最終更新日 2025-06-27

瀬名氏俊

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戦国武将 瀬名氏俊の生涯と歴史的役割に関する考察

はじめに

日本の戦国時代は、群雄が割拠し、家系の盛衰が目まぐるしく入れ替わる激動の時代でした。この時代において、今川氏の有力な一門衆でありながら、その生涯に不明な点が多い武将が「瀬名氏俊」です。本報告書は、瀬名氏俊の生涯を多角的に考察し、特に今川氏における彼の地位、天文7年(1538年)頃の所領没収の経緯、桶狭間の戦いでの役割、そして今川氏滅亡期における彼の消息と瀬名氏の変遷に焦点を当てます。断片的な史料から彼の人物像と歴史的役割を再構築し、戦国期の今川氏と周辺勢力との関係性における瀬名氏の立ち位置を明確にすることを目的とします。

本報告書では、『寛政重修諸家譜』や『蠧簡集残篇』といった系譜史料、および『信長公記』に代表される軍記物、地域史料(例: 『西奈村誌』)などを基に、各史料の性格と信頼性を吟味しながら分析を進めます。特に、後世に編纂された軍記物に見られる潤色や伝承と、同時代史料の記述との比較を通じて、史実の解明に努めます。

瀬名氏俊の生涯は、今川氏の興隆から衰退、そして徳川氏の台頭という激動の時代と密接に結びついています。彼の行動や瀬名氏の運命は、当時の地域情勢や大名間の複雑な外交関係を反映していると考えられます。彼の所領没収や桶狭間での役割は、単なる個人の出来事ではなく、今川氏内部の権力構造や軍事戦略の一端を示すものとして捉えることが重要です。

第一章:瀬名氏俊の出自と血縁関係

瀬名氏俊は、戦国時代に活躍した武将であり、その出自は今川氏の有力な一門に遡ります。彼の生没年や官位、そして複雑な血縁関係は、当時の今川氏の政治構造と瀬名氏の立ち位置を理解する上で不可欠な情報となります。

生没年、別名、官位

瀬名氏俊は永正17年(1520年)に生誕したとされていますが、その死没については「不詳」とされています 1 。しかし、永禄11年(1568年)には息子の氏詮が当主となっていることから、この頃までに死去したと推測されます 1 。幼名は虎王丸、仮名は源五郎と称し、別名として貞綱も伝わっています 1 。官位は従五位下、伊予守、右衛門佐あるいは左衛門佐に任じられ、後には陸奥守となりました 1 。これらの官位は、彼が今川氏の中で一定以上の地位を占めていたことを示唆しています。

瀬名氏の系譜と今川氏との関係性

瀬名氏は、清和源氏足利氏の支流である今川氏の一門であり、遠江今川氏の流れを汲む名門です 1 。今川氏は足利将軍家の親族として「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と称されるほどの高い家格を有しており、その分家である瀬名氏もまた、今川氏の隆盛を支える重要な支持者であったことが確認されています 2 。このような血縁的・政治的背景は、瀬名氏俊の生涯に大きな影響を与えたと考えられます。

父母、兄弟(特に弟・関口親永との関係)

氏俊の父は瀬名氏貞、母は堀越貞基の娘です 1 。兄弟には氏俊の他に、義広(関口親永)と氏次がいました 1 。特に弟の関口親永は、後の徳川家康の正室である築山殿の父にあたります。このため、氏俊は築山殿の叔父という関係性になります 3 。この血縁関係は、今川氏と徳川氏(松平氏)の間の複雑な政略結婚と、両家の力関係の変動を象徴するものでした。瀬名氏は今川一門として、両家間の橋渡し役、あるいはその板挟みとなる立場にあったことが推察されます。

妻と子女:今川氏親の娘との婚姻、主要な子女の紹介

氏俊は今川氏親の娘を妻に迎えています 1 。今川氏親は今川義元の父であり、氏俊が今川宗家と直接的な姻戚関係にあったことは、彼の家門の重要性を示しています。なお、実弟・関口親永の妻(築山殿の母)を今川氏の出とする話は、氏俊の妻の話との混同ではないかとする説も存在します 1

子女については、『寛政重修諸家譜』によれば3男1女が確認されています。長男の虎王丸は早世しました。次男は氏明(別名を信輝・氏詮)と称し、後に徳川家の旗本となった瀬名政勝の父となります。三男は僧侶となり、一女は三浦上総介某の妻となりました 1

徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)との血縁関係に関する考察

築山殿は氏俊の実弟である関口親永の娘であり、氏俊は築山殿の叔父にあたるという血縁関係にあります 3 。この関係性は、今川氏と徳川氏の間の複雑な政略結婚と、両家の力関係の変動を象徴しています。瀬名氏が今川氏の重臣として複数の婚姻関係を持っていたことは、その複雑な血縁関係が後世の史料編纂を困難にした可能性を示唆しています。例えば、築山殿の母の出自に関する記述の揺れは 1 、当時の系譜情報の伝播における曖昧さや、後世の編纂における誤認、あるいは特定の歴史的解釈を意図した改変の可能性を考慮する必要があるでしょう。特に、徳川家康の正室という重要人物の出自に関する記述の揺れは、その後の歴史的評価にも影響を与えかねない点です。築山殿の評価が後世の軍記物で貶められている点 5 と合わせて考えると、彼女の出自に関する記述の揺れは、徳川氏による今川氏支配の正当化や、信康事件における築山殿の役割を説明するための後付けの「物語」の一部であった可能性も考慮する必要があるでしょう。これは、歴史記述における「語り」の側面と、それが特定の人物の評価に与える影響を深く考察する契機となります。

瀬名氏が今川氏にとって単なる一門ではなく、婚姻を通じて関係を強化すべき有力な存在であったことが、氏俊が今川氏親の娘を妻としている点から伺えます 1 。これは、今川氏が有力な支流や家臣団を婚姻政策によって自らの支配体制に組み込み、安定を図る一般的な戦略の一環であったことを示唆します。しかし、後述の所領没収の事実を考慮すると、その地位は常に安泰であったわけではなく、今川氏内部の権力闘争や、当主の代替わりによる家臣団再編の動きに影響を受けやすかった可能性も示唆されます。

表1: 瀬名氏俊 主要情報一覧

項目

内容

典拠

時代

戦国時代

1

生誕

永正17年(1520年)

1

死没

不詳(永禄11年頃と推定)

1

別名

貞綱、源五郎

1

戒名

別山徳雲寺

1

官位

従五位下、伊予守、右衛門佐あるいは左衛門佐、後に陸奥守

1

氏族

瀬名氏(清和源氏足利氏流今川氏)

1

父母

父:瀬名氏貞、母:堀越貞基の娘

1

兄弟

氏俊、義広(関口親永)、氏次

1

今川氏親の娘

1

子女

虎王丸(早世)、氏明(信輝・氏詮)、何某(僧侶)、武田信友室

1

第二章:今川氏家臣としての前半生と所領没収

瀬名氏俊の生涯において、今川氏の家臣としての前半生、特に天文7年(1538年)頃に経験した所領没収は、彼のキャリアにおける重要な転換点でした。この出来事は、当時の今川氏の支配体制と周辺情勢を理解する上で欠かせない要素です。

今川氏における瀬名氏の地位と氏俊の役割

瀬名氏は今川氏の支流であり、今川氏の隆盛を支えた重要な支持者であったことが確認されています 2 。この事実は、瀬名氏が今川氏の支配体制において、単なる被支配者ではなく、一定の自立性と影響力を持っていたことを示唆しています。氏俊自身も今川氏親の娘を妻に迎えるなど、今川宗家との姻戚関係を通じて、今川氏内部で一定の地位を確立していたことが推察されます 1 。彼の官位である従五位下、伊予守、右衛門佐あるいは左衛門佐、後に陸奥守といった肩書も、その地位の高さを示すものです 1

天文7年(1538年)頃の所領没収の経緯と理由に関する諸説

氏俊の生涯における重要な転換点の一つとして、天文7年(1538年)頃に今川義元から「不穏な動き」を疑われ、所領を没収されたという事実があります 1 。この所領没収の具体的な理由については、諸説が存在します。長谷川清一氏の説では、河東一乱(今川氏と後北条氏の間の駿河東部を巡る争い)において、氏俊が北条氏綱に内応したためではないかと指摘されていますが、その詳細は不明です 1 。別の史料では、中遠一揆で遠江守護斯波氏に対抗し失却したこと、本貫地の堀越や知行地の瀬名も没収されたことを伝えています 6 。これらの記述は、氏俊の所領没収が今川氏の領国支配の強化、あるいは対外的な軍事行動と密接に関連していた可能性を示唆しています。

氏俊が今川氏親の娘を妻とする今川一門の重鎮でありながら、今川義元が家督を継いで間もない天文7年(1538年)頃に所領を没収されているという事実は 1 、今川義元が家督継承後の支配体制を固める過程で、一門衆であっても不穏な動きを見せた者には厳しい処分を下したことを示唆します。特に「河東一乱において北条氏綱に内応したとする説」 1 があることは、今川氏が後北条氏との間で駿河東部(河東)の領有を巡る激しい争い(河東一乱)を繰り広げていた時期 7 であり、瀬名氏がその外交的・軍事的緊張の渦中にあったことを示すものです。これは、氏俊が今川氏の対外政策の最前線に立たされていた可能性、あるいはその中で独自の判断を下した可能性を提示しています。

所領没収は、単なる個人の失態ではなく、今川氏の対外政策、特に後北条氏との関係性の中で、瀬名氏がその板挟みになった、あるいは両属的な立場を模索した結果であった可能性が考えられます。長谷川清一氏の論文「天文七~九年頃の瀬名貞綱について」がこの時期の瀬名氏(貞綱)に焦点を当てていることは 9 、この期間の瀬名氏の動向が今川氏の歴史において重要な研究テーマであることを裏付けています。所領没収が一時的なものであったのか、あるいはその後の復権の経緯があったのかは明確ではありませんが、桶狭間の戦いで今川軍の先発隊を務めていることから、何らかの形で今川氏に再登用されたか、あるいは関係を修復したと考えるのが自然です。この復権の経緯は、義元が瀬名氏の軍事力を再評価した結果か、あるいは瀬名氏が今川氏への忠誠を改めて示した結果である可能性があり、今後の研究課題となります。この出来事は、戦国大名が家臣団を統制し、領国を安定させるための試行錯誤の一端を示していると言えるでしょう。

「貞綱」から「氏俊」への改名時期に関する考察

氏俊は、天文年間後期に作成された『蠧簡集残篇』所収の「今川系図」には「貞綱」と記されています 1 。今川氏の通字である「氏」の字を得て「氏俊」と改名したのは、弘治年間(1555-1558年)以降と推測されています 1 。この改名は、所領没収後の今川氏への忠誠を示す、あるいは関係修復の一環として行われた可能性が考えられます。これは、氏俊が今川氏との関係を再構築し、再び重用されるに至った過程を示す重要な指標となるでしょう。

第三章:桶狭間の戦いにおける瀬名氏俊の役割

桶狭間の戦いは、永禄3年(1560年)に今川義元と織田信長の間で繰り広げられた歴史的な合戦です。この戦いにおいて、瀬名氏俊は今川軍の重要な役割を担い、その行動は彼の軍事的な専門性と今川氏における彼の地位を明確に示しています。

永禄3年(1560年)桶狭間の戦い前夜の動向

永禄3年(1560年)5月、今川義元は2万5千の大軍を率いて尾張に侵攻し、織田信長との間で歴史的な桶狭間の戦いが繰り広げられました 11 。この戦いの直前、瀬名氏俊は今川義元本隊の先発隊として、5月17日に桶狭間へ着陣しました 12 。彼の役割は、今川軍の進軍を円滑にするための重要な先行任務であったとされています。

今川本隊の先発隊としての任務と本陣設営

氏俊の主要な任務は、おけはざま山に今川本隊の本陣を設営することでした 12 。彼は桶狭間神明社で戦勝を祈願し、戦評の松の下で軍議を開いたと伝えられています 14 。このことは、彼が単なる先鋒ではなく、軍事的な判断や計画にも関与する重要な立場にあったことを示唆しています。氏俊が桶狭間の戦いで今川本隊の「先発隊」として「本陣設営」という重要な任務を担い、さらに「陣地を作る専門家」であったという記述 12 は、彼の軍事的な専門性と、今川氏における彼の役割が単なる一門衆に留まらず、実務的な軍事能力に基づいていたことを強く示唆します。所領没収という過去がありながら、このような重要な役割を任されていることは、今川義元が氏俊の軍事能力を高く評価し、その才を必要としていた証拠であると言えるでしょう。この事実は、今川氏の家臣登用が血縁だけでなく、実務能力も重視していたことを示唆しています。この専門性は、瀬名氏が今川氏の軍事組織において、特定の技術や知識(築城、陣地設営、偵察など)を持つ家系として重用されていた可能性を裏付けます。桶狭間という今川氏の命運を分けた戦いにおいて、本陣設営という極めて重要な役割を任されたことは、氏俊が義元から信頼されていたこと、あるいは彼の軍事的な知見が不可欠であったことを物語ります。これは、今川氏が単なる血縁だけでなく、実務能力に基づいた家臣登用を行っていた側面を示すとともに、氏俊が今川義元の信頼を回復し、重要な地位を取り戻した過程の証左ともなり得ます。

瀬名氏俊陣地跡の所在地と戦略的意義

氏俊の陣地は地元で「セナ藪」と呼ばれ、現在の碑のある地点から東へ約150m入った場所に位置していました 12 。この陣地は、見晴らしの良い高台にあり、近くには休憩もできる長福寺があったことから、本陣設営にうってつけの戦略的要衝であったと評価されています 13

大高城への移動と戦死を免れた背景

本陣設営後、氏俊は大高城へ向かっていたため、桶狭間の戦いでの直接の戦闘を避け、戦死を免れたとされています 12 。この行動は、今川軍の主要な進軍ルート(大高城への兵糧運び)の一部であり、氏俊が今川軍の戦略的要衝を担っていたことを示しています。彼の生存は、彼の軍事的な判断力や、今川軍の作戦における彼の役割の性質に起因すると考えられます。氏俊が本陣設営後に大高城へ向かっていたために戦死を免れたという事実は 12 、彼の行動が今川軍全体の戦略の一部であったことを示しています。今川義元が桶狭間で討ち取られた後、多くの今川家臣が戦死または捕虜となる中で、氏俊が生き残ったことは、瀬名氏が今川氏滅亡後も存続し、徳川氏に仕える道を開く上で重要な要素となります。彼の行動は、単なる偶然ではなく、今川義元の軍事行動計画における彼の役割が、本隊とは別の、より広範な戦略的任務(大高城への兵糧補給支援など)であった可能性を示唆します。氏俊の生存は、桶狭間の戦いの全体像を理解する上で、今川軍の各部隊の動きを詳細に追うことの重要性を示します。今川本隊が壊滅する中で、氏俊が別行動をとっていたことは、今川軍が単一の目標ではなく、複数の戦略的目標(例: 織田方の砦攻略と大高城への兵糧補給)を同時に進めていたことを示唆します。また、氏俊が戦死を免れたことで、瀬名氏が今川氏滅亡後も一定の勢力を保ち、徳川氏に接近する下地を作った可能性があり、その後の瀬名氏の運命に決定的な影響を与えたと言えるでしょう。これは、戦国時代の武将が、単に戦場で命を落とすだけでなく、戦略的な判断や配置によってその後の家系の存続に影響を与えうることを示す好例です。

表2: 瀬名氏俊 生涯主要年表

年代

出来事

関連情報

典拠

永正17年(1520年)

生誕

1

天文7年(1538年)頃

今川義元から所領を没収される

河東一乱における北条氏綱への内応疑惑が指摘される。この時期は「貞綱」と称されていた。

1

弘治年間(1555-1558年)以降(推定)

今川氏の通字「氏」を得て「氏俊」に改名

所領没収後の今川氏への忠誠を示す、あるいは関係修復の一環か。

1

3年(1560年)5月17日

桶狭間におけはざま山に今川本隊の先発隊として着陣、本陣設営

「セナ藪」と呼ばれる陣地跡。戦勝祈願や軍議を行う。

12

永禄3年(1560年)5月19日

桶狭間の戦い

本陣設営後、大高城へ移動していたため戦死を免れる。

12

永禄4年(1561年)3月

飯尾連竜からの書状が残されており、この時点では健在。

1

永禄11年(1568年)頃(推定)

死去

息子の氏詮が当主となっているため。

1

第四章:桶狭間の戦い以降の消息と瀬名氏の変遷

桶狭間の戦いでの今川義元の戦死は、今川氏の運命を大きく変えることとなりました。この激動期において、瀬名氏俊とその一族がどのように変遷していったのかを追跡することは、戦国時代の権力構造の流動性を理解する上で重要です。

永禄4年(1561年)時点での健在の確認

桶狭間の戦いの翌年、永禄4年(1561年)3月には、飯尾連竜から瀬名陸奥守(氏俊)充てに出された書状の写しが残されており、この時点では氏俊が健在であったことが確認できます 1 。これは、桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られた後も、氏俊が今川氏の家臣として活動を続けていたことを示す貴重な史料です。

死没時期の推定と家督継承(息子・氏詮への継承)

氏俊の正確な死没年は不詳とされていますが、永禄11年(1568年)には息子の氏詮が当主となっていることから、この頃までに死去したと推定されています 1 。この時期は、今川氏が武田氏や徳川氏の侵攻を受け、急速に衰退していく過程と重なります 2 。氏俊が今川氏の衰退期にその生涯を終えたことは、彼が生きた時代がまさに戦国の転換点であったことを物語ります。

今川氏滅亡後の瀬名氏の動向と徳川氏との関係

今川氏が事実上滅亡した後、氏俊の息子である氏詮(氏明)は、徳川家の旗本となった瀬名政勝の父とされています 1 。これは、瀬名氏が今川氏の滅亡後も家名を存続させ、徳川氏に仕える道を選んだことを示しています。氏俊の弟である関口親永の娘が徳川家康の正室・築山殿であったという血縁関係は、瀬名氏が今川氏と徳川氏の双方に深い繋がりを持っていたことを意味します 3 。この血縁は、今川氏滅亡後に瀬名氏が徳川氏に仕える上で、何らかの便宜や関係構築の基盤となった可能性が考えられます。徳川家康が今川氏から独立した後、築山殿とその子供たちは駿府に留め置かれましたが、永禄5年(1562年)に人質交換によって岡崎城へ戻されています 4 。この一連の出来事の中で、瀬名氏俊の系統がどのように徳川氏と関係を深めていったのかは、今後の研究課題となります。瀬名氏が今川氏の重臣でありながら、徳川氏とも姻戚関係を結んでいたという立場は、戦国時代の複雑な外交と家臣団の生き残りの戦略を象徴するものであり、彼らが両勢力の間でいかにバランスを取り、家名を維持しようとしたかを示す重要な事例と言えるでしょう。

第五章:瀬名氏俊の歴史的評価と史料的課題

瀬名氏俊に関する情報は、同時代史料の少なさや後世の軍記物の影響により、その全体像を把握することが困難な側面があります。彼の歴史的評価を確立するためには、史料の信頼性を慎重に吟味し、未解明な点を明確にすることが不可欠です。

瀬名氏俊に関する主要な史料の信頼性評価

瀬名氏俊に関する主要な史料としては、『寛政重修諸家譜』や『蠧簡集残篇』、そして『信長公記』などの軍記物が挙げられます 1 。『寛政重修諸家譜』は江戸時代に編纂された系譜集であり、網羅性は高いものの、後世の編纂であるため、記述の正確性には史料批判が必要です。一方、『蠧簡集残篇』所収の「今川系図」は天文年間後期に作成されたとされ、氏俊が「貞綱」と記されていることから、同時代の情報として高い信頼性を持つと考えられます 1

同時代史料の少なさと後世の軍記物による潤色の影響

桶狭間の戦いに関する史料は非常に著名でありながら、詳細に不明な点が多いことでも知られています 11 。同時代に記された史料が少ないこと、戦いの舞台が既に住宅地で覆われているため考古資料の発掘が困難であることなどが、その理由として挙げられます 19 。特に、江戸時代以降に多く書かれた軍記物などの読み物では、信憑性に疑問のある潤色が多くなされており、これが事実の探求を一層困難にしています 19

瀬名氏俊に関する記述も、これらの軍記物の影響を受けている可能性があります。例えば、彼の所領没収の理由や、桶狭間での具体的な行動の詳細については、史料によって記述の濃淡が見られます。軍記物の記述を鵜呑みにするのではなく、複数の史料を比較検討し、その背景にある意図や伝承の形成過程を考察することが、歴史研究においては不可欠です。

現代の歴史研究における瀬名氏俊の位置づけと未解明な点

現代の歴史研究では、瀬名氏俊のような個々の武将の生涯を詳細に追うことで、当時の社会情勢や大名家の実態をより深く理解しようとする動きがあります。長谷川清一氏による「天文七~九年頃の瀬名貞綱について」のような論文は 9 、断片的な史料から氏俊の活動を再構築し、今川氏の支配構造における彼の位置づけを明らかにしようとする試みです。

しかし、氏俊の死没の状況や、所領没収後の復権の具体的な経緯、そして今川氏滅亡期における彼の詳細な動向など、未だ解明されていない点も多く残されています。特に、桶狭間以降の彼の活動を示す一次史料は限られており、今後の新たな史料発見や、既存史料の再解釈が、彼の生涯の全貌を明らかにする鍵となるでしょう。

結論

瀬名氏俊の生涯は、永正17年(1520年)の生誕から、永禄11年(1568年)頃の死没(推定)に至るまで、戦国時代の今川氏、ひいては徳川氏の歴史と深く intertwined しています 1 。今川氏親の娘を妻に迎え、今川宗家と姻戚関係にあった名門・瀬名氏の一員として、彼は今川氏の支配体制において重要な位置を占めていました 1

しかし、天文7年(1538年)頃に今川義元から所領を没収されるという異例の経験は、今川氏内部の権力構造の厳しさ、そして河東一乱における北条氏綱への内応疑惑が示すように、当時の複雑な外交関係が彼の運命に与えた影響を物語っています 1 。この所領没収は、今川義元が家督継承後に支配体制を固める過程で、一門衆であっても不穏な動きを見せた者には厳しい処分を下したことを示唆し、瀬名氏が外交的・軍事的緊張の渦中にあったことを明確にしています。その後の「氏俊」への改名は、今川氏への忠誠を再確認し、関係を修復する過程の一環であったと推測され、彼の政治的な再起の意思が伺えます 1

桶狭間の戦いでは、今川本隊の先発隊として本陣設営という重要な軍事任務を担い、その軍事的専門性が今川氏に不可欠であったことが示されています 12 。本陣設営後に大高城へ移動していたことで戦死を免れた事実は 12 、今川軍の戦略的な多角性と、氏俊の行動がその全体計画の一部であったことを示唆します。彼の生存は、瀬名氏が今川氏滅亡後も家名を存続させ、徳川氏に仕える道を開く上で決定的な意味を持ちました。

瀬名氏俊に関する史料は断片的であり、特に所領没収の詳細や晩年の活動については、さらなる史料批判と研究が求められます。後世の軍記物による潤色も存在するため、史実の解明には慎重なアプローチが必要です。徳川家康の正室・築山殿の叔父という血縁は、今川氏と徳川氏の間の複雑な関係性を示す一例であり、瀬名氏が両勢力の間でいかに生き残りを図ったかを示す重要な事例と言えるでしょう。

今後の研究においては、新たな一次史料の発見や、既存史料のより深い分析を通じて、瀬名氏俊の未解明な側面を明らかにし、彼が戦国時代の激動の中で果たした役割をより詳細に位置づけることが課題となります。彼の生涯は、単なる一武将の物語に留まらず、戦国大名と一門衆、そして周辺勢力との間の複雑な関係性を理解するための貴重な手がかりを提供しています。

引用文献

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  3. 今川家 武将名鑑 https://kamurai.itspy.com/nobunaga/imagawaSS/index.htm
  4. 家康の正室・築山殿(瀬名)が辿った生涯|家康の命令で非業の死を遂げた最初の妻【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1098961
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  10. 検索結果書誌詳細:蔵書検索システム https://www.library.pref.chiba.lg.jp/licsxp-iopac/WOpacMsgNewListToTifTilDetailAction.do?tilcod=1000100717167
  11. 奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/101738/
  12. 桶狭間の戦い - 愛知県名古屋市緑区 https://battle.okehazama.net/
  13. 桶狭間合戦 ― 織田&今川の進軍ルート - 歴旅.こむ - ココログ http://shmz1975.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-87d8.html
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  15. 名古屋市緑区| - 桶狭間史跡めぐり https://okehazama.net/modules/siseki/index.php?storytopic=1&storynum=20
  16. 徳川家康と知多半島(その24:桶狭間古戦場を行く<前編>) - 夜霧の古城 http://mori-chan.cocolog-nifty.com/kojyo/2007/05/eee.html
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