和暦 (西暦) |
主な出来事 |
典拠 |
天文元年 (1532) |
誕生 |
1 |
天文24年 (1555) |
評定衆として笠原綱信と共に虎朱印状に連署。職人への免許状を発給。 |
3 |
永禄元年 (1558) |
古河公方足利義氏の小田原城訪問の際、5宿老の一人として拝礼。 |
4 |
永禄11年 (1568) |
武田信玄の駿河侵攻に対し、韮山城などで防戦に参加。 |
5 |
永禄12年 (1569) |
嫡男・新七郎が駿河・蒲原城にて武田軍との戦いで討死。 |
2 |
元亀2年 (1571) |
伊豆水軍を率い、駿河湾に侵攻。武田水軍と交戦。 |
8 |
天正8年 (1580) |
北条水軍が武田水軍と駿河湾で大規模な海戦を行う。 |
9 |
天正14年 (1586) |
この年までに家督を次男・政勝に譲る。 |
2 |
天正17年 (1589) |
下田城主となり、対豊臣の防衛を一任される。 |
2 |
天正18年 (1590) |
4月、豊臣水軍による下田城籠城戦開始。約50日間善戦の末、開城。 |
2 |
天正19年6月2日 (1591年7月22日) |
河津の菩提寺・三養院にて死去。享年60。 |
1 |
戦国時代、関東に覇を唱えた後北条氏。その巨大な権力構造を支えた家臣団の中に、ひときわ異彩を放つ武将がいた。その名は清水康英(しみず やすひで)。伊豆衆を束ねる筆頭として、また北条水軍の指揮官として、そして何よりも主君・北条氏康の厚い信頼を得た側近として、その生涯は後北条氏の興隆と滅亡の軌跡と深く重なり合う。
康英の名は、豊臣秀吉による小田原征伐の際、伊豆下田城に籠城し、圧倒的な兵力を誇る豊臣水軍を相手に五十日余にわたり善戦した勇将として知られている。しかし、その武勇伝の背後には、伊豆という戦略的要衝の統治を任された卓越した政治家・行政官としての顔が隠されている。評定衆として北条氏の中枢で政策決定に関与し、伊豆奥郡代・三島代官として地域の民政を担い、そして水軍の将として海の防衛線を死守する。これら多岐にわたる役割を一身に担った康英の存在は、後北条氏の統治体制の精緻さと、それを支えた家臣の質の高さを物語っている。
本報告書は、断片的に伝わる清水康英の姿を、現存する古文書や記録、後世の編纂物など、利用可能な史料を網羅的に分析し、再構築することを目的とする。その出自と北条家との固い絆から、家臣団内での地位と権能、数々の戦歴、そして北条氏滅亡後の晩年と子孫の行方までを詳細に追うことで、一人の武将の生涯を通して、戦国時代後期における関東の政治・軍事力学、そして後北条氏という巨大な戦国大名の実像に迫るものである。康英の生涯を解き明かすことは、単なる一個人の伝記に留まらず、戦国という時代の複雑な様相を理解するための一つの重要な鍵となるであろう。
清水康英という人物の重要性を理解するためには、まず彼が属した清水氏そのものが、後北条家の中でいかに特別な地位を築いていたかを知る必要がある。その地位は、伊豆における土着の有力者という側面と、北条宗家との極めて個人的で深い結びつきという二つの要素によって形成されていた。
伊豆清水氏の起源については、二つの説が存在する。一つは、後北条氏の祖である伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に討ち入った際に従った譜代の家臣であるという説。もう一つは、もともと伊豆国に根を張っていた土豪であり、宗瑞の支配下に入ったという説である 15 。どちらが真実であるにせよ、清水氏が伊豆の地に早くから影響力を持っていたことは、史料によって裏付けられている。
明応年間(1492年~1501年)初期に作成されたと推定される古文書『伊豆国道者注文』(天理図書館所蔵)には、すでに清水氏の名が見える 2 。これは、宗瑞による伊豆平定の時期とほぼ重なり、清水氏がその頃にはすでに伊豆国内で名の知られた存在であったことを示唆している。この土着の有力者という背景が、後に清水氏が伊豆の国人衆「伊豆衆」を束ねる上で不可欠な基盤となった。
康英の父とされるのは、二代当主・北条氏綱に仕えた清水綱吉(つなよし)である 15 。綱吉は主君・氏綱から「綱」の一字を拝領しており(偏諱)、これは主君との間に一定の信頼関係があったことを示すものである 16 。綱吉は、北条氏による伊豆支配の安定化や各地の戦いにおいて、一族の勢力拡大に貢献したものと考えられる。
さらに注目すべきは、康英の叔父にあたる清水吉政(よしまさ)の存在である。吉政は、三代当主・北条氏康がまだ嫡男であった頃の傅役・補佐役という極めて重要な役目を務めた 15 。傅役は、単なる教育係ではなく、主君の幼少期から最も身近に仕え、その人格形成に深く関与する立場である。このような大役を任されたことは、清水氏が北条宗家から絶大な信頼を寄せられていたことの証左に他ならない。
そして、この信頼関係を決定的なものにしたのが、氏康の乳母(うば)の存在である。康英の母または祖母が、氏康の乳母であったと伝えられている 2 。乳母とその一族は、乳兄弟という特別な関係を通じて主君と生涯にわたる強い絆で結ばれる。傅役と乳母という二重の個人的な繋がりは、清水氏を単なる有力家臣という立場から、北条宗家にとって家族に近い「身内」とも言うべき存在へと昇華させた。この伊豆の土豪としての地盤と、北条宗家との比類なき個人的な絆こそが、清水康英が後北条家臣団の中で重きをなすに至った背景にある。
清水康英は、天文元年(1532年)に生まれた 1 。彼は、主君である北条氏康から「康」の一字を賜り、初めは康実(やすざね)、後に康英と名乗った 1 。主君の名の一字を与えられる「偏諱」は、家臣にとって最高の栄誉の一つであり、康英が氏康の側近として特別な期待をかけられていたことを示している。通称は太郎左衛門尉(たろうざえもんのじょう)、後には上野介(こうずけのすけ)を名乗り、晩年に出家してからは上野入道(こうずけにゅうどう)と称した 2 。
康英の生涯において、家族、特に息子たちの存在は大きな意味を持っていた。彼には少なくとも二人の息子がいたことが確認されている。嫡男は新七郎(しんしちろう)である 2 。しかし、この待望の跡継ぎは、永禄12年(1569年)12月、武田信玄の駿河侵攻に際し、駿河国の蒲原城(かんばらじょう)を防衛する戦いで討死するという悲劇に見舞われる 2 。この戦いは、甲相駿三国同盟が破綻した後、激化した北条氏と武田氏の抗争の最前線であり、新七郎は北条一門の北条氏信らと共に城を枕に討死したのである 7 。
嫡男の戦死は、清水家にとって大きな打撃であった。これにより、次男であった政勝(まさかつ)が嫡子の地位を継承することになった 6 。康英は、天正14年(1586年)までに家督を政勝に譲り、自身は後見役として家を支える立場となった 2 。この家督継承の時期は、豊臣秀吉との対決が目前に迫っていた頃であり、康英が50代半ばに差し掛かる中で、家の将来を見据えて円滑な世代交代を図ったものと考えられる。嫡男の死という個人的な悲劇は、戦国武将が常に死と隣り合わせであった現実と、大名間の激しい抗争がその家臣たちの家族にまでいかに直接的な影響を及ぼしていたかを物語っている。
清水康英の価値は、単なる一武将に留まらない。彼は後北条氏の巨大な統治機構において、軍事、政治、行政の各分野で中核的な役割を担う、まさに「万能の重臣」であった。伊豆という要衝を完全に掌握し、その地の人と資源を動員して北条氏の権力基盤を支えた彼の活動は、後北条氏の統治の巧みさを象徴している。
康英の地位を最も端的に示すのが、「伊豆衆筆頭」という肩書である 19 。伊豆衆とは、北条氏が伊豆を平定する過程で服属した、あるいはそれに協力した伊豆半島の国人・地侍たちで構成される軍団(衆)であり、その数は29家を数えた 17 。康英は、これらの在地領主たちを束ねるリーダーとして、絶大な権威を誇った。
その権威の源泉は、圧倒的な経済力にあった。永禄2年(1559年)に作成された後北条氏の検地帳兼軍役台帳である『小田原衆所領役帳』によれば、康英の知行高は829貫700文に達した 17 。これは伊豆衆の中で群を抜いて最高額であり、彼の軍事力と政治的影響力の強固な基盤となっていた 23 。彼の本拠地は、伊豆半島南部の加納矢崎城(現在の静岡県南伊豆町)であり、この城は地域の交通路を扼する戦略的拠点であった 1 。現存する城跡の遺構からも、堀切や土塁を備えた堅固な城であったことがうかがえる 24 。
康英の能力は、軍事面に限定されるものではなかった。彼は後北条氏の最高意思決定機関である「評定衆」の一員でもあった 2 。評定衆は、訴訟の裁決や重要政策の立案を担う、まさに大名にとっての「参謀」集団であり、康英が主君・氏康の側近として政治の中枢に関与していたことを示している 2 。
評定衆としての康英の権限は、彼が発給した文書からも明らかである。彼は、北条氏の公印である「虎朱印」が押された裁許状(虎朱印状)に、奉者として連署する権限を持っていた 2 。天文24年(1555年)には、同じく重臣の笠原綱信と共に、職人に対する免許状に署名している史料が現存する 3 。これは、彼が単なる政策の実行者ではなく、北条氏の権威そのものを代行する立場にあったことを意味する。
さらに康英は、伊豆国奥郡代や三島代官といった重要な行政職を兼務していた 2 。郡代や代官は、特定の地域の徴税、司法、行政を統括する役職である。特に三島代官として、伊豆国一宮である三嶋大社の管理や、その周辺の財政を任されていたことは、彼の行政手腕が高く評価されていたことを物語る 28 。彼は、北条氏の財産である「四日町御蔵」の銭貨の出納を管理し 28 、また管轄下の村々に対して三嶋社の神事銭の納入を命じるなど、地域支配の細部にまで関与していた 29 。
康英は、軍事組織の司令官としても重用された。後世の軍記物である『小田原旧記』によれば、彼は北条家の精鋭部隊「五色備(ごしきぞなえ)」の一つである「白備(しろぞなえ)」を率いる五家老の一人に数えられている 2 。五色備の制度が実際にどの程度体系化されていたかについては議論があるものの、康英が北条軍の中核をなす武将として認識されていたことは間違いない。
彼の軍事的役割の中で最も重要なのが、「伊豆水軍」の統率者としての立場であった 2 。伊豆水軍は、伊豆の在地領主である富永氏や江梨鈴木氏、松下氏といった海に生きる一族に加え、紀伊国から招かれた梶原氏のような専門的な海賊衆を組み込んで組織された、後北条氏の海軍の中核部隊であった 31 。相模湾や駿河湾の制海権を確保し、宿敵である安房の里見氏の水軍や、後に脅威となる武田氏の水軍と対峙する上で、伊豆水軍の存在は北条氏の死活問題であった。
康英は、伊豆衆筆頭として在地領主たちをまとめ、郡代としてその地域の資源を掌握し、そして水軍の将としてその力を海上に展開させた。さらに評定衆として小田原の中枢で大局的な戦略にも関与した。このように、一人の人物が軍事・政治・行政の権能を集中して担い、伊豆という戦略的要衝を盤石に固めていたことは、後北条氏の合理的で効率的な統治体制を象徴している。康英は、まさにその体制を体現する存在であった。
清水康英の生涯は、平和な執務室の中だけで完結するものではなかった。彼は北条氏の領土を守り、拡大するための数多の戦いにその身を投じた歴戦の武将であった。特に、甲斐の武田信玄との熾烈な駿河・伊豆を巡る攻防、そして彼の武名を不朽のものとした豊臣秀吉との下田城籠城戦は、康英の軍歴における二大転機と言える。
永禄11年(1568年)、武田信玄が今川領である駿河国へ侵攻を開始し、長年続いた甲相駿三国同盟が崩壊すると、北条氏と武田氏は全面的な戦争状態に突入した。康英はこの対武田戦線の最前線で指揮を執った。信玄の侵攻に対し、康英は北条氏規らと共に伊豆の拠点である韮山城の防衛に参加し、武田軍の攻撃を撃退している 5 。
しかし、戦況は常に北条方に有利だったわけではない。翌永禄12年(1569年)、駿河国の蒲原城で繰り広げられた攻防戦は、清水家にとって悲劇の舞台となった。この戦いで、康英の嫡男・新七郎が武田軍の猛攻の前に討死したのである 2 。この出来事は、康英個人の悲しみであると同時に、対武田戦線の過酷さを象徴するものであった。
陸上での一進一退の攻防と並行して、戦いの舞台は駿河湾の海上にも拡大した。天正8年(1580年)には、北条水軍と武田水軍との間で大規模な海戦が勃発した(駿河湾海戦) 10 。この海戦において、康英が率いる伊豆水軍を含む北条艦隊は、大砲を搭載した大型の軍船「安宅船(あたけぶね)」を投入したことが記録されている 9 。これに対し、武田方は砂浜に土塁を築いて陸上から鉄砲で応戦するなど、激しい戦闘が繰り広げられた 34 。結果は日没引き分けに終わったが、この戦いは康英が陸戦のみならず、最新兵器を駆使した近代的な海戦にも通じていたことを示している。
また、北条氏にとって長年の宿敵であった安房の里見氏との間でも、江戸湾や相模湾の制海権を巡る海戦が絶え間なく続いていた 35 。伊豆水軍を率いる康英は、これらの海上での小競り合いにおいても、間違いなく中心的な役割を果たしていたと考えられる。
康英の軍歴の集大成であり、彼の名を後世に刻むことになったのが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐における下田城籠城戦である。
天下統一を目前にした豊臣秀吉との対決が不可避となる中、後北条氏は、海からの侵攻に備えるための最重要拠点として伊豆半島南端の下田城に白羽の矢を立てた 2 。天正17年(1589年)、当主・北条氏直は清水康英を下田城主に任命し、防衛に関する一切の権限を委任した。この時、氏直が康英に与えた判物(はんもつ)には、その絶大な信頼が記されている。
「豊臣秀吉軍は船働歴然(ふねばたらきれきぜん)ゆえ下田城を設けたのであり、康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」 2
この一文は、康英が単なる城将ではなく、対豊臣戦略の海上部門における全権指揮官として期待されていたことを明確に示している。
当初の防衛計画では、北条水軍の主力部隊を率いる専門の将、梶原景宗(かじわら かげむね)が康英と合流し、約2,800の兵力で下田城を守る手はずであった 38 。しかし、ここで致命的な戦略上の対立が生じる。
海戦の専門家である梶原は、下田城が補給線から孤立しやすく、籠城には不向きな地形であると判断した。彼は、強力な豊臣水軍は下田城を無視して直接小田原沖に現れる可能性が高いと考え、下田での籠城は無意味であると主張したのである 37 。一方、康英は主君の命令通り、下田城を拠点に敵を迎え撃つという方針を堅持した。
この意見の対立は解消されず、最終的に梶原は配下の水軍主力を率いて下田を去り、小田原の海上防衛に転じてしまった。この決定は、小田原の北条家中枢部も容認せざるを得なかった 38 。その結果、康英はわずか600名余りの寡兵で、日本全土から集結した豊臣の大艦隊と対峙するという、絶望的な状況に追い込まれたのである 14 。この出来事は、北条氏の防衛戦略における指揮系統の混乱と、方針の不統一という弱点を露呈するものであった。
天正18年(1590年)4月、長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明といった、当代一流の水軍の将たちが率いる1万人以上の豊臣水軍が、1,000隻を超える大船団で下田沖に姿を現した 39 。兵力差は実に20倍以上であった。
しかし、康英は臆することなく、巧みな指揮で城兵を鼓舞し、徹底抗戦の構えを見せた。下田城は三方を海に囲まれた断崖絶壁の半島に築かれた天然の要害であり、大軍での一斉攻撃を困難にさせた 40 。豊臣方は対岸に上陸して陣地を築き、海上と陸上の両面から大砲による猛烈な砲撃を加えた 38 。城方は多大な損害を被りながらも、康英の指揮の下で約五十日間にわたって城を死守した 2 。わずか半日ないし一日で落城した山中城や八王子城といった北条氏の他の主要な城郭と比較すれば、この善戦ぶりは驚異的であり、康英の武将としての能力の高さを証明している 37 。
五十日余にわたる抵抗の末、兵糧や弾薬も尽き、援軍の望みも絶たれた。これ以上の籠城は、城兵の無益な死を招くだけであった。豊臣方の将、脇坂安治と安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)から、城兵の生命の保証を約束する起請文(きしょうもん)を伴った降伏勧告が届けられると、康英はこれを受け入れる決断を下した 37 。天正18年4月23日、康英は城を開け渡し、その長い戦いに終止符を打った 38 。
下田城での戦いは、康英の武勇と指揮能力、そして主君への忠誠心を示す彼の生涯の頂点であった。しかしそれは同時に、一地方勢力に過ぎない後北条氏が、天下統一を成し遂げた豊臣政権の圧倒的な国力と物量の前に屈してゆく、時代の大きな転換点を象徴する戦いでもあった。
小田原城の開城と後北条氏の滅亡は、清水康英の武将としてのキャリアに終止符を打った。しかし、彼の物語はそこで終わらない。その穏やかな最期と、戦国の世を生き抜いた子孫たちの姿は、康英という人物のもう一つの側面と、時代の大きな変化を映し出している。
下田城を開城した後、康英は故郷である伊豆の河津へと退去した 2 。まず身を寄せたのは林際寺(りんさいじ)であった 37 。そこで康英は、籠城戦を最後まで共に戦い抜いた家臣・高橋丹波守らを呼び、その労をねぎらうと共に、もはや主従関係を維持できない現実を伝え、離別を告げる書状を書き送っている 2 。これは、敗軍の将としての責任感と、家臣への深い配慮を示す逸話である。
その後、康英は一族の菩提寺であった千手院(せんじゅいん)に入り、静かな隠棲生活を送った 37 。寺の伝承によれば、この時、康英とその妻、そして息子(政勝)の三人を寺が養ったことから、後に寺号を「三養院(さんよういん)」と改めたという 37 。戦乱の生涯を終えた老将が、家族と共に穏やかな時を過ごした様子がうかがえる。
そして、小田原開城の翌年である天正19年(1591年)6月2日、清水康英は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年60であった 1 。彼の墓所は、現在も河津町の三養院にあり、その法名は「常楽寺殿茂林祖繁大居士(じょうらくじでんもりんそはんだいこじ)」と伝えられている 2 。
主家である後北条氏が滅亡した後、その家臣たちの多くは離散し、あるいは帰農の道を辿った。しかし、清水家はその血脈をたくましく後世へと繋いでいる。興味深いのは、康英の子孫が、大きく分けて二つの異なる道に進んだことである。
一つは、武士としての道を歩み続けた系統である。家督を継いだ次男の清水政勝は、北条氏滅亡後、一時は浪人の身となったが、その武勇を高く評価され、徳川家康の次男である結城秀康に召し抱えられた 6 。秀康が越前福井藩の初代藩主となると、政勝もそれに従い、1,800石という高い禄高を与えられて重臣として仕えた 2 。彼は元和2年(1616年)に没するまで、武士としての名誉を保ち続けた。これは、戦国の武将が新たな支配者の下でその能力を活かし、生き残るという典型的なパターンであった。
もう一つは、全く異なる道を歩んだ系統である。康英の後裔の一派は、文禄2年(1593年)、駿河国の沼津に移り住んだ 2 。彼らが選んだのは、武士として新たな主君に仕えることではなく、町人として新しい時代の社会基盤を支えることであった。彼らは、東海道の宿場町として栄えた沼津宿で「本陣」の経営者となったのである 15 。本陣とは、大名や公家、幕府役人などが宿泊する、宿場で最も格式の高い旅籠であり、その経営は地域の有力者にしか許されない名誉な役職であった。清水家は、江戸時代を通じて沼津宿の本陣を守り、名主や年寄といった町の指導者としての役割も務めた 15 。さらに明治維新後には、沼津郵便電信局を経営するなど、近代化の波にも巧みに適応していった 2 。
この二つの系統の対照的な歩みは、戦国時代の終焉がもたらした社会の大きな変容を象徴している。武士としての誇りを胸に新たな藩に仕えた政勝の道と、武士の身分を捨て、商人・町役人として地域の中心的存在となった沼津の清水家の道。どちらも、激動の時代を生き抜くための、見事な適応戦略であったと言えるだろう。
清水康英の生涯を振り返るとき、いくつかのキーワードが浮かび上がる。「忠誠」「有能」「武勇」。これらは、戦国時代の理想的な武将像を体現するものであり、康英はまさにその模範であった。
第一に、その揺るぎない忠誠心である。乳母という特別な関係から始まった北条宗家との絆は、生涯を通じて彼の行動の根幹にあった。主君・氏直から「戦上手であるから一切任す」と全幅の信頼を寄せられ、その期待に応えるべく、絶望的な状況下の下田城で最後まで戦い抜いた姿は、封建社会における主従関係の理想形の一つと言える。
第二に、その多岐にわたる有能さである。彼は単なる猛将ではなかった。伊豆衆筆頭として地域の国人衆をまとめ、評定衆として政策決定に参画し、郡代・代官として民政を担った。彼の存在なくして、北条氏による伊豆半島の安定した統治はあり得なかったであろう。軍事と行政の両面で高い能力を発揮した彼は、後北条氏が誇る優れた家臣団を代表する人物であった。
第三に、その卓越した武勇である。対武田、対里見との長年にわたる戦いで培われた経験は、彼を一流の指揮官へと成長させた。特に下田城での五十日間にわたる籠城戦は、彼の戦術眼、統率力、そして不屈の精神を何よりも雄弁に物語っている。その武名は敵方にも知れ渡っていたに違いない。
清水康英は、後北条氏の栄光と、その滅びの宿命を一身に体現した武将であった。彼の生涯は、戦国という時代の厳しさと、その中で己の信義を貫き通した一人の人間の力強い生き様を我々に伝えてくれる。そして、その子孫たちが新たな時代に適応し、それぞれの形で社会に貢献し続けた事実は、清水家の持つ強靭な生命力を示しており、康英が後世に残した無形の遺産と言えるのかもしれない。