犬童頼安(いんどう よりやす)は、大永元年(1521年)から慶長11年(1606年)にかけての戦国時代から江戸時代初期を生きた武将である 1 。肥後国南部の戦国大名・相良氏の家臣として、主家の興亡と激動の生涯を共にした。彼が生きた時代は、相良氏が独立した戦国大名としての地位を確立しようと模索し、南九州の強大な勢力である島津氏や、北に位置する阿蘇氏といった周辺勢力との間で、複雑かつ緊張を伴う関係性を強いられた時期であった 2 。
相良氏は、鎌倉時代以来、肥後国人吉荘の地頭として根を下ろし、室町時代には肥後国南部一帯に勢力を拡大して戦国大名化したが、常に周辺の有力大名との間で巧みな外交と武力による防衛を余儀なくされていた 2 。特に島津氏とは、縁戚関係を結ぶこともあれば、激しく干戈を交えることもあり、その関係は複雑であった 3 。このような厳しい地政学的環境の中で、相良氏がその勢力を維持し、近世大名として生き残るためには、犬童頼安のような文武に秀で、忠誠心篤い家臣の存在が不可欠であった。頼安の生涯は、まさにこの相良氏の存亡をかけた戦いの歴史と軌を一にしており、彼の活躍なくして相良氏の近世における存続は語れないと言っても過言ではない。
本報告では、犬童頼安の波乱に満ちた生涯を辿り、その事績と人物像を明らかにするとともに、彼が相良氏の歴史の中で果たした役割の重要性を考察する。
和暦(西暦) |
年齢(数え) |
出来事 |
当時の名 |
役職・地位 |
関連人物 |
典拠例 |
大永元年(1521年) |
1歳 |
犬童重安の子として肥後国に生誕 |
熊徳丸 |
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犬童重安 |
1 |
大永4年(1524年) |
4歳 |
相良長定の謀反に犬童一族が加担 |
熊徳丸 |
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相良長定 |
1 |
享禄3年(1530年) |
10歳 |
犬童一族粛清。僧籍に入り助命される |
伝心(法名) |
僧侶 |
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1 |
天文14年(1545年) |
25歳 |
相良治頼に味方し相良本家と戦うも敗北、諸国修行 |
伝心 |
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相良治頼 |
1 |
弘治2年(1556年) |
36歳 |
相良氏へ帰参、上村地頭に任命される |
(頼安) |
上村地頭 |
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1 |
永禄2年(1559年) |
39歳 |
獺野原の戦いで軍功を挙げる(手傷を負う) |
頼安 |
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相良義陽 |
1 |
天正5年(1577年) |
57歳 |
水俣城主に就任 |
頼安 |
水俣城主 |
相良義陽 |
1 |
天正9年(1581年) |
61歳 |
島津氏による水俣城侵攻、籠城戦。新納忠元と連歌の応酬。相良義陽、島津氏に降伏。響野原の戦いで相良義陽戦死。頼安、義陽の廟所(相良堂)を建立。 |
頼安 |
水俣城主 |
相良義陽、新納忠元、相良忠房 |
1 |
天正15年(1587年)頃 |
67歳頃 |
豊臣秀吉の九州平定後、相良氏独立。相良頼房の奉行として活動開始。 |
頼安 |
奉行 |
相良頼房、犬童頼兄 |
1 |
文禄元年(1592年) |
72歳 |
文禄・慶長の役。留守居役、人吉城築城奉行を務める。梅北一揆発生、鎮圧に派兵。 |
頼安 |
留守居役、築城奉行、美作守 |
相良頼房、梅北国兼 |
1 |
慶長11年(1606年) |
86歳 |
11月7日、病死。冨ヶ尾山に葬られる。家臣7名殉死。 |
休矣(法名) |
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1 |
犬童頼安は、大永元年(1521年)、相良氏の家臣である犬童重安の子として肥後国に生を受けた 1 。幼名は熊徳丸と伝わる 1 。しかし、彼がまだ幼い大永4年(1524年)、相良長定が謀反を起こした際、犬童一族がこれに与したため、その後の享禄3年(1530年)に一族の多くが粛清されるという悲劇に見舞われた 1 。当時、頼安はわずか10歳であったが、僧籍に入り「伝心」という法名を名乗ることで、かろうじて助命されたのである 1 。
この若くして経験した一族の不幸と、仏門に入ることで命を繋いだという事実は、頼安の後の人生観や主家に対する忠誠心の形成に、測り知れない影響を与えたと考えられる。一度は武士としての道を絶たれ、社会的に「死んだ」身となったという意識が、後に相良氏へ帰参を果たした際の、より一層献身的な奉公へと繋がった可能性は否定できない。また、この僧侶としての期間は、彼に武辺一辺倒ではない内省の時間や、学問・教養に触れる機会をもたらしたかもしれない。後に彼が示した和歌(連歌)の素養や、晩年に「休矣」という深い思索を感じさせる法名を選んだ精神的背景には、この時期の経験が何らかの形で関わっているとも推察される。
仏門にあった頼安であったが、武士としての道を完全に諦めたわけではなかった。天文14年(1545年)、彼は相良氏の分家である相良治頼に味方し、相良本家に対して反旗を翻すが、この試みは失敗に終わる 1 。その後、頼安は再び諸国を修行して回ったとされ、この時期の行動は、若き日の彼の複雑な心情と、武士としての再起への強い渇望を物語っている。
雌伏の時を経て、弘治2年(1556年)、ついに頼安に転機が訪れる。相良氏への帰参が許され、上村(かみむら)の地頭に任命されたのである 1 。一度は相良本家に弓を引いた人物が、再び家臣として迎え入れられ、さらに要職である地頭に任じられた背景には、当時の相良氏が彼の過去の経緯を越えてその能力を評価したこと、そして頼安自身の器量を見抜いた人物が家中に存在したことがうかがえる。この帰参と上村地頭への就任は、頼安の人生における大きな転換点であり、彼の忠誠心を相良氏へと確固として向かわせる大きな動機となったであろう。
武将としての頼安の名が本格的に知られるようになるのは、永禄2年(1559年)の獺野原(うそのばる)の戦いである 1 。この戦いで、頼安は相良義陽の命を受け出陣し、敵勢と激しく戦った。一部の記録によれば、この戦闘で頼安の率いた軍勢は大きな損害を受け、彼自身も手傷を負ったとされるが 8 、同時にその奮戦ぶりが軍功として認められ、武将としての評価を確立したと伝えられている 1 。戦役全体の中での一部の戦闘結果と総合的な評価の違い、あるいは史料による視点の違いも考えられるが、重要なのは、この戦いを経て彼が相良家中において武勇をもって知られる存在となったという点である。
頼安の武将としての能力はますます高く評価され、天正5年(1577年)3月には、肥後と薩摩の国境に位置する要衝・水俣城の城主に任命された 1 。これは、彼に対する相良義陽の深い信頼を示すものであった。
そして天正9年(1581年)、南九州統一を目指す島津氏の大軍が水俣城に侵攻し、頼安は籠城を余儀なくされる 1。この絶体絶命の状況下で、頼安の智勇と文化的素養を示す有名な逸話が生まれる。敵将である新納忠元が、
「秋風に 水俣落つる 木ノ葉哉」
という句を矢文で射かけてきたのに対し、頼安は少しも臆することなく、
「寄せては沈む 月の浦波」
と見事な返歌を矢で射返したというのである 1。この連歌の応酬は、戦国武将の教養の一端を示すと同時に、敵味方を超えて通じ合う精神世界の存在を示唆しており、頼安の武勇だけではない多面的な魅力を今に伝えている。
しかし、衆寡敵せず、最終的に主君・相良義陽は島津氏に降伏し、葦北郡を割譲。頼安もまた、水俣城を明け渡すこととなった 9 。この水俣城明け渡しの際にも、頼安の人となりを示す逸話が残されている。『人吉市史』によれば、新納忠元が島津方から相良方に寝返った者たちの引き渡しを要求した際、頼安はこれを断固として拒否し、「必要ならば一戦の上でお受け取り願いたい」と述べ、その毅然とした態度に忠元も要求を諦めざるを得なかったという 1 。このエピソードは、頼安の義侠心の強さと、一度家臣とした者を見捨てない情の厚さを如実に示しており、彼が家臣たちから深い信望を得る大きな要因となったであろう。この時に救われた者たちが、後に頼安の死に際して殉死した家臣たちの中に多く含まれていたことは、彼のリーダーシップの本質を物語っている。
水俣城の攻防と同じ天正9年(1581年)、相良氏にとって最大の悲劇の一つである響野原(ひびきのはら)の戦いが起こる。この戦いで、主君・相良義陽は奮戦虚しく戦死し 11 、相良氏は大敗を喫し、島津氏の支配下に組み込まれることとなった。
主君の非業の死に、頼安の悲嘆は深かった。彼は豊福(現在の宇城市豊野町)から人夫を集め、義陽が討ち死にした響野原の地に土手を築かせ、供養碑を建立した 1 。この供養碑は現在「相良堂」として祀られており、頼安の義陽に対する深い忠誠心と義理堅さを今に伝える。
主君を失い、家が存亡の危機に瀕した中で、頼安は感情に流されることなく、現実を見据えて行動した。義陽の子である相良忠房、そしてその弟の頼房を補佐し、同じく重臣であった深水宗方らと共に、強大な島津氏との間で粘り強い交渉にあたり、相良氏の家名存続に全力を尽くしたのである 1 。この危機的状況における彼の冷静な判断力と政治的手腕は、相良氏が困難な時代を乗り越える上で不可欠なものであった。相良堂の建立は、単なる故君への追悼に留まらず、動揺する家臣団の結束を維持し、相良氏のアイデンティティを再確認するという、極めて重要な意味合いも持っていたと考えられる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が行われ、島津氏が降伏すると、相良氏も秀吉の傘下に入ることで再び独立した大名としての地位を回復した 15 。この新たな体制下で、頼安は主君・相良頼房の奉行として、嫡子である犬童頼兄(よりもり、後の清兵衛)と共に、国政の中枢で活躍した 1 。
文禄元年(1592年)に始まった文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、主君・頼房が軍勢を率いて朝鮮半島へ渡海する中、頼安は高齢(当時72歳)もあってか国許に残り、留守居役という重責を担った 1 。この時期、頼安は人吉城の本格的な改修における築城奉行も務めたとされ、相良氏の本拠地の防衛体制強化に尽力した 13 。戦時下における領国経営と防衛という国家の根幹に関わる重要任務を任されたことは、彼が軍事面だけでなく、内政や統治においても卓越した能力を有し、頼房から絶大な信頼を得ていたことの証左である。
朝鮮出兵の最中には、肥後国で梅北国兼らによる一揆(梅北一揆)が発生するという不測の事態も起きた。この時、家中には一揆勢に同情的な動きも見られたが、頼安は「御家存続のためには豊臣秀吉に従うことが肝要である」と家臣たちを説得し、一揆討伐のために派兵するという的確な判断を下した 1 。これは、彼が豊臣政権という新たな中央権力との関係性を冷静に理解し、相良氏の立場を危うくしないための大局的な政治判断であった。彼の官位は美作守(みまさかのかみ)であったと伝えられている 1 。これらの活動を通じて、頼安は相良氏が近世大名へと移行する過渡期における安定に大きく貢献した。
犬童頼安の生涯を貫く最も顕著な特質は、主家・相良氏に対する揺るぎない忠誠心である。特に、主君・相良義陽への敬慕の念は深く、義陽が響野原で戦死した際には、その死を深く悼み、私財を投じてその地に相良堂を建立したことは既に述べた通りである 1 。また、義陽の死を嘆く句を墓前に捧げたとされ 11 、その悲痛な思いが偲ばれる。この忠誠心は、彼自身が若い頃に一族の没落という苦難を経験し、一度は武士としての道を閉ざされながらも、相良氏によって再び登用され、活躍の場を与えられたという個人的な経験に深く根差している可能性がある。この「救済と再起の機会を与えられた」という経験が、彼の行動原理の核となり、危機的状況における相良家への献身的な奉公へと繋がったのではないかと考えられる。
もちろん、頼安は単に情に厚いだけの人物ではなかった。獺野原の戦い 1 や水俣城籠城戦 1 で見せたように、将としての優れた指揮能力と、自らも危険を顧みない武勇を兼ね備えていた。彼の忠誠心は、こうした武人としての確固たる実力に裏打ちされたものであった。
犬童頼安は、勇猛な武将であると同時に、豊かな文化的素養を身につけた人物でもあった。その代表的な逸話が、水俣城籠城戦における敵将・新納忠元との連歌の応酬である 1 。緊迫した戦いの最中に、敵味方を超えて風雅な詩歌のやり取りを行う精神的余裕と教養は、彼の人間としての幅広さを示している。
興味深いことに、頼安が深く敬愛した主君・相良義陽もまた、歌道に長じた人物であったと伝えられている 11 。このことから、主従の間には武事における信頼関係だけでなく、文化的な共感や絆も存在した可能性が示唆される。こうした文化的素養は、頼安が初期に僧侶としての期間を過ごしたことと無関係ではないかもしれない。仏門での生活が、彼に学問や古典に触れる機会を提供し、その後の人間形成に影響を与えたとも考えられる。このような知勇兼備の将であったからこそ、彼は主君や他の武将、さらには家臣からの信頼を得る上で、より有利な立場にあったと言えるだろう。
犬童頼安が家臣たちからいかに深い信望を集めていたかは、慶長11年(1606年)に彼が亡くなった際、7名もの家臣が殉死したという事実によって何よりも雄弁に物語られている 1 。殉死は、戦国時代においても決して一般的なことではなく、主君に対する家臣の絶対的な忠誠と敬愛の念がなければ起こり得ない。
特筆すべきは、これらの殉死者の多くが、かつて水俣城が島津軍に攻められた際に、敵方である新納忠元の陣営から相良方に寝返り、頼安がその身柄を保護した者たちであったと伝えられていることである 1 。一度は敵であった者たちをも、その人間的魅力と恩義によって心服させ、自らの死に際して命を捧げさせるほどの感化力を持っていた頼安の人物像が浮かび上がってくる。
晩年、頼安は出家して「休矣(きゅうい)」という法名を名乗った 1 。若い頃の法名「伝心」から、この「休矣」へと変わったことには、彼の心境の変化が込められているのかもしれない。「休矣」という言葉は、漢籍や禅の文脈において、「(ここに至って)万事終わりだ」「もう十分だ、休息しよう」といった意味合いを含むことがある 17 。一族の悲劇に始まり、数々の戦乱、主家の危機を乗り越え、相良氏の安泰を見届けた頼安が、波乱に満ちた生涯の終わりに、ある種の安堵感や達成感、あるいは世俗の責務からの解放を求めた心境が、この法名に託されているようにも思われる。
数々の功績を相良氏の歴史に刻んだ犬童頼安は、慶長11年11月7日(西暦1606年12月6日)、病のためその生涯を閉じた 1 。享年は86歳(数え)であり、戦国武将としては長寿を全うしたと言える。関ヶ原の戦い(1600年)も終わり、徳川幕府による新たな支配体制が固まりつつある時代であり、相良氏も人吉藩としてその存続を許されていた。頼安が築城奉行として関わった人吉城 13 も、近世人吉藩の政治的中心としての姿を整えつつあったであろう。彼が相良氏の藩体制確立を見届けた上での死であったとすれば、それは彼の生涯の集大成の一つとも言えるかもしれない。
その亡骸は、肥後国人吉の冨ヶ尾山(とみがおやま)に手厚く葬られたと記録されている 1 。具体的な墓所が伝えられていることは、彼が相良氏にとって、そして地域の人々にとって、いかに重要な人物として記憶されていたかを示している。
犬童頼安の嫡子である犬童頼兄(相良清兵衛とも名乗る)もまた、父同様に相良氏の重臣として歴史に名を残した人物である 16 。頼兄の初陣は、父・頼安が城主として守る水俣城での戦いであったとされ 13 、若き日から父の背中を見て育ったことがうかがえる。
頼安が築き上げた相良家中での確固たる地位、その功績と人望、そして彼から受け継いだであろう能力は、息子・頼兄が家老として急速に台頭する上で大きな助けとなったことは想像に難くない。しかし、頼兄の生涯は父・頼安とは異なる軌跡を辿る。頼兄は、特に人吉藩成立初期において藩政を主導し絶大な権力を握ったが、その過程で深水氏など他の重臣一派との激しい対立を引き起こし 16 、また関ヶ原の戦いにおいては主家を東軍へ寝返らせるという離れ業を演じて相良氏の存続に貢献する一方で 16 、その強大な権勢がやがて藩主・相良頼寛との深刻な確執を生み、最終的には「お下の乱」と呼ばれる事件を経て失脚し、津軽へ流罪となるのである 16 。
父・頼安が主に戦乱期にその武功と忠誠心によって評価され、家臣からの信望も厚く、比較的清廉な忠臣としてのイメージで語られるのに対し、息子・頼兄は近世初頭の藩体制移行期という新たな時代において、より政治的な才覚と権謀術数を駆使して権力を集中させた。頼安の「忠臣」としての評価が、結果として頼兄の「専横」とも評される側面を際立たせる効果も生んでいるかもしれない。これは、時代の変化(戦国乱世から近世封建社会へ)と、父子の個性の違いを反映していると言えよう。頼安の遺した安定と信頼の基盤が、頼兄の活動の土台となったことは確かであるが、その後の展開は、歴史の複雑さを示す一例と言える。
犬童頼安は、戦国時代の肥後国において、主家である相良氏が幾多の困難を乗り越え、近世大名として人吉藩を確立する上で、まさに屋台骨となる不可欠な役割を果たした忠臣であったと総括できる。彼の生涯は、一族の悲劇から始まり、武将としての立身、主君の死と主家の危機、そして豊臣政権下での巧みな舵取りと、常に相良氏の運命と共にあった。
その武勇は数々の戦場で証明され、水俣城での新納忠元との連歌の応酬に見られるような文化的素養は、彼が単なる武辺者ではなく、知勇兼備の将であったことを示している。何よりも、主家が存亡の危機に瀕した際の冷静な判断力と献身的な行動、そして家臣たちを惹きつけてやまなかった人間的魅力とリーダーシップは特筆に値する。彼の死に際して7名もの家臣が殉死したという事実は、彼の人望の篤さを何よりも雄弁に物語っている。
晩年の法名「休矣」には、激動の生涯を送り、主家の安泰を見届けた彼の万感の思いが込められているのかもしれない。犬童頼安は、単なる一地方武将に留まらない、人間的な深みと多面性を持った人物であり、その生涯は戦国時代における主従関係のあり方、武士の生き様、そして個人の信念を貫くことの意義を現代に伝える、貴重な歴史的遺産と言えるだろう。彼の存在がなければ、相良氏の歴史、ひいては肥後南部の歴史は大きく異なっていた可能性も否定できない。犬童頼安は、相良氏にとってまさに「守護者」であり、その後の人吉藩の安定と発展に繋がる確かな基礎を築いた人物として、高く評価されるべきである。