戦国の烽火が消え、徳川幕府による泰平の世が築かれようとしていた時代、一人の武将がその激動の転換点に立ち、新たな時代の統治者へとその姿を変貌させていった。その人物こそ、後に越後長岡藩七万四千石の初代藩主となる牧野忠成(まきの ただなり)である。彼の生涯は、戦国武将としての荒々しい気風と、近世大名としての緻密な統治哲学が交錯する、まさに時代の象徴であった 1 。
本報告書は、利用者様が既にご存じの「関ヶ原合戦における上田城攻めでの軍令違反と出奔、そして大坂の陣での活躍」という逸話を出発点としながらも、その範囲に留まることなく、彼の出自、藩祖として長岡藩の礎を築いた治績、一族内に渦巻いた葛藤、そして彼の哲学が後世に与えた深遠な影響まで、あらゆる側面を網羅的に解き明かすことを目的とする。
なお、越後長岡藩の歴史を語る上で注意すべき点がある。それは、同名の藩主が二名存在することである。本報告書で詳述するのは、藩祖である初代・牧野忠成(1581年~1655年)である。彼の孫であり、家督を継いだ二代藩主もまた、祖父の遺徳を慕い同名の忠成(初名:忠盛、1635年~1674年)を名乗った。このため、地元長岡では二代藩主を「後忠成公」と呼び区別している 3 。本報告書では、両者を明確に峻別し、戦国から江戸初期を駆け抜けた藩祖・忠成の実像に迫る。
牧野忠成の人物像を理解する上で、その源流である三河牧野氏の歴史を避けては通れない。家譜によれば、その祖は古代の豪族・武内宿禰にまで遡り、応永年間(1394年~1428年)に三河国宝飯郡牧野村(現在の愛知県豊川市牧野町)に移り住んだことから牧野姓を称したと伝えられる 5 。戦国時代に至り、同地の牛久保城を拠点とする有力な土豪として、東三河に勢力を広げた 6 。
牧野氏が本拠とした牛久保の地は、東に今川氏、西に松平氏(後の徳川氏)、そして後には北から武田氏という強大な勢力がひしめく、文字通りの係争地であった 9 。このような地勢的環境は、牧野一族に常に臨戦態勢を強いることとなった。服属と抵抗、外交と戦闘を繰り返しながら、したたかに生き残りを図る中で育まれた精神こそ、後に忠成が藩是とする「常在戦場」の原型である 10 。それは観念的な標語ではなく、一族の滅亡を防ぐための、極めて実践的な生存戦略そのものであった。
幾多の変遷を経て、牧野氏は最終的に徳川家康に臣従し、譜代の家臣としての地位を確立する 12 。この譜代大名という家格が、忠成の生涯を方向づける揺るぎない基盤となったのである。
忠成の父・康成(やすなり、1555年~1609年)は、徳川家を代表する猛将の一人であった。家康に仕え、長篠の戦いをはじめとする数多の合戦で武功を重ね、その勇名は広く知れ渡っていた 14 。その功績と家康からの厚い信頼により、康成は徳川家の功臣を顕彰した「徳川十七将」の一人に数えられる栄誉に浴している 13 。
天正18年(1590年)、家康が豊臣秀吉の命により関東へ移封されると、康成もこれに従い、上野国大胡(現在の群馬県前橋市)に二万石を与えられ、大名へと列せられた 6 。父・康成の武名と、主君からの絶大な信頼は、息子である忠成にとって大きな誇りであると同時に、生涯を通じて乗り越えるべき偉大な目標でもあった。
牧野忠成は、天正九年(1581年)、父・康成がまだ三河国牛久保城主であった時代に、その長男として生を受けた 1 。通称を新次郎と称した 3 。彼は父祖の跡を継ぎ、徳川家に仕える運命にあったが、特に家康の後継者である徳川秀忠の側近くに配属された 18 。彼の諱(いみな)である「忠成」の「忠」の一字は、主君・秀忠から授かったもの(偏諱)である 18 。これは、若くしてその将来を嘱望されていたことの何よりの証左であり、彼のキャリアが徳川宗家、とりわけ秀忠との深い関係性の中で築かれていくことを示唆していた。
表1:牧野忠成(初代)略年表
和暦 |
西暦 |
忠成の年齢 |
出来事 |
石高・役職 |
天正9年 |
1581年 |
1歳 |
三河国牛久保にて誕生。 |
- |
慶長5年 |
1600年 |
20歳 |
関ヶ原の戦いにて徳川秀忠に従軍。上田城攻めで軍令違反を犯し出奔。 |
- |
慶長9年 |
1604年 |
24歳 |
父・康成の閑居に伴い、大胡藩の公務を代行。 |
(二万石) |
慶長10年 |
1605年 |
25歳 |
秀忠の将軍宣下に伴い上洛。従五位下駿河守に叙任。 |
従五位下 駿河守 |
慶長14年 |
1609年 |
29歳 |
父・康成の死去により家督を相続。大胡藩主となる。 |
上野大胡藩 二万石 |
慶長19年 |
1614年 |
34歳 |
大坂冬の陣に参陣。 |
- |
元和元年 |
1615年 |
35歳 |
大坂夏の陣に参陣し武功を挙げる。 |
- |
元和2年 |
1616年 |
36歳 |
越後国長峰に加増移封。 |
越後長峰藩 五万石 |
元和4年 |
1618年 |
38歳 |
越後国長岡に加増移封。長岡藩を立藩。 |
越後長岡藩 六万二千石余 |
元和5年 |
1619年 |
39歳 |
福島正則改易の上使を務める。官職名を右馬允とする。 |
右馬允 |
元和6年 |
1620年 |
40歳 |
福島正則改易の功により加増される。 |
越後長岡藩 七万四千石余 |
寛永7年 |
1630年 |
50歳 |
初めて領地である長岡に入る。 |
- |
寛永11年 |
1634年 |
54歳 |
徳川家光の上洛に従い、従四位下侍従に昇叙。 |
従四位下 侍従 |
承応3年 |
1654年 |
74歳 |
江戸藩邸にて死去。 |
- |
3
慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、当時20歳の牧野忠成は、父・康成と共に徳川秀忠率いる三万八千の徳川本隊に属し、中山道を進軍した 18 。彼らの行く手に立ちはだかったのが、西軍に味方し、わずか二千余の寡兵で信州上田城に籠城する老獪な智将・真田昌幸と、その子・信繁(幸村)であった 1 。秀忠軍にとって、この上田城攻めが、後の歴史に大きな影響を及ぼす試練の場となる。
当初、大軍をもってすれば上田城など一蹴できると踏んでいた秀忠軍であったが、真田親子が駆使する巧みなゲリラ戦術の前に苦戦を強いられ、攻城戦は完全に膠着状態に陥った 1 。戦功を焦る血気盛んな若武者であった忠成は、この状況を打開すべく、城周辺の田の稲を刈り取り、敵の兵糧を断つという「刈田働き」を独断で敢行する。しかし、この行為は農民の生活を著しく困窮させる非人道的な戦術として、徳川家では「徳川禁令」の一つとして固く禁じられていた、重大な軍令違反であった 1 。
忠成の軍令違反に対し、軍監であった本多正信らは激怒し、その責任を厳しく追及した。そして、忠成の命令を忠実に実行したに過ぎない彼の家臣、旗奉行(一説には贄掃部氏信とされる 21 )に対して、切腹が命じられた。主君の失態の責任を家臣に負わせるという、当時の武家社会ではあり得る処断であった。
しかし、忠成はこの命令に真っ向から反旗を翻す。彼は、「武功を立てた勇士を罪人として誅殺するようなことがあれば、今後、誰が命を懸けて忠節を尽くすだろうか。郎党が主君のために命を捨てるのは珍しくないが、自分は郎党のためにこそ命を捨てる」と断言し、家臣の処罰を断固として拒絶したのである 1 。そして、切腹を命じられた家臣を密かに逃亡させると、自らも陣を離れ、戦場から姿を消すという前代未聞の「出奔」に及んだ。この行動は、徳川家に対する明確な反逆と見なされかねないものであり、父・康成も連座して蟄居を命じられるという厳しい処分を受けることとなった 1 。
この出奔事件は、単なる若気の至りや感情的な反抗ではなかった。それは、徳川という巨大な中央権力の論理よりも、自身が直接率いる家臣団という共同体への責務を優先するという、三河以来の武士団の棟梁としての強烈な価値観の表明であった。将軍後継者への命令違反という死罪にも値するリスクを冒してまで家臣を守るという彼の行動は、結果として、牧野家中の結束を鉄壁のものにした。主君が命懸けで自分たちを守ってくれるという事実は、家臣たちに絶対的な忠誠心を植え付けた。この事件によって忠成は「家臣思いの烈将」という、何物にも代えがたい評判を確立し、それは後の大坂の陣での奮戦や長岡藩統治における、強力な人的資本となったのである。
忠成を欠いた秀忠軍は、その後も上田城を攻略できず、遂には関ヶ原の本戦に間に合わないという歴史的な大失態を演じた 1 。忠成自身は、後に徳川家光の誕生に伴う恩赦などもあり、帰参を許された 1 。この事件は、彼の武将としてのキャリアにおける最大の危機であったが、同時に、彼のリーダーシップの核となる「家臣をこそ宝とする」という哲学を、徳川家中に、そして自らの家臣団に強烈に印象づける決定的な出来事となったのである。
上田城での出奔事件により一度は失墜した忠成であったが、その評価を挽回する機会は、慶長19年(1614年)からの大坂の陣で訪れた。彼は冬の陣・夏の陣の両方に徳川方として参陣し、雪辱を期して奮戦した 19 。特に元和元年(1615年)の夏の陣では、忠成率いる部隊が敵兵の首を27も挙げるという目覚ましい武功を立て、大坂城の落城に大きく貢献した 19 。この活躍により、彼は上田城での汚名を完全に返上し、一人の武将としての卓越した実力を改めて天下に示したのである。
大坂の陣での武功は、忠成の武人としての評価を回復させた。しかし、彼を単なる一武将から、幕府の信頼篤い大名へと押し上げたのは、むしろその後に見せた政治的手腕であった。元和五年(1619年)、徳川幕府は、豊臣恩顧の代表格であり、広島城主として西国に睨みを利かせていた福島正則の改易という、重大な政治決断を下す。この、一歩間違えば西国大名の反発を招きかねない極めてデリケートな任務の「上使」として、白羽の矢が立ったのが牧野忠成であった 19 。
彼がこの大役に選ばれた背景には、正則の正室・昌泉院が忠成の実の妹であったという事実がある。昌泉院は徳川家康の養女として福島家に嫁いでおり、この複雑な姻戚関係が、幕府にとって忠成を上使とする好都合な理由となった 15 。忠成は江戸の福島屋敷に赴き、改易の命令を伝えた。当初、正則は激昂し自刃も辞さない構えであったが、忠成は冷静に、かつ相手の面子を重んじながら説得にあたり、遂には無血での広島城開城を約束させることに成功した 19 。これは、単なる武勇ではなく、高度な交渉力、胆力、そして政治的バランス感覚が問われる任務であり、忠成は見事にその大役を果たしたのである。
この成功は、彼が戦場で戦えるだけでなく、幕府の政治的意図を正確に汲み取り、複雑な案件を円滑に処理できる有能な行政官でもあることを証明した。関ヶ原で見せた「反抗的」な姿から一転、幕府の「忠実な代理人」としての役割を完璧にこなしたことで、彼は将軍・秀忠からの信頼を完全に勝ち取ったのである。
大坂の陣での武功、そして福島正則改易処理の成功は、忠成のキャリアを大きく飛躍させた。まず、元和二年(1616年)、彼は越後国長峰に三万石を加増され、合計五万石の大名として移封される 3 。さらにその二年後の元和四年(1618年)、堀直寄の後任として同国の長岡へ六万二千石余で転封となり、ここに越後長岡藩が立藩された 1 。
そして元和六年(1620年)、前年の福島正則改易の上使を首尾よく務めた功績が改めて評価され、越後国古志郡栃尾に一万石が加増された。これにより、牧野家の石高は合計七万四千石余に達した 1 。この一万石には、改易された福島家に嫁いだ妹・昌泉院とその娘の扶養料という意味合いも含まれていたとされ、幕府の忠成に対する配慮が窺える 19 。一連の加増と転封を経て、牧野家は譜代大名としての地位を不動のものとし、忠成はその初代藩主として、新たな領国の経営に着手することになる。
越後長岡藩の初代藩主となった忠成は、戦場で培った経験と、幕政で示した政治手腕を領国経営に注ぎ込み、以後二百五十年にわたる長岡藩の礎を築き上げた。
忠成は、三河以来の牧野家の家風であった「常在戦場」を、長岡藩の藩是として正式に確立した 2 。これは、泰平の世にあっても、武士としての気概や緊張感を失ってはならないという戒めであった。しかし、その本質は単なる精神論に留まらない。常に万一の事態に備え、平素から質素倹約に励み、心身を鍛錬し、周到な準備を怠らないという、組織全体の具体的な行動規範を意味した 1 。この「備え」の精神は、幕末の家老・河井継之助の藩政改革や、有名な「米百俵」の故事に代表される、未来への投資を惜しまない長岡の気風へと繋がっていくことになる 1 。
忠成は、長岡に入封すると、前領主の堀直寄が着手していた長岡城の普請を引き継ぎ、これを拡充・完成させた。同時に、家臣団の屋敷割りや城下の町割りを整備し、近世城下町としての長岡の骨格を作り上げた 3 。
藩の経済基盤を強化するため、彼は新田開発を強力に推進した 3 。その際、特定の者に富が集中することを防ぐため、開発した土地を公平に分配する「割地制度」を設けるなど、社会の安定にも配慮した政策を採っている 1 。また、寛永七年(1630年)に初めて領内を巡察した際には、各村の女性の数を尋ね、人口の多寡が村の豊かさを測る指標であると説いた。これは、労働力と消費の源泉である「人口」こそが国力の根源であると見抜いた、当時としては先進的な視点であった 1 。
忠成の統治は、精神論に偏ることなく、極めて合理的かつ実利的な側面を持っていた。彼は、武士には「諸士法制」、商人や町人には「町中掟」、そして農民には「郷中守書」といった、それぞれの身分に応じた法度を制定した 1 。これにより、藩内の全ての人々が自らの分限と役割を自覚し、藩の発展に貢献するよう促した。
特に注目すべきは、その経済政策である。城下では、同業種の商店を同じ通りに集めて互いに競わせることで、商業の活性化を図った 1 。さらに、商家の跡継ぎが凡庸であった場合には、血縁にこだわらず、有能な番頭や手代を娘の婿に迎え、家業を継がせることを推奨した。これにより、実力のある者が事業を担うことが可能となり、町によっては半数以上の主人が養子であったという 1 。これは、世襲を原則とする封建社会において、能力主義・実力主義を大胆に導入した革新的な政策であった。
忠成の藩政は、「常在戦場」という厳しい精神論で藩士や領民の気を引き締めつつ、そのエネルギーを人口増加や商業振興といった合理的な経済成長へと巧みに誘導する、硬軟両様の巧みな統治であったと言える。彼が築いたこの強固な基盤があったからこそ、長岡藩はその後二百五十年にわたり、譜代の名門として存続し得たのである。
藩祖として強力なリーダーシップを発揮した忠成だが、その私生活や一族の内部には、栄光の裏に隠された苦悩と悲劇が存在した。
表2:牧野忠成(初代)関連系図(簡略版)
コード スニペット
graph TD
A[牧野康成] --> B(牧野忠成<br/>初代長岡藩主);
A --> C(秀成);
A --> D(儀成);
A --> E(昌泉院<br/>福島正則室);
B --> F(光成<br/>早世);
B --> G(康成<br/>与板藩祖);
B --> H(朝成<br/>早世);
B --> I(定成<br/>三根山藩祖);
B --> J(忠清);
F --> K(牧野忠成<br/>二代長岡藩主<br/>後忠成公);
subgraph 凡例
direction LR
L(父) -- 親子 --> M(子);
N(兄) -- 兄弟 --> O(弟/妹);
end
style A fill:#e6e6fa,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style B fill:#add8e6,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
style K fill:#add8e6,stroke:#333,stroke-width: 4.0px
7
忠成の人柄を偲ばせる逸話がいくつか伝えられている。承応三年(1654年)、彼が江戸藩邸で74年の生涯を閉じると、その死を悼み、家臣の能勢重信、渡部正信、そして池田恒興の甥にあたる池田成興の三名が殉死(追腹)を遂げた 5 。これは、主君と家臣の間に極めて強い信頼と情愛の関係があったことを物語っている。
また、彼の死後には金貨で五万三千両余りという、当時の藩の年収に匹敵するほどの莫大な遺産が残された。忠成は遺言により、この財産を全て側室や子女、長年仕えた老女といった女性たちに分配させた。一方で、息子や男性の親類には「自らの力で稼ぐべし」との意図から、一切分け与えなかったと伝えられている 1 。これは、彼の独特な価値観と、封建社会における女性の立場への深い配慮を示す、興味深い逸話である。
しかし、藩の創成期は決して平穏ではなかった。忠成が幕政に関わり江戸にいる間、国元・長岡の統治を任されていたのは弟の秀成であった。秀成は実戦には疎かったものの、領国経営には優れた才覚を発揮した。しかし、その文治的な手法は、戦国の気風を色濃く残す武断派の家臣たちとの間に深刻な対立を生んだ 1 。この対立は遂に悲劇を招き、秀成は寛永十四年(1637年)、寺に幽閉された末に暗殺されたと記録されている 23 。
さらに不幸は続く。忠成が藩の将来を託し、三代将軍・家光から一字を拝領するほど期待をかけていた嫡男・光成が、叔父である秀成の死からわずか18日後に、24歳という若さで急逝してしまう 23 。これより以前には、三男の朝成も幽閉の後に亡くなっており、忠成は相次いで近親者を失うという悲運に見舞われた 23 。
これらの事件は、長岡藩の創成期において、戦国時代の「武断主義」から江戸時代の「文治主義」へと移行する過程で生じた、深刻な内部矛盾の現れであった。忠成自身が武功によって身を立てた武断派の象徴であったが故に、藩の安定には文治派の能力も不可欠であった。この二つの価値観の衝突が、一族の悲劇という最も痛ましい形で噴出したのである。藩祖として強力なリーダーシップを誇った忠成も、この根深い内部対立を完全には制御しきれなかった。これは、英雄的な藩祖像の裏に隠された、統治の困難さと人間的な苦悩を浮き彫りにしている。
相次ぐ不幸により後継者問題に直面した忠成は、早世した光成の遺児であり、まだ幼かった忠盛(後の二代藩主・忠成)を嫡子として幕府に届け出、家督を継がせた 4 。同時に、次男の康成には与板藩、四男の定成には三根山領(当初は旗本、後に大名)を分与し、支藩を創設することで、牧野一族全体の安泰と繁栄の礎を築いた 7 。
牧野忠成は、戦国武将としての猛々しい気骨と、近世大名としての冷静な統治能力を併せ持ち、時代の大きなうねりを乗り越えた稀有な人物であった。関ヶ原・上田城での挫折という試練を、家臣団の忠誠心を獲得する機会へと転化させ、大坂の陣での武功と福島正則改易処理という高度な政務能力によって、牧野家を七万四千石の有力譜代大名の地位へと押し上げた 18 。
彼が藩祖として築き上げた統治の仕組み、そして何よりも「常在戦場」という藩是は、その後二百五十年にわたる長岡藩の揺るぎない礎となった 1 。この精神は、単なる藩訓に留まらなかった。幕末の動乱期に藩の運命を背負った家老・河井継之助や、近代日本の海軍を率いた連合艦隊司令長官・山本五十六といった、後世の長岡を代表する人物たちにも、その精神的影響が見られると指摘されている 6 。また、目先の利益にとらわれず、未来の人材育成への投資を優先した「米百俵」の精神の源流も、平時から万一に備え、質実剛健を旨とした忠成の教えに遡ることができる 1 。
戦災や自然災害から幾度となく立ち上がってきた長岡の歴史に見られる、不屈の「復興の精神」や「負けじ魂」の根底には、藩祖・牧野忠成が遺したこの強靭な精神的遺産が、今なお脈々と息づいている 24 。彼の生涯は、一人の武将の物語に終わらず、越後長岡という土地の気風とアイデンティティそのものを形作った、偉大な足跡であったと言えるだろう。