本報告書の目的は、戦国時代に出羽国比内地方(現在の秋田県北部)に勢力を築いた武将、浅利則頼(あさり のりより)について、現存する史料に基づき、その出自、比内への進出、支配体制の確立、人物像、そして彼の死が浅利氏に与えた影響を詳細かつ徹底的に明らかにすることである。
浅利則頼は、甲斐源氏の流れを汲むとされ、16世紀初頭に新たな活躍の場を求めて出羽国に移住し、十狐(独鈷)城を拠点として一代で比内地方における浅利氏の支配権を確立した重要な人物である 1 。彼の事績は、戦国時代の地方豪族の興隆と、その後の盛衰を理解する上で示唆に富む事例と言える。
本報告では、浅利則頼に関する既存の概要認識 を踏まえつつ、各種文献史料を網羅的に検討し、より深く掘り下げた情報を提供する。特に、彼の出自の背景、比内地方における支配体制構築の具体的な過程、周辺勢力との関係、そして彼が地域社会に与えた影響などに焦点を当てる。
浅利氏は清和源氏義光流を称し、甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利周辺)を本貫とした甲斐浅利氏の庶流とされる 3 。この甲斐源氏という出自は、戦国武将が自らの権威を高める上で重要な要素であったと考えられる。ただし、鎌倉時代の浅利氏と戦国期の浅利氏を直接的に繋ぐ明確な系図史料は不足しており、その連続性については慎重な検討を要するとの指摘もある 5 。浅利則頼が甲斐源氏を称したことは、彼の支配の正当性を強化するための戦略的意味合いが強かった可能性が指摘される。鎌倉時代からの明確な系譜の連続性が史料上確認できない点は、彼らが過去の権威を利用しつつも、実力で新たな地位を築き上げた戦国武将の典型的な姿を反映していると言えよう。
則頼の父は浅利朝頼(あさり ともより)と伝えられる 6 。『長崎氏旧記』の伝承によれば、天文7年(1538年)頃、父朝頼と共に甲斐国を出て陸奥国津軽郡に移り、その後比内郡に至ったとされる 7 。比内への移住時期については、史料により永正年間(1504年~1521年) 2 や1500年代 1 などとされ、則頼が甲斐浅利氏本流として本拠地を移したと記すものもある 1 。
甲斐国は武田氏をはじめとする有力な氏族が割拠する競争の激しい地域であったのに対し、出羽国比内地方は中央の政治的影響力が比較的及びにくく、新たな勢力が台頭する余地があった。浅利氏庶流である則頼の一族が、本拠地である甲斐を離れ、遠方の比内を目指した背景には、本国での発展の限界と、新天地での勢力拡大への野心があったと推測される。この移住は、戦国時代における武士の流動性と、より有利な条件下で自らの勢力を伸張させようとするフロンティア精神の表れと解釈できる。
比内郡への最初の入部地は、北秋田市七日市の明利又(赤利又とも記される)であったと伝わっている 1 。
浅利則頼の生年は不明である 6 。彼の没年は、天文19年6月18日(西暦1550年7月31日)と記録されている 6 。
則頼の子としては、頼治(よりはる)、則祐(のりすけ)、勝頼(かつより)の息子たちと、娘の松の方(まつのかた)が確認できる 3 。松の方は浅利牛欄(うしらん、本名:政吉)に嫁いでいる 9 。
兄弟には、浅利九兵衛定頼(くへえ さだより)と浅利勘兵衛頼重(かんべえ よりしげ)がいたことが史料からうかがえる 10 。これらの兄弟や姻戚関係は、後の則頼による比内支配体制の構築に重要な役割を果たすことになる。
表1:浅利則頼 関連年表
年号 (和暦) |
西暦 |
出来事 |
典拠例 |
永正年間 |
1504-1521頃 |
甲斐国より出羽国比内へ移住、赤利又を初期拠点とする |
1 |
永正17年 |
1520年 |
弟・浅利九兵衛定頼を花岡城代に任命 |
10 |
大永2年 |
1522年 |
南部氏との合戦により独鈷大日堂焼失、後に則頼が再建と伝わる |
12 |
大永5年 |
1525年 |
「浅利源朝臣貞義」として男鹿本山再興の棟札に名を連ねる |
5 |
(時期不明) |
|
十狐(独鈷)城を築城し本拠とする |
5 |
大永7年 |
1527年 |
鳳凰山玉林寺を開基 |
8 |
天文年間 |
1532-1555年 |
娘婿・浅利牛欄を八木橋城主に配置 |
6 |
天文19年6月18日 |
1550年7月31日 |
十狐城にて死去 |
6 |
この年表は、則頼の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものであり、彼の活動の変遷を理解する一助となる。移住から築城、寺社関連の事績、一族の配置といった具体的な行動は、則頼の戦略や支配確立の過程を具体的に追跡する上で重要な手がかりを与える。
浅利則頼は比内入部後、当初の拠点(赤利又など)から移り、十狐(独鈷)城を築いて本拠地とした 1 。この城は現在の秋田県大館市比内町独鈷に位置したとされ、比内地方支配の中心となった 13 。『独鈷村旧記』には、則頼が一時的に赤利又城に居城した後、十狐城を築いて移ったとあり 5 、また、元々は土着の勢力であった十狐次郎の居城で、則頼がこれを攻め落として自らの居城としたという説も存在する 5 。
いずれの経緯を辿ったにせよ、十狐城の選定と築城(または大規模改修)は、浅利則頼の比内支配における極めて戦略的な一手であったと言える。単なる居住地としてではなく、軍事拠点、政庁、そして浅利氏の権威を象徴する中心地としての役割を担わせる意図があったと考えられる。十狐城が比内地方の地理的中心に近いことや、交通の要衝であった可能性を考慮すると、その戦略的重要性は一層明らかになる。実際に、十狐城の名は後に城下町である十狐町の由来となり 15 、浅利氏の支配が地域社会に深く根付いていたことを示唆している。
十狐城跡は現在、遺跡として認識されており 16 、『日本城郭大系』には平山城で郭や空堀の遺構があったと記されている 16 。しかし、中世浅利氏時代の城郭の全貌については、今後の詳細な発掘調査と研究が待たれる状況である。
城と密接に関連する建造物として独鈷大日神社がある 12 。この神社には則頼の大きな絵が奉納されており 13 、彼の記憶を今日に伝える重要な場となっている。また、大館市の無形民俗文化財に指定されている「独鈷ばやし」は、則頼が剣を振って舞ったことに由来するとされ 13 、彼が地域文化にも影響を与えたことがうかがえる。
浅利則頼は、比内地方における支配権を確立し、それを強固なものとするため、自身の弟たちや姻戚を戦略的に重要な地点に配置し、支城網を構築した 6 。
このような一族を枢要な支城に配置する支配体制は、則頼の存命中は比内地方の迅速な掌握と安定化に貢献した強固なシステムであったと言える。信頼できる近親者を配することで、領国支配の効率性と忠誠度を高めようとしたのであろう。しかし、このシステムは家長の強力なリーダーシップと一族の結束に大きく依存するものであった。則頼という求心力を失った後、後継者間の利害対立や外部勢力の介入によって容易に崩壊しうる脆弱性も内包しており、これは多くの戦国大名家に見られた共通の課題であった。
表2:浅利則頼 一族と主要拠点
関係 |
氏名 |
主要拠点 |
備考 |
典拠例 |
父 |
浅利朝頼 |
甲斐国浅利郷 |
|
6 |
本人 |
浅利則頼 (貞義) |
十狐(独鈷)城 |
比内浅利氏本家初代 |
5 |
弟 |
浅利九兵衛定頼 |
花岡城 |
北方の抑え |
10 |
弟 |
浅利勘兵衛頼重 |
笹館城 |
|
5 |
嫡男 |
浅利則祐 |
扇田長岡城 |
後に家督相続 |
5 |
次男 |
浅利勝頼 |
中野城 (初期) |
後に兄を追い落とし家督 |
5 |
子 |
浅利頼治 |
|
|
3 |
娘 |
松の方 |
|
浅利牛欄室 |
6 |
娘婿 |
浅利牛欄 (政吉) |
八木橋城 |
西方の守り |
6 |
この表は、則頼の支配戦略の核心である「一族による拠点支配」を視覚的に示すものであり、彼の領国経営における人的ネットワークの解明に資する。
浅利則頼は十狐城を本拠として勢力拡大を目指し、比内郡における一大勢力を築き上げた 6 。その支配領域は、現在の秋田県能代市二ツ井町荷上場館平城から鹿角市上津野あたりまで広がり、その過程で各地の土着国人を併合していったと伝えられる 6 。
彼の死の年である天文19年(1550年)に作成されたとされる『浅利興市則頼公侍分限』(または『浅利與市侍分限』、『両比内鹿角領主浅利興市則頼公侍分限』とも)は、当時の浅利氏の家臣団の構成や所領高、配置などを示しており、則頼の支配体制の一端をうかがい知る上で極めて貴重な史料である 18 。この史料には、例えば茂内村の領主として家老の野呂左馬允の名が見えるなど 19 、具体的な家臣の名とその所領が記されている。
『浅利興市則頼公侍分限』の存在は、浅利則頼が比内地方において単なる武力による支配だけでなく、ある程度組織化された家臣団統制と知行制に基づいた領国経営を行っていたことを強く示唆する。これは、彼が一代で築き上げた勢力の規模と、その支配の安定度を物語るものである。ただし、この史料から読み取れるのは主に家臣団の構成であり、具体的な領民統治策や経済政策の詳細については、他の史料や伝承から補完的に推測する必要がある。
比内地方は、則頼の時代に浅利氏の支配下で一定の秩序が形成され、安定していたと考えられる。その証左として、大館市比内町独鈷の住民が、後世に至るまで則頼を「最初で唯一の殿様」として深く敬愛し続けてきたという事実がある 20 。これは、彼の統治が比較的穏健で、地域社会に受け入れられていた可能性を示唆している。
浅利則頼は武勇に優れた武将であっただけでなく、文化的な素養も持ち合わせていたと伝えられる。史料によれば、「智勇文武音曲に優れた人物」と評され、特に音曲、中でも琵琶を愛したとされる 6 。彼が愛用したと伝わる琵琶は、大館市指定文化財として独鈷大日神社に現存しており 12 、彼の文化的な側面を今に伝えている。
信仰心も篤く、寺社の建立や再興にも力を注いだ。
これらの寺社建立や再興は、則頼個人の信仰心の発露であると同時に、領国経営における巧みな宗教政策の一環であったと考えられる。寺社の保護は領民の精神的な支柱となり、領主の権威と慈悲を示す行為であった。特に、土着の信仰の対象であった独鈷大日堂を浅利氏の氏神として篤く保護したことは、浅利氏の支配を在地社会に浸透させ、求心力を高める効果があったと言えよう。
さらに、彼の名は民俗芸能にも影響を残している。大館市の無形民俗文化財に指定されている「独鈷ばやし」は、則頼自ら剣を振り若い娘が舞ったとされる「剣囃子」と、集落を練り歩く「囃子山車」が合わさったものと伝えられており 13 、則頼が地域文化に与えた影響の大きさを示している。
浅利則頼は、特に彼が本拠地とした独鈷の地域住民から、後世に至るまで深く敬愛されている。独鈷の人々は、則頼を大館地方の中心地たらしめた人物として大変尊敬しており、浅利氏が滅亡し、秋田氏や佐竹氏の支配に変わった後も、則頼への敬愛の念を持ち続け、独鈷ばやしや浅利氏ゆかりの歴史的資産を守り伝えてきた 20 。則頼以前に明確にこの地方を統治した人物が知られていないため、「最初で唯一の殿様」として記憶されていることは 20 、彼の統治が地域社会に与えた印象の強さを物語っている。
史料上では、大永5年(1525年)の男鹿本山再興の棟札に「浅利源朝臣貞義」と記されており 5 、この貞義が則頼と同一人物であるとされる 5 。彼が「源朝臣」を名乗ったことは、自らを源氏の正統な後継者と位置づけ、その権威を示そうとした意図の表れであろう。
則頼に関する主要な史料としては、『長崎氏旧記』 5 、『浅利興市則頼公侍分限』(『浅利與市侍分限』とも) 18 、『独鈷村旧記』 5 、『浅利軍記』 16 などが挙げられる。これらの史料は、軍記物、家臣団の記録、地域の旧記、寺社縁起など多様な性質を持ち、秋田県公文書館などに所蔵されているものもある 18 。則頼の実像に迫るには、これらの史料を批判的に検討し、それぞれの史料が持つ性質(例えば、軍記物の物語性、旧記の編纂意図、分限帳の記録目的)を理解した上で、多角的に情報を組み合わせる必要がある。特に『長崎氏旧記』や『浅利軍記』のような編纂物については、その成立時期や背景を考慮し、他の史料との整合性を確認しながら慎重に扱うべきである。
浅利則頼は天文19年(1550年)に、本拠地である十狐城で死去した 2 。彼の死は、比内浅利氏にとって一つの時代の終わりを意味した。則頼の時代は比内浅利氏の「全盛期」と評されるほどであり 5 、彼が一代で築き上げた勢力と安定は、その死と共に急速に揺らぎ始めることになる。
則頼の死後、家督は嫡男の浅利則祐が継いだ 3 。しかし、則祐とその弟である勝頼との間には深刻な確執が生じた 3 。一説には、則祐が則頼の側室の子であり、後に正室の子として勝頼が誕生したことが不和の一因ともされる 3 。
この兄弟間の対立は、永禄5年(1562年)に悲劇的な結末を迎える。勝頼は、浅利氏と敵対関係にあった檜山城主・安東愛季(あきすえ)と結託し、兄・則祐を扇田長岡城に攻め、自害に追い込んだのである 5 。これにより勝頼が浅利氏の当主となったが、この内紛は浅利氏の結束を著しく弱め、外部勢力の介入を招く結果となった。浅利則頼が築いた比内浅利氏の勢力は、彼の死後、深刻な後継者問題によって揺らいだ。この兄弟間の対立は、安東愛季という外部勢力に介入の隙を与え、結果的に浅利氏の弱体化を招いた。これは、強力な指導者を失った地方豪族が、内部対立と外部からの圧力によって急速に衰退する戦国時代の典型的なパターンであり、則頼の築いた「全盛期」も、盤石な継承体制がなければ脆いものであったことを示している。
当主となった浅利勝頼は、当初は安東氏の支援を受けて南部氏と争うなどしたが 5 、やがてその安東氏とも対立するようになる 1 。そして天正10年(1582年)、勝頼は檜山安東氏に招かれた宴席で謀殺され 21 、比内浅利氏は決定的な打撃を受ける。
勝頼の子である浅利頼平は、津軽の津軽為信などを頼り抵抗を続けるが、慶長3年(1598年)、安東氏(この頃には秋田氏を称する)との領地紛争の調停のために上洛中、大坂で急死した(毒殺説も有力である 7 )。この頼平の死をもって、領主としての比内浅利氏は実質的に滅亡したとされている 5 。
その後、浅利氏の一族や子孫は離散し、一部は佐竹氏に鷹匠として仕えるなどして家名を伝えた 9 。浅利則頼が一代で築き上げた比内浅利氏の支配は、彼の死からわずか半世紀足らずで終焉を迎えたのである。
浅利則頼は、16世紀前半の出羽国比内地方において、甲斐国からの移住者という立場でありながら、十狐(独鈷)城を戦略的拠点とし、巧みな一族配置と領国経営によって地域支配を確立し、比内浅利氏の全盛期を築き上げた傑出した戦国武将であった。
彼は武勇に優れるだけでなく、寺社建立や文化的活動を通じて領国を統治し、地域住民からの深い敬愛を集めた。その事績は、戦国時代の地方豪族が如何にして未開の地で勢力を伸張し、地域社会に深く根付いていったかを示す好例と言える。特に、独鈷大日神社への関与や「独鈷ばやし」の伝承は、彼の支配が武力だけでなく、文化や信仰の次元にまで及んでいたことを示唆している。
しかし、浅利則頼という強力な指導者の死後、後継者間の内紛と周辺の有力勢力による介入が顕著となり、彼が一代で築き上げた浅利氏の勢力は急速に衰退へと向かった。この過程は、戦国時代における権力の獲得と維持の困難さ、そして地方勢力の盛衰の激しさを如実に物語っている。
浅利則頼の名は、彼が築城した十狐城や、彼とゆかりの深い独鈷大日神社、そして民俗芸能「独鈷ばやし」などを通じて、今日の大館市比内地域に歴史的遺産として深く刻まれており、その歴史的意義は依然として大きい。彼の生涯と比内浅利氏の興亡は、戦国時代の地方史を研究する上で、貴重な事例を提供し続けている。
本報告書作成にあたり参照した主要史料群は以下の通りである。これらの史料は、浅利則頼および比内浅利氏の研究において基本となるものである。
(注:より具体的な文献の特定と充実は、実際の史料集の調査や学術データベースの網羅的な検索が必要となる。)