本報告書は、日本の戦国時代末期から江戸時代初期にかけて生きた武将、清水義親(しみず よしちか)の生涯を、多角的な視点から徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。通説では、清水義親は兄・最上家親との家督争いに敗れ、非業の死を遂げた悲劇の人物として語られることが多い。しかし、彼の生涯は単なる骨肉の争いとして片付けられるものではない。それは、戦国の世が終わり、徳川による新たな秩序が形成されるという時代の大きな転換点において、出羽の大大名・最上家がその存亡をかけて下した政治的、経済的、そして軍事的な判断が複雑に絡み合った末に生まれた必然的な悲劇であった。
本報告書では、義親の生涯を「親豊臣」「親徳川」といった単純な二元論で解釈することを避け、その背景に横たわる三つの主要な要因、すなわち①最上家内部の複雑な後継者問題、②最上川舟運という巨大な経済的利権の存在、そして③徳川幕府への忠誠の証明という政治的圧力、これらの要因から彼の生涯を立体的に再構築する。
また、清水義親をめぐる歴史には、その生母の出自や、兄・家親との正確な兄弟順など、現代においてもなお学術的な議論が続いている未解明な点が存在する 1 。これらの論点についても、近年発見された史料を含む複数の文献を比較検討し、最新の研究成果を反映させることで、従来の一面的な人物像を超えた、より深みのある実像を提示することを試みる。
清水義親は、天正10年(1582年)、“出羽の驍将”と謳われた最上義光(もがみ よしあき)の三男として生を受けた 2 。この年は、織田信長が本能寺の変に倒れ、日本の歴史が大きく転換した年であり、義親の生涯もまた、時代の激動と深く結びつくことになる。
彼は生涯を通じて、光氏(みつうじ)や氏満(うじみつ)といった複数の名で呼ばれている 2 。これは、養子縁組や主従関係の変化に伴う改名であり、彼の流転の生涯を象徴している。官途名は、大蔵大輔(おおくらだゆう)を称した 1 。
義親の生母は、最上義光の側室であった天童御前(てんどうごぜん)、すなわち天童頼貞の娘であるとするのが通説である 1 。天童氏は、かつて義光が出羽統一の過程で激しく対立した国人領主連合「最上八楯(もがみはったて)」の盟主であった。この婚姻は、義光が旧敵対勢力を取り込み、領国支配を安定させるための政略であったと考えられる。
義光は正室に大崎義直の娘(大崎御前)を、後には継室として清水義氏の娘(清水御前)を迎えるなど、政略に基づいた複雑な家庭を築いていた 5 。このような環境は、異母兄弟である息子たちの間に、微妙な力関係や将来の家督を巡る派閥意識を生み出す土壌となった可能性は極めて高い。義親の悲劇は、彼の出生の瞬間に、その萌芽が既に見て取れる。すなわち、旧敵対勢力を母に持つという出自、家督継承者である兄・家親との近接した年齢、そして父・義光の政略がもたらした複雑な家庭環境という三つの要素が、彼を最上家の「本流」から外れた潜在的な対抗馬として、初めから運命づけていたのである。
義親の運命を語る上で最も重要な人物が、兄とされる最上家親(もがみ いえちか)である。家親は、義親と同じ天正10年(1582年)に生まれた異母兄弟とされている 5 。年齢による序列が明確でないこの関係は、能力や後ろ盾次第で立場が逆転しうる、潜在的な危険性を内包していた。
さらに近年、この兄弟の長幼の序を揺るがす史料が注目されている。連歌の秘伝書である『三部抄』の写本に、慶長元年(1596年)に記された奥書があり、そこには「最上之御本所義光御三男家親」と明記されている 1 。これは、従来「次男」とされてきた家親が実は「三男」であり、義親の方が年長であった可能性を示唆するものである 1 。江戸時代に成立した多くの軍記物語や系図では「次男・家親、三男・義親」と記録されているが 1 、これは徳川政権下で家督を継いだ家親の正統性を強調するために、後世に編纂された結果である可能性も否定できない。この序列の問題は、後の兄弟対立の根源を理解する上で、極めて重要な論点となる。
この不安定な兄弟関係に決定的な亀裂を入れたのが、長兄・最上義康の暗殺事件である。本来の家督継承者であった義康は、慶長8年(1603年)に父・義光との確執の末に非業の死を遂げた 1 。これにより、次代の座を巡る緊張感は一気に高まり、家親と義親は互いを自らの地位を脅かす存在として、強く意識せざるを得なくなったのである。
清水義親の人生における大きな転機は、出羽の名門・清水氏への養子入りであった。清水氏は、最上氏の祖である斯波兼頼の血を引く成沢満久が、文明年間(1469年~1487年)に清水城(現在の山形県最上郡大蔵村)を築いて興した、最上氏一門の中でも由緒ある家柄である 11 。
六代当主であった清水義氏(しみず よしうじ)は、庄内地方を支配する大宝寺氏との長年にわたる抗争の中で、本家である最上義光との連携を強化していた 13 。しかし、義氏には男子がおらず、家名の断絶が危ぶまれていた 13 。この状況を好機と捉えた義光は、自らの三男(当時は光氏と名乗っていた)を養子として送り込み、清水家の名跡を継がせた 4 。これにより、義親は清水氏七代当主となり、最上家中の有力な支城主としての地位を確立したのである。
この養子縁組は、単なる名家存続のための形式的なものではなく、最上義光による領国経済圏の支配を完成させるための、極めて戦略的な一手であった。義親が城主となった清水城は、最上川の中流域に位置し、日本海側の港町・酒田と内陸の山形盆地を結ぶ舟運の結節点という、絶対的な要衝であった 5 。
当時、最上川舟運は最上領の経済を支える大動脈であり、清水河岸はその心臓部とも言える役割を担っていた。江戸時代初期には、清水河岸は「船継権」という特権を認められ、酒田から川を上ってきた船は、ここで全ての荷物を降ろし、そこから上流への輸送は清水の支配下に置かれた 18 。これにより、清水城主は物流の利権を独占し、莫大な経済的利益を手にすることができたのである。この地は、かつて最上氏と庄内の大宝寺氏が長年その支配を巡って争奪を繰り返してきた場所でもあった 2 。義光が、血縁の薄い一門ではなく実の息子である義親にこの地を委ねたのは、最上家最大の利権を確実に掌握し、支配体制を盤石にするための深謀遠慮に他ならなかった。
しかし、この父の配慮が、皮肉にも後の悲劇の遠因となる。義親は2万石を超える大身となり 2 、独立した強固な経済基盤を持つ有力な分家領主となった。義光の死後、家督を継いだ家親にとって、この独立性の高い弟と彼が握る経済的利権は、自らの権威と財政基盤を脅かす潜在的な脅威と映った。家親が後に清水の直轄地化を画策したとする見方があるが 2 、この文脈で考えれば極めて説得力を持つ。義光が息子に与えた「力」が、結果として息子たちの対立を激化させ、最上家の悲劇を招く一因となったのである。
義親がこの地の領主として、後世にいかに深く記憶されているかを示す証左がある。現在の山形県最上郡「大蔵村」という地名は、義親の官途名であった「大蔵大輔」に由来すると伝えられている 12 。一人の武将の名が、400年以上の時を経て今なお地名として残り続けている事実は、彼の存在の大きさを物語っている。
天下の趨勢を見極めようとしていた最上義光は、息子たちを二大勢力にそれぞれ出仕させるという、巧みかつ危険な両天秤外交を展開した。三男である義親は、若い頃に豊臣家の人質、あるいは近習として大坂に送られ、豊臣秀頼に仕えた経験を持っていた 2 。この経験を通じて、義親は豊臣方との間に個人的な強い繋がりを築き、最上家における親豊臣派の象徴的存在となった。
その一方で、兄の家親は全く対照的な道を歩んだ。彼は文禄3年(1594年)から徳川家康の近侍として仕え、元服に際しては家康から「家」の一字を拝領して「家親」と名乗ることを許されるほど、深く徳川家に食い込んでいた 8 。江戸幕府成立後も、家親は徳川秀忠の側近として幕府の重要な儀式典礼に関わるなど、名実ともに親徳川派の筆頭と見なされる存在であった。
この兄弟の対照的な経歴は、最上家内に「親豊臣派(義親派)」と「親徳川派(家親派)」という、深刻な路線対立と派閥抗争の火種を宿すことになった 25 。
この家中の対立構造に決定的な影響を与えたのが、前述の長兄・義康の暗殺事件である。義康もまた、父・義光の命で豊臣秀頼に近侍した経験を持ち、親豊臣的な立場であったと考えられている 26 。彼が暗殺された後も、義親の領地である清水では、義康が発行した印判を用いた文書が引き続き使用されていたという事実が確認されている 2 。これは、義親が非業の死を遂げた兄を支持し、親徳川派の家親が家督を継ぐことに強い反感を抱いていたことを示す、極めて重要な証拠である。義康の死によって、親豊臣派の家臣たちはその拠り所を失い、同じく豊臣と繋がりの深い義親を新たな旗頭として担ぎ出す動きが加速していった。
義親は、政治の駒として翻弄されるだけの人物ではなかった。彼は武将としても優れた資質を示している。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに連動して出羽国で勃発した慶長出羽合戦において、彼は上杉景勝軍の猛攻に晒された長谷堂城の救援に駆けつけ、奮戦した 4 。さらに、関ヶ原での東軍勝利の報を受けて撤退を開始した上杉軍に対し、追撃軍の総大将を務めるという大役も果たしている 2 。
合戦終結後、最上軍が庄内地方の攻略に着手した際にも、義親は叔父の楯岡光直と共に総大将に任じられており 4 、最上家中で軍事的にも重きをなす、実力と実績を兼ね備えた武将であったことがわかる。
最上家内の対立は、単なる感情的な兄弟喧嘩ではなく、関ヶ原以降の「徳川の世」へといかに適応するかという、大名家としての生存戦略を巡る路線対立そのものであった。義光は、かつて豊臣秀次事件で愛娘・駒姫を惨殺され、豊臣家と距離を置き、徳川家康への傾倒を強めた経緯がある 27 。しかし、天下の趨勢が完全に定まるまでは豊臣家との関係を断ち切ることもできず、いわば保険として義親を秀頼に仕えさせていた 1 。義光の死後、家督を継いだ家親にとって、豊臣家と個人的な繋がりを持つ弟・義親の存在は、徳川幕府から「二心あり」と疑われかねない、極めて危険な政治的リスクであった。義親の悲劇は、徳川による天下統一が最終段階に入る中で、もはや許されなくなった「両属」的な外交路線の清算過程であったと言える。家親は、最上家を徳川の忠実な家臣として再定義するため、弟を犠牲にするという非情な決断を下さざるを得なかったのである。
慶長19年(1614年)1月18日、父・最上義光が山形城でその生涯を閉じた 21 。家中をまとめ上げてきた偉大な当主の死は、これまで水面下で抑えられていた兄弟間の対立を一気に表面化させる引き金となった。家親が家督を相続したものの 21 、家中の不穏な空気はもはや隠しようもなかった。
その亀裂を象徴する事件が、同年6月に発生する。家臣の一栗兵部が、「家親の家督相続は最上家を危うくする。清水義親を擁立すべきである」と公然と唱え、鶴岡城下で反乱を起こしたのである 21 。この乱は即座に鎮圧されたが、義親が反家親派の旗頭として明確に認識されている事実を、家中に、そして家親自身に突きつける結果となった。
同年秋、豊臣家と徳川家の対立は決定的となり、大坂の陣の開戦が目前に迫っていた。この緊迫した状況下で、家親は徳川家康から江戸城留守居役という、幕府からの信頼の証ともいえる重要な役目を命じられる 23 。
家親はこの機を逃さなかった。自らが江戸へ赴き領国を留守にする間に、義親が豊臣方に呼応して反乱を起こす危険性を未然に防ぐという名目で、弟に「大坂方への内通」という致命的な嫌疑をかけ、その討伐を断行する 11 。これは、家中の反対勢力を一掃すると同時に、徳川家への揺るぎない忠誠を内外に示すための、冷徹な政治的決断であった。
討伐軍の指揮官には、最上家の重臣である延沢康満(のべさわ やすみつ、光昌とも)と日野将監(ひの しょうげん、光綱とも)が任じられた 24 。
慶長19年10月13日(西暦1614年11月14日)、延沢・日野が率いる最上本家の軍勢は、義親の居城である清水城に攻撃を開始した 2 。
当時の様子を伝える軍記物語『奥羽永慶軍記』や『羽源記』には、義親方の奮戦が記されているが 1 、大軍を前に衆寡敵せず、義親は次第に追い詰められていった。
全ての望みを絶たれた義親は、城内で嫡子・義継(よしつぐ)と共に自害して果てた 2 。義継はまだ13歳の若さであったという 11 。義親、享年33 1 。この日、最上氏一門の名家であった出羽清水氏は、七代138年の歴史に幕を閉じ、完全に断絶した 3 。
以下の表は、義光の死から義親の自害、そして大坂冬の陣開戦までの一連の出来事を時系列で整理したものである。これらの出来事が、いかに緊迫した状況下で、かつ短期間に連続して発生したかを見ることで、義親の粛清が、家親による周到に計画された政治的行動であったことがより明確に理解できる。
表1:慶長十九年(1614年)における最上家関連の主要出来事年表
年月日(慶長19年) |
出来事 |
関連史料 |
考察 |
1月18日 |
最上義光、山形城にて死去。 |
21 |
最上家内の権力バランスを支えていた重鎮の喪失。兄弟対立のタガが外れる。 |
2月6日 |
最上家親、家督を相続し、義光の葬儀を執り行う。 |
33 |
新体制が発足するが、家中の支持基盤はまだ盤石ではない。 |
6月1日 |
一栗兵部の乱。鶴岡城下で重臣が殺害される。 |
21 |
反家親・親義親派の存在が公然化。家親に弟排除の口実と危機感を与える。 |
9月 |
家親、家督承認の御礼のため江戸へ出立。 |
33 |
領国を離れる直前に、義親討伐を重臣に命じたとされる。 |
10月13日 |
清水義親、居城・清水城で自害。 |
2 |
大坂の陣開戦直前という絶妙なタイミングでの粛清。徳川への忠誠の証。 |
10月~ |
大坂冬の陣、開戦。 |
23 |
家親は江戸城留守居役を務め、徳川からの厚い信頼を勝ち取る。 |
清水義親の死は、最上家親の権力基盤を強化する上で決定的な意味を持った。義親が治めていた2万石を超える広大な遺領は最上本家の蔵入地(直轄地)となり、清水城は廃城とされた 12 。これにより、家親は最上川舟運から得られる莫大な利権を完全にその手に収めたのである。
義親討伐の将であった日野将監は、この功績により新庄の地を与えられ、旧清水領の管理を任された 30 。彼は新庄沼田城主となり、城下町の整備を行うなど、この地方の新たな統治者として振る舞った 35 。もう一人の討伐将、延沢康満も家親の厚い信頼を得て重用されたが、彼の栄華も長くは続かなかった。最上家が改易された後、彼は肥後熊本藩主・加藤家に預けられるという運命を辿っている 38 。
義親が最期を遂げた清水城跡は、現在も山形県大蔵村に土塁や空堀などの遺構を良好な状態で残しており、山形県の史跡に指定されている 12 。清水氏の菩提寺であった清水山興源院の背後の山腹には、義親らを顕彰する碑が建てられており 14 、その悲劇を今に伝えている。
公式な墓所の特定は困難であるが、清水城跡一帯が清水氏代々の墓所とされており 22 、地域の人々によって供養が続けられてきたことが窺える。また、天童市にある愛宕神社には、生前の義親(光氏)が家臣と共に武運長久を祈願して寄進した石燈籠の竿が現存しており 40 、彼の在りし日の姿を偲ぶ貴重な遺物となっている。
義親の粛清は、短期的には家親の権力を固め、徳川幕府への忠誠を証明することに成功した。しかし、その強引な手法は、最上家中に修復不可能なほどの深刻な亀裂と不信感を残した。一族の血を流してまで徳川への恭順を示したにもかかわらず、その行為が結果的に家中の結束を内側から破壊し、わずか8年後の改易を招いたという事実は、歴史の大きな皮肉である。
元和3年(1617年)、頼みの綱であった家親が36歳の若さで急死すると 23 、抑えられていた家臣団の不満が一気に噴出する。後を継いだ息子の義俊はまだ若年であり、家中を統制する力はなかった。これを好機と見た家臣たちは、義親粛清や義康暗殺に不満を抱く勢力と、家親派との間で激しい派閥抗争を繰り広げた。義光の四男・山野辺義忠を新たな当主として擁立しようとする動きまで起こり、家中は完全に分裂状態に陥った 17 。
この一連の御家騒動(最上騒動)を、徳川幕府は「統治能力なし」と断罪。元和8年(1622年)、57万石の栄華を誇った出羽の大大名・最上家は、改易(所領没収)という最も厳しい処分を受けることになった 24 。清水義親の死は、最上家の崩壊の始まりを告げる号砲だったのである。彼の死によって得られたはずの安定は、あまりにも脆い砂上の楼閣に過ぎなかった。
清水義親の33年の生涯は、個人の資質や選択の問題を遥かに超え、戦国から徳川の世へと移行する時代の巨大な力学の中で翻弄された、まぎれもない悲劇であった。彼は、父・最上義光が描いた壮大な領国経営構想の実現に不可欠な駒でありながら、同時に、兄・家親が選択した徳川体制への適応という現実的な政治判断の前に、切り捨てられるべき存在でもあった。
彼の存在そのものが、最上家が抱える「豊臣との過去」と「徳川との未来」という、時代の矛盾を象徴していた。義親の粛清は、最上家がその矛盾を解消し、近世大名として生き残るために支払わなければならなかった、血塗られた代償であったと言える。
しかし、その代償はあまりに大きく、結果として最上家そのものの命脈を断ち切るという、最悪の結末を招いた。清水義親の物語は、権力闘争の非情さ、そして時代の転換期における地方大名の苦悩と末路を、400年後の我々に雄弁に物語る歴史の一幕として、深く重い教訓を投げかけている。