源義家は「八幡太郎」と称された武家の棟梁。前九年・後三年の役で活躍し、私財を投じて東国武士との絆を築き、鎌倉幕府の礎を築いた。その武勇と知略、そして冷徹な一面は後世に語り継がれる。
源義家。その名は、後世の武士たちにとって「武家の鑑」として、比類なき武勇と深い仁愛の象徴として語り継がれてきた。通称「八幡太郎」。その響きには、神に選ばれし武人という神話的な光彩がまとわりつき、数多の伝説が生まれる土壌となった。しかし、その英雄像の背後には、摂関政治が黄昏を迎え、院政という新たな権力構造が胎動する激動の時代を、時には冷徹な現実主義者として、また時には時代の奔流に翻弄される一人の人間として生きた、複雑な実像が隠されている。
彼の歴史的特異性は、その血脈が後世の武家政権に与えた絶大な影響に集約される。鎌倉幕府を創始した源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏は、いずれも義家の直系の子孫である。さらに、江戸幕府を開いた徳川家康でさえ、自らの家系を義家の子・義国を祖とする新田氏の一族に繋げることで、その権威に連なろうとした 1 。これは、義家が単なる一時代の武将ではなく、彼に続くすべての武家政権にとって、その正統性の源泉となるべき「始祖」として、極めて象徴的な意味を担っていたことを示している。
本報告書は、軍記物語や説話集によって丹念に構築された「八幡太郎」の神話と、同時代の貴族の日記や公的記録から断片的に浮かび上がる生身の義家像を、史料に基づき丹念に比較検討する。これにより、彼がなぜ、そして如何にして「武家の棟梁」という、それまでの日本史には存在しなかった新たな権威となり得たのか、その本質に迫ることを目的とする。彼の栄光の軌跡だけでなく、その生涯に影を落とした挫折と苦悩、そしてその冷徹な決断の裏にある動機を解き明かし、歴史の転換点に立った一人の武将の多面的な実像を提示するものである。
源義家の存在を理解するためには、まず彼が属した「河内源氏」という家の特質を把握せねばならない。清和天皇を祖とする清和源氏の中でも、源頼信、頼義、そして義家へと続くこの家系は、京に本拠を置く「軍事貴族」として、朝廷の武力を担う中核的な存在であった 3 。特に、祖父・頼信が平忠常の乱(1028年~1031年)を平定して以降、河内源氏は武門の棟梁としての名声を不動のものとし、中央の政治動向と密接に関わりながらその地位を築き上げていった。
義家の父は、後に前九年の役を戦い抜くことになる陸奥守・鎮守府将軍の源頼義。母は、当時、坂東(関東)の武士団に大きな影響力を持っていた上野介・平直方の娘である 3 。この血脈は、義家が中央の軍事貴族としての正統性と、地方、特に東国武士との間に潜在的な繋がりを併せ持つ、稀有な出自であったことを物語っている。それは、彼の将来の活動領域が、京の朝廷と東国の双方にまたがることを運命づけていたとも言えよう。
義家は、長暦三年(1039年)、京都の六条堀川にあった父・頼義の邸宅で誕生したと伝えられている 5 。幼名は不動丸、あるいは源太丸とされた 7 。彼の誕生地とされる場所には、後に若宮八幡宮が勧請され、鎌倉・室町幕府からも手厚い保護を受けた 5 。
義家の生涯を象徴する出来事は、早くも7歳の時に訪れる。山城国(現在の京都府)に鎮座する石清水八幡宮において元服(成人式)を執り行い、これにちなんで「八幡太郎」と称されるようになったのである 5 。この通称は、単に元服の場所を示唆する以上に、遥かに深く戦略的な意味合いを帯びていた。
この命名は、単なる偶然や慣習の産物と見るべきではない。むしろ、源氏が自らの武力を神聖な権威と結びつけ、他の武士に対する絶対的な優位性を確立しようとする、高度な「ブランド戦略」であったと分析できる。八幡神は、元来、皇室の守護神としての性格も有していたが、源頼義・義家の時代、源氏はこの神を篤く信仰し、一族の「氏神」として密接な関係を築き上げていた 10 。その氏神の名を長男(太郎)に冠することで、「八幡神の申し子」「八幡神の地上における代理人」というイメージを内外に強く印象づけたのである。この行為は、源氏の行う武力行使が、単なる私的な戦闘ではなく、神意に基づいた公的なものであるという正当性を付与する効果を持っていた。後世、武士たちが神仏の権威を借りて自らの地位を高める手法は数多く見られるが、「八幡太郎」という名は、その先駆けとも言える、極めて自覚的な政治的・宗教的行為だったのである。
義家の武人としてのキャリアは、奥州(東北地方)を舞台とした「前九年の役」において幕を開ける。この戦乱は、陸奥国奥六郡(現在の岩手県内陸部)を拠点とし、「俘囚の長」として絶大な勢力を誇った安倍氏が、朝廷への貢租を怠るなど、中央の支配に公然と抵抗し始めたことに端を発する 13 。これに対し朝廷は、河内源氏の棟梁であり、武門の名声高い源頼義を陸奥守に任じ、事態の収拾を図らせた。
当初、頼義は安倍頼時を恭順させることに成功するが、天喜四年(1056年)、頼義の任期満了間際に「阿久利川事件」が発生する。これは、頼義の陣営の者が安倍氏の勢力圏内で襲撃された事件であり、これを口実に頼義は安倍氏討伐の兵を挙げ、戦乱は全面的な戦闘へと突入した 13 。この構図は、中央集権国家の論理を地方の自立的勢力に及ぼそうとする朝廷と、それに抵抗する在地勢力との衝突という、平安後期社会の構造的対立を象徴する出来事であった。
天喜五年(1057年)11月、当時18歳であった義家は、父・頼義に従い初陣を飾る。しかし、彼らを待ち受けていたのは、過酷な現実であった。国府軍は厳冬期の雪中行軍を強いられ、兵站の維持に苦しむ中、安倍貞任(頼時の子)率いる安倍軍の迎撃を受ける。後に「黄海の戦い(きのみのたたかい)」と呼ばれるこの戦闘で、国府軍は数百名の死者を出す壊滅的な大敗を喫し、総大将である頼義自身も討死寸前まで追い込まれた 13 。
この絶体絶命の窮地において、源義家の武勇が初めて歴史の記録にその輝きを放つ。軍記物語『陸奥話記』は、この時の彼の活躍を「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。白刀を冒し、重圍を突き、…矢空しく発たず。中たる所必ず斃れぬ」と、神がかり的なものとして描写している 15 。わずか数騎で父を救い出し、敵の包囲網を突破したこの活躍は、彼の武名を天下に知らしめる劇的なデビューとなった。
しかし、この黄海の惨敗は、義家にとって単なる武勇伝の背景ではない。それは、中央から派遣された国府軍の論理だけでは、辺境の厳しい自然環境と、地の利を得た在地勢力の抵抗の前には無力であるという現実を、骨身に染みて学んだ原体験であった。この敗北こそが、後の彼の思考と行動を方向づける重要な教訓となったのである。
黄海の戦いで手痛い打撃を受けた頼義は、戦局を打開するため、隣国・出羽の豪族である清原氏に援軍を要請する。この交渉は困難を極め、頼義は清原光頼(武則)に対し、臣下の礼をとるに等しい屈辱的な態度で参戦を懇願したと伝えられている 13 。この清原氏一万の軍勢の参戦が、戦いの趨勢を決定づけた。形勢は逆転し、国府・清原連合軍は安倍氏を追い詰め、康平五年(1062年)、厨川柵(くりやがわのさく)の戦いでついに安倍氏を滅ぼし、12年にわたる戦乱は終結した。
戦後、義家はこの戦役での功績により、従五位下出羽守に任じられ、官途の第一歩を踏み出した 9 。しかし、父・頼義が最も重要視したであろう、共に戦った郎党たちへの朝廷からの恩賞は、ほとんど認められなかった。これに強く不満を抱いた頼義は、新たな任国である伊予国へ赴任することを2年間にわたって拒否し、京で恩賞の実現を訴え続けたという 14 。父が自らのキャリアを賭してまで配下の武士たちのために奔走する姿は、若き義家の目に深く焼き付いたに違いない。「棟梁たる者は、命を懸けて従う者たちの生活と名誉に最後まで責任を負うべきである」という、後の武士社会の根本倫理を、彼はこの父の背中から学んだのである。この経験は、朝廷の恩賞システムの限界と、それに代わる棟梁自身の「私的な恩顧」の重要性を、彼に強く認識させた。それは、約20年後の後三年の役における、彼の歴史的な決断の伏線となるのである。
前九年の役から約20年の歳月が流れた永保三年(1083年)、義家は父も務めた陸奥守兼鎮守府将軍として、再び奥州の地を踏む 17 。この時、奥州の覇者となっていたのは、かつて父・頼義を助けた清原氏であった。しかし、その清原氏の内部では、惣領の真衡、その異父弟である清衡(実父は安倍氏を裏切った藤原経清)、そして同じく異父弟の家衡らの間で、相続を巡る深刻な内紛が勃発していた 19 。
義家はこの内紛に対し、陸奥守として地域の治安を維持するという公的な名目のもと、積極的に介入を開始する。当初は惣領である真衡に加担したが、真衡が陣中で急死すると、今度は清衡に味方し、家衡・武衡(家衡の叔父)と対立した 19 。彼のこの介入は、単なる治安維持活動に留まらず、奥州における源氏の覇権を確立し、父が果たせなかった野望を実現しようとする、強い私的な動機が絡み合っていたと見るのが妥当であろう。
後三年の役は、義家の武将としての多面性を浮き彫りにした戦いであった。その知略を示す最も有名な逸話が「雁行の乱れ」である。金沢柵(現在の秋田県横手市)へ進軍中、沼の上を飛ぶ雁の群れが突然、列を乱したのを見た義家は、敵の伏兵がいることを瞬時に察知。部下に周辺を捜索させたところ、案の定、伏兵を発見し、これを殲滅して難を逃れたという 2 。この逸話は、彼が単なる猛将ではなく、当代随一の学者であった大江匡房から孫子の兵法を学んだとされる 17 、知略に長けた指揮官であったことを示す伝承として、後世に広く語り継がれた。
その一方で、彼の指揮官としての顔は、極めて残忍非道な側面も併せ持っていた。金沢柵の攻略戦が長期化し、兵糧攻めを行う中、義家は降伏してきた敵兵の妻子を、味方の前で見せしめとして殺害した。これは、敵方に「降伏しても助からない」と思わせることで、さらなる投降を防ぎ、籠城する敵の兵糧を早期に枯渇させることを狙った、冷徹極まりない心理戦術であった 19 。この苛烈さは、目的のためには手段を選ばない、彼のリアリストとしての一面を物語っている。
数年にわたる苦戦の末、寛治元年(1087年)に金沢柵を陥落させ、家衡・武衡を滅ぼした義家は、ついに奥州を平定する。しかし、京の朝廷から彼にもたらされたのは、栄誉ではなく冷酷な仕打ちであった。時の実力者である白河上皇が主導する朝廷は、この戦いを「清原氏一族の私的な争いに、国守である義家が職分を越えて勝手に介入したもの(私戦)」と断定。朝廷の命令(官符)に基づかない戦であるとして、勝利に対する一切の恩賞を認めなかったのである 19 。
この決定の背景には、義家の武名と勢力がこれ以上強大化し、朝廷の統制を超えた独自の権門となることを強く警戒した、白河院政の明確な政治的意図があった 28 。武士の台頭を巧みに利用しつつも、その力が自らを脅かすことのないよう、常に抑制しようとする院の強い意志の表れであった。この朝廷の判断は、義家を政治的に窮地に追い込むものであった。
朝廷からの恩賞が絶望的となり、命を懸けて付き従ってきた東国武士たちが何の報いも得られずに故郷へ帰らねばならないという事態に直面した時、源義家は前代未聞の行動に出る。彼は、戦利品や自らの所領など、私財のすべてを投げ打って、参集した将兵一人ひとりに恩賞として分け与えたのである 17 。
この行為が東国武士たちに与えた衝撃と感銘は、計り知れないものがあった。「国家(朝廷)」が見捨てた自分たちの功績に、「棟梁(義家個人)」が私財をなげうって報いてくれた。この事実は、彼らの忠誠の対象を、遠い京の朝廷から、目の前にいる義家という個人へと決定的に向けさせる契機となった。公的な権威が失墜したその場所で、私的な恩顧関係という、より強固で人間的な絆が生まれた瞬間であった。
白河院の策略は、短期的には義家を無官の不遇な立場に追い込んだ。しかし、長期的には、朝廷の権威を相対化させ、それに代わる「武家の棟梁」という新たな権威の源泉を、皮肉にも義家に与える結果となった。この「私戦」後の私財による報奨こそ、源氏が東国に揺るぎない地盤を築き、義家が名実ともに「武家の棟梁」としての地位を確立した、日本史における画期的な出来事だったのである 19 。彼は政治的敗北を、武士社会における圧倒的な個人的勝利へと転換させたのであった。
源義家の人物像は、単一の言葉で評することが極めて難しい。彼の生涯を彩る数々の逸話や伝承は、時に矛盾し合うかのような、多面的な性格を映し出している。それは、彼が単純な英雄でも悪漢でもなく、時代の要請に応え、また時代を自ら作り出そうとした、複雑で深みのある人間であったことの証左である。
表1:源義家にまつわる主な逸話とその出典
逸話 |
出典 |
概要 |
示唆される人物像 |
関連資料 |
衣のたて |
『古今著聞集』 |
前九年の役で、敗走する敵将・安倍貞任に「衣のたてはほころびにけり」と和歌の下の句を詠みかけ、見事な返歌に感じて追撃をやめた。 |
教養、風流、武士の情け |
2 |
雁行の乱れ |
『奥州後三年記』 |
後三年の役で、雁の列の乱れから伏兵の存在を察知し、部隊の危機を回避した。 |
知略、兵法家としての素養 |
2 |
鎧三領射抜き |
『陸奥話記』 |
前九年の役で、味方の前で、重ねた三領の鎧を一矢で射抜いてみせ、その弓の威力を示した。 |
圧倒的な武勇、神業的な弓術 |
2 |
千任の拷問 |
『奥州後三年記』 |
後三年の役で、捕虜にした敵の参謀・千任の舌を抜き、主君・武衡の首を踏ませるという残虐な処刑を行った。 |
残忍性、非情さ |
24 |
地獄堕ち伝説 |
『古事談』 |
生涯で多くの無辜の民を殺した罪により、死後、鬼に引かれて地獄に堕ちたとされる。 |
畏怖の対象、殺生への批判 |
16 |
梁塵秘抄の歌 |
『梁塵秘抄』 |
「鷲の棲む深山には なべての鳥は棲むものか 同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや」と、同時代の人々から恐れられていた。 |
畏怖、隔絶したカリスマ性 |
7 |
敵将への信頼 |
伝承 |
かつての敵将・安倍宗任に無防備に背を向け、落ちた矢を拾って矢筒に入れさせた。 |
豪胆さ、絶対的な自信 |
23 |
義家の人物像を語る上で欠かせないのが、その文化的側面である。前九年の役の最中、敗走する敵将・安倍貞任に「衣のたてはほころびにけり」と和歌を詠みかけた逸話は、あまりにも有名である 2 。貞任が即座に「年をへし糸の乱れの苦しさに」と上の句を返したことに感心し、義家は矢を放つのをやめたというこの物語は、彼が単なる武辺者ではなく、京の貴族文化の精髄である和歌の道にも通じた、風雅な教養人(みやびなぶんかじん)であったことを示している。実際に、彼の詠んだ和歌は勅撰和歌集である『千載和歌集』にも一首、採録されている 7 。この「武」と「文」の融合は、粗野な坂東武者たちにとって憧れの対象となり、彼のカリスマ性を一層高める要因となったに違いない。
しかし、その風雅な一面とは裏腹に、義家は同時代の人々から強烈な畏怖の対象としても見られていた。後三年の役で見せた捕虜への残忍な処遇は、彼の非情さを物語る 19 。後白河法皇が編纂した歌謡集『梁塵秘抄』には、「同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや」という一節が収められており、その存在が同族の者でさえ震え上がらせるほど、隔絶したものであったことがわかる 7 。
この恐怖は、貴族社会にも共有されていた。公卿・藤原宗忠は、自身の日記『中右記』の中で、義家の息子・義親が反乱の末に討たれた際、「(義家が)長年、武士の長者として多くの罪なき人を殺してきた悪行が、ついに子孫にまで及んだのか」と、その因果応報を冷ややかに記している 2 。さらに、鎌倉時代に成立した説話集『古事談』には、義家が多くの殺生を犯した罪によって、死後、地獄に堕ちたという伝説まで記されている 32 。
これらの逸話が示す人物像の多面性は、決して矛盾するものではない。むしろ、それは当時の「武家の棟梁」に求められた資質の複合的な表れであったと解釈できる。すなわち、①敵を圧倒する神がかり的な武勇(武)、②和歌に通じ、敵将にさえ情けをかける教養(文)、そして③敵味方を震え上がらせ、規律を維持するための非情さ(畏怖)。この三つの要素が三位一体となって初めて、荒々しい武士団を統率し、老獪な公家社会とも渡り合える、新しい時代のリーダーシップが形成されたのである。後世の武士道で語られるような、清廉で情け深いだけの英雄像は、彼の本質の一面に過ぎず、その全体像を捉えるものではない。彼の行動は、場当たり的な感情の発露ではなく、武士団の長として、また源氏の棟梁として、自らの権威と勢力を最大化するための、極めて合理的な選択の結果であった。その結果として、多様で一見すると矛盾に満ちた、魅力的な人物像が後世に伝えられることになったのである。
後三年の役を「私戦」と断じられ、私財を投じて勝利の始末をつけた義家を待っていたのは、長い不遇の時代であった。彼は陸奥守を罷免され、在任中の官物(税)未進を理由に、その後10年近くも新たな官職に就くことができなかった 16 。当時の制度では、受領(国司)は任期中の税収を完納し、後任者との引き継ぎを終えなければ、次の官職を得ることができなかったのである。
義家が中央政界から遠ざけられている間、朝廷では弟の源義綱が重用された。義綱は公的な場で関白の前駆を務め、陸奥守や美濃守といった要職を歴任し、官位では兄の義家に並ぶまでになった 16 。これは、朝廷、特に白河院が、強大になりすぎた義家を牽制するため、兄弟を巧みに競わせ、河内源氏の勢力を内部から分断・抑制しようとした高度な政治的策略であった可能性が高い。
義家の名声は、中央での不遇とは裏腹に、地方、特に東国でますます高まっていた。多くの在地領主や武士たちが、自らの所領の安堵を求め、その土地を「武家の棟梁」である義家に寄進する動きが活発化した 30 。これは、国家の土地支配の根幹である公領制を揺るがし、義家個人の私的勢力基盤を著しく拡大させるものであった。
この事態を看過できない朝廷は、寛治五年(1091年)、諸国の者が義家に田畑を寄進することを禁じるという、極めて直接的な命令を発した 16 。これは、白河院が義家の私的勢力、すなわち「武家の棟梁」としての権力基盤そのものを、公権力をもって解体しようとした、決定的な対抗措置であった。
10年にも及ぶ雌伏の時を経て、承徳二年(1098年)、義家に転機が訪れる。滞納していた官物をようやく完済した彼は、白河法皇の強い意向により、正四位下に昇進し、武士としては異例中の異例である院への昇殿(御所への出入り)を許されたのである 7 。
これは、義家の武力を危険視し抑制する一方で、その力を自らの権力基盤(院の武力)として取り込もうとする、白河法皇の老獪な政治判断であった。しかし、この前例を無視した強引な引き上げは、家格や伝統を重んじる公家社会から強い反発を招いた。藤原宗忠が『中右記』に「世の人々がこの人事に納得しない気配がある」と記したように、武士の地位向上に対する貴族たちの警戒心と複雑な感情がそこには渦巻いていた 7 。
晩年の義家は、朝廷との関係だけでなく、一門の統率という内なる課題にも苦慮した。次男の義親が西国で反乱を起こして討伐される事件 2 や、四男の義国と実の弟である義光が常陸国で私闘を繰り広げるなど、一族の内紛は絶えなかった。偉大な棟梁でありながら、自らの血族を完全に統制しきれなかったことは、彼の晩年に暗い影を落とした。
嘉承元年(1106年)、義家は68年の波乱に満ちた生涯を閉じた 7 。その死に際し、かつて彼の昇殿に複雑な心境を記した藤原宗忠は、『中右記』に「武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり」と、最大級の賛辞を追悼の言葉として贈った 7 。その評価は、彼の存在が、好むと好まざるとにかかわらず、当代随一のものであったことを証明している。
義家の生涯は、院政という新たな政治システムとの、絶え間ない「共存と対立」の連続であった。彼は院の「道具」として利用される側面(天皇の警護、昇殿)と、院の「脅威」として抑制される側面(恩賞なし、荘園寄進禁止)の両方を経験した。彼のキャリアは、武士がもはや単なる貴族の私兵ではなく、国家の軍事力を担う独立した階級として無視できない存在になった一方で、まだ政治の主導権を握るには至っていない、まさにその過渡期の矛盾と葛藤そのものを体現していたのである。
源義家が後世に残した最大の遺産は、彼が東国の武士団との間に築き上げた、国家の権威を介さない「私的な主従関係」という無形の財産であった。この遺産は、息子の義忠、孫の義朝を経て、玄孫である源頼朝へと受け継がれた 2 。治承四年(1180年)、頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げた際、多くの東国武士たちがその麾下に馳せ参じたのは、単に平氏政権への不満だけが理由ではない。そこには、祖父や曽祖父の代から続く、源氏の棟梁、とりわけ「八幡太郎義家」以来の恩顧と絆に対する、強い期待があったからに他ならない。
鎌倉幕府の創始者となった頼朝は、この偉大な祖先のイメージを極めて巧みに政治利用した。彼は、義家の武勇伝や仁愛の物語を喧伝することで、自らが「武家の正統な棟梁」であることを内外にアピールし、新政権の正当性を補強しようとしたのである 25 。源義家の伝説化は、ある意味で、鎌倉幕府のイデオロギー的基盤を固めるための、高度なプロパガンダとして始まった側面が強い。
義家の威光は、鎌倉時代に留まらなかった。義家の子・義国から分かれた足利氏にも、「義家は七代目の子孫として生まれ変わり、天下を取るであろう」という遺言伝説が伝えられていた 33 。室町幕府を開いた足利尊氏もまた、この伝説を背景に、自らの挙兵を源氏の正統な後継者としての天命であると正当化しようとした。
さらに時代は下り、戦国の世を終焉させた徳川家康もまた、清和源氏、特に義家の子孫である新田氏の末裔を称した 1 。これは、武家政権の頂点に立つ者にとって、源義家が自らの権威の源泉として拠り所とすべき、理想の始祖であり続けたことを示している。
義家の伝説は、為政者による政治的な利用だけでなく、民衆の間にも広く、そして深く浸透していった。彼が奥州への往還の道中で立ち寄ったとされる日本各地には、その超人的な武勇を物語る伝説が、今なお数多く残されている。常陸国(現在の茨城県)の堅破山では、巨大な岩を太刀で一刀両断にしたという「太刀割石」の伝説が語り継がれ 34 、また別の場所では、弓矢で大石を射抜いて真っ二つにしたという「矢筈石」が祀られている 34 。これらの伝説は、義家が武士だけでなく、一般民衆にとっても、畏敬と憧れの対象となる英雄であったことを雄弁に物語っている。
義家の死後、その歴史的な実像は、後世の政治的要請と民衆の英雄待望論という二つの力によって、次第に「神話」へと昇華されていった。特に、頼朝による政権樹立の過程で、彼の生涯の複雑さや、朝廷に翻弄された挫折、一族の統制に苦しんだ苦悩といった「人間的な弱さ」は意図的に捨象され、武勇と仁愛に満ちた非の打ちどころのない英雄譚が強調されていった 25 。我々が今日知る「八幡太郎義家」の姿は、史実の人物の上に、幾世代にもわたる政治的・文化的な願望が幾重にも塗り重ねられた、重層的なイメージの複合体なのである。
源義家は、後世の人々によって創り上げられた「武士の鑑」という、清廉で一面的な英雄像に収まる人物ではない。本報告書で詳述したように、彼は和歌を嗜む風雅な教養人であると同時に、目的のためには捕虜の虐殺さえも厭わない冷徹なリアリストであった。その人物像は、光と影、慈悲と非情が同居する、極めて複雑なものであった。
彼の生涯は、藤原氏による摂関政治がその実権を失い、上皇が治天の君として君臨する院政が始まるという、まさに歴史の分水嶺に位置する。彼は、朝廷との絶え間ない対立と協調、東国武士団との新たな絆の構築、そして一門の統率という深刻な苦悩を通じて、「武家の棟梁」という、それまでの日本史には存在しなかった新しい時代のリーダー像を、その身をもって体現したのである。
義家の本質を最もよく物語るのは、後三年の役後、朝廷から恩賞を絶たれるという最大の政治的敗北を、私財を投じて将兵に報いるという行為によって、東国武士の絶大な忠誠心を勝ち取るという最大の政治的勝利へと転換させた、その類稀なる手腕であろう。彼は、旧来の価値観(公的な恩賞)がもはや機能しないと見るや、それに代わる新たな価値観(私的な恩顧)を自ら創造した革命家でもあった。この行動が、後の鎌倉幕府成立の遠い、しかし確かな礎となったことは疑いようがない。
最終的に、我々が源義家という歴史上の人物を評価する際には、彼自身が生きた時代の制約と可能性、そして彼の死後に、頼朝をはじめとする後世の人々が彼に託した夢や願望、その両方を見据える必要がある。八幡太郎義家とは、史実と神話が交錯するその地点に、今なお屹立する、日本史上屈指の重要人物なのである。