牛尾幸清(うしお よしきよ)は、戦国時代に山陰地方で勢力を誇った尼子氏の重臣であり、尼子氏の主城である月山富田城を防衛する支城群「尼子十旗」の一つ、出雲国牛尾城の城主であった人物である 1 。その生涯は、尼子氏の興隆から滅亡、そして中国地方の覇権を握った毛利氏の台頭という、激動の時代と深く結びついている。彼の人生を辿ることは、単に一個人の武将の伝記に留まらず、戦国時代の主君と家臣の関係性、そして時代の大きな転換期における武士の生き様を考察する上で、重要な示唆を与えてくれる。
本報告書は、現存する文献史料や研究成果に基づき、牛尾幸清の出自、尼子氏三代(経久、晴久、義久)への仕官とそこでの役割、主要な合戦における動向、宿敵であった毛利氏への降伏、そしてその後の生涯や子孫に至るまでを多角的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。幸清の生涯は、主家の運命と不可分でありながらも、個人の選択と時代への適応によって変転していく戦国武将の一つの典型を示していると言えるだろう。
年代 |
主な出来事 |
関連史料・備考 |
生年不詳 |
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文明16年(1484年)頃 |
牛尾氏、三刀屋氏・三沢氏らと共に尼子清貞・経久父子を月山富田城より追放 |
1 |
尼子経久統治初期 |
牛尾氏、尼子経久に帰順 |
1 |
永正8年(1511年) |
大内義興の上洛に従軍(船岡山合戦) |
1 |
大永4年(1524年) |
安芸国佐東銀山城救援戦に参加 |
5 (『陰徳太平記』) |
天文9年(1540年) |
尼子晴久に従い安芸国吉田郡山城攻めに参加 |
1 |
天文年間 |
美作国方面の統治を尼子誠久と共に担当したとの記述あり |
7 (『雲陽軍実記』『陰徳太平記』) |
天文15年(1546年) |
直江郷内の土地を鰐淵寺に売却 |
8 |
永禄3年(1560年) |
嫡子・久信と共に本城常光支援のため出陣 |
9 |
永禄5年(1562年) |
毛利氏による白鹿城攻撃の際、嫡子・久信を援軍として派遣するも落城 |
1 |
永禄6年(1563年) |
焼火権現へ田地を寄進(牛尾幸清寄進状) |
10 |
永禄8年(1565年) |
第二次月山富田城合戦で籠城後、嫡子・久信の勧めもあり毛利元就に降伏 |
1 |
降伏後 |
安芸国高宮郡深川に移り、院内城主となる |
2 |
没年不詳 |
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降伏後の消息は一部史料で不明ともされる 1 |
子孫 |
子の義次(または久信か)は毛利氏に仕え九州で戦死、次男幸助は帰農 |
11 (『芸藩通志』) |
牛尾幸清の出自に関しては、複数の情報が伝えられている。一つは、彼が信濃国の諏訪神社神主家である諏訪氏の傍流にあたる中澤氏の末裔であるというものである 1 。具体的には、中澤真直という人物が出雲国大原郡牛尾荘を領有し、その地名から牛尾氏を名乗ったのが始まりとされる 13 。一方で、幸清自身は元々湯原氏の出身であり、湯原次郎左衛門尉幸清と称していたことも記録されている 1 。
これらの情報は、戦国期における武士の家名や出自意識の流動性を示唆している。幸清が複数の姓(湯原、牛尾)を持ち、さらに祖先が中澤氏に繋がるとされることは、決して珍しいことではない。特に「牛尾荘を領して牛尾氏を名乗った」という点は、武士が新たな所領を支配する際に、その土地との結びつきを氏名によって強調し、在地支配の正統性を確立しようとする一般的な慣習に合致する。また、諏訪氏という名門の系譜に連なる中澤氏を祖とすることは、牛尾家の権威を高めるための意識的な選択であった可能性も考えられる。このように、武士たちは婚姻、養子縁組、あるいは勢力拡大に伴う改姓などを通じて、自らのアイデンティティと支配の基盤を構築しようとしていたのである。
出雲国における牛尾氏の動向が具体的に現れるのは、戦国時代の初期である。文明16年(1484年)には、牛尾氏は三刀屋氏や三沢氏といった他の出雲国人領主たちと共に、当時出雲守護代であった尼子氏に対して反旗を翻し、尼子清貞とその子・経久を月山富田城から追放するという事件に関与している 1 。この時点では、牛尾氏は尼子氏と敵対する勢力の一員であった。
しかし、尼子経久はその後わずか3年で月山富田城を奪回し、出雲国における支配権を確立する。この経久の急速な台頭と勢力拡大に伴い、牛尾氏は経久の統治初期の段階で尼子氏に帰順し、その被官となったとされている 1 。『能楽資料集成』に収録された宮本圭造氏の論文によれば、文明16年頃のものと推定される京極政経の書状写には、尼子経久に敵対するよう牛尾五郎左衛門尉が要請を受ける記述があり、当初は尼子氏の直接的な家臣ではなかった可能性も示唆されている 4 。
牛尾氏が当初は尼子氏と敵対し、後に帰順するという経緯は、戦国時代における国人領主の典型的な動向と言える。国人領主たちは、自立性を保ちつつも、時々の政治情勢や力関係に応じてより有力な戦国大名に従属することで、自家の存続と勢力維持を図った。尼子氏のような戦国大名にとっても、これら国人領主をいかに自勢力に取り込み、家臣団として組織していくかが、領国拡大と安定支配を実現するための鍵であった。牛尾氏が後に尼子氏の重臣として活躍することからも、この帰順は単なる服従ではなく、尼子氏にとって価値のある戦力および人材の獲得であったことがうかがえる。
なお、日本の氏族としての牛尾氏には、出雲国の牛尾氏とは別に、下総国(現在の千葉県北部)を本拠とした牛尾氏が存在する。この下総国牛尾氏は、香取郡牛尾郷(現在の千葉県香取郡多古町牛尾)を名字の地とし、原氏の一族が牛尾城を領して称したとされる 14 。本報告書で扱う牛尾幸清は出雲国の牛尾氏であり、下総国の牛尾氏とは系譜を異にすることをここに明記しておく。
尼子氏に帰順した後、牛尾幸清は尼子経久の家臣として頭角を現し、家老の地位にまで昇ったとされる 1 。彼は、佐世清宗や川副久盛といった他の重臣たちと共に奉行衆として尼子氏が発給する文書に名を連ねており、これは幸清が尼子氏の中枢で行政や政治にも深く関与していたことを示している 1 。実際に、岡山県立博物館所蔵の『岡山県古文書集』には「牛尾幸清書状」の存在が記録されており 17 、彼自身が文書を発給する立場にもあったことがわかる。また、出雲国内では大原郡牛尾荘などを支配していた 1 。
軍事面においても、幸清は尼子経久の下で重要な役割を果たした。永正8年(1511年)、周防国の雄・大内義興が足利義稙を奉じて上洛した際には、尼子経久もこれに従い大内軍の一翼を担った。牛尾幸清もこの軍勢に加わり、京都船岡山において細川澄元・三好之長らと戦った(船岡山合戦) 1 。これは、当時尼子氏が大内氏と協調関係にあった時期の重要な軍事行動への参加であり、幸清の武将としての能力が評価されていたことを示唆する。
さらに、軍記物である『陰徳太平記』巻五「尼子勢銀山後詰付合戦之事」によれば、大永4年(1524年)7月、安芸国の武田光和が籠る佐東銀山城が大内義興・義隆父子によって攻撃された際、尼子経久は救援軍を派遣した。この時、牛尾幸清は亀井安綱、馬田駿河守、浅山主殿助、広田助兵衛らと共に5000の兵を率いる将の一人として、佐東銀山城を包囲する大内勢と戦ったと記されている 5 。
これらの記録から、牛尾幸清が尼子経久政権下において、単なる一城主ではなく、政務と軍務の両面で主君を支える多機能な重臣であったことがわかる。文書への連署は彼の政治的信頼性と権限の大きさを物語り、数々の合戦への参加は軍事指揮官としての能力と主君からの信望の厚さを示している。これは、戦国期における有力家臣の典型的な姿と言えるだろう。
尼子氏の家督が経久から孫の晴久(当初は詮久)に移って後も、牛尾幸清は引き続き重臣として仕えた。天文9年(1540年)、尼子晴久は安芸国吉田郡山城に籠る毛利元就を攻略するため、3万とも言われる大軍を率いて出陣した。牛尾幸清もこの大規模な軍事行動に参加したが、戦いは長期に及び、最終的に尼子軍は毛利元就の前に大敗を喫した 1 。『陰徳太平記』巻十「尼子晴久吉田発向之事」には、この吉田郡山城攻めに出陣した尼子方の諸将の名前が列挙されており、その中に「牛尾幸清」の名も確認できる 5 。
この吉田郡山城の戦いでの敗北は尼子氏にとって大きな打撃となり、これを契機として大内氏側へ寝返る国人領主も少なくなかった。しかし、そのような困難な状況下にあっても、牛尾幸清は他の多くの重臣たちと共に尼子方として踏みとどまり、その後に行われた大内義隆による尼子氏の本拠地・月山富田城への攻撃(第一次月山富田城の戦い)では、城方として奮戦したと伝えられている 1 。この行動は、尼子氏の危機的状況における彼の忠誠心の高さを示すものと言えよう。
軍記物である『雲陽軍実記』や『陰徳太平記』には、尼子晴久の時代、新宮党の尼子誠久が美作国方面の統治を担当する際に、牛尾幸清がその補佐役、あるいは共同統治者として関わったとする記述が見られる 7 。ただし、これらの軍記物は後世の編纂物であり、物語性を重視する傾向があるため、その記述の信憑性については慎重な検討が必要である。
一方で、幸清の具体的な活動を示す一次史料も存在する。天文15年(1546年)4月20日付の文書では、牛尾幸清が直江郷内(現在の島根県出雲市直江町周辺か)の20俵相当の土地を、30貫文で鰐淵寺に売却したことが記録されている 8 。この土地は元々、幸清が米原新五兵衛という人物から購入したものであったという。この史料は、幸清の所領経営や経済活動の一端を具体的に示すものであり、軍記物とは異なる側面から彼の人物像に迫る手がかりとなる。
吉田郡山城での大敗後も尼子氏に留まり奮戦した幸清の行動は、戦国武将の忠誠の一つの形を示す。一方で、軍記物に見られる逸話(例えば尼子誠久との共同統治など)は、その内容を他の史料と照合し、慎重に評価する必要がある。軍記物は物語性を重視する傾向があり、必ずしも史実を正確に反映しているとは限らないため、一次史料との比較検討が不可欠である。
尼子晴久の死後、家督を継いだのは嫡男の義久であった。この頃になると、中国地方における毛利氏の勢力はますます強大となり、尼子氏の領国は次第に侵食されていく。永禄5年(1562年)、毛利氏が尼子方の重要拠点である白鹿城を攻撃した際、牛尾幸清は嫡子である牛尾久信を援軍として派遣したが、奮戦空しく白鹿城は落城した 1 。これは、尼子氏の防衛線が次第に破られていく過程を象徴する出来事であった。
そして永禄8年(1565年)、毛利元就は満を持して尼子氏の本拠地である月山富田城への総攻撃を開始する(第二次月山富田城の戦い)。牛尾幸清は、主君・尼子義久に従って月山富田城に籠城し、毛利軍の猛攻に耐えた。しかし、毛利軍は力攻めだけでなく、巧みな兵糧攻めを展開し、城内の食糧補給を完全に遮断した。その結果、城内は深刻な飢餓状態に陥り、将兵は心身ともに疲弊していったと伝えられる 1 。
月山富田城での籠城戦は、兵糧攻めという極限状況下で行われた。食糧が尽きれば、いかに堅固な城であっても戦闘を継続することは不可能となり、城内の士気は著しく低下する。このような状況は、城内の将兵にとって降伏という選択肢を現実的なものとして意識させるに十分であった。牛尾幸清の最終的な降伏も、単なる裏切りや個人的な臆病さからではなく、主家や城兵たちの命を救うため、あるいはこれ以上の無益な抵抗を避けるための苦渋の決断であった可能性を考慮する必要があるだろう。
月山富田城内が絶望的な状況に陥る中、牛尾幸清はついに毛利元就への降伏を決断する。諸史料によれば、この降伏には嫡男である牛尾久信の勧めがあったとされている 1 。牛尾久信は、尼子家臣団において牛尾氏の次席は第3位とされ、伯耆国に11,700石もの禄を与えられていた御手廻り衆の一員であった 9 。永禄3年(1560年)には、父・幸清と共に石見国の本城常光支援のために出陣した記録も見られる 9 。このような有力な立場にあった久信の進言は、幸清の決断に大きな影響を与えたと考えられる。
嫡男である久信が降伏を勧めたという記述は、単に個人的な説得に留まらず、牛尾家全体の将来を見据えた上での判断であった可能性を示唆している。家の後継者である嫡男の意見は、当主にとって極めて重要な意味を持つ。久信の説得は、これ以上の抵抗が無益であり、むしろ降伏によって一族の存続を図るべきであるという現実的な判断に基づいていたのかもしれない。
牛尾幸清の降伏は孤立したものではなく、尼子氏の他の重臣たちも相次いで毛利氏に降っている。佐世清宗の降伏に関する記述によれば、亀井安綱、河本隆任、川副久盛、そして牛尾幸清、湯惟宗といった尼子氏の重臣たちが次々と降伏していったとある 18 。これは、月山富田城内の状況が組織的な抵抗を継続することが不可能なほど絶望的であり、個々の武将が単独で抵抗を続けることが極めて困難であったことを物語っている。尼子氏の求心力が完全に失われ、家臣団が崩壊していく過程がここに見られる。
毛利氏による月山富田城への圧力が日増しに強まっていた永禄6年(1563年)9月吉日付で、牛尾幸清が焼火神社(現在の島根県隠岐郡西ノ島町にある焼火神社か)に田地を寄進した際の寄進状が現存している 10 。この寄進状は、毛利氏による月山富田城総攻撃が本格化する直前の時期のものであり、幸清の当時の心情を垣間見ることができる貴重な一次史料である。
寄進状の文面には、幸清の焼火権現に対する深い信仰心と共に、国家の安全と戦勝、武運の長久、そして子孫の繁栄といった、戦乱の世に生きる武将としての切実な願いが記されている。特に注目されるのは、「就中於乗船渡海之上者、受順風自在之快楽、至異俗入境之砌者、与逆浪不意之災難」という一節である。これは、船で海を渡る際には順風に恵まれ、異国の地に至っては不慮の逆浪や災難を避けられるようにという、航海の安全に対する具体的な祈願である。
この時期にこのような寄進状が作成された背景には、目前に迫る月山富田城での決戦を前にした幸清の精神状態が色濃く反映されていると考えられる。国家の安全や武運、子孫繁栄といった普遍的な願いに加え、航海の安全をこれほど詳細に祈願している点は、単なる定型句を超えた具体的な懸念や願望を示している可能性がある。これは、日本海に面した出雲国を本拠とする尼子氏にとって、海上交通が兵站、情報伝達、あるいは外部からの支援を得る上で重要であったこと、あるいは幸清自身の個人的な体験に基づく切実な思いなど、様々な解釈を可能にする。この寄進状は、戦国武将が神仏に寄せた期待の具体相を示すと同時に、彼の置かれた状況の厳しさと、それに対する人間的な不安や祈りを間接的に伝えていると言えよう。
永禄8年(1565年)、月山富田城の開城に伴い毛利元就に降伏した牛尾幸清は、その後、安芸国高宮郡深川(現在の広島市安佐北区深川町周辺)に移り住み、院内城の城主となったと伝えられている 2 。一部の史料では、幸清の降伏後の消息は不明であるとされているが 1 、この安芸国への移住と院内城主就任の伝承は、より具体的な動向を示すものとして注目される。
江戸時代に編纂された地誌である『芸藩通志』には、院内城跡が「牛尾古城跡」として記されており、その城主は牛尾遠江守幸清であったと明記されている 12 。さらに同書には、「中深川村牛尾氏 先祖、牛尾遠江幸清、同子義次、?に毛利に従ひ、九州の役に死す、次子幸助、農となりて、此村に居る、今文右衛門まで、八世」という記述が見られる 11 。これは、幸清の子孫が同地に土着し、一部は武士として毛利氏に仕え、一部は農民となったことを示唆している。
院内城の歴史に関しては、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』が、幸清が毛利氏に降伏した永禄8年(1565年)以降に城主となった可能性を指摘している 11 。一方で、院内城跡の発掘調査では15世紀から16世紀にかけての遺物が出土しており、さらに享徳2年(1453年)に牛尾範郷という人物が近隣の狩留家(現在の広島市安佐北区狩留家町)の薬師堂を建立し、元亀2年(1571年)に牛尾右京佐がこれを再建したという伝承も存在することから 12 、牛尾氏が戦国時代以前から院内城周辺地域と何らかの関わりを持っていた可能性も示唆されている。
毛利氏が降伏した敵将である牛尾幸清を、自らの本拠地に近い安芸国内の城主に任じたことは、単なる温情措置として片付けるべきではないだろう。これは、元尼子氏の重臣であった幸清の能力や影響力を評価し、これを毛利氏の新たな支配体制の安定化に役立てようとした可能性を示唆している。旧敵対勢力であっても、有用と判断した人材は取り立てて活用するという、戦国大名の現実的かつ合理的な戦略の一端が垣間見える。また、もし牛尾氏と院内城周辺地域との間に以前からの何らかの繋がりがあったとすれば、幸清の院内城主就任は、在地勢力との関係を円滑にするための毛利氏による戦略的な配慮であった可能性も考えられる。
牛尾幸清は、嫡男である久信と共に毛利氏に降伏した 1 。前述の通り、久信は尼子家臣団の中でも高い地位にあり、伯耆国に11,700石という広大な禄を与えられていた有力な武将であった 9 。
『芸藩通志』の記述によれば、幸清の子である義次(これは久信のことか、あるいは別の男子か詳細は不明)は、父と共に毛利氏に従い、後に九州方面での戦役に参加して戦死したとされている。一方で、次男の幸助は武士の道を歩まず、農民となって中深川村に居住し、その家系は江戸時代まで続いたと伝えられる 11 。
尼子氏の他の降将、例えば佐世清宗などは、毛利氏から「破格の待遇」をもって迎えられたという記述が存在するが 18 、牛尾幸清が具体的にどのような待遇を受けたかについての詳細な記録は乏しい。しかし、安芸国内の院内城主に任じられていることから、単に生命を保証されただけでなく、一定の地位と役割を与えられたと考えるのが妥当であろう。
牛尾幸清とその子孫たちの動向は、戦国時代の敗者となった武家が、新たな支配者の下でいかにして家名を存続させようとしたか、あるいは武士としての道を断念せざるを得なかったかの実例を示している。一方が新主君に仕えて武士としての本分を全うし戦死し、もう一方が帰農して新たな生活を始めるという分岐は、時代の大きな転換期における武家の多様な生き残り戦略と、それに伴う身分制度の再編を示唆していると言える。
牛尾幸清が城主であった出雲国牛尾城は、尼子氏の本城である月山富田城を防衛するために配置された主要な支城群「尼子十旗」の一つとして数えられている 1 。その所在地は、現在の島根県雲南市大東町南村とされ 16 、城が築かれた山の名前から三笠城とも呼ばれる 13 。
牛尾城の正確な築城年代は明らかではないが、牛尾氏によって築かれたと伝えられている 13 。城の構造については、三笠山の山頂に主郭があり、そこは二段の削平地から構成されていた。そして、山頂から三方に伸びる尾根上にも曲輪群が巧みに配置されていたとされる 13 。近年の調査や踏査によれば、一部には石垣や土塁、切岸といった防御施設も確認できるとの情報がある 13 。
歴史的には、尼子氏滅亡後、山中幸盛らによる尼子再興軍が挙兵した際、当時の三笠城主であった牛尾弾正忠幸信(この人物が幸清の子息か、あるいは一族の者かはさらなる検討を要する)も尼子再興軍に加わった。しかし、永禄13年(元亀元年、1570年)の布部山の戦いで尼子再興軍が大敗すると、三笠城も毛利輝元の軍勢によって攻められ落城したと記録されている 13 。
牛尾城が尼子十旗の一つとして機能していたことは、尼子氏の領国支配と防衛戦略において、在地領主の城郭を広域的な支城ネットワークに組み込むことの重要性を示している。山城としての堅固な構造や戦略的な立地は、月山富田城を防衛するというその軍事的役割を色濃く反映していると考えられる。また、牛尾氏がこの城を拠点としていたことは、彼らが単に尼子氏の家臣であるだけでなく、特定の地域に根差した領主としての側面も持っていたことを示している。
牛尾幸清が毛利氏に降伏した後に居城としたと伝えられるのが、安芸国院内城である。この城は、現在の広島市安佐北区深川町に所在し、明光院という寺院の東に聳える山に築かれていた 11 。興味深いことに、麓にある明光院の山号は「牛尾山」であり、これが城主であった牛尾幸清との関連を示唆しているのではないかと考えられている 19 。
院内城の構造については、標高160メートル付近の鉄塔が建つ場所が主郭とされ、明光院の東上方、標高90メートル付近には出丸が存在したと推定されている。主郭部分は、T字状に並ぶ五ヶ所の郭と三条の堀切によって構成されていた。さらに、中腹や丘陵の先端部にも郭群が配置されており、城全体としては複数の郭から成る複合的な構造を持っていたようである 11 。一部には、防御力を高めるための二~三段積みの石垣も見られるとの報告がある 11 。
院内城の城主としては、牛尾遠江守幸清の名が複数の史料や伝承で伝えられている 11 。『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』では、幸清が毛利氏に降伏した永禄8年(1565年)以降に城主となった可能性を指摘している 11 。一方で、前述の通り、院内城跡からは14世紀後半から15世紀にかけての遺物が出土しており、また、牛尾範郷や牛尾右京佐といった人物による近隣寺社の建立・再建の伝承も存在することから 12 、牛尾氏とこの地域との関わりは、幸清が降伏する以前の戦国期、あるいはそれ以前にまで遡る可能性も否定できない。
降将である牛尾幸清に与えられた院内城の立地や構造、そして牛尾氏とこの地域との間に古くからの関連があった可能性は、毛利氏が幸清をどのように位置づけ、どのような役割を期待したのかを探る上で重要な手がかりとなる。単に監視下に置くだけでなく、彼の経験や能力を何らかの形で活用しようとしたのか、あるいは在地勢力との融和を図るための配慮があったのか、様々な可能性が考えられる。
牛尾幸清の実像に迫るためには、彼に関する記述が残る各種史料を丹念に検討する必要がある。主要な史料としては、後世に編纂された軍記物と、同時代に作成された一次史料が挙げられる。
江戸時代に成立した軍記物である『雲陽軍実記』には、牛尾幸清に関する比較的詳細な記述が見られる。幸清の尼子氏への仕官、主要な合戦への参加、月山富田城での籠城と毛利氏への降伏、そして降伏後の安芸国への移住と院内城主就任といった一連の経緯が記されている 2 。また、『雲陽軍実記』には、尼子氏の家臣団における序列として「出雲一国の十人衆」が挙げられており、牛尾氏はその第五位に位置づけられていたとの記述もある 8 。
同じく軍記物である『陰徳太平記』にも、牛尾幸清の名は散見される。尼子経久・晴久時代の主要な合戦、例えば大永4年(1524年)の安芸国佐東銀山城救援戦や、天文9年(1540年)の安芸国吉田郡山城攻めに幸清が参加したことが記されている 5 。また、尼子一族の尼子誠久に関する逸話の中で、誠久が美作国の統治を牛尾幸清と共に担当したという記述も見られる 7 。
これらの軍記物は、牛尾幸清の具体的な行動や彼が関わった出来事に関する豊富な情報を提供しており、人物像を構築する上で貴重な手がかりとなる。しかしながら、軍記物は歴史的事実を伝えることのみを目的としたものではなく、物語としての面白さや教訓的な要素、あるいは特定の家や人物を顕彰する意図が含まれている場合があることを念頭に置かなければならない。『陰徳太平記』などは、その史料的価値について様々な議論がある 24 。特に、合戦の描写や人物評価、逸話などには、編纂者の主観や後世の脚色が含まれている可能性が否定できない。したがって、軍記物の記述を利用する際には、その内容を鵜呑みにするのではなく、他の信頼性の高い史料、特に一次史料や考古学的知見と照合し、批判的に検討することが不可欠である。例えば、幸清の安芸移住と院内城主就任に関する『雲陽軍実記』の記述 2 は、他の地誌や城郭調査報告 11 によっても裏付けられるため、信憑性が比較的高いと考えられる。
軍記物とは異なり、牛尾幸清の生きた時代に作成された一次史料は、より直接的に彼の実像や当時の状況に迫ることを可能にする。
その代表例が、永禄6年(1563年)9月吉日付で牛尾幸清が焼火権現に宛てて発給した「牛尾幸清寄進状」である 10 。この寄進状には、幸清自身の署名と花押があり、彼の個人的な信仰心、国家安全や武運長久、子孫繁栄といった願い、そして特に航海の安全に対する切実な祈りが具体的に記されている。これは、目前に迫る決戦を前にした戦国武将の精神世界の一端を明らかにする、極めて重要な史料と言える。
また、『岡山県古文書集』には、年未詳ながら5月1日付の「牛尾幸清書状」が収録されていることが確認されている 17 。この書状の具体的な内容は不明であるが、幸清自身が発給した書状の存在は、彼が奉行衆として文書による行政にも深く関与していたことを裏付けるものである。
さらに、牛尾幸清が尼子氏の奉行衆として、佐世清宗や川副久盛といった他の重臣たちと共に、尼子氏が発給した多くの文書に連署していたことが複数の史料で指摘されている 1 。これらの連署状は、尼子氏の統治機構における幸清の政治的地位の高さと、彼が担っていた責任の重さを示す動かぬ証拠となる。『広島県史』中世編においても、牛尾幸清(次郎右衛門尉・遠江守)をはじめ、牛尾久清(太郎左衛門尉)や牛尾家寿(宗次郎・豊前守)といった牛尾一族の名前が、尼子氏関連の文書中に見られることが言及されている 25 。
これらの一次史料を丹念に分析することで、軍記物が描く英雄譚や逸話とは異なる、より現実的な牛尾幸清の姿や、彼が置かれていた具体的な状況、そして彼が生きた時代の社会背景などを再構築することができる。
史料名 |
史料の種類 |
作成・成立年代 |
牛尾幸清に関する主要な情報・記述内容 |
所蔵機関・収録文献(判明範囲) |
典拠 |
『雲陽軍実記』 |
軍記物 |
江戸時代前期~中期 |
尼子氏への仕官、主要合戦参加、月山富田城籠城と降伏、安芸国院内城主就任など。出雲一国の十人衆第五位。 |
各種翻刻・影印あり |
2 |
『陰徳太平記』 |
軍記物 |
享保2年(1717年)刊行 |
佐東銀山城救援、吉田郡山城攻め参加。尼子誠久と共に美作統治の逸話。 |
各種翻刻・影印あり |
5 |
牛尾幸清寄進状 |
寄進状(一次史料) |
永禄6年(1563年)9月吉日 |
焼火権現への田地寄進。国家安全、武運長久、子孫繁栄、航海安全等の祈願。 |
焼火神社文書(国立歴史民俗博物館所蔵か) |
10 |
牛尾幸清書状 |
書状(一次史料) |
年未詳 5月1日 |
内容不明。幸清自身が発給した書状。 |
『岡山県古文書集』3(水原岩太郎氏所蔵文書1) |
17 |
尼子氏発給文書(連署) |
古文書(一次史料) |
尼子経久・晴久期 |
奉行衆として佐世清宗・川副久盛らと連署。 |
各地古文書群(例:『島根縣史』、『広島県史』等に収録か) |
1 |
『芸藩通志』 |
地誌 |
江戸時代後期 |
院内城跡を牛尾古城跡とし、城主を牛尾遠江守幸清と記載。子孫の動向。 |
各種翻刻あり |
11 |
『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』 |
調査報告書 |
現代 |
院内城の構造、歴史。牛尾幸清の城主就任時期の推定。 |
広島県教育委員会 |
11 |
鰐淵寺文書 |
古文書(一次史料) |
天文15年(1546年)4月20日 |
牛尾幸清による直江郷内土地の鰐淵寺への売却。 |
鰐淵寺所蔵 |
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本報告書では、戦国時代の武将・牛尾幸清について、現存する諸史料に基づき、その出自、尼子氏への仕官と活躍、毛利氏への降伏、そしてその後の動静と子孫に至るまでを多角的に検討してきた。
牛尾幸清は、尼子氏の興隆期からその滅亡に至るまで、主家と運命を共にした武将であった。尼子経久・晴久の二代にわたり家老・奉行衆として重用され、軍事面のみならず行政面においてもその手腕を発揮し、尼子氏の領国経営と勢力拡大に貢献した。特に、尼子氏が危機に瀕した際には、多くの者が離反する中で主家を見限らず奮戦し、その忠誠心の高さを示した。
しかし、時代の趨勢は尼子氏に厳しく、最終的には毛利氏の強大な力の前に月山富田城は開城し、幸清もまた降伏の道を選んだ。この決断は、嫡男・久信の勧めがあったとされ、籠城戦の極限状況と、他の重臣たちの相次ぐ降伏という背景を考慮すれば、一族と将兵の生命を救うための苦渋に満ちた、しかし現実的な選択であったと言えよう。永禄6年の焼火権現への寄進状に見られる彼の切実な祈りは、目前に迫る運命を前にした武将の人間的な側面を浮き彫りにしている。
毛利氏に降伏した後、幸清は安芸国高宮郡深川の院内城主となったと伝えられる。これは、戦国時代の敗将が辿る一つの道であり、彼の能力や影響力が新興勢力である毛利氏にも一定程度評価された結果であったのかもしれない。その子孫は、一部は毛利氏に仕え武士としての道を歩み、一部は帰農して在地に根を下ろしたとされ、戦国から近世への移行期における武家の多様な生き様を示している。
牛尾幸清は、山中幸盛や尼子経久といった、より知名度の高い戦国武将の陰に隠れがちではあるが、彼の生涯は、戦国という激動の時代を生きた一人の武将の具体的な姿と、彼を取り巻く社会の有り様を我々に伝えてくれる。史料の制約から不明な点も多く残されているものの、断片的な情報を丹念に繋ぎ合わせることで、その実像に少しでも迫ることができたとすれば幸いである。
今後の研究への展望としては、未発見の一次史料の探索、特に牛尾幸清自身が発給した書状や、彼が関与した尼子氏・毛利氏の文書のさらなる発見が期待される。また、彼が城主であったとされる牛尾城(三笠城)や院内城に関する考古学的調査の進展も、彼の活動や当時の状況を明らかにする上で重要な手がかりを提供するであろう。歴史像の構築は常に継続的なプロセスであり、新たな史料の発見や既存史料の再解釈によって、牛尾幸清という人物に対する我々の理解は、今後さらに深まっていくに違いない。