清原武則は平安時代の出羽の豪族。前九年の役で源頼義を助け、安倍氏を滅ぼし奥羽の覇者となる。その後の清原氏の内紛が奥州藤原氏の台頭を招いた。
11世紀の東北地方、すなわち陸奥国と出羽国は、京の中央政権から見れば、その直接的な支配が完全には及ばない「辺境」であった 1 。この地域には、古代の蝦夷(えみし)征討の過程で朝廷に服属した人々、いわゆる「俘囚(ふしゅう)」が独自の社会を形成し、在地豪族として大きな力を持っていた 2 。俘囚は、律令制下の公民とは異なり、租税を免除されるなどの特権を持つ一方で、社会的な差別を受けるという複雑な立場に置かれていた 2 。この中央の支配体系と在地社会の論理が交錯する特異な社会構造こそが、後に安倍氏や清原氏といった、中央の国司としばしば対立する強大な在地勢力が生まれる土壌となったのである。
この時代、東北地方には二つの巨大な豪族が君臨していた。一つは、陸奥国(現在の岩手県周辺)の北上川流域に広がる「奥六郡(おくろくぐん)」を支配する安倍氏。もう一つが、出羽国(現在の秋田県周辺)の「山北三郡(せんぼくさんぐん)」を拠点とする清原氏である 1 。彼らは単なる地方の有力者ではなく、陸奥国の鎮守府や出羽国の秋田城といった、朝廷の地方統治機関において在庁官人としての地位を占めることで、公的な権威をも手中に収めていた 4 。その権力基盤は、在地社会に深く根を張った人的ネットワークに加え、北方で産出される砂金や良馬、さらには大陸との交易によってもたらされる莫大な経済力に支えられていた 6 。
こうした背景から、11世紀の東北は、単に中央から隔絶された未開の地ではなかった。むしろ、中央政権が国司を派遣して確立しようとする公的な支配秩序と、安倍・清原両氏に代表される在地勢力が築き上げた実効支配とが、常時緊張関係にありながらも、ある種の均衡を保っていた「境界領域」と捉えるべきである。中央の論理と在地の論理が複雑に絡み合い、独自の政治・経済秩序が形成されていたこの地で、やがてその均衡を大きく揺るがす大規模な紛争、すなわち「前九年の役」が勃発する。この戦乱は、中央による再支配の試みと、在地勢力の自立化への希求とが激しく衝突した、時代の必然であったと言えよう。
清原武則という人物を理解する上で、彼が属した出羽清原氏の出自は、極めて重要かつ複雑な問題である。その血脈には、一見すると矛盾する二つの側面が混在しており、この二重性こそが、彼らの生存戦略と野心を解き明かす鍵となる。
第一に、前九年の役の顛末を記した同時代の軍記物語『陸奥話記』は、清原氏を「出羽山北の俘囚主」と明確に記している 9 。これは、彼らが朝廷に服属した蝦夷である俘囚の長であり、その社会に深く根差した存在であったことを示す最も基本的な史料である。
しかしその一方で、清原氏は「真人(まひと)」という極めて高貴な姓(かばね)を称していた 9 。真人は、天武天皇が定めた八色の姓において最高位に位置し、皇族に連なる氏族にのみ与えられるものであった。単なる「俘囚の長」が、このような高貴な姓を名乗ることは通常あり得ず、この事実は彼らが中央の貴族、あるいはそれに連なる家系である可能性を示唆している。この「俘囚主」という在地の貌と、「真人」という中央の貌との間の大きな隔たりが、清原氏の本質を複雑にしている。
この謎を解くため、後世には様々な系図が作られた。平安時代中期の元慶の乱(878年)の際に京から派遣された清原令望や、著名な歌人である清原深養父の子孫とする説がそれである 11 。これらは、清原氏が自らの権威を高めるために、中央の貴族との繋がりを求めた結果生まれたものと考えられるが、その信憑性については多くの研究者が疑問を呈している 13 。さらに近年の研究では、武則の系統を海道平氏(岩城氏)の一族と見なす説も有力視されているが、これもまた決定的な証拠を欠き、未だ論争の的となっている 13 。
これらの諸説が乱立すること自体が、清原氏の特異性を物語っている。彼らは、在地社会においては「俘囚主」として蝦夷・俘囚の強力な軍事ネットワークを掌握し、その実力を背景に地域に君臨した。同時に、中央政権や国司と対峙する際には、「真人」という貴種性を盾に、自らを単なる被支配者ではない対等な交渉相手として位置づけた。この二重のアイデンティティは、矛盾するものではなく、彼らが激動の時代を生き抜き、さらには覇権を狙うための、極めて高度な戦略的ツールだったのである。
出羽清原氏の権力は、出羽国北部に築かれた強固な地盤に支えられていた。その本拠地は、現在の秋田県横手市を中心とする横手盆地にあったことが確実視されている 9 。具体的な拠点としては、後の後三年の役の舞台ともなる金沢柵(かなざわのさく)や沼柵(ぬまのさく)といった防御施設が知られているが 12 、前九年の役当時の中心地としては、大鳥井山(おおとりいやま)遺跡が有力視されている 9 。その根拠として、『陸奥話記』に、当時の清原氏当主・光頼(武則の兄)の子が「大鳥山太郎」と名乗っていたという記述が存在することが挙げられる 9 。
清原氏は、雄勝(おがち)・平鹿(ひらか)・山本(やまもと)からなる「山北三郡」を実効支配し、その広大な領域内に一族を巧みに配置することで、強力な同族武士団を形成していた 11 。彼らは、11世紀中頃には大規模な軍勢を動員できるほどの力を持ち、その勢力範囲は横手盆地から秋田平野、男鹿半島にまで及んでいたと考えられている 9 。
さらに、彼らの力は単なる軍事力に留まらなかった。清原氏は、地域の開発を主導する「開発領主」としての一面も持っていた 4 。横手盆地に伝わる「鳥の海の干拓」といった長者伝説は、彼らが湿地帯を干拓して農地を拡大するなど、地域の生産力向上に貢献したことを示唆している 4 。こうした開発事業を通じて、清原氏は在地社会に深く根を下ろし、領民の支持を集め、それが結果として一万もの兵を動員できるほどの強大な経済的・人的基盤を築き上げることに繋がったのである 9 。
平安時代中期、陸奥守兼鎮守府将軍として東北に赴任した源頼義は、当初、奥六郡に勢力を張る安倍氏の力を過小評価していた。しかし、天喜5年(1057年)、安倍頼時(頼良)の子・貞任が率いる軍勢と黄海(きのみ)で激突すると、戦況は頼義の予測を大きく裏切るものとなる。地の利を活かし、数で勝る安倍軍の前に頼義軍は惨敗を喫し、壊滅的な打撃を受けた 1 。この「黄海の戦い」での手痛い敗北は、頼義に自力での安倍氏討伐が不可能であることを痛感させた。
軍事的に破綻し、窮地に陥った頼義が戦局打開の最後の望みを託したのが、隣国・出羽に一大勢力を築いていた清原氏であった。彼は、清原氏の当主であった光頼と、その弟で武勇に優れた武則に対し、度重なる使者を派遣し、珍奇な宝物を贈るなど、極めて丁重な姿勢で援軍を要請した 17 。『陸奥話記』には、頼義が「輩下に下る(家来になる)」とまで言って懇願したと記されており 17 、これは当時の力関係が、中央から派遣された将軍である頼義よりも、在地の豪族である清原氏の方が明らかに優位にあったことを如実に物語っている。頼義にとって、清原氏の協力は、もはや唯一の活路だったのである。
源頼義からの度重なる要請に対し、清原氏の当主・光頼はすぐには応じなかった。『陸奥話記』には「猶予して未だ決せず」とあり、慎重に情勢を見極めていた様子がうかがえる 20 。一説には、清原氏と安倍氏は姻戚関係にあったとも言われ 5 、同族間の争いに介入することへのためらいがあったのかもしれない。しかし、最終的に清原氏は参戦を決断し、弟の清原武則を総大将として、一万余の大軍を陸奥国へ派遣することを決定した 9 。
この出陣に際し、武則が取った行動は極めて象徴的であった。彼は皇城(京都)の方角を遥拝し、天地神明にこう誓ったと『陸奥話記』は伝えている。
「臣、既に子弟を発し、将軍の命に応ず。志は節を立つるに在り。身を殺すを顧みず。もし苟(いやしく)も死せざれば、必ず空しく生きざらん」 21。
これは表向き、朝廷への絶対的な忠誠と、源頼義の「官軍」に協力する大義を示したものである。しかし、その内実を深く考察すれば、これは単なる忠義の表明ではなく、自らの軍事行動を「私戦」ではなく「公戦」として正当化し、全軍の士気を高め、さらには戦後の恩賞交渉を有利に進めるための、高度な政治的パフォーマンスであったと解釈できる。
清原氏の参戦は、純粋な忠義心からではなかった。それは、極めて冷徹な計算に基づいた戦略的判断であった。近年の研究では、清原氏の真の狙いは、源頼義の掲げる「朝敵討伐」という大義名分を利用して、長年の地域ライバルであった安倍氏を合法的に排除することにあったと指摘されている 5 。特に、安倍氏内部で台頭しつつあった貞任(清原氏との血縁が薄い)の勢力を削ぎ、戦後は自らの血を引く安倍宗任(頼時の三男で、母が清原氏出身とされる)を安倍氏の後継者に据えることで、陸奥国そのものを事実上の影響下に置こうという壮大な野心があったと考えられている 5 。武則にとって、頼義の苦境は、自らの一族が奥羽の覇者へと飛躍するための、またとない好機だったのである。彼の参戦は、源氏への「援軍」というよりも、清原氏が主導権を握るための周到な「介入」であった。
清原武則の参戦が前九年の役の戦局に与えた影響は、決定的であった。彼が率いてきた軍勢は「一万余」と記録されており、源頼義が動員できた「三千余」の兵力を遥かに凌駕していた 12 。この圧倒的な兵力差そのものが、それまで安倍氏優位で進んでいた戦いの力学を根底から覆した。清原軍の到着によって、源頼義・清原武則連合軍は、初めて安倍氏と互角以上の、あるいはそれ以上の戦力を手にしたのである 15 。
連合軍は栗原郡営岡(たむろのおか)で合流した後、七つの部隊に再編された 12 。その陣立てを見ると、武則自身、その子である武貞(荒川太郎)、一族の武道(貝澤三郎)や吉美候武忠(斑目四郎)といった清原一族の武将たちが各部隊の中核を担っており、清原氏が単なる兵力の提供者ではなく、作戦遂行そのものを主導する立場にあったことがわかる 12 。
武則の軍事的能力は、単なる物量に留まらなかった。『陸奥話記』などの断片的な記述からは、彼の巧みな戦術が垣間見える。例えば、安倍氏の重要拠点である衣川関の攻略戦において、武則は馬を降りて自ら川岸の地形を偵察し、川の両岸に生い茂る木々の枝が水面を覆っているのを見て、兵にその枝を伝って対岸へ渡らせるという奇襲策を命じている 22 。また、後の戦いでは影武者を用いる戦術も使ったという記録もあり 23 、地形を巧みに利用した奇策や心理戦にも長けた、知略に富む将であったことが窺える。
勢力 |
指揮官 |
兵力(推定) |
典拠 |
源氏軍 |
源頼義、源義家 |
約 3,000人 |
17 |
清原軍 |
清原武則、清原武貞 他 |
10,000人余 |
12 |
連合軍 合計 |
- |
約 13,000人 |
- |
安倍軍 |
安倍貞任、安倍宗任 他 |
約 8,000人 |
22 |
この兵力比較は、前九年の役の勝敗を分けた要因を明確に示している。清原軍の参戦は、単なる「助太刀」ではなく、連合軍の主戦力そのものであった。この事実は、「源氏の勝利」という通説的な見方を相対化し、「清原武則こそが安倍氏滅亡の最大の立役者であった」という、本報告書の中心的な論点を強力に裏付けるものである。
清原軍という圧倒的な戦力を得た連合軍は、破竹の勢いで北進を開始した。小松柵、衣川関、鳥海柵、黒沢尻柵といった安倍氏の拠点を次々と攻略し、安倍一族を最後の本拠地である岩手郡の厨川柵(くりやがわのさく、現在の岩手県盛岡市)と嫗戸柵(うばとのさく)へと追い詰めていった 24 。
康平5年(1062年)9月、厨川柵をめぐる攻防戦は、前九年の役の雌雄を決する最後の激戦となった 25 。戦いは10数日に及び、熾烈を極めた。『陸奥話記』には、苦戦した源頼義が八幡三所に祈願すると、にわかに暴風が起こり、炎が敵陣に燃え移って勝利を得たという、神がかり的な逸話が記されている 28 。しかし、この伝説の背後には、清原軍の圧倒的な兵力による猛攻が、安倍軍の抵抗力を着実に削いでいったという現実があったと考えるべきであろう。
ついに厨川柵は陥落し、安倍氏の総大将・安倍貞任は乱戦の中で討ち取られ、安倍氏に与していた知将・藤原経清も捕らえられて斬首された 18 。ここに、12年近くにわたって東北地方を揺るがし続けた大乱は終結し、奥羽の歴史は清原武則という新たな覇者の手によって、次の時代へと大きく舵を切ることになる。
前九年の役の終結後、康平6年(1063年)に行われた戦後の論功行賞において、清原武則は従五位下鎮守府将軍に任じられた 10 。鎮守府将軍とは、陸奥・出羽両国の軍事を統括し、蝦夷の動向を監視する朝廷の重要な官職である。これまで、この地位に就くのは中央から派遣された貴族や武士であり、蝦夷の流れを汲むとされる「俘囚」の長が任じられたことは、まさに前代未聞の出来事であった 1 。
この異例の叙任は、武則個人の栄達を遥かに超える、重大な歴史的意義を持っていた。それは、清原氏が奥羽両国における軍事支配権を、朝廷から公的に承認されたことを意味したからである 30 。これにより、出羽の一豪族に過ぎなかった清原氏は、名実ともに出羽・陸奥にまたがる広大な領域を支配する、半独立的な政治勢力としての地位を確立した 10 。武則は、源頼義が提供した「官軍」という大義名分を最大限に利用し、戦争の最大の果実を手に入れたのである。
鎮守府将軍となった武則は、自らが滅ぼした安倍氏の旧領である奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手の六郡)を併せて領有することになった 3 。これにより、清原氏の勢力基盤は、従来の本拠地であった出羽国山北三郡に加え、陸奥国の心臓部へと一挙に拡大し、奥羽最大の勢力へと飛躍を遂げた 10 。
しかし、広大な新領土の統治は武力だけでは成し得ない。武則は、支配を盤石なものとするため、巧みな婚姻政策を駆使した。彼は、息子の清原武貞(たけさだ)の妻として、安倍頼時の娘であり、前九年の役で処刑された藤原経清の未亡人であった有加一乃末陪(ありかいちのまえ)を迎えさせたのである 3 。これは、単に敗者の女性を戦利品として奪う行為ではなかった。安倍氏の血統を清原氏に正式に取り込むことで、奥六郡の在地社会に根強く残る旧安倍氏勢力を平和裏に吸収し、懐柔しようとする、極めて高度な政略結婚であった 34 。この婚姻は、旧安倍氏の家臣や領民に対し、「我々は汝らの伝統を破壊するのではなく、継承する者である」という強力なメッセージを発するものであった。
この巧みな政策が、しかし、皮肉にも清原氏の未来に大きな影を落とすことになる。この再婚の際、有加一乃末陪は、前夫・経清との間に生まれた一人の男児を連れていた。当時7歳であったこの少年こそ、後に奥州藤原氏の初代当主となる藤原清衡その人である 12 。彼は武貞の養子として「清原清衡」を名乗り、清原一族の中で育てられることになった。武則が短期的な支配安定のために打ったこの一手は、結果として清原氏の血筋を複雑化させ、一族内部に「清原氏本流の血を引く者(真衡)」、「清原氏と安倍氏の血を引く者(家衡)」、そして「藤原氏と安倍氏の血を引く養子(清衡)」という、三つの異なる血統が並立する、極めて不安定な権力構造を内包させることになったのである 3 。武則の短期的な成功は、図らずも、長期的な一族崩壊の遠因を自ら作り出すことと同義であった。
清原武則が一代で築き上げた巨大な権力と広大な領土は、彼の死後、一族に栄華をもたらすどころか、骨肉の争いの火種となった。武則の跡を継いだ子・武貞、さらにその跡を継いだ嫡孫・真衡(さねひら)の時代になると、武則が残した複雑な血縁関係が牙を剥き始める 31 。
真衡は、嫡流としての権力を一族の隅々にまで及ぼそうと、強引な権力集中策を進めた。しかし、この独裁的な手法は、一族内部から激しい反発を招いた。特に、武則の娘婿であり一族の長老的存在であった吉彦秀武や、異父弟の清衡、異母弟の家衡といった有力者たちとの対立は深刻なものとなった 13 。武則が築いた権力基盤は、あまりにも彼個人のカリスマと軍事的手腕に依存しており、次世代がそれを円滑に継承できるだけの安定した制度や理念を欠いていた。その結果、武則という重石がなくなった後、相続をめぐる不満と権力闘争が一気に噴出したのである。この清原一族の内紛に、再び源氏、すなわち源義家が介入したことで、事態は「後三年の役」として知られる、より大規模な戦乱へと発展していく 37 。
後三年の役(1083年〜1087年)は、清原一族にとって破滅的な結末をもたらした。内乱の最中に当主・真衡は急死。その後、遺領を巡って争った家衡と、その叔父にあたる武衡(武則の子)は、源義家と巧みに連携した清衡によって滅ぼされた 3 。こうして、前九年の役で源頼義を助け、奥羽の覇者として栄華を誇った清原氏は、武則の死からわずか一世代余りで、歴史の表舞台から完全に姿を消したのである。
この骨肉の争いの最大の勝者は、皮肉にも、武則が政略のために養子として迎え入れた清原清衡であった。一族で唯一の生存者となった彼は、安倍氏と清原氏が築き上げた奥羽両国の広大な旧領と、そこに根付く生産基盤や交易ネットワークを、そっくりそのまま継承することに成功した 35 。その後、清衡は実父の姓である「藤原」に復し、奥州藤原氏の初代当主となった 40 。
清原武則の英雄的な生涯は、結果として、自らが滅ぼした安倍氏の血を引く養孫に、その全ての遺産を譲り渡すための壮大な序章となった。武則の卓越した軍事力と政治力がなければ、奥州藤原氏が百年にわたって築くことになる平泉の黄金文化もまた、存在し得なかったであろう。彼は、意図せずして自らの一族の墓掘り人となり、同時に次なる時代の礎を築いた、歴史の巨大な転換点に立つ人物であった。彼の物語は、「創業」の成功が、必ずしも「継承」の成功を保証しないという、権力移行の普遍的な困難さを示す、日本史における痛烈な教訓として記憶されている。
清原武則は、平安時代後期の東北史において、単に「源頼義を助けた出羽の豪族」という評価に留まる人物ではない。彼は、時代の大きな転換点を鋭敏に察知し、中央の権威(源氏)と在地の論理(俘囚社会)を巧みに操り、自らが新たな時代の覇者となることに成功した、卓越した政治家であり、冷徹な戦略家であった。彼の決断と行動は、東北地方の政治地図を根本から塗り替え、その後の歴史の流れを決定づけた。
武則の成功の要因は、第一に、在地社会に深く根差した「俘囚主」としての強大な軍事力にあった。そして第二に、中央政権の動向を冷静に見極め、自らの野望の実現のために利用する政治的柔軟性にあった。彼は、源氏を「主君」としてではなく「駒」として扱い、地域ライバルである安倍氏を排除するという目的を達成した。
しかし、その栄華は永くは続かなかった。彼が一代で築き上げた巨大すぎる権力と、支配安定のために用いた婚姻政策による複雑な血縁関係は、次世代における内紛の火種を内包していた。武則の権力があまりにも属人的であったがゆえに、彼の死後、一族をまとめる求心力は失われ、その遺産は壮絶な相続争いの的となった。
歴史的に見れば、清原武則は、古代的な蝦夷・俘囚の世界から、中世的な武士の時代へと日本社会が大きく移行する、まさにその過渡期を象徴する巨人であった。彼は、源平の動乱に先立つこと一世紀近く前、東北という舞台で、在地の武士が中央の権威をも動かし、時代の主役となりうることを証明した。その栄光と、一族の悲劇的な崩壊は、表裏一体となって、次なる奥州藤原氏百年の繁栄へと直接繋がっている。清原武則は、自らの意図を超えて歴史の歯車を大きく回した、日本史における極めて重要な人物として再評価されるべきである。