最終更新日 2025-07-14

牧国信

戦国武将・牧国信の生涯 ― 美作の動乱と一族の興亡

序章:戦国美作の動乱と牧氏一族

戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、旧来の権威が失墜した激動の時代であった。その中でも、中国地方に位置する美作国は、地政学的に極めて複雑な状況下に置かれていた。牧国信(まき くにのぶ)という一人の武将の生涯を理解するためには、まず彼が生きたこの特異な舞台背景と、彼が属した一族の歴史を把握することが不可欠である。

美作国の地政学的状況

美作国は、東に播磨、西に備中、南に備前、北に因幡・伯耆と、五つの国に囲まれた内陸の国である。この地理的条件は、美作国を常に周辺大勢力の角逐の場たらしめた。戦国中期以降、北からは出雲の尼子氏が、南からは備前の浦上氏が、そして西からは安芸の毛利氏が、それぞれ中国地方の覇権を目指して美作への影響力を強めようと画策した 1

このため、美作国内の在地領主たちは、これら巨大勢力の間で生き残りを賭けた巧みな外交と、時には離反と帰参を繰り返すことを余儀なくされた 1 。彼らにとって、一つの勢力に盲従することは、その勢力が衰退した際に共倒れになる危険を意味した。したがって、時勢を読み、有利な陣営に付くことが、一族の存続を左右する最重要課題だったのである。美作は、まさに戦国時代の縮図ともいえる、絶え間ない緊張と流動の中にあった。

在地領主・美作三浦氏と本拠・高田城

このような美作国において、長らく勢力を保持した名門が美作三浦氏である。その出自は鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏の庶流とされ、14世紀初頭に三浦貞宗が真庭郡に高田城を築いたことに始まると伝えられている 1

しかし、戦国時代の到来と共に、三浦氏の運命は過酷なものとなる。尼子氏の侵攻、それに続く毛利氏とその属将であった備中の三村氏による攻撃に晒され、その歴史は滅亡と再興の繰り返しであった 1 。その攻防の中心となったのが、本拠地である高田城である。この城は、三浦氏の栄光と悲劇の全てを見届けた、一族の栄枯盛衰の象徴的な存在であった。

三浦氏の譜代家臣、牧氏の系譜と忠節

美作三浦氏を支えた家臣団の中核に、牧氏一族がいた。牧国信は、兄に牧尚春(ひさはる/なおはる)、牧良長(よしなが)を持つ、牧一族の武将である 5 。彼ら牧氏は、三浦氏の譜代の家臣として、主家の存亡をかけた戦いに深く関与していた 4

牧一族の三浦氏に対する忠誠の深さを示す象徴的な出来事がある。天文12年(1543年)、尼子氏の武将・宇山久信が高田城に迫った際、牧一族の「牧官兵衛(かんべえ)」が、呰部(あざえ、現在の岡山県真庭市)の地で奮戦の末に討死したという記録が残る 4 。後の史料によれば、この人物は牧国信の兄・尚春の子である牧菅兵衛(かんべえ)とされ、その死に際して主君・三浦貞久から「忠節無比類(ちゅうせつひるいなし)」と、その忠義を最大限に称賛されている 8 。これは、牧氏が単なる家臣ではなく、主家から絶大な信頼を寄せられ、一族を挙げてその危機に殉じる覚悟を持った、極めて重要な存在であったことを物語っている。

【表1】美作三浦氏・牧国信関連年表

牧国信の生涯を追うにあたり、彼個人の動向と、彼を取り巻く主家や周辺大名の複雑な動きを時系列で整理することは、理解の助けとなる。

西暦(和暦)

美作国および周辺の動向

美作三浦氏の動向

牧一族の動向

備考・意義

1543年(天文12年)

尼子氏の武将・宇山久信が美作に侵攻

尼子軍の攻撃を受ける

牧官兵衛(菅兵衛)が呰部で討死 4

牧氏の三浦氏への忠節を示す。

1548年(天文17年)

尼子氏が美作での支配力を強める

当主・三浦貞久が病死。尼子軍の攻撃で高田城落城。幼主・貞勝は岩屋城へ逃れる 3

主家と共に苦難の時期を迎える。

三浦氏、一時的に本拠を失う。

1559年(永禄2年)

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家臣団が高田城を奪還・復興し、貞勝を城主として迎える 3

舟津氏、金田氏らと共に「牧」氏が城の復興に貢献。国信・良長兄弟も関与か。

牧氏の尽力により三浦氏が再興。

1564年(永禄7年)

毛利氏配下の三村家親が美作に侵攻

高田城が再び落城。当主・三浦貞勝が自害 3

兄・良長は宇喜多直家を頼り落ち延びる。国信も同行か 6

三浦氏、二度目の滅亡。

1566年(永禄9年)

宇喜多直家が三村家親を暗殺

宇喜多氏の後援を得て、貞勝の弟・貞広を擁立し再興。高田城を奪還 6

兄・良長が宇喜多氏との交渉で中心的な役割を果たす。

牧氏の政治工作が主家再興の鍵となる。

1576年頃(天正4年頃)

毛利氏と宇喜多氏が美作で対立

毛利・宇喜多連合軍の攻撃を受け、最終的に滅亡 3

主家を失い、宇喜多氏への仕官の道を探る。

牧国信の人生の大きな転換点。

1582年(天正10年)

本能寺の変。羽柴秀吉と毛利氏が和睦。

-

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戦後処理で美作国が宇喜多領となることが確定。

1585年(天正13年)

宇喜多秀家が豊臣政権下で大名となる。

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牧国信、宇喜多秀家の家臣として高田城主・真庭郡代官に就任 5

旧主の本拠を預かるという異例の抜擢。


第一章:三浦家臣としての牧国信 ― 主家の興亡と共に

牧国信の青年期から壮年期にかけての人生は、主家である美作三浦氏の激しい浮沈と完全に一体化していた。彼は兄たちと共に、滅亡の淵に立たされた主家を支えるべく、武人として、また一族の一員として奮闘を続けた。

牧国信の出自と兄弟の役割分担

牧国信は、生没年未詳ながら、兄の尚春、良長と共に三浦氏に仕える武将として歴史にその名を現す 5 。史料からは、彼ら兄弟が連携し、一族として三浦氏を支えていた様子がうかがえる。特に、兄の良長は政治的な局面でその名が頻繁に登場する一方、国信もまた「兄尚春、良長と共に美作三浦氏の再興に尽力」したと記録されており 5 、兄弟がそれぞれの役割を担いながら主家の存続に奔走していたと考えられる。一族の代表として兄が外交や交渉の矢面に立ち、弟である国信はそれを補佐し、軍事行動などの実務を担うという役割分担があった可能性は高い。

繰り返される高田城の攻防と牧一族の奮闘

牧国信が物心ついた頃から、三浦氏とその本拠・高田城は常に戦火に晒されていた。天文17年(1548年)、当主の三浦貞久が病でこの世を去ると、その機を逃さず尼子勢が侵攻し、高田城は落城。幼い新当主・貞勝は、家臣に守られながら久米郡の岩屋城へと落ち延びることを余儀なくされた 3

しかし、三浦氏の家臣団は屈しなかった。雌伏の時を経て永禄2年(1559年)、家臣の舟津氏、金田氏、そして「牧」氏らが中心となって高田城の奪還に成功し、主君・貞勝を再び城主として迎え入れたのである 3 。この城の復興に尽力した「牧」氏には、国信・良長ら兄弟が含まれていたと考えるのが自然であろう。この出来事は、牧一族が逆境においても主家を見捨てず、その再興のために具体的な行動を起こす、忠誠心と実行力を兼ね備えた中核的な家臣であったことを示している。

だが、安息の時は長くは続かなかった。永禄7年(1564年)、今度は西から勢力を拡大する毛利氏の麾下にあった備中の三村家親が、大軍を率いて高田城に侵攻。激しい攻防の末、城は再び陥落し、当主・三浦貞勝は城中で自刃するという悲劇的な結末を迎えた 3

主家滅亡と牧良長の政治工作

主君・貞勝の自害という絶望的な状況に直面し、牧一族は一族存亡を賭けた次なる一手を打つ。その中心となったのが、兄の牧良長であった。良長は、貞勝の死を見届けると、当時備前で急速に台頭しつつあった宇喜多直家を頼って落ち延びた 6

この時、良長は単に庇護を求めただけではなかった。彼は貞勝の正室であったお福の方(後の円融院)を保護しており、後に彼女を宇喜多直家の正室として嫁がせるという、極めて高度な政治工作の橋渡し役を務めたとされる 9 。この婚姻は、牧氏と宇喜多氏の間に強固なパイプを築く上で決定的な意味を持った。

そして永禄9年(1566年)、宇喜多直家が謀略によって貞勝の仇敵・三村家親を暗殺すると、この好機を逃さず、良長は直家の強力な後援を取り付けた。彼は貞勝の弟・貞広を新たな当主として擁立し、三浦家の再興を宣言。宇喜多の軍事力を背景に、見事、高田城の奪還に成功するのである 6 。この一連の目覚ましい動きの中で、国信もまた兄と行動を共にし、主家再興のために力を尽くしたことは想像に難くない。

この牧兄弟の行動は、戦国武士のリアルな生存戦略を浮き彫りにしている。彼らは、牧官兵衛の討死に象徴されるように、主家への「忠誠」を貫き通した。しかし、その主家が物理的に滅亡した時、彼らは愚直に殉死する道を選ばなかった。代わりに、次なる権力者へと迅速に接近し、政治的な駆け引きを通じて一族の活路を見出し、さらには旧主家の再興まで成し遂げたのである。これは単なる変節ではなく、一族の血脈と勢力を保つという、武士にとってのもう一つの重要な責務を果たすための、極めて合理的な「現実主義」に根差した選択であった。

三浦氏の最終的な滅亡

しかし、宇喜多氏の後ろ盾によって再興した三浦氏もまた、時代の大きなうねりには抗えなかった。彼らが尼子氏の残党である山中幸盛らと連携したことは、西国の覇者・毛利氏の警戒を招く結果となった 1 。天正4年(1576年)頃、毛利氏と、この時点ではまだ毛利方に与していた宇喜多氏との連合軍による攻撃を受け、三浦氏は三度、そして最終的な滅亡を迎えることとなった 3

ここに、牧国信の三浦家臣としての時代は終わりを告げた。彼は、主家の栄光と没落の全てを経験し、次なる時代の荒波へと漕ぎ出すことになる。


第二章:時代の転換点 ― 宇喜多氏への仕官

主家・美作三浦氏の最終的な滅亡は、牧国信の人生における最初の、そして最大の転換点であった。しかし、彼と彼の一族は、兄・良長の先見性ある行動によって、すでに次なる主君・宇喜多氏との間に活路を見出していた。彼らが正式に宇喜多家の家臣となる過程は、日本史の大きな転換点と密接に連動している。

織田信長の中国方面軍と羽柴秀吉

牧国信が仕えるべき主家を探していた頃、日本の政治情勢は中央から大きく変動しつつあった。天下統一を目前にした織田信長は、その最終段階として中国地方の毛利氏討伐に着手。その方面軍司令官に任命されたのが、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)であった。

この巨大な軍事圧力に直面した備前の宇喜多直家は、卓越した政治的嗅覚を発揮する。彼はそれまで従属していた毛利氏を見限り、天正7年(1579年)頃に織田方へと寝返った。これにより、宇喜多領は毛利氏との最前線となり、激しい攻防が繰り広げられることとなった 2

本能寺の変と「中国大返し」

天正10年(1582年)、羽柴秀吉は毛利方の重要拠点である備中高松城を包囲。城が低湿地にあることを逆手に取り、周囲に長大な堤防を築いて水攻めにするという、世に言う「備中高松城の水攻め」を開始した 12 。毛利方も輝元・元春・隆景の主力軍を救援に差し向け、戦況は膠着状態に陥った。

まさにこの時、日本の歴史を揺るがす大事件が起こる。6月2日、京都の本能寺において、主君・織田信長が家臣の明智光秀に討たれたのである。この凶報に接した秀吉は、驚くべき冷静さと迅速さで行動した。彼は信長の死を毛利方に秘匿したまま、外交僧・安国寺恵瓊を仲介役として毛利氏との和睦交渉を急遽妥結させた 12 。この電光石火の和睦こそが、後の「中国大返し」と、山崎の戦いにおける明智光秀討伐を可能にし、秀吉を天下人の地位へと押し上げる決定的な一歩となった。

戦後の国分と美作国の帰属

秀吉と毛利氏の間で結ばれた和睦の条件には、領土の割譲、すなわち「国分(くにわけ)」が含まれていた。この交渉の結果、備前国、美作国、そして備中国の東半分が、織田方(事実上は秀吉方)である宇喜多氏の所領として正式に確定した 10 。これにより、かつて三浦氏が支配し、その滅亡後は毛利氏が占領していた高田城を含む美作一帯は、名実共に関東の支配下に入ることになったのである。

牧国信の仕官の経緯

この一連の出来事は、牧国信のその後のキャリアを決定づけた。三浦氏滅亡後、兄・良長の政治工作によって宇喜多直家と深い関係を築いていた牧兄弟にとって、美作国が宇喜多領となることは、まさに渡りに船であった 6 。旧三浦家臣団は、この政治的決定に基づき、正式に宇喜多家の家臣団として再編成されることになった。

父・直家の死(天正9年)を受けて家督を継いでいた宇喜多秀家の下で、牧国信もまた、兄・良長と共に正式な家臣となったのである 5

牧国信が宇喜多家中で重用され、後に旧主の本拠である高田城の城主となる道は、彼個人の武功や才覚だけで切り拓かれたわけではない。そのキャリアを決定づけた最大の要因は、本能寺の変という中央政局の激変と、それに伴う秀吉と毛利の和睦、そして国分という、彼自身にはコントロール不可能なマクロな政治決定であった。もし本能寺の変が起こらなければ、秀吉と毛利の戦いは継続し、戦後の領土配分は全く異なる形になっていたかもしれない。あるいは、もし牧兄弟が三浦氏滅亡後に毛利方に降っていれば、宇喜多領となった美作で要職に就くことは決してなかっただろう。

国信の人生は、彼自身の主体的な選択(宇喜多への接近)と、彼が予期し得なかった巨大な歴史の潮流とが交差した一点に成立している。これは、戦国の世に生きた多くの武将に共通する運命であり、個人の意思と時代の偶然性が織りなす歴史のダイナミズムを如実に示している。


第三章:宇喜多家の城主・代官としての活動

宇喜多氏の家臣となった牧国信は、その能力と旧三浦家臣としての経歴を高く評価され、美作国統治の要として重用されることになる。特に、二つの城の城主を兼任した事実は、宇喜多家中における彼の重要な地位を物語っている。

高田城主としての統治

天正13年(1585年)、牧国信は、宇喜多秀家より旧主・三浦氏の本拠地であった高田城の城主(城代)に任命された 5 。これは、彼のキャリアにおける頂点ともいえる出来事であった。同時に、国信は高田城が位置する真庭郡の代官にも任じられており 5 、これは彼が当該地域の軍事指揮権と行政権の両方を委ねられたことを意味する。

宇喜多氏が、旧三浦家臣である国信を、三浦氏の象徴ともいえる高田城の主に据えたことには、極めて高度な政治的意図が読み取れる。第一に、これは旧三浦家臣団や地域の領民に対する巧みな懐柔策であった。三浦氏に最後まで忠誠を尽くした牧氏を城主にすることで、「旧来の秩序を尊重する」という宇喜多氏の姿勢を示し、支配の円滑な移行を図る狙いがあった。第二に、国信個人への絶大な信頼の証である。高田城は、美作における宇喜多支配の根幹をなす戦略拠点であり、その守りを任せることは、宇喜多氏が国信の忠誠心と統治能力を非常に高く評価していたことを示している。

そして第三に、国信自身にとって、この任命は大きな名誉であると同時に、滅びた主家の本拠を新たな主君から預かるという、複雑な感慨を伴う任務であったに違いない。この人事は、戦国の世の非情さと、そこで生まれる新たな栄光が凝縮された象徴的な出来事であった。

土器尾城主としての側面

牧国信の役割は、高田城主だけに留まらなかった。彼は同時に、大庭郡(現在の岡山県真庭市落合地域)に位置する土器尾(ときお)城の城主でもあったことが記録されている 5

土器尾城は、旭川に面した標高約450メートルの山上に築かれた山城で、複数の郭(くるわ)が連なる堅固な要害であった 15 。その立地から、美作国内の主要な交通路を監視・統制し、有事の際には防衛拠点となる、戦略的に重要な城であったと推測される。

国信が真庭郡の高田城と大庭郡の土器尾城という、二つの異なる郡にまたがる拠点を任されていたという事実は、彼が単なる一地域の領主ではなく、宇喜多氏の美作支配における広域的な軍事・行政ネットワークの、重要な結節点として機能していたことを強く示唆している。高田城で北の因幡・伯耆方面からの脅威に備えつつ、土器尾城で国内の交通路を掌握するという、複眼的な役割を担っていた可能性がある。特に、主君である宇喜多秀家が豊臣政権の中枢で活動し、朝鮮出兵などで長期間にわたり本国を留守にすることが多かった時期 11 、国信のような信頼のおける国元の大将が領国経営の安定に果たした役割は、計り知れないほど大きかったと評価できる。

史料における名称の考証:「国信」と「家信」

ここで、史料上の名称について一点、考証を加えておく必要がある。土器尾城の城主として、江戸時代の地誌である『作陽誌』などの史料では、「牧藤右衛門家信(いえのぶ)」または「牧藤左衛門家信」という名で記録されている 15 。一方で、本稿で主に扱っている人物は「牧国信」である。

「藤右衛門」や「藤左衛門」は通称(官途名)であり、「国信」や「家信」は諱(いみな、実名)である。諱の一字が「国」と「家」で異なっているが、これは同一人物を指している可能性が極めて高い。戦国時代の史料においては、写本や伝聞の過程で文字が誤記されたり、似た字形や音の文字に置き換えられたりすることは頻繁に発生した。「国(くに)」と「家(いえ)」の混同も十分に考えられる範囲である。また、一人の武将が主君からの偏諱(へんき、諱の一字を賜ること)などにより、生涯で改名することも珍しくなかった。したがって、本報告書では、高田城主・牧国信と土器尾城主・牧家信は同一人物であるという前提で論を進める。


第四章:関ヶ原、そしてその後 ― ある武将の生涯の終着点

栄華を極めた豊臣政権が、その創始者である秀吉の死と共に崩壊し始めると、日本は再び大きな動乱の時代へと突入する。この天下分け目の戦いは、牧国信の主家である宇喜多氏、そして彼自身の運命を決定づけることになった。

関ヶ原の戦いと宇喜多家の敗北

慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成らが中心となった西軍が、美濃国関ヶ原で激突した。宇喜多秀家は、豊臣秀吉から受けた大恩に報いるため、1万7,000という西軍最大級の兵力を率いて奮戦した。しかし、かねてより内応していた小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、宇喜多勢もまた壊滅的な打撃を受けて敗走した 11

戦後、勝利した徳川家康によって、宇喜多秀家は備前・美作57万石の所領を全て没収され、大名としての地位を失った。薩摩の島津氏にかくまわれた後、最終的には捕らえられ、八丈島へと流罪となった 2 。ここに、戦国大名・宇喜多氏は完全に滅亡したのである。

主家改易と牧国信の動向

主家・宇喜多氏の改易は、その家臣であった牧国信にとっても、高田城主・代官としての地位と知行の全てを失うことを意味した。宇喜多家の滅亡後、彼が具体的にどのような動向を辿ったのかを直接示す史料は見当たらない。しかし、当時の多くの敗軍の上級家臣がそうであったように、新たな主君を求めて諸国を流浪する浪人となるか、あるいは武士としての生涯を諦め、故郷の美作で土地に根を下ろす帰農の道を選んだかのいずれかであったと考えられる。

子孫の足跡 ― 武士から大庄屋へ

牧国信個人の消息は歴史の闇に消えるが、彼の一族の物語はここで終わりではなかった。江戸時代に編纂された地誌『新訂作陽誌』には、彼のその後の足跡をうかがわせる、極めて興味深い記述が残されている。それによれば、国信の子孫は武士の身分を捨てて帰農し、湯本村(現在の岡山県真庭市湯原地域と推定される)に住んだという 5

さらに注目すべきは、彼らが姓を「牧」から「衣笠(きぬがさ)」または「美甘(みかも)」に改めたという伝承である 5 。この伝承の信憑性を高める史料が存在する。江戸時代中期の享保2年(1717年)の記録に、国信が代官を務めた大庭郡の大庄屋(おおじょうや、複数の村を束ねる村役人の長)として、「美甘三郎左衛門」という人物の名が見られるのである 5 。牧国信には信正という子がいたことが確認されており、この大庄屋・美甘氏が、国信の子孫である可能性が強く指摘されている。

この一連の記録は、戦国時代から江戸時代へと至る、日本の社会構造の劇的な大転換を象徴している。牧国信の一族は、主家の滅亡によって「武士」としての生き方を絶たれた。しかし、彼らは歴史から消え去るのではなく、巧みに「転身」を遂げたのである。戦場で武功を立てる生き方から、村落をまとめ、年貢徴収や行政の末端を担う「郷士・豪農(大庄屋)」としての生き方へ。これは、新たな社会秩序への見事な「適応」であった。

姓を改めたのは、敗軍の将となった宇喜多氏の旧臣であることを隠し、徳川の治世下で一族が平穏に生き抜くための、政治的な知恵であった可能性が高い。牧国信が城主・代官として美作の地で培ったであろう統治のノウハウや、地域の人々からの人望は、目に見えない無形の資産として子孫に受け継がれ、彼らが新たな時代の地域の指導者層として再登場する上での大きな助けとなったのかもしれない。牧一族の物語は、一人の武将の生涯を超え、日本の近世社会がいかにして形成されていったかを示す、貴重なミクロな歴史の証言となっている。


結論:乱世を生き抜いた一武将の生涯から見る歴史の連続性

牧国信の生涯を丹念に追うことで、我々は戦国時代という激動の時代を生きた一人の武将の、具体的で多層的な姿を浮かび上がらせることができる。

彼の生涯は、第一に「忠誠」の物語であった。滅びゆく主君・美作三浦氏に最後まで仕え、その再興のために知力と武力を尽くした。その姿は、主家に見捨てられることのなかった家臣団の、理想的な姿の一つと言えるかもしれない。

第二に、それは「転身」の物語である。主家が最終的に滅亡した後、彼は兄・良長と共に新たな権力者・宇喜多氏に活路を見出し、その家臣として再出発した。そして、かつての主家の本拠地を預かるという、戦国史上でも稀な栄誉ある地位にまで上り詰めた。これは、彼の能力と、時代の流れを読む現実主義的な判断力が見事に結実した結果であった。

そして第三に、彼の物語は「適応」の物語でもある。関ヶ原の戦いにおける主家の敗北で、武士としてのキャリアは終焉を迎えた。しかし、彼の一族はその血脈を絶やすことなく、武士の時代と決別し、帰農して新たな社会秩序の中に根を下ろした。そして、江戸時代には大庄屋という地域の指導者として再び歴史の舞台に登場する。これは、変化に適応し、生き抜くことの重要性を示す力強い証左である。

牧国信は、織田信長や豊臣秀吉のような、歴史を動かす天下人ではない。彼の名は、専門的な歴史書の片隅に記されるに過ぎないかもしれない。しかし、彼の生涯は、巨大な権力者の動向に翻弄されながらも、忠誠、現実主義、そして類稀なる適応力をもって激動の時代を生き抜いた、数多の在地武士たちのリアルな姿を我々に伝えてくれる。

彼の物語は、戦国という「破壊と創造」の時代が、決して断絶することなく、江戸という「安定と秩序」の時代へと移行していった、歴史の大きな連続性を見事に体現している。牧国信という一人の武将の生涯を深く掘り下げることは、日本史のダイナミックな転換点を、より人間的で血の通った視点から理解することに繋がるのである。

引用文献

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  4. 美作・高田城(岡山県真庭市勝山)その1 - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/04/blog-post_19.html
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  10. 高田城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2239
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  14. 秀吉の備中高松城の水攻め、画期的な戦略だったのか 考古学・地理学的手法で再検討 https://dot.asahi.com/articles/-/200298?page=5
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  17. 土器尾城 旧真庭郡落合町 | 山城攻略日記 https://ameblo.jp/inaba-houki-castle/entry-12397163906.html
  18. 【岡山の歴史】(2)戦国宇喜多の再評価・・・宇喜多直家は、本当はどんな人物だったのか | 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000071248.html
  19. 西軍 宇喜多秀家/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41116/