背景となったことは想像に難くありません。
泉山政義の主な家族構成は以下の通りです。
泉山氏の出自については、必ずしも明確ではありません。『参考諸家系図』によると、政義の祖父にあたる石亀政明(いしがめ まさあき)と泉山康朝(いずみやま やすとも)の兄弟が泉山氏の祖とされているものの、その詳しい出自は不詳であるとされています 1 。この記述は、泉山氏の系譜を正確に遡る上での一つの課題を示しています。しかしながら、泉山氏は南部藩の家臣として名を連ねており 2 、政義の代には藩政に深く関与するほどの地位を築いていたことは明らかです。
年代 |
出来事 |
典拠 |
永禄3年 (1560年) |
泉山政義、生誕 |
1 |
(時期不明) |
姉・慈照院、南部信直の後室となる |
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(時期不明) |
別の姉、中里数馬(南部直房)の最初の妻となる |
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天正4年(1576年) |
甥・南部利直(母:慈照院) 誕生 |
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天正11年(1583年) |
(名跡上の曽祖父とされる)石亀信房 死去 |
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(時期不明、信直家督相続後) |
南部信直の命により石亀姓を名乗る |
1 |
天正19年(1591年) |
九戸政実の乱。南部信直方として政義が何らかの役割を果たした可能性が考えられる。 |
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慶長4年(1599年) |
南部信直 死去 |
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(慶長年間以降) |
南部利直の家老として藩政に参加。花巻の岩崎城代などを務める。 |
1 |
寛永6年 (1629年) |
泉山政義(石亀政義)、死去(享年70) |
1 |
Mermaidによる関係図
この系図は、泉山政義が南部宗家や有力分家と密接な姻戚関係にあったこと、そして彼が継承した石亀氏が南部氏の由緒ある庶流であったことを視覚的に示しています。これらの関係性が、彼の藩内における地位や役割を理解する上で重要な鍵となります。
石亀氏は南部氏の庶流の一つで、その初代は三戸南部氏第22代惣領・南部政康(なんぶ まさやす)の四男である石亀信房(いしがめ のぶふさ)とされています。ただし、資料によっては南部安信(南部政康の子で第23代当主)の四男とするものもありますが、政康の子である安信の弟にあたるため、政康の四男という理解がより直接的です。信房は三戸郡石亀村(現在の青森県三戸郡田子町石亀)を領有し、その地名から石亀氏を称しました 1 。また、彼は不来方城(後の盛岡城)の城代として、南方に勢力を持つ斯波氏に対する防衛の任にあたったと伝えられています。信房の没年は天正11年(1583年)とされています。
石亀信房の死後、その家督は嫡男の石亀政頼(いしがめ まさより)が継ぎ、文禄2年(1593年)に死去。その跡は政頼の嫡男である石亀直徳(いしがめ なおのり)が相続し、当初250石を領していましたが、慶長19年(1614年)に150石を加増されて400石を知行し、家老を務めるなど、石亀氏は南部藩内で重きをなしていました。
しかし、直徳の跡を継ぐべき嫡男・石亀貞次(いしがめ さだつぐ)が父に先立って死去していたため、家督は貞次の子である石亀政直(いしがめ まさなお)へと嫡孫継承されました。ところが、この政直が明暦3年(1657年)に何らかの罪を得て家名断絶の処分を受け、これにより石亀氏の本家は断絶するに至りました。
泉山政義は、その生涯のある時点で泉山姓から石亀姓に改め、石亀政義と称するようになりました 1 。この改姓の経緯については、「一説に曽祖父とされる石亀信房の死で石亀宗家が断絶したことにより、命により名跡を継いだとも」言われています 1 。
ここで重要なのは、名跡継承の時期と「宗家断絶」という言葉の解釈です。前述の通り、石亀本家が石亀政直の代に断絶したのは明暦3年(1657年)です。一方、泉山政義が死去したのはそれより前の寛永6年(1629年)です 1 。したがって、政義は1657年の本家断絶を受けて名跡を継いだわけではなく、彼が石亀姓を名乗っていた時期には、石亀本家はまだ存続していたことになります。
この点を踏まえると、 1 や 1 にある「曽祖父とされる石亀信房の死で石亀宗家が断絶した」という記述は、文字通り信房の死(1583年)をもって直ちに宗家が完全に途絶えたと解釈すると、その後の政頼、直徳、政直といった本家筋の当主の存在 と矛盾が生じます。
この「宗家断絶」という表現は、いくつかの可能性が考えられます。一つは、石亀信房の直系のある特定の系統が一時的に途絶えたか、あるいは石亀氏全体の勢力が何らかの理由で衰微し、当主である南部信直がその由緒ある名跡の維持・再興を重要と考えた状況を指すのかもしれません。また、石亀本家筋に信直が期待するような有力な後継者がいなかったため、信直が自身の義弟であり信頼の置ける腹心であった泉山政義に、石亀氏の名跡を継がせるという政策的な判断が働いた可能性も高いと考えられます。「命により名跡を継いだ」 1 という記述は、この改姓が南部信直の強い意向によるものであったことを明確に示唆しています。
南部信直は、南部宗家の家督を相続した後、九戸政実の乱など内外の課題に直面しながら、自身の支配体制を強化していく過程にありました。その一環として、有力な一族の名跡を信頼できる近臣に継がせることで、家臣団の再編や結束力の強化を図ったのではないでしょうか。泉山政義に石亀氏を継がせたのは、まさにそのような意図の現れであったと推測されます。
また、石亀氏には本家以外にも複数の分家が存在し、幕末まで存続した家もあったとされています。この事実は、政義による名跡継承が、石亀氏全体が完全に消滅した後の再興というよりも、特定の重要な家系の名跡を、藩主の命によって有力な家臣が継承したという形であった可能性を補強します。
泉山姓から、南部氏一門の中でも由緒ある石亀姓へと改姓したことは、泉山政義の南部藩内における地位を格段に向上させる効果があったと考えられます。単なる一譜代家臣から、藩主の一族としての色彩を帯びることになり、その後の家老職への就任や藩政における発言力の増大に、少なからず影響を与えたと推察されます。これは、南部信直が自身の政権基盤を固める上で、信頼できる側近を名実ともに引き立てるという戦略の一環であったとも言えるでしょう。
泉山政義の姉・慈照院が南部信直の後室であったことから、政義は信直の義弟という、極めて近い姻戚関係にありました 1 。南部信直は、南部晴政・晴継父子の相次ぐ死の後、一族内の有力者である九戸政実らとの対立を抱えながら困難な状況下で家督を相続しました。このような不安定な時期において、主君が信頼を置ける身内の存在は極めて重要です。義弟である泉山政義は、信直にとって数少ない頼れる腹心の一人であり、精神的な支えともなったであろうことは想像に難くありません。
南部信直の家督相続から九戸政実の乱(天正19年、1591年)を経て、豊臣政権の後ろ盾を得て領国支配を確立していく過程は、信直にとってまさに試練の連続でした。九戸政実の乱は、信直の南部宗家としての地位を決定づける極めて重要な戦いであり、この乱を鎮圧した後、信直は領内の支配体制の再編と権力基盤の強化を推し進めました。この権力集中と再編の過程において、信直は自らに忠実で有能な人物を要職に登用したはずです。義弟であり、かつ石亀氏という由緒ある名跡を継承した泉山政義は、まさにその適任者の一人であったと考えられます。九戸政実の乱における政義の具体的な動向に関する直接的な記録は、提供された資料からは見出すことができませんでしたが、信直を支える重要な立場にあって、何らかの役割を果たしていた可能性は十分に考えられます。
南部信直の子であり、泉山政義の甥にあたる南部利直が南部宗家を相続し、盛岡藩の初代藩主となると、政義は家老として藩政に深く関与するようになりました 1 。南部利直は、父・信直の築いた基盤の上に、盛岡藩の藩体制を確立し、近世大名としての南部家の基礎を固めるという重要な使命を担っていました。このような藩政草創期において、外叔父であり、父・信直の代からの宿老でもある泉山政義の存在は、若き藩主・利直にとって大きな支えとなったことでしょう。政務における経験豊富な助言者として、また信頼できる重臣として、利直の藩政運営を補佐したと考えられます。
泉山政義は家老として藩政に参加したと記録されており 1 、ユーザー様ご提供の情報にある「南部藩重臣二十名のうちに列した」という点は、彼の藩内における序列の高さを示しています。実際に、南部藩の家臣団を記したリストには「泉山」および「石亀」の名が見え 2 、これらの家が藩の重臣層に含まれていたことを裏付けています。
家老としての具体的な行政手腕や献策に関する詳細な記録は、残念ながら提供された資料からは乏しいのが現状です。しかし、南部信直・利直という二代の藩主にわたり家老職を務め、藩政の中枢にあり続けたという事実は、彼の能力と忠誠心が高く評価されていたことの証左と言えるでしょう。特に、藩体制が確立していく過渡期において、藩主を支え、藩政の安定に貢献したその功績は小さくなかったはずです。
泉山政義は、花巻の岩崎城代などを務めたとされています 1 。岩崎城は、陸奥国和賀郡(現在の岩手県北上市和賀町岩崎)に位置し、この地域はかつての和賀氏の旧領であり、南に接する伊達領との境界にも近い、軍事上・政治上の戦略的要衝でした。
岩崎城に関しては、慶長5年(1600年)の岩崎一揆(和賀氏残党による反乱)鎮圧後、南部氏家臣の野田氏、大槌氏、栗谷川氏らによって修理され、慶長7年(1602年)には柏山明助(かしやま あきすけ)が岩崎城代として入城し、旧和賀氏勢力への押さえと仙台藩境の警護にあたりましたが、まもなく廃城になったとされています。
泉山政義が「花巻の岩崎城代」を務めたとされる時期が、この柏山明助の城代就任(慶長7年)の前後いずれの時期であったのか、あるいは全く別の時期であったのかは、提供された資料だけでは明確に特定できません。いくつかの可能性が考えられます。
第一に、柏山明助が城代となる以前に、政義が一時的に岩崎城の管理を任されていた可能性。
第二に、一度廃城となった後に何らかの理由で再興され、その際に政義が城代として赴任した可能性。
第三に、「花巻の」という記述から、花巻城の管轄下にある岩崎方面の防衛責任者、あるいは花巻城代の指揮下で岩崎地域の統治に関わったといった、より広義の役割を指している可能性も否定できません。花巻城自体は、南部氏の南方における最重要拠点の一つであり、北信愛(きた のぶちか)らが城代を務めていました。岩崎城が花巻城の支城、あるいは関連施設として機能していた場合、政義の役割は、対伊達氏戦略や、旧和賀・稗貫領の安定化に寄与するものであったと推測されます。
いずれの可能性であったにせよ、国境に近い城、あるいはそれに準ずる重要拠点の責任者を務めるということは、藩主からの軍事的な信頼が厚かったことを示しています。泉山政義が文武にわたり、南部藩にとって不可欠な人材であったことが窺えます。
泉山政義は、寛永6年(1629年)に70歳でその生涯を閉じました 1 。彼の晩年における具体的な活動や役職についての詳細な記録は、提供された資料の中には見当たりませんでした。しかし、家老としての重責を長年にわたり担ってきたことから、藩政の長老として、引き続き南部利直を支えていたものと考えられます。
泉山政義(石亀政義)個人の墓所が具体的にどこにあるのかについては、提供された資料群からは特定できませんでした。石亀氏ゆかりの地である青森県三戸郡田子町石亀周辺 1 、あるいは泉山氏と関係の深い場所、南部藩主家や重臣たちの菩提寺などに墓碑や供養塔が存在する可能性はありますが、今後の調査を待つほかありません。
泉山政義が継承した石亀氏の系統が、彼の死後、子孫によってどのように受け継がれていったのかについての直接的な情報は、提供された資料には見当たりませんでした。
石亀氏全体としては、本家が明暦3年(1657年)に罪を得て断絶した後も、複数の分家が幕末まで存続したとされています。泉山政義が興した石亀家が、これらの既存の分家とどのような関係にあったのか、あるいは独立した一つの家系として続いたのか、そしてその後の盛衰については、現時点では不明です。政義に妻子がおり、その子孫が石亀姓を名乗り続けたのかどうかは、今後の研究によって明らかにされるべき課題と言えるでしょう。
泉山政義は、南部信直・利直という二代の藩主にわたり、藩主との強固な姻戚関係を背景に重用され、家老として藩政の中枢に関与し、また軍事的な要職も務めた、南部藩初期における極めて重要な人物であったと言えます。
彼の生涯は、南部氏が戦国時代の動乱を乗り越え、近世大名としての地位を確立し、盛岡藩の支配体制を築き上げていく過渡期において、藩主を忠実に支え、藩の安定と発展に貢献した家臣の一つの典型を示しています。
特に、泉山氏という一介の家臣の家から、藩主の義弟、そして甥の藩主の外叔父という特別な立場となり、さらに南部氏一門の由緒ある石亀氏の名跡を継承したことは、単なる個人的な立身出世に留まるものではありません。それは、南部信直・利直による藩内勢力の再編と支配構造の強化という、より大きな政治的文脈の中で理解されるべき出来事であり、泉山政義がその中で果たした役割の重要性を示唆しています。
本報告書では、戦国時代から江戸時代前期にかけての南部藩士、泉山政義(石亀政義)について、提供された資料に基づいてその生涯と事績を考察しました。彼の出自、南部藩主・南部信直および南部利直との密接な姻戚関係、由緒ある石亀氏の名跡継承の背景、そして南部藩における家老や城代としての役割などが明らかになりました。
特に、泉山家が婚姻政策を通じて南部宗家や有力分家との結びつきを戦略的に強化していたこと、そして南部信直が信頼する義弟である政義に石亀氏の名跡を継がせたことには、単なる家臣の登用以上の政治的な意図があったと考えられます。政義は、南部氏が戦国大名から近世大名へと移行し、盛岡藩の支配体制を確立していく上で、藩主を支える重要な役割を担った人物であったと結論付けられます。
今回の調査では、泉山政義の輪郭をある程度明らかにすることができましたが、依然として解明されていない点も多く残されています。今後の研究によって、以下のような点が明らかになることが期待されます。
これらの点を明らかにするためには、『南部藩参考諸家系図』 1 、『盛岡南部藩家臣録』、『南部氏諸士由緒記』( 2 の言及元史料)といった南部藩に関する根本史料や古文書類を直接的かつ詳細に調査することが不可欠です。また、関連する地方史誌や研究論文などを渉猟することも有効でしょう。泉山政義という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、南部藩成立期の歴史をより多角的に理解する上で、重要な意義を持つと考えられます。